第五章・最後の夏(その2)
それから数日たって、愛里紗や琴絵、恭子らの班が修学旅行から帰ってきた。恭子も修学旅行を楽しんだ様子を潮音に興奮気味に話していたが、潮音にとっては愛里紗が仲間の中で浮いたりせずに旅行を楽しむことができたかが気がかりだった。しかし愛里紗からスマホで、北海道の風景を背景に愛里紗が楽しそうに写っている写真を示されると、ようやく潮音も安堵した。愛里紗が日ごろ苦労をかけている母親の公江にも土産物を買えたことを嬉しそうに話すのを聞くと、潮音も思わず表情をほころばせた。
そこでも香澄をはじめとする中等部の生徒たちは、修学旅行から戻ってきた二年生たちから修学旅行の話をいろいろ聞こうとしていた。香澄の相変らずのハイテンションぶりを、潮音も昼休みのカフェテリアでやれやれと思いながら眺めていたが、そこで潮音にそっと声をかける者がいた。その声の主は何を隠そう、香澄の姉の千晶その人だったのである。
千晶は戸惑っている潮音を物陰に連れ込むと、小さな声で話しかけた。
「あなたが二年の藤坂さんね。香澄はあなたにすごくなついているみたいだけど、あなたはどう思っているのかしら」
千晶の唐突な質問に、潮音は戸惑わずにいられなかった。
「いや…香澄はとても元気な明るい子で、学校の雰囲気を盛り上げてくれていると思います。香澄のおかげで学校がとても楽しくなっているって思うし」
その潮音の表情を、千晶はいぶかしむような表情でじっと見つめた。
「ほんとにそう思ってるの? あの子はああ見えて人一倍デリケートなところがあるからね。ともかく私も前から香澄のことも含めて、あなたとはいっぺんちゃんと話がしたいって思ってたの。今日は剣道部の練習もないから、放課後に校門のところまで来てもらえないかしら」
潮音にそう話すときの千晶は、落ち着いた様子でにこやかな笑顔を浮べていたとはいえ、潮音は千晶が剣道部で後輩に稽古をつけているときの厳しい態度や鋭い剣さばきを実際に目にしているだけに、それがかえって潮音の背筋にぞくりとするものを感じさせていた。潮音は千晶のそのような表情を前にしては、千晶の誘いを断ることなどできなかった。
「はい…私も今日は水泳部もバレエもありませんから…」
潮音の返事を聞くと、千晶は予定を忘れないようにと念を押してその場を立ち去った。潮音は千晶も香澄のことを心配している様子をまじまじと感じ取っただけに、千晶に対していいかげんな態度でお茶を濁すことなどできないと思って余計気が重くなった。
その日の放課後、潮音は千晶との待合せ場所に指定された校門に向かう足取りも重かった。校内でカリスマ的な支持を集めている千晶から、自分と直接会って話がしたいなどと言われると、香澄のことについてどのように話せばいいのかと気が気でなかった。
潮音が校門に来ると、すでに千晶はその場で待っていた。そして千晶はそのまま、潮音を学校の最寄駅の近くにある喫茶店に誘った。潮音が戸惑う間もなく千晶は潮音を二人がけのテーブルにつかせて、自らも潮音と向き合うように椅子に腰を下した。
「遠慮しなくてもいいのよ。飲み物の一杯くらいならおごってあげるから」
潮音がその好意に甘えて飲み物を注文しても、注文した品が届けられるまでの間に潮音はずっとその辺をきょろきょろと見回しながら、もじもじと落ち着かない態度を取っていた。潮音が緊張で体や表情をこわばらせていることは千晶の目にも明らかだったようで、千晶はかすかに笑みを浮べながら言った。
「やっぱり生徒会長もつとめて、剣道部では主将になって段位も持っている私が放課後に喫茶店に寄ったりするなんてとでも言いたいわけ? そう顔に書いてあるよ。言っとくけどこの喫茶店には、剣道部の練習が終った後で部員と一緒に行くこともあるんだ。ここで反省会みたいなことをやることだってあるし、部員の悩みやそれに対するアドバイスだってこういうところの方が話しやすいってこともあるし」
千晶は紅茶に加えて、甘いケーキも注文していた。千晶がケーキをおいしそうに味わっている姿は普通の女子高生そのもので、潮音は千晶に対して今まで自分が抱いていた、硬派な優等生の生徒会長や剣道の有段者というイメージとのギャップに戸惑っていた。千晶はそのような潮音の心中など知ってか知らずか、紅茶に軽く口をつけながら話を続けた。
「今日は藤坂さんに自分の本心を包み隠さずにはっきりと打ち明けてほしいの」
そこまで言われて、潮音はようやく口を開く気になった。
「…今日はどうもありがとうございます。でも千晶先輩は受験勉強だってあるのに、こうやって私と喫茶店に行ったりして大丈夫なんですか」
潮音に尋ねられても、千晶はにこやかな表情を崩そうとしなかった。
「先輩だからといって、無理にかしこまって敬語を使う必要なんかないよ。気軽に話してくれたらいいから。…今年度の生徒会長は峰山さんがなったんでしょ。まああの子のことだから心配しないでもちゃんとやってくれるとは思うけど」
「はい。峰山さんは生徒会長の仕事もちゃんとやっていてすごいと思います。私も峰山さんと同じバレエ教室に通っているので、峰山さんから学ぶことは多いです」
千晶は潮音の話を納得するように聞いた後で、あらためて話を切り出した。
「藤坂さんのことは香澄からもよく聞いているわ。この前のバレンタインデーのときなんかは、香澄と一緒にチョコを買いに行ったんだってね」
潮音は千晶が話題を自分のことに振ったので、いよいよこの話も本題に入ったのだと思わず身構えた。
「あれは私が優柔不断でグズグズしていたから、香澄の方から誘われたようなものです」
