第四章・北の国へ(その4)
潮音が目を覚ますと、窓の外はすっかり明るくなって朝日が照らしていた。潮音が布団にもぐりながらスマホで時間を確認すると起床時間より少し早めだったが、そこで潮音は真桜も目を覚ましていて、窓べりのソファーで窓から見える景色をじっと眺めているのに気がついた。潮音も布団から起上ると、真桜に小さな声で話しかけた。
「国岡さん…もう起きてるんだ」
それに対して真桜も、他の生徒を起さないように小さな声で潮音に話しかけた。
「六月の北海道は夜が明けるのも早いので、もうこんなに明るくなっているのですね。それよりこの景色を見て下さい」
潮音は真桜に言われるままに窓の外の景色に目を向けて、思わず息を飲んだ。ホテルの窓から見えるオホーツク海は赤く染まった朝日を浴びて波間がキラキラと輝いており、港の先に伸びた岬の岩場も朝日が明るく照らしていた。そしてその岩場の周りには、無数の海鳥が舞っていた。潮音はその景色を見て、思わず目尻に涙を浮べていた。潮音はこの朝の明るい海を見ていると、心のなかにずっと溜まっていたわだかまりもいつしか解きほぐされるように感じていた。それと同時に、潮音は美しい風景を見る目のある真桜は、やはりどこか不思議な感性を持っていると思って、あらためて真桜のことを見直した。
やがて他の生徒たちも起き出すと、みんなも窓の外から見える景色に感動したようだった。そこで美鈴が声をかけた。
「もうちょっとしたら朝ごはんの時間になるから、早よ準備した方がええんとちゃうかな。それに朝ごはんはバイキングみたいやけど、どんな料理が出るか楽しみやわ」
潮音は美鈴の食い気が旺盛なことに、あらためてやれやれと思っていた。
潮音たちが身支度を済ませて朝食の会場になっている食堂に下りると、そこには紫や光瑠の姿もあった。そこで潮音は意地悪っぽく紫に聞いてみた。
「まさか紫は、夜中までずっと麻雀やってたんじゃないだろうね」
すると紫はむっとした顔で答えた。
「変なこと言わないでよ。ちゃんと消灯時間までには終わったからね」
その話を聞いて、潮音は紫は遊ぶときにはちゃんと遊ぶことだってできるけれども、やはり根は真面目なんだなと感じていたが、そこで光瑠が口をはさんだ。
「紫は麻雀だってけっこう強いよ。昨日の晩だっていちばん勝ってたのは紫だったんだから。潮音も麻雀覚えたら私たちと一緒にやってみない?」
その光瑠の言葉には、紫は露骨にいやそうな顔をした。
「光瑠まで余計なこと言わないでよ。それよりちょっとホテルの外に出てみない? 朝の風が気持ちいいよ」
そうやって潮音は、紫と光瑠に誘われてホテルの外に出てみた。すると潮音は、六月というのに肌寒い、潮の香りを含んだ朝の清新な空気にはっと息をつかされた。潮音は耳をすまして海鳥の鳴き声を聞くと胸いっぱいに澄んだ空気を吸い込み、暁子たちが待つホテルへと戻っていった。
そのまま潮音たちはホテルのバイキングの朝食で腹ごしらえをしたが、食欲旺盛な美鈴がいろいろな料理を皿に盛るのには潮音も呆気に取られていた。
「今日はこれから長いこと移動するから、ちゃんと食べとかへんとな」
美鈴の無邪気な様子には、潮音も返す言葉がなかった。
朝食を取っている周りの生徒たちの中には夜遅くまで遊びやおしゃべりにふけっていたのか、眠そうな目をこすっている者もちやほや見られた。潮音たちは朝食の後で点呼を取ると、バスで知床五湖へと向かった。
バスがウトロを後にすると地形はさらに険しさを増して人家も絶え、道路はカーブが連続するつづら折りの道になった。バスガイドが知床五湖にはヒグマが出没して遊歩道が閉鎖されることもあるという話をすると、生徒たちの間から少しざわめきが起きたが、バスガイドは生徒たちが訪れる高架木道には電気の柵があるから安心するようにと言って生徒たちを落ち着かせた。潮音はこの話を聞いて、自然を保護しながら観光客も受け入れるのは大変なのだなと思った。
やがてバスは知床五湖の駐車場に着いた。潮音たちはクラス毎に記念撮影を済ませた後で、クマザサの生い茂る湿地を横切る高架の木道を歩き始めた。潮音が木道の途中に設けられた展望台から知床連山の方を振り向くと、雄大な山並みの光景だけでなく湿地の彼方に広がる鬱蒼とした森の木々の葉が、あたかも新緑のような若々しい、生き生きとした緑色に彩られているのに思わず目を奪われていた。
「ここは車の排気ガスなどで空気が汚れていないから、木の葉の緑色もこんなにきれいなのでしょうね」
潮音のそばにいた紫も思わず感慨を漏らしていたが、潮音がさらにその上空に広がる空を見上げると、潮音はここまで広くて、青く澄みわたった空を今まで見たことがなかったような気がした。そのような空を見上げているうちに、潮音の表情もいつしか穏やかになっていた。
潮音が木道をさらに進むと、やがて湿地の彼方にオホーツク海が見え隠れするようになった。木々やクマザサの鮮やかな緑色と、オホーツク海の深い青とのコントラストも、潮音の心を深くとらえていた。そうしているうちに、周りの生徒たちの間から歓声が上がった。森の中から、キタキツネがひょっこりと姿を現したのだった。
やがて潮音が木道の終点に着くと、深い緑色をした森の中に佇む、しんと静まり返った湖がひっそりと姿を現した。湖の水は澄みわたっていて、そのまま湖のほとりにまで迫る原生林や、はるかに見える知床の山並みを鏡のように湖面に映していた。そしてすぐそこまで、原生林のひんやりとした空気が漂ってきそうな気がした。それはまさに「幽邃」という言葉がぴったり来るような風景だった。
潮音はただ、この風景の雄大さや神秘的な表情をたたえた湖の趣に圧倒されるしかなかった。そのうちに潮音は、体中にぞくぞくするような震えが起きるのを抑えることができなかった。潮音は自分はかつて男だった頃にも、ここまで心を震わせるような景色を見たことがあるだろうかと自問せずにはいられなかった。
そうしているうちに、潮音の心に確かな感情が芽生えていた。
――このようなきれいな景色を前にしたら感動するし、いいことがあったときにはオレ自身が嬉しいと思うし、悲しいときには心が痛んで泣きたくなる。だからこそオレはオレだし、それには男も女もないだろ?
潮音は風に吹かれて立ちすくんだまま、いつしか両目に涙を浮べていた。そのような潮音の様子を見て、暁子がいぶかしむかのように潮音に声をかけた。
「どうしたの? 潮音。あんた今日の夜中に起きてたときからちょっと変だよ」
その暁子の言葉で、潮音は我に返った。
「いや…自分は男だった頃、こんな風に景色を見て感動したことなんかあったかな、やっぱり自分は変ってしまったのかなって…」
その潮音の話を聞いて、暁子は少し呆れたような顔をした。
「いいものをいいって思うのに、男とか女とか関係ないじゃん。あんたこそそういうのを変に気にしすぎじゃないの?」
そこで潮音は、納得したように首を縦に振った。
「ああ、その通りだな」
しかしそこで暁子は潮音に釘をさした。
「そうやって景色に感動してるのもいいけど、そろそろ集合時間になるからもう戻った方がいいんじゃないの」
「そうだよね。そろそろバスに戻ろうか」
そう言って潮音は名残惜しそうに、知床五湖を後にすることにした。




