第八章・明日への道(その6)
潮音や愛里紗が綾乃と話しているうちに、夕食の準備ができていた。
「落ち込んだときはおしゃれな服着て、おいしいものでも食べればいいのよ。そうすれば少しは元気だって出るから。何も遠慮する必要なんかないのよ」
綾乃はそう言って愛里紗をテーブルにつかせたが、愛里紗は食事の間も寡黙なままだった。同じ食卓についていた潮音の父親の雄一も、心配そうな顔で愛里紗を眺めるしかなかった。潮音もそのような愛里紗の様子を前にすると、愛里紗に対してどのような話題で話をすればいいのか戸惑わずにはいられなかった。
それでも愛里紗は家を飛び出してからろくに食事もしていなかったらしく、食事を口に運ぶにつれて多少は空腹も満たされ心にゆとりも生じたようだった。そのような愛里紗の様子を見て、ようやく則子が口を開いた。
「榎並さんってお医者さんを目指しているのよね。でも大学の医学部って入試も難しいからよほど一生懸命勉強しないと入学できないし、授業料だって高くて大変みたいね」
そこで愛里紗は、ようやく重い口を開いた。
「私の母はシングルマザーとして私を育てて、松風のような私立校にも入れてくれながら、薬剤師として働いてきました。そうやって一生懸命働いている母を見て、自分も母のような人の健康を守る仕事がしたいと思うようになったのです」
「今からちゃんと目標を持って一生懸命勉強するなんて偉いわね。潮音も榎並さんを見習って、もうちょっとちゃんと勉強したらいいのに」
則子がため息混じりに話すのを聞いて、潮音はいやそうな顔をした。綾乃も笑みを浮べながらその潮音の表情に目を向けたが、そこで則子はあらためて愛里紗の顔を見つめ直すと、きっぱりと口を開いた。
「でも本当にお医者さんになろうと思うんだったら、目の前のテストの点ばかりを気にしてたらダメなんじゃないの。自分の都合ばかりを押し通そうとするのではなく、人の気持ちを広く受け入れられるような広い心を持たなきゃいけないんじゃないかしら」
その則子の言葉には、愛里紗もはっと息をつかされたようだった。そこで則子はさらに言葉を継いだ。
「あなたがお母さんの期待に応えなければいけないと思う気持ちももっともだわ。でもあなたの進路はあなた自身が決めるもので、親のためとかそういうものじゃないでしょ。自分は本当は何がやりたいのか、何になりたいのか、親の期待とか周りの目とかそんなことなど抜きにして、自分自身の問題としてもう一度じっくり考えてみることね」
そこで愛里紗は、ようやくためらいがちに口を開いた。
「藤坂さんって、男の子から女の子になってしまったのですよね。なのにどうして、そんなに普通にしていられるのですか」
愛里紗のこの問いかけには、則子と綾乃も一瞬驚いたような表情をした。そこで愛里紗に答えたのは綾乃だった。
「この子だって女の子になってすぐ後の頃は、学校にも行けず、誰とも顔を合わそうともしないまま部屋に閉じこもるしかなかったの。それがなんとかここまで来られたのは、この子自身が頑張ったせいもあるけど、周りの人がみんな支えてくれたからだわ。榎並さんもお医者さんになったら、単に病気やケガを治すだけじゃなくて、そうやって困っている人や悩んでいる人をたくさん支えてやれるようにならなきゃね」
しかし愛里紗は、則子や綾乃の話を聞いているうちに鼻をすすり始めた。それと同時に、愛里紗の両目から涙があふれ始めた。
潮音は学校では常に気が強そうに振舞っている愛里紗が、肩をすくめて涙を流している姿を見て、はっと息をつかされた。そこで潮音は、心配そうに愛里紗に尋ねた。
「榎並さん…泣いてるの?」
それに対して、愛里紗は消え入りそうな声で答えた。
「いや、私はご飯食べるときだっていつも母と二人きりか一人で、こんな家族一緒の食事なんか経験したことなかったから…」
そう言ってすすり泣く愛里紗に対しては、潮音もかけるべき言葉が見つからなかった。潮音はただ、愛里紗をそっと抱いて落ち着かせるしかなかった。潮音の家族たちも、唇をかみしめながらその愛里紗の姿を見守るしかなかった。
しかしそのとき、いきなり愛里紗のスマホが鳴った。電話をかけたのは愛里紗の母親の公江だった。そこで一同に緊張が走ったが、愛里紗が電話に出ると公江はすまなさそうな口調で話し始めた。
「愛里紗…私もすまなかったわ。つい感情的になって怒ったりして。今からあなたを迎えに行くから、どこにいるか教えてくれないかしら」
そこで則子は愛里紗と電話を代わると、愛里紗を最寄りの駅まで送っていくから、駅で愛里紗と会うことにしてほしいと伝えて時間も指定した。
そこから愛里沙は身支度を整えると、綾乃から借りていた服をきちんと畳んで返した。そのときの愛里紗の顔は、少し恥ずかしそうだった。
「…すいませんでした。こんな服まで貸してくれて」
それから少し家族で話をした結果、潮音と則子、綾乃の三人で愛里紗を駅まで送っていくことになった。愛里紗が雄一に見送られて潮音の家を後にしようとしたとき、則子が愛里紗に一着のコートを手渡した。
「そんな恰好じゃ外は寒いでしょう。これを着て行きなさい。後でちゃんと返してくれたらいいから」
実際、普段着のままで家を飛び出してきた愛里紗の装いでは、冬の夜は寒そうだった。愛里紗はすまなさそうな顔をして、則子からコートを受け取った。
潮音たちが家を出るとすでに立春は過ぎていたとはいえ、夜の寒さはまだ厳しく、街灯の光が冷気の中でひときわ明るくまたたいていた。その冷え込む暗い通りを歩きながら、則子は愛里紗に声をかけた。
「榎並さんはこれからも悩むことや勉強に疲れることがあったら、いつでも家にいらっしゃい」
そこで綾乃も愛里紗に言った。
「その通りよ。潮音がいつでも相手をしてくれると思うから」
その則子の厚意に対して、愛里紗はすまなさそうにぼそりと礼を言った。潮音はそのような愛里紗の横顔を眺めながら、自分は愛里紗のために何をすればいいのだろうと考えているうちに、先ほど紫の父親の亮太郎から言われた言葉を思い出していた。
――だったら藤坂さんも弁護士を目指してみたら?
