第四章・北の国へ(その10)
潮音たちの修学旅行も、いよいよ最終日を迎えた。この日はグループごとに分かれて、札幌や小樽で自由行動をとることになっていた。
潮音のグループは、小樽を訪れることにしていた。潮音たちが札幌駅から電車に乗って、札幌の市街地を抜けると車窓に石狩湾が広がった。この海は、潮音がいつも見慣れている穏やかな瀬戸内海と違った北の荒い海だと潮音は思った。
電車がどっしりとした構えの小樽駅に着くと、潮音たちはさっそく小樽観光のメインスポットである小樽運河に向かうことにした。その途中にある鉄道の廃線跡を活用した遊歩道で写真を撮ったりした後、潮音たちは運河沿いを散策しながら水辺に建ち並ぶ古い倉庫を眺めたりした。この小樽は古くて重厚な街並みに、かつて北海道の商業の中心として繁栄した港町らしいムードが漂っているところが、同じ港町である神戸で育った潮音たちに親近感を抱かせているようだった。
暁子は運河沿いの遊歩道を歩きながら、隣を歩いている潮音に声をかけた。
「なんかこれから飛行機に乗って、今日の晩には神戸に着いているなんて信じられないよね。ほんとにこの修学旅行は知床や阿寒湖の景色もきれいだったし、川でラフティングをやったり、トマムで雲海を見たりして楽しかったよ」
暁子がそう話している間にも、海から吹く風が暁子の髪をかすかに揺らしていた。暁子の言葉には優菜や潮音も同感のようだった。
「それに北海道はジンギスカンをはじめとして食べ物かておいしかったしな。この旅行で太ってへんか心配やわ」
「そうだよね。北海道は何もかもスケールが段違いですごかったよ」
その潮音の言葉に暁子は少し安心したようだったが、優菜はそこで少し表情を曇らせた。
「でも釧路湿原で潮音がちょっと調子を崩したときは心配したよ。潮音ってまだ精神的に不安定なところがあるんかなって」
そこで潮音は、あわてて優菜や暁子の不安を打消そうとした。
「それだったら心配しなくたっていいから」
その潮音の言葉を聞いても暁子と優菜は完全には納得せず、心のどこかにある不安をぬぐい去れずにいるようだった。
そのまま潮音たちは運河のそばから、堺町通りと呼ばれるレトロな建物が軒を連ねる通りへと足を踏み入れていた。潮音たちがその通りの一角にあるガラス工房に入ると、照明に照らされてきらびやかな光沢を放つガラス製品の数々に目を奪われた。潮音は高校生の小遣いでも手が届く範囲の値段の、小鳥をかたどったガラスの置物を買い求めることにした。
特に真桜はガラス細工の数々に熱心に見入っていたので、そこで吹きガラスを体験することにした。ガラス工房のスタッフが真桜を工房に招き入れると、スタッフは細長い吹き竿の先端を炉の中に入れて、高熱で溶けたガラスを先端に巻きつけた。スタッフが慣れた手つきで吹き竿を炉から取り出して、真桜がスタッフの指示のもとで息を吹き入れると、赤く熱せられたガラスが風船のようにふくらんでいった。それから真桜とスタッフで形を整えたり模様をつけたり、再び息を吹き入れたりを繰り返すうちに、ガラスはグラスへと形を整えていった。
スタッフは後日真桜の家に完成品を郵送すると言っていたが、真桜は伝票を書きながらも世界に一つしかないオリジナルのグラスができたことが嬉しそうだった。潮音も真桜の表情には内心でほっとしていた。
その後潮音たちは堺町通りのオルゴール堂に立ち寄ると、音を奏でる様々な形のオルゴールに目を向けた。そうしているうちにちょうど昼食の時間になっていたので、そこで美鈴が一つの提案をした。
「なんかお腹空いたな。集合時間までまだちょっと時間あるから、札幌に戻って札幌駅の近くにあるラーメン屋が集まっとるスポットに行ってみいへん? せっかく北海道におるのもこれが最後なんやから、本場のラーメンを食べてみたいわあ」
その美鈴の提案には、グループのみんなも賛同した。潮音たちは電車で札幌に戻ると、さっそく駅前のビルの中にあるラーメン店が集まっている一角に向かった。
