第八章・明日への道(その3)
食事もだいぶ進んだところで、潮音はそっと口を開いた。
「すいません、今日は私をこんなおいしいレストランに招待してくれて」
遠慮気味の表情を浮べる潮音に、幸枝は微笑を浮べながら答えた。
「そんなに気にしなくてもいいのよ。紫がよくあなたについて話しているから、あなたとは前から一度ちゃんと話がしたいと思っていたの」
そこで潮音は、幸枝の顔をまじまじと見返した。
「紫は私のこと…どんな風に話してたんですか」
その潮音の問いかけに対して、幸枝は一呼吸おくと落ち着いた口調で話を始めた。
「あなたはバレエの演技だって粗削りだし、学校で何かやっても失敗することだって多いって紫は言ってるわね。それでも何をやるにしてもいつも一生懸命で、それに何よりも自分の気持ちをごまかしたり、うわべだけを取り繕っていい顔をしたりせずに、素直に自分の気持ちを人に伝えてくれる、それだけで自分も元気をもらえるような気がするって言ってるわ」
潮音は紫がここまで自分のことを評価していたのかと知ると、穴があったら入りたいような気分になった。しかし潮音はここで同時に、紫は学校の中でみんなと分け隔てなく、親しく接しているように見えた紫に、素のままの自分をさらけ出すことができる、本当の友達と呼べるような人はいたのだろうかと感じていた。
そこで潮音は、隣の席に腰を下ろしている紫の顔にちらりと目を向けた。そのときの紫は、押し黙ったままどこか気づまりな表情をしていた。そこでさらに幸枝は話を続けた。
「でも紫は言っているの。たしかにあなたは何事に対しても一生懸命だけど、その一方でどこか無理してるところもあるんじゃないかって…。それってやっぱり、藤坂さんは男の子から女の子になったからなの?」
その幸枝の言葉を聞いて、潮音はとっさに顔色を変えた。潮音が幸枝の傍らにいる亮太郎の方に目を向けると、亮太郎もとりすました表情で潮音と幸枝の会話を聞いていた。潮音はここまで来た以上はもはややけくそだと思って、幸枝の顔をあらためて向き直すと、きっぱりと口を開いた。
「私のこと…そこまで紫から聞いていたのですか」
そこで幸枝に代って、亮太郎が潮音に答えた。
「紫からその話を聞いたときはさすがに驚いたよ。私なんかもし君ぐらいの歳で自分がいきなり女の子になっちゃったりしたら、どうなるだろうかって思うからね」
しかしそこで、潮音はつとめて優しくふるまおうとする亮太郎や幸枝の態度を振り切ろうとするかのように、きっぱりと口を開いた。
「私はそんな同情なんかしてほしくないんです。私は今でこそ、こうして女子の姿で日ごろ生活して、学校にだって女子校に行ってるけど、それを受け入れられるようになるまでにはやはりだいぶ悩まなければいけなかったから…。それに私は普通に学校に行って勉強して、友達と一緒に遊んだりいろいろな活動をしたりして、普通に過ごしたいだけなんです。それには男だって女だって関係なんかないってわかったから。だから…単なる興味本位で私に近づくのはやめてほしいんです」
潮音が亮太郎や幸枝を前にしても、一歩も後に退こうとせずに強い口調で話すのを、紫はただ固唾を飲みながら聞いていた。潮音の口調の真剣さを前にしては、紫は口をはさむことすら憚られた。
亮太郎も潮音の強い態度には思わずたじたじとして、しばらくの間答えに窮していたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「でも君って、中学三年の秋までは男だったというのに、どうして今はこうして女として過ごしているんだい? 今じゃ体の性とは別の性で生きている人だっているのに」
潮音は内心で、この質問をされるのはいったい何回目だよとため息をつきたい気分になったが、そこであらためて亮太郎の顔を向き直してきっぱりと言った。
「たしかに自分が女になってからしばらくの間は、スカートなんか絶対はくものかと思っていました。でもはじめて女の服着たとき、そうやって気分をがんじがらめに縛っていたものから解放されて、自由になれたような気がしたのです。女の服着たって自分は自分だって思えるようになったら、こうして女の服着るのだっていやじゃなくなりました。今じゃむしろ、男だったときにはできなかったおしゃれができるようになって楽しいとさえ思っています」
潮音の話をずっと黙ったまま聞いていた亮太郎も、やがて納得したように口を開いた。
「…なるほど。今の君の言葉で、どうして紫が君と仲良くなれたかわかったよ。紫は自分を偽らずに、ストレートに自分の気持ちを伝えてくれる、そして自分を変な色眼鏡をつけて見たりせずに、対等の相手として見てくれる友達が欲しかったんだね」
そこで幸枝も潮音に話しかけていた。
「紫は私たち両親の前では、たしかに今まで勉強もバレエも真面目にやるいい子で通っていたわ。…でも本当にこの子がこれで満足しているのか、この子の本心は何なのか…このことをずっと心配していたの。紫はあなただったら、安心して自分の思っていることをさらけ出すことができると思ったんじゃないかしら。そしてそれも、あなたがきっと自分が男の子から女の子に変わりながらも、それにくじけたりせずにここまでやってくることができたからなのでしょうね」
このように話す幸枝の表情は感慨深げだったが、その言葉には潮音と紫の両方が気まずそうな顔をしながら黙りこくっていた。
その一方で潮音は亮太郎も幸枝も、紫の心の中を理解していたことに気づかされて、むしろ内心でほっとしていた。潮音は紫が、むしろバレエにも秀でた優等生という周囲の視線を重荷に感じていたのだろうかと気にならずにはいられなかった。
