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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第五部
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第五章・最後の夏(その4)

 開会式が終ると、さっそく団体戦の予選が始まった。千晶の率いる松風女子学園の剣道部は予選リーグを順当に勝ち上がり、上位十六校からなる決勝トーナメントへと駒を進めた。試合を見守っていた松風の生徒たちは千晶たちが予選リーグを突破したのを見て快哉(かいさい)を上げたが、潮音はさほど剣道に詳しくはなかったものの、予選リーグを勝ち上がって千晶たちと対戦することになる学校の選手たちはいずれも剣さばきも鮮やかで、一筋縄ではいかないだろうということは潮音の目にも明らかだった。


 果たして決勝トーナメントの一回戦では、千晶たちも予選リーグに比べて苦戦し、一本取られる選手もいたが、それでも千晶が主将同士の対戦を制してベストエイトへと勝ち進むことはできた。しかし千晶以下の松風女子学園の剣道部員たちは皆肩で息をしており、疲労の色が見え始めていた。


 それでも千晶たちは準々決勝にも何とかして勝利を収め、次は準決勝の番になった。しかし潮音の傍らでは、香澄が心配そうに息を飲みながら千晶たちを眺めていた。潮音はいつも明るく元気な香澄がこのような顔をするなんてと意外に思っていたが、千晶がこのように剣道で苦戦している様子は香澄にとってもこれまで見たことがないようだった。潮音はそのような香澄の横顔をちらりと見ながら、香澄はいまだに自分が剣道をあきらめたことに対するわだかまりや、姉に対するコンプレックスが心の中から抜けていないのだろうかと気をもんでいた。


 千晶たちの松風女子学園が準決勝で対戦する相手は、あろうことか南稜高校だった。南稜高校の名前を聞いて、潮音は浩三や玲花の表情を思い出していたが、香澄は姉たちが南稜と対戦すると聞いて、にわかに表情を曇らせた。


「南稜が相手ですか…。これはまずいかもしれませんね」


「南稜には私の知ってる人が水泳部にいるけど、そりゃ南稜はスポーツの強豪校だもんね」


「南稜は剣道部も高校総体や国民スポーツ大会の常連になっている強豪校ですからね。特に姉と同学年の須永仁美選手は、いろいろな大学のスカウトや実業団も目をつけている全国レベルの逸材と言われています」


「さすがに香澄は自分も剣道をやっていただけあって詳しいんだね」


「はい。姉からもいろいろ話は聞いていますから」


 潮音と香澄が話している間に、松風と南稜の双方の選手は双方ともに入場していた。潮音は南稜の選手たちの方に目を向けたが、香澄の話していた須永仁美が誰かは(たれ)についている名札からすぐにわかった。しかし仁美は面をつけていて表情こそうかがい知ることができなかったものの、長身ですらりとした体格をしており、達人ぞろいの南稜の選手たちの間でもその存在感は際立っていた。潮音はその時点で、いくら千晶といえども、仁美の相手をするのは並大抵ではないと直感的に感じずにはいられなかった。


 双方の部員たちが互いに一礼をして勝負の火蓋が切られてからも、果たして松風の剣道部員たちは、南稜の剣道部員たちに対してほとんど歯が立たなかった。潮音は松風の剣道部員たちも練習を積んできたにもかかわらず、こうまで実力の差を見せつけられるなんてと唖然とせざるを得なかった。紫もおろおろしている香澄の傍らで試合の一部始終を見守っていたが、その目つきは険しかった。


 勝敗の帰趨(きすう)もあらかた決した頃になって、いろいろ千晶と仁美という双方のチームの主将同士が対戦することになった。潮音は松風が南稜に勝てないのは仕方がないとしても、せめて千晶が仁美に対して一太刀くらい浴びせることができたらと願っていた。しかしその傍らで、香澄は祈るような表情で姉の千晶が試合に臨む様子を見つめていた。


 試合が始まった直後の一回戦では、仁美の激しい攻めに対して千晶も落ち着いてよく応戦し、竹刀同士のぶつかり合う音がアリーナの館内に響き渡った。しかしそれでも千晶は、見る見るうちに一本を取られてしまった。三本勝負で行われる剣道の試合は二本を先取した方が勝ちとなるので、ここでいよいよ千晶も追い込まれたかと潮音もあきらめかけていた。


 しかし二本目も仁美が猛攻を見せたものの、千晶はわずかな隙を見逃さずに仁美に一撃を浴びせて一本を取った。剣道の強豪校と見られている南稜でも、特に有望な選手と見られている仁美が一本を取られたことで、南稜と松風の双方の選手だけでなく観客の間にも動揺が広がっていた。潮音もほっと胸をなで下したものの、隣にいた香澄は満面の笑みを浮べていた。それだけでなく、千晶の勝負を見守っていた松風の生徒たちも皆嬉しそうにしていた。

 

