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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第四部
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第三章・くるみ割り人形(その7)

 クリスマスから一夜が明けると、街を彩っていたイルミネーションも新年を祝う飾りつけや門松に取り換えられ、街も正月の準備で慌ただしさを増していった。潮音はクリスマスから二日ほど経ったある日、そのような街の中を森末バレエ教室に向かって歩いていた。年内の練習もこれが最後だったが、潮音は発表会で「くるみ割り人形」のクララの役を見事に成し遂げた紫に会っておきたかった。


 潮音が教室に着くと、教室の生徒たちはクリスマスプレゼントや冬休みの予定の話題で持ち切りだった。紫はすでにレッスンを始めていたが、生徒たちの紫に対する眼差しは明らかに発表会の前と違っていた。教室に通っている子どもたちにとって、紫だけでなく王子の役を演じた栗沢渉は、すっかり憧れの的になったようだった。バレエ教室を主宰している森末聡子も、子どもたちに紫や渉の方ばかり見ていないで練習に集中するように言っていたが、実際に発表会に出演した子どもも含めて皆、発表会の余韻が抜けていないようだった。


 潮音は練習着に着替えて髪をシニョンにまとめると、そのような教室の雰囲気に染まることなく、バレエの練習に打ち込んだ。潮音がこのように練習に集中しているのには訳があった。潮音は発表会の舞台、特に紫が渉と共にグラン・パ・ド・ドゥを演じる場面を目の当りにして以来、心の中のざわつきを抑えることができなかったので、一心に練習に打ち込んで体を動かすことで、そのような気持ちを打消そうとしていたのだった。紫の目にも、潮音のそのような様子は伝わってきたようだった。


 レッスンが一段落すると、紫がさっそく潮音に声をかけた。


「潮音、今日はどうしたの。いつになく真面目に練習してたけど」


 そこで潮音は、まじまじと紫の顔を見つめ直して口を開いた。


「私…発表会の『くるみ割り人形』を見て、自分もやっぱり舞台に立ちたいって思うようになったんだ。紫がああやって舞台の上で華やかに踊っているところを、黙って見ているだけじゃいやなんだ」


 潮音がはっきりと自分の心中を打ち明けたのを聞いて、紫も深くうなづいた。


「それだったら潮音も遠慮しないで、『くるみ割り人形』に何かの役で出演すりゃ良かったのに」


「ネズミの役くらいだったら出られたかもしれないな…でもそうしようと思ったら、紫や森末先生の地獄の特訓が待ってるからな」


「わかってるじゃない。バレエは夢や憧れだけでやれるような甘いものじゃないけど、私自身あの舞台でクララを演じたときにしっかりと感じたの。やはりバレエって素晴らしい、もっと舞台に立ちたいってね」


「それなんだけどね。私もあのとき思ったよ。もし自分がバレエをやめたりせずにずっと続けていたら、そしてもし自分が女にならずに男のままだったら、舞台の上で紫と一緒にグラン・パ・ド・ドゥを演じていたのは栗沢先輩じゃなくて私だったんじゃないかって」


 その潮音の話を聞いて、紫は吹き出しそうになった。


「潮音がそうなろうと思ったら、今の何十倍練習しなきゃいけないと思ってるの」


 その紫のそぶりには、潮音もいやそうな顔をした。


「ちょっと言ってみただけだよ。それくらいはわかってる。でも私だってこれから大学受験も迫ってきて勉強だって大変になるし、いつまでバレエを続けられるかはわからない。でもそれまでには一度でいいから紫と一緒に舞台に立ちたいんだ。…紫が主役だったらそのわき役でもいいから」


「ほんとにそうなろうと思うんだったら、もっと練習しなきゃね。みっちりしごかれるから覚悟しときな」


「…お手柔らかに頼むよ。でも私って、バレエだけじゃなくて勉強でも学校の活動でも、みんな紫の後を追いかけてばかりだな。何をやっても紫にはかなわないよ」


「でもそれでも、潮音は何に対してもよく頑張ってるじゃん。文化祭の劇でジュリエットの役をちゃんとやったときは、潮音ってなかなか根性あるじゃんって思ったよ」


 そこで紫は、急にシリアスな表情になって潮音の顔を向き直しながら言った。


「でも潮音、あなたが今こうやってバレエをまた始めて頑張っているのは、やっぱりあなたが男の子から女の子になっちゃったからなの?」


 その問いかけに、潮音はぎくりとさせられた。潮音は少し黙ったあとで、ためらい気味に答えた。


「…そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。…自分が男から女になったとき、ぽっかりと心の中に穴が開いたような気がしてたんだ。自分はもしかして、紫に高校で再会したとき、バレエという目標を見つけることでその心の穴を埋めようとしていたのかもしれない。…そして少しでも紫に近づきたいと思ったからこそ、今こうしてバレエをやっているかもしれないな」


 その潮音の言葉には、紫もどのように答えればいいのか少し戸惑っていた。


「何にしても、目標を見つけてそれに向かって頑張るのはいいことだわ。バレエに打ち込むことができるのも来年一年間くらいであとは受験で忙しくなるから、せめて悔いのないようにしっかりやるのね」


 そこで潮音と紫はおしゃべりを切り上げて帰り支度を始め、バレエ教室を後にした。紫は教室の前で潮音と別れるとき、「よいお年を」と言うことを忘れなかった。



 潮音はバレエ教室から帰宅する途中も、紫のことが脳裏から離れなかった。


――オレがもし男のままだったとしても、紫に惚れていたかもしれない。たしかに紫はどこに出しても恥ずかしくない美少女だし、勉強だってバレエだって何をやってもおれはかなわない。でも今オレは、男とか女とかそんなこと関係なしに、紫に憧れて紫のそばにいたい、少しでも紫に近づきたいと思っている。…これってやはり、オレは紫に恋愛感情を抱いているってことなのだろうか…。