「私も最近になって気付いたのです。私なんかから見て、勉強だってバレエだってずっとよくできるし、学校のみんなからも信頼されている紫が、むしろ優等生でバレエもできるからこそ、いろいろ悩んでいたんだって」
その潮音の言葉を聞いて、幸枝は息をつきながら言った。
「当り前でしょ。世の中に悩みのない人なんていないわよ。私だってこの子がちっちゃな頃から、バレエがうまく踊れなくて泣いているところなど何度も見てきたわ。実は紫は、小学六年生で松風を受験するとき、受験勉強をしなきゃいけないからバレエをやめるか悩んだことがあったの。それでもこの子はバレエはやめたくないと言い張って、レッスンに行く日を減らしながらも学習塾に行きながらバレエを続けて、松風にも受かったわ」
その話を聞いて、潮音はやっぱり紫の根性にはかなわないと内心で驚かざるを得なかった。
「紫だっていろいろ問題にさしかかりながらも、そのたびに頑張ってきたのですね。…だから私は、自分が男から女になって悩んだことや苦しい思いをしたことだってあるけど、それを言い訳にはしたくないんです。悩んでいるのなんてみんな一緒だから…」
そこで潮音は、ワンピースの中でストッキングに覆われた両足を固く閉ざしてしまった。そのような潮音の様子を見て、幸枝は潮音を慰めるように言った。
「藤坂さんも無理しなくていいのよ。これからは困ったときは紫に話を聞いてもらうことくらいはできると思うから」
「え、そんな…。私の方こそ、学校に入ってからはずっと紫に助けてもらってばっかりですから。これからは自分の方こそ紫を助けなきゃいけないときだってあるかもしれないのに。バレエだって、これから大学に進むのだって、紫は私なんかより、もっと高い目標を目指しているわけだから…。」
そこで潮音は、あらためて昇のことを思い出していた。もともと弁護士を目指している昇にとっては、東大に入学することすら通過点にすぎないということは潮音も理解していたが、紫も同じなのだろうかと潮音は考えていた。潮音は紫は四月から特進コースに進んで難関の大学に進学するだけではなく、さらにもっと高い目標を目指していることをはっきり感じていた。潮音はその紫の目標が何であれ、紫が心の中に抱えていた孤独の正体はそれかもしれないと思っていた。
そこで潮音は、紫の方を向き直しながら言った。
「私は紫は、あれだけバレエが上手なんだからプロのバレリーナを目指せばいいのにって本気で思っていました」
作り笑いを浮べる潮音を、紫はどこかいやそうな目で見ていた。
「だから冗談はよしてよ。あの世界でやっていくのは、どれだけ大変かわかってるの。それに私なんかより何十倍も練習していて、バレエがずっと得意な子なんて日本中にいくらでもいるよ」
「でもそうだとしても、紫がバレエを通して学んだことは無駄にはならないはずだよ。紫はこうやって一生懸命バレエをやってきたからこそ、勉強でもなんでもやり抜く根性や、前に進もうとする自信が身についたんじゃないかな。紫だったらこの四月から特進コースに進んで、難しい大学だって行けそうじゃん。そしたら進路なんかいくらでもあるよ。…私だって紫に少しでも近づこうと思って頑張ってきたけどまだまだだよ」
「だったら潮音は何がしたいのよ」
「それが今でもわかんないんだ。私の頭の出来じゃ、紫みたいに特進コースなんかとても行けそうにないし…。実際自分だってこれまでは、自分の行ける範囲の大学に行って、それでちゃんとした会社に就職できればいいくらいに思っていた。でも最近になって、それじゃダメなような気がしてきたんだ。紫がせっかく頑張ってるんだから、自分だってもっと高い目標を目指したいって思うようになったけど、その目標が具体的に見えてこないから悩んでいるんだ」
そこで紫は穏やかな口調で、潮音をなだめるように言った。
「潮音が悩む気持ちだってわかるけど、焦る必要なんかないよ。いっそ潮音は自分が悩んだ経験があるからこそ、それを活かして悩んでいる人の手助けをするような仕事をしてもいいんじゃないかな」
その紫の言葉には、潮音もはっと息をつかされるような思いがした。そこで潮音は、昇のことを思い出していた。
「私の知っている人に、弁護士を目指している人がいるんです。いじめや子どもの貧困の問題に取り組んでいる弁護士の話を聞いて、自分も弁護士の仕事に興味を持ったって…」
その話を黙って聞いていた亮太郎は、潮音を向き直して口を開いた。
「だったら藤坂さんも弁護士を目指してみたら? 藤坂さんだったら弁護士になってもちゃんとやれると思うよ」
その亮太郎の言葉に、潮音は驚きの色を浮べた。
「え…でも、弁護士になるための司法試験はすごく難しいって聞いてるけど…その彼だって東大目指してるけど、東大を出たって司法試験に受からない人だっているっていうし」
「やってみないうちから諦めてたらダメだよ。何にしてもやってみようという意欲を持たなきゃ。そのことは君も今までの経験からわかってるんじゃないかな」
そこで潮音は、水泳にしてもバレエにしても、今まで自分のやってきたことはそれと一緒だったのではないかと気づかされると、心の中に確かな感情が湧き上がってくるのを感じていた。潮音はしっかりとした口調で、亮太郎に返事をしていた。
「…わかりました。私が本当に弁護士になれるかはわからないけど、今日いろいろと話をしていて、少し前に進む勇気が持てるようになった気がします。今日はどうもありがとうございました」
そうやって話しているうちに、その場に居合わせた皆は食事をあらかた終えていた。紫の家族と潮音は、デザートを味わった後で席を立ってレストランを後にすることにした。




