第二章・スケートに行こう(その1)
文化祭が終って校内も落ち着きを取り戻してくると、秋空の青さもより深みを増すとともに、日暮れもめっきりと早まり朝晩には肌寒さを感じる季節になる。そして街にも色づいた木の葉が舞って、葉を落した梢の間から柔らかい晩秋の光がさすようになり、気の早いところではすでにクリスマスのイルミネーションがまたたくようになる。
潮音はこの季節になると、自分の運命を変えた「あの日」があったのはちょうど今ごろだったと思って、息をつかずにはいられなかった。しかし潮音が祖父の家の古い土蔵の中で鏡を手にしてからすでに二年の歳月が流れており、潮音にとって自分が男の子だった日々ははるか遠くに流れ去ったように感じていた。それでも潮音は、もし自分があの日鏡を手にせず、男の子のままだったらどのような人生を歩んでいただろうか、少なくとも暁子や優菜とは別の高校に進学していて関係も疎遠になっていただろうし、紫をはじめとする松風女子学園の生徒とも出会わなかったに違いないと思わずにはいられなかった。
しかし潮音がもやもやした感情を抱えていたのは、そのせいだけではなかった。大学入試があと一年余りと迫っていて、勉強も大変になっていっただけでなく、校内でも受験や進路のことが生徒たちの間で話題になることが多くなっていった。そしてその生徒たちの中には、すでに学習塾や予備校に通い始めた者もいた。潮音自身、自分も学習塾か予備校に通うべきか、もし通うとしてもそのための費用のことをどのように両親に相談するべきか迷っていた。
さらに潮音は、自分が教室に通っているバレエをいつまで続けるかも悩みの種だった。紫は来年の六月に森末バレエ教室で公演があるから、それに自身の高校時代のバレエに対する情熱を注ぎ切った後で受験に専念したいと語っていたが、潮音に対しては大学受験の方が大切なのだから、勉学との両立ができないのであれば無理にバレエを続ける必要はない、その気になればいつからでもバレエのレッスンを再開できると常々言っていた。
しかし潮音は、紫とは高校を卒業したら別々の大学に進学して本当に別れることになるかもしれないのだから、せめて紫と一緒にいられるうちにわき役でもいいから一緒に舞台に立ちたいと思っていた。潮音はバレエのレッスンに行っても、クリスマスの公演に向けて一心に練習に打ち込む紫に対して、引け目を感じずにはいられなかった。
潮音がこのようなもやもやした気持ちを抱えながら過ごしていると、十一月も終りに近づいて期末テストも近づいたある日の休み時間に、晩秋の陽が窓から深くさしこむ教室で暁子から声をかけられた。
「どうしたの? 最近のあんた、ちょっと元気なさそうだけど。こないだあんたの誕生日のパーティーがあったばかりなのに。やっぱり期末テストのことが心配なの?」
暁子が心配そうな表情をしていたにもかかわらず、潮音はそれに対して気のない返事をした。
「ああ、それもあるけど…。これから受験だから、どう勉強すればいいのかとか、どこの大学や学部に行けばいいのかとか、いろいろ考えているとわかんないことばっかりでさ…」
それに対して、暁子は呆れ顔で潮音に話しかけた。
「どうせあんたのことだから、そうやって悩んでいるとかいうことを言い訳にして勉強しないんでしょ。だいたいそんなことばっかりクヨクヨ考えてたってしょうがないよ」
暁子が語調を強めても潮音は浮かない表情を変えようとしなかったので、暁子はますます心配そうな顔をした。
「あんたは将来弁護士になりたいとか言ってたけど、それって湯川君の話聞いててそう思ったんでしょ? でも弁護士になるための司法試験ってすごく難しいみたいじゃない。あんたもあまり無理しないで、もっと地に足をつけて自分のやりたいことやできることをもっとよく考えてみたら?」
暁子に言われても、潮音は黙ったままだった。そこで暁子は態度を変えると、つとめて明るい口調で話そうとした。
「ほんとにあんたってじれったいね。それならテストが終ったら、優菜も誘ってどっか一緒に遊びに行かない? そしたらあんただって少しはふっ切れるかもしれないから」
暁子の屈託のない様子を見ているうちに、潮音は少し心の中のもやが晴れたような心地がした。
「ああ、そうだな…暁子と話してて少し元気になれたような気がするよ」
潮音が多少元気を取り戻したのを見て暁子はにこやかな表情をしたが、そこでこのように付け足すのを忘れなかった。
「その代わり、潮音が今度の期末テストで一科目でも赤点取ったら、この遊びに行く約束は取り消しだよ」
「何だよそれ」
潮音が呆気に取られたことなどお構いなしに、暁子は笑みを浮べながら言った。