 次はいよいよ、試合の勝敗を決することになる三本目である。しかし仁美が、一本を取られたことでますます闘志をみなぎらせていることは、剣を手にした構えを見ただけでも明らかだった。結局三本目は千晶もよく戦ったものの仁美が一本を取り、仁美の勝ちが決まった。これは松風の剣道部が団体戦で南稜に敗北し、千晶の松風女子学園での剣道部の活動が終了した瞬間でもあった。


 千晶が負けた瞬間を見て、アリーナの観客席で観戦していた松風の生徒たちの間には落胆の色が広がっていた。特に香澄は肩を震わせて泣きじゃくっていた。そのような香澄を、潮音はそっとなだめてやった。


「そんなにわんわん泣くもんじゃないよ。千晶先輩は全力を出し切って正々堂々と戦ったんだ。南稜の選手の方が格上なのは見ててもわかったけど、そこから一本を取ったわけだからね。香澄がそんなに泣いているとこ見て、千晶先輩が喜ぶわけないだろ」


 そして潮音は、香澄にアリーナの中心を見せてやった。そこでは面を外した松風と南稜双方の選手が互いに一礼をしていたが、香澄をはじめとする松風の選手たちは皆すがすがしい表情をしていて、勝負に負けたことを悔しがる様子はなかった。


「あの千晶先輩の表情を見ろよ。先輩はこれで中学で南稜の剣道部に入って以来練習を積んで、その一方で生徒会長もやって、そこで頑張ってきたことを全部ここでやり切れたと思ってるんじゃないかな。多分先輩の心の中に悔いはないと思うよ」


 潮音が香澄をなだめようとしても、香澄は涙声をあげた。


「私だって剣道やってたからわかってます。夏の暑い中防具をつけて練習したらそれだけで汗びっしょりになるし、冬は寒い中でも朝早く起きて、床が冷たい体育館で裸足になって練習してたし。…ちっちゃかった頃のあたしは、優しくて剣道も強い姉に憧れて剣道を始めたけど、それについていけなくなって剣道をやめたあたしは、やっぱり根性無しって言われても仕方ないかもしれません」


 話し終ると香澄はまた泣き出した。そのような香澄の態度を前にして、潮音は語調を強めていた。


「だからそんなに泣くなって。ほら、千晶先輩を見てみなよ」


 潮音が香澄に示した先では、千晶が仁美としっかりと握手を交わしていた。その様子には、香澄もなにか感じるものがあったようだった。さらに剣道部が負けて落胆していた松風の生徒たちも、千晶と仁美の握手には皆立ち上がって惜しみない拍手を送っていた。それを見て潮音はあらためて香澄に話しかけた。


「どうやら南稜の選手も先輩のことをライバルとして認めたみたいだね。だから香澄もあまりクヨクヨするなよ。暁子はいつも言ってるよ。自分は手芸部でだいぶ香澄にお世話になってるって。香澄が短い間とはいえ、剣道をやった経験は絶対ムダになっていないはずだよ」


 潮音の説得で、なんとか香澄は少し気分を持ち直したようだった。そこで香澄の友達の清子と杏李がそっと香澄に声をかけた。


「あたしたちも帰ろうか」


 そして香澄は清子や杏李と一緒にアリーナを後にした。潮音は清子と杏李が、香澄のフォローをしっかりやってくれないかと願っていた。


 香澄たちがアリーナを立ち去るのを見送って潮音も紫と一緒に帰途についたが、その間も二人の話題は主に剣道の大会のことだった。


「あの南稜の剣道部の主将、全国レベルの選手だというからもっとごついのかと思ってたけど、面を取ったらなかなかかわいかったじゃん」


「あんたってそういうことにしか興味ないわけ」


 潮音の話に紫は呆れ顔になったが、剣道の話が一段落すると紫が潮音にあらためて声をかけた。


「あの元気でおてんばな香澄が、あんなに人前で泣いたりするなんてね」


「そりゃあの子だって、悲しくて泣きたくなることだってあるよ。あの子はお姉ちゃんっ子で、だいぶ千晶先輩に対して引け目を感じていたみたいだからね。私もちっちゃな頃からお姉ちゃんには何をやってもかなわなかったから、その気持ちはわかるよ」


「潮音ってずいぶん香澄に対しても優しいんだね。でも潮音がそんなに人に対して優しくて、その結果多くの人が周りに集まってくるのは、やっぱり潮音には男の子から女の子になって、それで自分自身もいろいろ悩んだり苦しんだりした経験があるからこそ、そうやって悩んだり苦しんだりしている人の気持ちがわかるからじゃないかな。私も潮音のそういうところは、これからも大切にしてほしいと思うよ」


「そうかなあ」


 そう話すときの紫はさっぱりとした表情をしていたが、潮音はこのようにして紫にまで褒められたことに対して、いささかの照れくささを覚えずにはいられなかった。そこで潮音は声を抑えながら紫に話しかけた。


「千晶先輩や香澄はもしかして、私が前は男だったってこと知ってるのかな」


「さあね。少なくとも私は誰にも潮音のことは話してないけど」


 潮音はその紫の言葉を聞きながらも、その脳裏からは香澄が泣きじゃくる光景がいつまでも離れなかった。


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