第三章・くるみ割り人形(その5)
潮音と昇は一緒に公民館を後にすると、クリスマスの装飾があちこちに施された神戸の街を歩き出していた。クリスマスイブということもあってか、通りにはクリスマスのプレゼントやケーキ、チキン等を買いに来た人たちに混じって、仲が良さそうに連れ立って歩く若い男女のカップルもちらほら目についた。潮音はそのカップルたちと自分の隣を歩いている昇の姿を交互に見比べながら、自分も周囲からは昇と恋人同士のように見られているのだろうかと思うと、いささか気づまりなものを感じずにはいられなかった。
そこで潮音は、内心で浩三と玲花のことを思い出していた。水泳でタイムをわずかでも縮めるために練習に明け暮れている浩三も、せめてクリスマスくらいは玲花と一緒に過ごせたらいいのにと潮音は考えていた。
やがて二人が海べりにあるハーバーランドに向かい、その一角にある喫茶店に入ると、店内はクリスマスということもあってデコレーションがなされ、多くの客でにぎわっていた。さっそく二人が席についてメニューを広げると、潮音はケーキの写真に目を奪われた。二人で紅茶とケーキのセットを注文すると、昇はさっそく口を開いた。
「今日はわざわざ誘ってくれてありがとう。おかげで楽しいクリスマスイブになったよ。でも主役のクララの役をやってた子は藤坂さんと同じ学校通ってて、バレエの練習も一緒にやってるんでしょ? あの子が特に上手だったけど」
昇が紫のことを話題にすると、潮音はどことなく気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。
「ああ、あの子は幼稚園のころからずっとバレエをやっていて、バレエの腕はうちの教室では一番だからね。コンクールで賞を取ったこともあるみたいだし」
やがて紅茶とケーキが運ばれてくると、潮音はまず香り高い紅茶を口にして、少し気持ちをおさえようとした。甘さの中にも上品な味わいのあるケーキを口にすると、潮音も緊張が解けて少し満足そうな顔つきになった。
「このケーキ、なかなかおいしいじゃん。でも私も、こうやって男の子と一緒に喫茶店でケーキを食べているなんて、こんなクリスマスは初めてだよ」
潮音が笑顔を見せながら屈託のない態度を取っているのには、むしろ昇の方が当惑の色を見せていた。
「でも藤坂さんって、一年前まで自分は男の子だったって言ってたじゃん。夏休みのときに藤坂さんからその話を聞かされたときは、さすがに驚いたよ。でもそれが今じゃ、こうやって僕と一緒に街歩いたりしても大丈夫なわけ」
昇がどこか不安で戸惑ったような表情をしているのを見て、潮音はふと息をついてきっぱりと言い放った。
「それなんだけど…そのことについてはあまりクヨクヨ悩んだってしょうがないよ。自分が今できることや、しなきゃいけないことをちゃんとやる、それしかないんだ。だから私は高校に入ってバレエだってまたやり始めたし、今日だってこうやって湯川君と一緒にいるんだ」
潮音のそのような強気の態度を前にしても、昇は不安げな面持ちをなかなか崩そうとはしなかった。
「藤坂さんって強いんだね」
「そんな風に同情なんかしてくれなくたっていいよ。私はただ、男とか女とか関係なく、一人の高校生として他のみんなと同じように学校行って、勉強したり遊んだりして普通に過ごしたいだけなのに」
そこで潮音は、あらためて昇の顔をまじまじと見つめ直して問いを発した。
「でも湯川君、私がどうして湯川君には本当のことを打ち明けたんだと思う?」
昇が答えに窮しているのを見て、潮音は少し笑顔を浮べながら言った。
「それはね、湯川君だったら私が全てを打ち明けたとしても、私のことを変な目で見たりしないで、私のことを受け入れてくれると思ったからなんだ。…なんとなくだけどね」