 そう考えれば考えるほど、潮音は自分が紫に対してどのような感情を抱いているのかわからなくなっていった。潮音がそのような迷いを心の内に抱えたまま自宅の近くの公園のそばを通りかかると、そこでいきなり声をかけられた。その声のする方を振り向くと、そこには尾上玲花が笑顔で手を振っていた。潮音はここでまたややこしい相手に出会ったと思ってどきりとした。


「潮音、どこ行っとったん?」


「尾上さんこそどうしたんだよ」


「学校行っとったんよ。冬休みも水泳部のマネージャーはいろいろ仕事があるからね」


「私はバレエの教室に行ってたんだ。峰山さんと一緒にバレエをやっているからね」


「峰山さんってめっちゃバレエうまいらしいやん。潮音も冬休みなのによう頑張っとるね」


 しかしそこで、玲花は潮音がどこか不安げな表情をしていることを見逃さなかった。


「どないしたん? ほんならこの公園でちょっと話せえへん」


 そう言って玲花は、潮音と並んで公園のベンチに腰を下ろした。そこで潮音は、ためらい気味に玲花に話し出した。


「峰山さんのバレエの腕はたしかにすごいよ…。でもその才能を見れば見るほど、オレは何やってるんだろうって思うんだ。たしかにオレは中学のときには水泳やってたけど、椎名にはかなわないと思っていた。…それとも違うんだ」


 その潮音の言葉を聞いて、玲花はふと息をつきながら言った。


「あんたは変に無理しすぎやで。自分と人のこと比べてばっかりいてもしゃあないし、もっと肩の力抜いて素直に自分のやりたいことやればええのに」


「その『やりたいこと』っていうのが何かわかんないから、オレは悩んでるんだよ」


「あんたって中学の頃は、そんなにウジウジしとらへんかったけどな。たしかに椎名君やそのほかのクラスの男子と一緒にふざけてばかりおったけど、水泳部だってちゃんとやっとったやん。…そうなったのは、あんたがやっぱり女の子になってしもたからなん?」


「…オレはいきなり男から女になって、すぐの頃はたしかに自分の殻の中に閉じこもっていた。でもいつまでもそうしてるわけにはいかない、自分の手で何かをつかみたいと思っていろんなことを頑張ってきたんだ。…そう思ったらスカートはいて女の服着ることなんて何でもないよ」


「やっぱりあんたってこの一年でだいぶ成長したみたいやな。あたしやったらあんたと同じ立場になったら、とてもそないな風にはできへんで」


 玲花は一年前の潮音のことを知っているだけに、今の潮音の姿を見て感慨深そうにしていた。


「でもオレが悩んでるのはそれだけじゃないんだ。オレは峰山さんのこと好きになってるんじゃないか、女になったのにそれはどうなのかなって…」


 そこで玲花は思わず声をあげていた。


「ほんまじれったいな、あんたって。人を好きになるのって、恋とか愛とかそんなことばっかりとちゃうやろ。人が人を好きになるのに理由なんかあらへんやん。あたしかて峰山さんはかわいくて素敵な子やと思うよ。もっと自分の気持ちに素直になりなよ」


 そこで潮音は、あらためて玲花の顔を向き直してきっぱりと言った。


「『自分の気持ちに素直になれ』か。…だったら今だから言うよ。オレ…学ラン着て中学行ってた頃は、ずっと尾上さんのこと好きだった。尾上さんは水泳部のホープだった椎名とつき合っていて、オレのことなんか目でもないなんてことはわかっていた。でもそれでも、この気持ちを尾上さんに伝えずにはいられなかったんだ」


 潮音に気持ちを打ち明けられて、玲花は当惑の色を浮べていた。


「で、今峰山さんという新しい恋人ができて迷っとるわけやね。あんたも今こうやって素直に告白してくれた、その勇気は認めるわ」


 しかしそこで、玲花は目を伏せて声のトーンを変えた。


「…でもすまへんな。…あたしはやっぱり椎名君のことが好きなんや。高校入って本格的に水泳や筋トレに打ち込んどる椎名君のこと見て、ますます椎名君のこと好きになったけど、その一方で椎名君のこと支えたらなと思うようになったんや」


 その玲花の告白を聞いたときの潮音の顔は、どこかさっぱりとしていた。


「そんなことくらい言われる前からわかってたよ。むしろこうやって尾上さんに自分の気持ちを打ち明けることで、吹っ切れることができたような気がするんだ」


「でもこれからも潮音とあたしとは、恋愛感情とか抜きにしてこれからも仲ようつきおうたらええやん」


「そうだよね。これからもよろしくな。特に椎名のことをしっかり支えてくれるように頼んだよ」


「その椎名君のことなんやけど、お正月は実家に帰省してもええことになっとるからな。椎名君と一緒に初もうでに行こうと今から言うとるのやけど」


「久しぶりに椎名に会ったらどうしよう。あいつは今の自分を見たらどんな顔するだろうか…」


「だからそんなこと気にしたらあかんよ。潮音が胸張って堂々としとったら、椎名君かて潮音のこと認めてくれるはずやと思うよ。それ言うたら椎名君かて、高校入ってからだいぶたくましゅうなったから」


「うん…そうだよな」


 そう言って潮音は公園のベンチから立ち上がると、青く澄み渡った冬の空を見上げた。その顔を冬の柔らかい西日が、明るく照らしていた。


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