しかし潮音は、仮に自分が弁護士になれたとして、今の愛里紗のような家庭などで問題を抱えた人を助けることができるだろうかと感じていた。
潮音たちが駅に着くと、夜の闇の中に駅の照明が煌々とともっていた。しばらくして電車が駅に着くと、ホームからの階段を下りてきた人ごみの中にいた一人の女性が、改札口のそばで待っていた愛里紗の姿を見るなり表情を変えた。女性は愛里紗の元に駆け寄るなり、「愛里紗」と声をあげた。愛里紗も母親の公江の姿を見るなり、公江の胸に飛び込んでそのまま泣きじゃくっていた。
「お母さん…お母さん…ごめんなさい」
潮音があらためて公江の顔を見ると、公江は愛里紗のことをずっと心配していたらしく、やつれた表情をしていた。しかしそれだけではなく、公江は則子や紫の母親の幸枝と同じくらいの年齢にもかかわらず、顔にはしわが目立って目つきも険しく、髪には白いものが混じっていた。公江がこれまで辛酸をなめてきたことは、潮音の目にも明らかだった。潮音はこれまで、愛里紗が母親のことばかりにとらわれているのをどうかと思うこともあったが、その公江の姿を見ると愛里紗がそのように思うこと自体は否定できないと感じていた。
それでも公江は愛里紗をそっと抱きとめながら、泣きじゃくる愛里紗をなだめようとしていた。
「もういいの。私も愛里紗をいきなり怒ったりして悪かったわ」
その愛里紗と公江の姿には、そばにいた潮音と則子、綾乃までもが立ちすくんだまま思わず瞳を潤ませていた。
そして公江は、潮音と則子の方を向き直しながら、すまなさそうに頭を下げた。
「今回はふつつかな娘が迷惑をかけて、本当に申し訳ありません」
そこで則子は手を振りながら公江の言葉を打消した。
「迷惑なんてとんでもない。娘さんといっぺん親子で腹を割ってよく話し合ってみることですね」
そこで公江は潮音にも顔を向けた。
「あなたが藤坂さんね。娘から話は聞いているわ。…やはりいろいろあって大変だったみたいね」
潮音は愛里紗が公江にも自分のことを話していたのかと思ったが、公江に見つめられると思わず背を正して「はい」と返事をしていた。
「…今日は愛里紗の相手をしてくれて本当にありがとう。これからもよろしくね」
そして愛里紗は、公江と一緒に改札を通って潮音と別れる間際に、潮音の顔をしっかり見つめながら言った。
「藤坂さん…今日は本当にありがとう」
「榎並さんとも今日みたいな形じゃなくて、もっといろいろ一緒に遊んだりおしゃべりできたりすればいいのにね。ともかくさっきうちの母さんも言ってたけど、いつでも遊びに来るといいよ。いつか本当にお泊り会しようか」
「そのときはちゃんと勉強の用意してきて、藤坂さんにも教えてあげるからね」
そこで潮音はいやそうな顔をした。
「お手柔らかに頼むよ」
潮音がホームへの階段を登る愛里紗母子の姿を見送って、暗い夜道を帰途につくと、隣にいた綾乃が声をかけた。
「潮音は榎並さんが家に泊まってくれなくて残念だと思ってるんじゃないの」
それに対して潮音はぼそりと答えた。
「そりゃそういう気持ちだってちょっとはあるけど…あれでよかったんだよ」
そこで潮音は夜空にきらめく星を見上げた。潮音は今日紫と一緒にレストランで食べた豪華な食事と、先ほど家で夕食を取ったときの愛里紗の表情とを交互に思い浮べると、紫と愛里紗の関係はこれからも一筋縄ではいかなさそうだと思って、ふとため息をついた。
それだけでなく、潮音は先ほど愛里紗が涙を流していた姿が脳裏から離れなかった。そこで潮音は、綾乃に話しかけた。
「姉ちゃん…私は自分が女になってからも、涙は人に見せないようにしようって思ってたんだ。でもこれって、榎並さんも一緒だったのかな。そして今日になって、それが抑えきれなくなったのだろうか」
そこで綾乃は、潮音をなだめるように言った。
「たしかにそうだからこそ、あの子は少し自分に似たものをあんたに対して感じていたのかもね。でもあんただってそうやって変に意地ばかり張らなくてもいいのよ。つらいときや泣きたいときは思いっきり泣けばいいじゃん。あんたもこれまでいろいろ大変な思いもしてきたからこそ、あの子の気持ちだってわかるんじゃないかな」
潮音は綾乃の話に納得できるところはあったものの、だからこそ自分は人の涙も受け入れてやれるように、もっと優しくならなければと思っていた。潮音は今悩んでいる進路についても、そこにヒントがあるのではないかという気がしていたが、その先に何があるのか、自分はどこを目指すべきなどまだわからないまま、暗い夜空にまたたく星を見上げていた。