潮音に言われて、昇は照れくさそうな顔をしていた。さらに潮音は言葉を継いだ。
「もし自分が男のままだったとしたら、絶対に湯川君とここまで仲良くなれることなんかなかったと思うよ。だって、尚洋に通って東大目指してるなんて、私とは住んでる世界が違いすぎるもの」
しかしここで、昇は潮音の言葉を打消すかのように言った。
「藤坂さん、さっき自分のこと特別扱いしてほしくないって言ってたよね。…でもそれは僕だって一緒だよ。僕は尚洋行ってるからといって、何も特別なことなんかないし、まだ東大に受かったわけでも弁護士になれたわけでもないのに」
その昇の言葉には、潮音もはっと息をつかされた。
「…そうだよね。悩んでるのは私だけじゃないものね。…これからも湯川君とはもっと仲良くなれたらいいのに」
「藤坂さんこそ、あまり悩んで思いつめたりしない方がいいよ。勉強のことでもなんでもいいから、困ったことや悩んでることがあったときには、相談相手くらいにはなってあげられるから」
その昇の言葉を聞いて、潮音も元気を取り戻した。そこで潮音と昇は、喫茶店を後にすることにした。
二人がレジで精算を済ませて喫茶店を出ると、冬の穏やかな陽は早くも西に傾きつつあり、影も長く伸びていた。潮音がハーバーランドのテラスで海風に当ると、その風の冷たさにはっと息をつかされた。潮音はその風で髪が乱れないかと気になって、思わず手で髪を押さえてしまったが、昇は潮音のその仕草に一瞬どきりとしたようだった。テラスから見える冬の海は青く澄みわたり、岸壁に打ち寄せる波も少し荒めだった。
そして潮音は、ハーバーランドの一角にある観覧車に昇を誘った。昇は少し戸惑うようなそぶりを見せたものの、遠慮気味に潮音と一緒に待機の列に並んだ。
やがて潮音と昇が連れだってゴンドラに乗り込むと、二人を乗せたゴンドラはゆっくりと上昇し始め、それと共に眼下に広がる、倉庫の建ち並ぶ港やポートアイランドとの間に架かる赤い神戸大橋の風景もみるみるうちに小さくなっていった。潮音と昇は、ぽつりぽつりと明かりがともり始めた、黄昏に沈む神戸の街のパノラマをじっと眺めていた。寒さで空気が澄みわたっているために、街路樹や公園の木々も葉を落として冬の装いになった街の景色が、よりはっきり見渡せるように感じられた。そして神戸の街の彼方にそびえる六甲山の山並みも、冬の光を浴びて静かにたたずんでいた。
昇は潮音がこの風景に見入っている姿を目の当りにして、どこか落ち着かなさそうにしていた。潮音も昇のそのようなそぶりに気がつくと、少し気づまりな表情をした。
「どうしたの? 湯川君って今までこうやって女の子とつき合ったことなかったから、やっぱり緊張してるわけ?」
しかしそこで昇は、手を横に振りながら言った。
「いや、藤坂さんがこうやってるところとか見てると、藤坂さんがつい一年前まで男だったなんて信じられないから…」
そこで潮音は、戸惑いの色を隠せない昇の表情を前にしてきっぱりと言い放った。
「きれいなものを見てきれいだと思う。面白いものを見たら楽しい気分になるし、素晴らしいものには感動する。それには男も女もないだろ?」
昇はその潮音の言葉に、納得したようなしないような、戸惑い気味の表情をしていた。そこで潮音はさらに言葉を継いだ。
「私は小学生のときにも、その頃はまだ男の子だったけどバレエをやってたんだ。でも今日、いざ『くるみ割り人形』の舞台を見ていると、自分ももっとバレエをやってみたい、そしてあのクララの役をやっていた峰山さんと一緒に舞台の上で踊りたいと強く思うようになったよ」
そこで昇は、ようやく口を開いた。
「僕は藤坂さんのいつも前向きなところはすごいと思うし、見習いたいと思うよ」
「私なんかそんな人から感心されたり、ほめられたりするような大したことやってるつもりなんかないけどね。私は自分の好きなことややりたいことをやってるだけだよ」