ラーメン店の前に行くと、そこにはキャサリンの姿もあった。キャサリンも見るからにウキウキしていて、本場のラーメンを食べるのを楽しみにしているようだった。
キャサリンも一緒になって店を選んで、みんなで席について注文を済ませると、程なくして届けられたラーメンを見て美鈴は顔色を変えた。
「せっかくの旅行なんやから、トッピングにバターやコーンも入れへんとな」
美鈴だけでなくキャサリンも、ラーメンを美味しそうに味わっていた。
「私も日本のラーメンは大好きです。ロンドンにもラーメン屋はありますが、やはり本場のラーメンは違いますね」
満足そうに笑みを浮べるキャサリンをみんなはご機嫌そうに眺めていたが、そこで美鈴はラーメンをすすりながら潮音たちに話しかけた。
「ほんまにこの旅行は楽しかったよね。でも国岡さんも絵を描いたり、さっきも小樽でグラスを作ったりしてけっこう楽しそうやったやん。実を言うとあたし、国岡さんがこの旅行でみんなと仲ようできるかちょっと心配やったけど、考えすぎやったみたいやな」
真桜もラーメンを口にしながら、ちょっぴり恥ずかしそうな顔をしていた。潮音はこの旅行の前後で真桜の様子が変っていると感じて、真桜をグループに誘ったことは間違いではなかったと胸をなで下していた。
同じグループの芽実も、あらためて真桜の方を向き直していた。
「国岡さんのことは百人一首大会でいつも強いから前から注目してたけど、国岡さんっていつも周りに積極的に声をかけたりしないから、私の方もちょっと声をかけづらかったんだ。だからこの修学旅行で国岡さんと一緒のグループになれて良かったわ。この旅行を通して、国岡さんは前よりも表情が明るくなったような気がするよ。これからも百人一首大会では頑張ろうね」
芽実が真桜に親しげに話しかけるのを見て、美鈴が調子よさげに声を上げた。
「あたしは百人一首のことはようわからんけど、来年の百人一首大会が楽しみやな。打倒寺島さんと言うたとこやろか」
その美鈴の言葉には、芽実と真桜も少々照れくさそうにしていた。そこで潮音もぼそりと口を開いた。
「もしうちの学校が男女共学だったら、この修学旅行はどうなってたかな…」
潮音は昨晩美咲と交わした会話のことが心に残っていたが、その潮音の言葉をみんなはきょとんとしながら聞いていた。しばらくして美鈴が口を開いた。
「女子でまとまって旅行するのもけっこう楽しかったやん。そりゃ彼氏と一緒にきれいな景色見たり、ペアでお土産買ったりするのにもちょっと憧れるけど」
芽実は美鈴が一人で舞い上がっているのに少し呆れ気味だった。
「修学旅行って彼氏といちゃつくために行くとこじゃないでしょ。そもそも共学の学校行ったからって、かっこいい彼氏ができるわけじゃないし」
そこでキャサリンも声を上げた。
「イギリスにも名門校には男子校や女子校がありますよ」
そうやってみんなが話をする中で、暁子と優菜は潮音の言葉に少々複雑そうな顔をしていた。
そして潮音たちはラーメン店を後にして札幌駅前の集合場所で他の生徒たちと合流すると、帰途につくために新千歳空港に向かった。バスが空港に着くと五日間の旅を共にしたバスガイドも、皆と別れるのを名残惜しそうにしていた。
新千歳空港の中には多くの店があり、あたかもテーマパークのような様相を呈していたのには、潮音たちも驚いていた。札幌駅の周辺の土産物店で家族のためのお土産を買い求めたにもかかわらず、ここでも土産物店のレジに列を作っている生徒もいた。ここで優菜が、潮音にそっと耳打ちした。
「この中には彼氏にプレゼント買ってあげようって子もおるかもな」
その優菜の言葉に潮音は苦笑いした。
やがて潮音たちが神戸空港行の飛行機に乗り込んだときには、初夏の北海道の陽も西に傾きつつあった。飛行機が離陸し北海道の緑豊かな風景が小さくなっていくのを窓から見下ろしていると、潮音の胸には旅行の体験がいくつも蘇ってきた。北海道の自然の美しさや雄大さ、そしてここで行ったラフティングなどの体験だけでなく、潮音にとってはみんなと一緒に旅行ができたことや、今まで知らなかったみんなの一面を知ることができたことも嬉しかった。