「ふうん。藤坂さんにもチョコを贈りたい人とかいるんだ」
千晶が茶化すような物言いをしたので、潮音は一気に顔を赤らめた。千晶も少し悪乗りしすぎたと思ったのか、真面目な表情に戻ってあらためて潮音に問い直した。
「藤坂さんはさっき、香澄は元気で周りを明るくしてくれているって言ったよね。でもそれはあの子の表向きの顔なのかもしれないなんてことは、私だってわかってるよ。あの子は私と一緒に剣道をやっていたけれども、練習についていけなくなってやめたことがいまだに心の重荷になっているみたいだけど」
「香澄が剣道をやめたとき、先輩は何か言ったのですか」
「私は何も言ってないよ。私は今までこうやって剣道を続けてきたけど、私の周りにも一緒に剣道をやっていたけどやめていった子なんか何人もいるしね。それにあの子は練習がいやで怠けたいとか、そんな理由で剣道をやめたんじゃないなんてことくらいはわかってるから」
「私だって水泳をやっていたし、今は峰山さんと一緒にバレエをやっているから、香澄の気持ちだってわかります。水泳だってバレエだって、自分にはどうしても越えられない壁があると思ったことなんて何度だってあるから…」
「壁? そんなの私だって感じてるよ。むしろ練習すればするほど、その壁を感じることだってあるし」
「だから先輩には、香澄がどんなことで悩んでいたってそれを受け止めてほしいんです。香澄の気持ちをわかってやれるのは、先輩しかいないと思うから…。私だって姉がいるけど、はっきり言って姉には何をやってもかないませんでした。だから私だって、香澄が先輩に引け目を感じる気持ちはわかるんです」
「私はあの子から尊敬されるほど、大したことやってるつもりなんかないけどね。剣道だって自分が好きだからやってるだけだし。あの子だって剣道じゃなくてもいいから、あの子なりの好きなものを見つけてくれたらいいんだけど」
「香澄は手芸部で頑張ってるじゃないですか。私の友達の暁子…いや石川さんだって、手芸部ではむしろ自分の方が香澄の世話になっていると言っています」
潮音が語調を強めると、千晶は潮音を落ち着かせるように言った。
「そうやって香澄のためにもストレートにものを言うことができる、それが藤坂さんのいいところよね。今度入った一年生の子たちがフットサル同好会を作りたいって言うと、それに協力したりもしたし。香澄もあなたのそういうところになついたんじゃないかしら」
そこで千晶は、あらためて潮音の顔をまじまじと見つめた。
「実を言うとね、私も前から感じてたんだ。藤坂さんってこの学校に中等部からいる子とも、高等部から入ってきた子とも違う、今までうちの学校にいなかったタイプの子だなって。あなたが入ってきて、学校の雰囲気が変ったような気がするの」
その千晶の発言を聞いて潮音はぎくりとした。潮音は千晶がすでに、自分がかつては男だったことに気がついているのかと思ったからだった。潮音はテーブルの下で拳をぎゅっと握りしめながら、言葉を振り絞るようにして口を開いた。
「私の話…誰かから聞いたのですか」
潮音が態度を一変させたのを、千晶はきょとんとしながら当惑気味に眺めていた。潮音は紫をはじめとする、自分が素性を打ち明けた生徒たちが誰も千晶にそのことを漏らしていないことに安堵したが、自分が今千晶に全ての真相を打ち明けたところで話がややこしくなるだけだと思ったので、ここは黙っておくことにした。潮音はぐっと息を飲みこんで千晶に話しかけた。
「私は去年この学校に入ってから、右も左もわからない中でなんとか自分を見失わないようにしようと必死で頑張ってきました。うちの学校にいる子たちはみんな勉強ができるだけでなく、どの子も自分の考えや得意なものをしっかり持っている子ばっかりで、その中で自分のできることや得意なことって何なのかって…」
潮音が少し表情を曇らせたのを見て、千晶はあえて明るい表情で潮音に声をかけた。
「そんなの気にすることないじゃん。藤坂さんはこの学校に入ってからいろんなことを頑張ってきたし、香澄のことだってただかわいがるだけでなく、いろいろ気にかけてくれている、それだけで十分よ。藤坂さんは変に遠慮する必要なんかないから、自分を信じて前に進めばいいんだから」
そこで潮音も、ようやく明るさを取り戻して千晶を向き直した。
「今日は本当にありがとうございます。こうやって千晶先輩が話をしてくれたおかげで、少し気が楽になりました。香澄のことも、これからもずっと大切にして下さい」
「わかったわ。藤坂さんこそ、これからも香澄のことをよろしく頼むわね」
千晶は笑顔で潮音に声をかけると、「そろそろ帰ろうか」と言って席を立った。
潮音は喫茶店の入口で千晶と別れる間際に声をかけた。
「あの…この前香澄も言ってたけど、先輩が出場するこの夏の剣道の大会には、私も応援に行っていいですか?」
その潮音の言葉に、千晶は笑顔で応えた。
「ええ、もちろんよ。でも何度も言うけど、剣道の試合は礼儀を守っての真剣勝負だから、大声を出したりしないでルールを守って観戦してね」
「はい。先輩も剣道の試合も、それから受験勉強も頑張って下さい」
潮音は千晶と別れて帰途についてからも、千晶ばかりでなく香澄までもが、もしかしてすでに自分はかつて男だったことを見抜いているのではないかと気になっていた。しかし潮音は、仮にもしそうだとしても引け目を感じることなどない、さっき千晶も言った通り、自分を信じて前に進むしかないのだからと意を新たにしていた。