二人がこうやって話している間に、観覧車のゴンドラは一番高い地点にまで上がっていた。そこから見下ろす神戸の街も豆粒ほどに小さくなり、さらに西側には暮れかけてかすかに茜色に染まりだした空が広がっていた。その空に浮かぶ雲までもが、夕陽を浴びてほんのりと赤く染まっていた。そして明るさを失いかけた海も、波間が赤い夕陽を浴びてキラキラと輝いていた。潮音も顔の全面に夕陽を浴びながら、目を細めてその景色を眺めていた。そこで昇も、眼下に広がる街を眺めながら、口からぽつりと言葉を漏らしていた。
「今ごろこの街では、みんなクリスマスのお祝いの準備をしている家もけっこうあるだろうな。でも世の中には、いやこの神戸の街にだって、そうやってクリスマスをお祝いすることもできないような子や家族だっていっぱいいるから…。僕はそういう人たちのそばにいられるようになりたいと思って、弁護士になりたいと思うようになったんだ」
「湯川君ってまじめで優しいんだね。…私だってどうすれば、そうやって人に対して優しくなれるんだろう」
戸惑いの色を浮べる潮音に、昇はそっと話しかけた。
「…藤坂さんは十分優しいと思うよ。そうじゃなかったら、こうして僕のことをバレエに誘ってくれたりしないんじゃないかな。それにあの若宮漣って子のことだって、あんなに親身になって相手にしているじゃない」
潮音はその言葉を聞いて、気恥ずかしさのあまり赤面してしまった。潮音が思わず昇から顔をそむけると、窓の外の景色が目に映った。潮音はそれを見ながら、今もこの街のどこかに漣はいるはずだが、どのような気持ちでクリスマスを過ごしているのだろうと思っていた。潮音はいつしか、心の中でいろいろなことを思い浮べていた。
――漣じゃなくて、浩三と玲花も、そして流風姉ちゃんも、クリスマスがみんなにとって心の安らぐ日になればいいのに。勉強で忙しい榎並さんもさすがに今日くらいは、お母さんと一緒にクリスマスを祝ったりするのかな。そして暁子も…今日はいったいどんなクリスマスを過ごしているのだろうか。いいかげんに暁子と仲直りしなきゃな。
潮音の心中には、いつしか暁子の気の強い表情が浮んでいた。
やがて観覧車のゴンドラが地上に下りたときには、冬の空は早くもオレンジから紫に染まりつつあり、辺りには暮色が漂い風も冷たさを増していた。昇がそろそろ自分たちも帰宅しようかと提案したので、潮音もそれに従うことにした。
潮音は昇と一緒に電車に乗り込んでしばらくすると、昇に尋ねてみた。
「ねえ、湯川君って何歳くらいまでサンタクロースを信じてたの?」
その突拍子もない質問には、昇もいささか面食らったようだった。
「え…別に何歳までだっていいじゃん」
「ただ聞いてみただけだよ。私は幼稚園から小学校のときには、隣に住んでる暁子と一緒にクリスマスのパーティーをやってたんだ。暁子の弟の栄介も一緒になってゲームをしたりケーキを食べたりして、姉ちゃんもピアノを弾いてくれたりしたけど、あのときは楽しかったなあ」
しかし潮音が思い出話に花を咲かせる一方で、潮音の顔を見ながら昇は内心で考えていた。
――藤坂さんはやはり、僕のことを『異性』として意識し始めているのだろうか。…本人もそれに十分気づいていないのかもしれないけど。いや、そうなるとますます、藤坂さんはその思いと自分が以前は男の子だったという現実との間で戸惑っているのだろうか。いずれにせよ自分にできることは、この先何があったとしても潮音のことを受け止めてやる、それしかないのかもしれない…。
昇の葛藤をよそに、電車は潮音の下車駅に着いた。潮音と昇が一緒に電車を降りると、暮れなずむ空には早くも明石海峡大橋の色とりどりの電飾がともりつつあった。
今年は七月の始めから酷暑が続いていますが、その中でこのような季節感の外れた話を書いております。




