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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第一部
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第三章・岐路(その5)

 潮音が自室に入ったときには、全身にどっと疲れが出たような気がした。いくら自分がセーラー服を着て女子の恰好をしているからといって、その恰好で学校に行けるか、まして女子として高校を受験し、その後三年間を女子として過ごせるかと思うと、潮音も確証が得られなかった。


 しかし潮音は、今の自分の姿を鏡に映してみると、髪の毛がボーイッシュなベリーショートであるということ以外、自分自身の目から見ても自分が女子として全く不自然さを感じさせないことにどきりとさせられた。そのとき潮音は、ふと暁子の勝気な表情を思い浮かべていた。


──もし暁子が今のオレのこの恰好見たら、どんな顔するだろうか。


 潮音はセーラー服のままベッドに横になって天井を見上げ、ふと大きく息をついた。そして潮音はちょうど今から三年近く前、小学校を卒業する直前のことを思い出していた。



──小学六年生も三学期になって、いよいよ中学への進学も目前という時期になると、休み時間の話題も進学や、中学生活のことが多くなる。しかし卒業式が迫るにつれて、暁子はなにか浮かない表情をしていた。


 そんなある日、暁子は教室で優菜をはじめとするクラスの仲のよい女子たちとおしゃべりをしていた。潮音がその様子を立ち聞きしてみると、話題が中学の制服の話になったとき、暁子は中学に入学すると制服でスカートをはかなければいけないのがいやだとぼそりと言った。優菜から「アッコってスカートはいてもかわいいと思うよ」と言われても、暁子はどこか気恥ずかしそうな表情をしていた。


 たしかに活発で気の強い暁子は、小学校でもいつもラフなシャツにズボンで通していた。下校の途中、潮音は家の前で暁子とばったり出会ったので、思いきって先ほどの話をしてみた。暁子は「女の子の話を立ち聞きするなんてサイテー」と怒っていたが、それでも潮音は暁子にこう言ってみた。


「暁子、こないだ家族でレストランに行くときにはちゃんとスカートはいてたのに。あのときの暁子はけっこうかわいかったよ」


「その『案外』ってどういう意味よ。だいたい、あたしはその『女だからスカート』というのがいやなの」


「でも中学入ったら制服なんだからしょうがないだろ」


「そんなこと言うんだったら、あんたこそスカートはいて走ったりスポーツやったりとかやってみなよ」


「そんなだと男子にもてないぞ」


「あんたこそ女子にもてるようになってからそういうこと言いなよ」


 そうやって玄関の前で二人が言い争っていると、当時高校一年生だった綾乃も学校から帰ってきた。暁子は綾乃の、制服の上にコートを着た姿を見ると、またため息をついていた。


 綾乃はだいたいの話を黙って聞くと、潮音と暁子に向かってこう言った。


「潮音、女の子には男の子にはわからないいろいろな問題があるのよ。それに気づかないようなデリカシーのない男の子は女の子に嫌われるよ。でも暁子ちゃん、私は元気でおてんばなところが暁子ちゃんのいいところだと思うし、そういうところはこれからも大切にしてほしいと思うわ。でもそれに加えてスカートもはけるようになったら、また暁子ちゃんの魅力が広がるんじゃない?」


 そう言われて暁子は、少し考えこむようなそぶりをしていた。潮音が綾乃になだめられて自分達の家に入ってからも、しばらくの間脳裏からその暁子の表情が離れなかった。


 翌朝潮音が自宅の玄関を出ると、ちょうど隣の家からも暁子が出てきた。しかしそのときの暁子は、ジーンズの上にチェックのプリーツスカートを重ね着していた。


「重ね着なんかして、変なかっこ。まるで埴輪みたい」


「重ね着じゃなくて、レイヤードって言ってよね。それに今の季節は寒いんだもの。少しは寒い中スカートで通う女の子の身にもなってよね」


「暁子は夏の暑い中でもズボンばかりはいてるくせに」


 そのように言い合いながら潮音と暁子が通りの角を曲がると、優菜にばったり出会った。優菜も暁子の姿を目にすると、大きく目を見開いて「かわいいやん」と声をあげた。学校に着いて、暁子がジャンパーを脱ぐと、トップもかわいらしい柄のブラウスとセーターを着ていた。クラスの女子たちも、そのような暁子の様子を見て、次の瞬間には「似合うじゃん」「かわいいよ」と口々に言っていた。暁子が照れくさそうにしているのを見て、潮音は女の子の世界には自分のわからない物事がいろいろあるんだと感じていた。


 その日は午前中に体育の授業があった。授業が終って潮音が着替えを済ませてからも、暁子をはじめとする女子たちはなかなか教室に戻ってこなかった。潮音がどうしたんだろうといぶかしんでいると、ようやく休み時間が終る間際になって暁子が優菜たちと一緒に教室に戻ってきた。


 しかしそのときの暁子は、畳んだジーンズを体操服と一緒に手に持っていて、プリーツスカートからはソックスをはいた足が伸びていた。暁子は優菜をはじめとする周りの女子達がニコニコしているそばで、どこか恥ずかしそうにしながら自分の席についた。潮音がそのような暁子のいでたちに目を丸くする間もなく、すぐに授業開始を告げるチャイムが鳴った。