「そうしたら潮音だって少しは勉強しようって気になるでしょ? テストでいい点が取れるのかとか、どこの大学に行けばいいかなんてクヨクヨ悩んでる暇なんかあるんだったら、その間に少しでも勉強するしかないじゃん」
暁子に言われて、潮音は決まりが悪そうに苦笑いを浮べながら言った。
「まったく、暁子にはかなわないよ。ところで遊びに行くって言ってもどこに行けばいいんだろう」
「だから今は、そんなこと考えるより勉強する方が先でしょ。どこに行くかなんて、テストが終ってからでもゆっくり考えればいいじゃん」
「でも暁子は、正月は瀬戸内海の島にある実家に帰省するんだろ?」
そこで暁子は、深くため息をついた。
「それがね、今度のお正月は栄介が高校受験だから帰省はお預けになったんだ」
「栄介も大変だな。でも暁子の実家の島に優菜も一緒に行ったときはほんとに楽しかったよね。海で泳いだり釣りに行ったりしてさ。またいつか一緒に行けたらいいのにね」
「それはいつになるかわかんないけど…ともかく試験が終ったらどうするかは、そのときになってからゆっくり考えたらいいよ。今はテストを何とかするのが第一でしょ」
「ああ…そうだよね。これから勉強のことでわかんないことがあるときは、暁子の世話になることもあるかもしれないけど、そのときはどうかよろしくね」
「あたしだって自分の勉強があるからね。あんまりあんたに構っていられないかもしれないよ」
暁子は呆れ気味な表情で返事をしてから、潮音と別れて帰宅の途についた。しかしその後も、暁子の心の中からは一つの疑念が消えなかった。
――潮音がもし女の子になっていなかったら、自分の進路や将来についてここまで悩んだりしたかなあ…。少なくとも潮音が男の子のままだったら、どこの高校行ったにしたって男子同士でつるんでバカばっかりやってて、湯川君ともあそこまで仲良くはならなかっただろうし、弁護士になりたいなんて思ったりはしなかったのでは。
潮音は暁子と話をしてから、ようやく机に向かって勉強する気になった。そんなテスト前のある日に、潮音が早めに帰宅して勉強机で参考書を広げていると、ちょうど潮音の姉の綾乃も大学から家に戻ってきた。
「お帰り、姉ちゃん。でも今日はなんかしんどそうだね」
潮音が玄関口で綾乃を出迎えると、それに対して綾乃も疲れ気味に答えた。
「今日はうちの大学で、就職活動の進め方についてのセミナーがあったんだ。私だってもう大学の三回生の後半だし、就職活動の準備にそろそろとりかかる頃だからね」
ここで付言しておくと、関西の大学では学年を「一回生」などのように「○回生」と呼ぶのが習わしである。
それはさておき、綾乃はその日のセミナーで受け取った資料の中から、一枚の紙を示してみせた。これは就職活動を行う大学生が志望先の企業に提出するエントリーシートを模した用紙だった。
「この模擬エントリーシートに記入して、来週までに大学の先生に提出しなきゃいけないのよ。こうやってエントリーシートの書き方を添削してもらうんだけど、これからはこれを何枚も書かなきゃいけないからね」
そう話すときの綾乃は、声まで疲れ気味だった。そこで潮音が模擬エントリーシートを綾乃に見せてもらうと、そこには自己PRや大学生活で学んだこと、さらには会社の志望動機などを書く欄が並んでいた。潮音はこれを眺めているうちに、気が重くならずにはいられなかった。
「自分は高校の勉強やテストでただでさえ大変なのに、大学行っても大変なんだな」
潮音が感慨を口から漏らすと、綾乃は呆れたような顔をした。
「当り前でしょ。人間なんていくつになっても大変よ。この就職活動だって、会社から内定をもらうのはもちろん大変だけど、どこの会社だって入って仕事始めてから後の方がもっと大変なんだからね」
しかし潮音は綾乃の話を聞いているうちに、綾乃が大学を卒業して就職したら、自分が物心ついたときからいつも一緒にいて、共に遊んだりふざけ合ったり、時にはケンカもした綾乃が本当に自分から遠く離れて手の届かないところに行ってしまうような気がした。そこで潮音は、自分が男から女になってしまったときに誰よりも自分のことを心配して、親身になって相手をしてくれたのは綾乃だったということをあらためて思い出していた。
さらに潮音は、流風のことも同時に思い出していた。潮音は流風が来年の春に大学に入学すると、流風もやはり住み慣れた敦義の屋敷を去ることになるのかもしれないということに気がついていた。潮音は自分を取り巻く環境が変りつつあることに対して、ますます心にざわつきを感じずにはいられなかった。