飛行機が神戸空港に着いたときには、六月の日が長い季節とはいえ辺りは暮れなずんでいた。みんなが飛行機を降りてコンベアで運ばれてきた荷物を受け取ると、一行は空港のロビーで解散した。久恵は家に着くまでが旅行なのだから、今日は寄り道しないで早く帰宅するようにと釘をさしていた。
潮音が帰宅の途中で見慣れた神戸の街を目にすると、旅に出ていたのは五日間だけだったにもかかわらず、神戸に帰ってきたのは久しぶりのような気がした。それと同時に、自分が旅に出ている間にも、同じ電車に乗り合わせた人たちは皆いつも通りの日常生活を送っていることが、不思議なことのように感じられた。
潮音が帰宅すると、家族は皆潮音が旅先で撮った写真や、買ってきた土産物を楽しみにしているようだった。しかし潮音は今日は早く寝させてくれと言って、旅の疲れを取ろうとした。
旅行から帰宅した翌日には学校も休みになったが、潮音が荷物の整理をしながら旅先で買った土産物の数々を眺めているうちに、小樽のガラス工房で買った小鳥のガラス細工が目に入った。潮音はこのガラス細工を眺めているうちに、昇のことを思い出していた。潮音は自分がこれを持っていてもしょうがないと思うと、夕方になって昇が帰宅する時間帯を見計らって、土産物の菓子とガラス細工を手に昇の家に向かった。
潮音が昇の家のインターホンを押すと、昇が玄関で潮音を出迎えた。潮音は前日まで自分が北海道に修学旅行に行っていたことを昇に伝えると、恥ずかしそうな顔で菓子とガラス細工を昇に手渡した。昇はしばらくきょとんとしながら潮音の顔とガラス細工を交互に見比べていたが、やがて口を開いた。
「きれいなガラス細工だね。どうもありがとう」
その昇の声に、潮音は顔を赤らめてしまった。潮音は北海道の土産話もそこそこに自宅に引き上げる間も、胸の動悸を抑えることができなかった。
休みが明けて潮音が登校すると、さっそく萩組の恭子が潮音を校内で出迎えた。恭子は潮音や紫たちが自分たちよりも一足先に修学旅行に行ったことにどこか不満そうだが、紫は恭子たちだって六月の末には修学旅行に行ける、むしろ美瑛のラベンダー畑はその頃の方が見ごろになっているかもしれないと言って恭子をなだめた。恭子以外のB班で修学旅行に行く生徒たちも、修学旅行の土産話に興味深げに耳を傾けたり、旅先で撮った写真を眺めたりしていた。
潮音たちの帰りを楽しみにしていたのは、一年生の遥子やすぴかたちも同様だった。潮音の土産話を遥子やすぴかは目を輝かせながら一心に聞いていたが、この調子では来年も遥子たちが中心になって修学旅行を企画し盛り上げてくれそうだと潮音は頼もしく感じていた。
旅から帰って数日後、真桜は小樽のガラス工房で作ったグラスが完成して自宅に届けられたと、潮音をはじめとする修学旅行のグループのメンバーたちに告げに来た。真桜が示してみせたそのグラスは、どこか涼しげな色あいをしていた。
それに続いて真桜は、スケッチブックを開いて潮音に何点か素描を示してみせた。真桜はこの北海道旅行を題材にした油絵を描こうと思っているが、今はどのような絵を描こうかと下書きを描いて構想を練っているところだと言った。真桜は秋の文化祭までには絵を描き上げたいと言っていたが、どんな絵ができるか楽しみだと潮音が告げると、真桜もかすかに笑顔を浮べていた。
これで修学旅行編は一段落です。修学旅行は前から書いてみたかったネタですが、はっきり言って書くのは難しかったです。旅行のプランを立てるのはただでさえ難しいのに、まして百人単位で人がぞろぞろと移動する修学旅行をやというわけで。北海道の自然や風景も作者のつたない筆では十分に書ききれずにもどかしい限りですが、このあたりはどうかご容赦お願いします。