 授業の間も、潮音は暁子の方にちらりちらりと目を向けていた。暁子はそのような潮音の視線を感じると、机の下でスカートの裾を押さえて潮音をにらみつけた。


 授業が終って休み時間になると、暁子は潮音にさっそく文句を言いに行った。


「そんなに変? 着替える時間なかったからジーパンはかなかっただけじゃん。授業に遅れると先生に叱られるし。それにそもそも、スカートはいても似合うって言ったの、あんたでしょ」


「そんなに怒ることないだろ。やっぱり暁子もこうしてみるとけっこうかわいいのに」


 潮音がそう言った瞬間、暁子のまわりの女子たちが歓声をあげた。それには潮音と暁子もさすがに顔を赤らめた。


 そのときクラスの男子数人が、暁子をからかうようなことを言ってきた。


「男女が女装してる」


 しかしそこで潮音は、「そんなこと言うことないだろ」と男子に食ってかかった。そこで男子がまた潮音を冷やかすと、暁子が「あんなの気にすることないじゃん」と言って潮音の腕を引いたので、なんとかその場はおさまった。しかし優菜はそのとき、どこか気恥ずかしそうな表情をしながら潮音に目を向けていた。

 

 下校の時間、西日の差し込む学校の玄関で、潮音が靴をはきかえていると、暁子が優菜と一緒に並びながら、ためらい気味の表情で声をかけてきた。


「潮音、さっきはありがとう。でもなぜさっき、あたしをかばってくれたの?」


「オレだって暁子にスカートはいたら似合うと言ったんだから、少しは責任あるだろ」


 潮音の態度に暁子はますます戸惑っていた。


「あんな連中、いちいち相手にしなくてもいいのに。でも…あんな態度を取るなんて、あんたも少しは男らしくなったじゃん」


「お前、自分は女らしくするのいやだとか言っといて、人に向かっては男らしくしろと言うのかよ」


 そう言われて暁子は、一瞬困った表情を浮かべて答えに窮していた。優菜はそのような暁子の様子を見ると、潮音を向き直して声をあげた。


「藤坂君、アッコってこう見えてもけっこうおしゃれなところがあるんやからね」


 しかし暁子は、しばらく考えていた後で笑みを浮かべて言った。


「そんなに気を使ってくれなくたっていいよ、優菜。それにたしかに潮音の言う通りよね。中学になったら、もう今までみたいにわがままばかり言ってられないもんね」

 

 そして暁子は優菜に「行こうか」と軽く声をかけると、足取りも軽く潮音の前から立ち去り校舎を後にした。そのときの暁子のふっきれたような笑顔は、冬のやわらかな西日を浴びて明るく輝いていた。そして、暁子の背負っていたランドセルの赤い色がひときわ潮音の目をひきつけた。潮音は暁子の足元に長く伸びた影をしばらくじっと眺めながら、これまで幼なじみでいつも身近に感じていた暁子の方が、自分よりもいつの間にか前を歩いているように感じていた。


 そして小学校の卒業式の当日になると、暁子はブラウスの胸元にリボンを留めた、清楚なスーツとスカートを着て出席していた。


「どう? この服は今日のためにお母さんがあつらえてくれたんだからね」


 暁子の今まで見たことがないような姿を目の当たりにして、潮音は暁子が変ってきていることに戸惑いと胸騒ぎを覚えていた。



──あの卒業式のときには、暁子もおしゃれしたらけっこうかわいいじゃんと思ったよな…。でも暁子は今でも相変らず、学校の制服以外じゃいつもジーンズばかりだけど。…でも暁子だったら、オレの気持ちも少しはわかってくれるかもしれない。でも昔さんざんバカにしたこと謝らなきゃいけないかな…。


 そこで潮音が、ベッドから身を起すと、冬の陽は早くも陰り始めていた。そのとき、スマホで暁子のSNSに「塾が終ったら家に来てほしい」と送信したとき、ドアの向こうで綾乃の声がした。


「潮音、ちゃんと勉強してる?」


 潮音はあわててベッドから身を起こしたが、ドアを開けて潮音の部屋に入ってきた綾乃は、まず潮音がセーラー服のままベッドの上に佇んでいるのに目を丸くした。


「あんた、セーラー服のままベッドで寝転んだりすると、しわになっちゃうよ。いいかげん着替えたら?」


 潮音が綾乃の言葉に戸惑っていると、さらに綾乃は諭すように潮音に語りかけた。


「そりゃあんたが迷うのは当たり前かもしれないよ。でも何をするにしても、いいかげんに覚悟を決めたら?」


 しかしちょうどそのとき、室内にインターホンの音が響いた。綾乃が玄関に出ると、ドアの前に立っていたのは暁子だった。


「あら暁子ちゃん…どうしたの?」


 綾乃に声をかけられても、塾の冬期講習から帰ってきたばかりの暁子は土間に立ちすくんだまま心配そうな表情をしていた。


「あの…潮音はちゃんと勉強してるの? 冬休みになってから全然会っていないから心配でさ」


 綾乃は暁子を前にして、今の潮音を暁子に会わせて良いものかと当惑した。潮音も玄関口から暁子の声がするのを聞いて、よりによってこのタイミングで暁子が家に来るなんてと思って慌てふためかずにはいられなかった。しかし潮音はもうこれまでだと観念すると、意を決して自室を出て玄関先の暁子のもとへと向かった。


 綾乃も潮音が、セーラー服といういでたちでいきなり姿を現したのは予想外だったようで、いきなりの展開に思わず息を飲んだ。しかし暁子は潮音の姿を目の当りにして、ただただ呆気に取られていた。


「あんた…本当に潮音なの?」

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