第二章・カミングアウト(その2)
タクシーの窓の外を、見慣れた街の景色が流れていく。まだ十一月にもかかわらず、早くもクリスマスイルミネーションがまたたいている店もあり、冬が近づいている街に華やかな彩りを添えている。街路樹も葉を落す季節になり、通りにもコートやジャンパーに身を包んだ人がちらほら目立つようになっている。しかし藤坂潮音はその景色を眺めることもないまま、固く口を閉ざして目を伏せていた。いやむしろ、街を歩く人たちの目を避けるようにさえしていた。
潮音は男物のシャツとジーンズを着込み、シャツの下には俗に「ナベシャツ」と呼ばれる、女性が男装するときに胸の膨らみを隠すために使用する下着を着用していたとはいえ、ヒップの膨らみも、細くなった首筋も隠しようがなかった。胸をナベシャツで締めつけると、その圧迫感や窮屈さのために何度も息をつかなければならなかった。そして入院中に長く伸びた髪は、邪魔にならないようにポニーテールにしてゴムで結ぶしかなかった。
しかし体や声が変ってしまったとはいえ、いざ退院を目の前にすると、入院前と同様に五感や体を動かすのにほとんど支障はなく、むしろ十日ばかりもの間病室のベッドで眠り続けていたことの方が信じられないほどだった。
実際、潮音はここ一月ほどの間に起きたことが悪い夢であったならと思っていた。朝目覚めると自分の体が元に戻っていて、学生服を着て家を出て、学校に行くと授業に出たり、クラスメイトとしゃべったりふざけあったりといったいつも通りの日常が始まる…そうあってくれればと願っていた。
しかし毎朝目が覚めるたびに一番に目に映るのは、殺風景な病室の光景、そして体を起すといやおうなしに目に映るのは大きくなった二つの胸だった。こうして退院したとはいえ、今後の生活や進路をどうすればいいのかと思うと、潮音の心はますます重くなるばかりだった。
タクシーの潮音の隣の席には、母親の則子が腰を下していた。せっかく潮音が病院を退院したとはいうものの、むしろこれからの進路をいったいどのようにすればいいのかと思うと、彼女の表情も晴れなかった。則子にとっても、潮音のおどおどした落ち着かない表情を見ると、胸が痛まずにはいられなかった。
ずっと寡黙なままの潮音を見て、則子がその重苦しい雰囲気を振り払おうとするかのようにぼそりと口を開いた。
「トイレとかどうしてるの」
「うん…病院でもつい男性用の方に行っちゃいそうになるけど、なんとかできるようになったよ。でもいちいちズボンを下ろさなきゃいけないのがめんどくさくて」
その声も、入院前と比べて高くなっていた。潮音はその声にすら戸惑いを感じて、話をするときには感情を抑制するようになっていた。
「それに母さん…先生が言ってたんだ。そのうちに生理が来るかもしれないって。その話を聞いて以来、トイレに行ってズボンを下ろすのもこわいんだ」
則子はこの話を聞いて、潮音の体が本当に女になってしまったという事実にあらためて気づかされて、心の中で愕然とした気持になっていた。
「あのね、はじめてのときにはみんな精神が不安定になったり、気分がすぐれなくなったりするものなの。お母さんも綾乃も、みんなそうだったわ。でもこれはとても大切なことなの。その結果、綾乃やあなたが今ここにいるのだから」
しかし則子が潮音をなだめようとしても、それは潮音の心にかえって重い荷物を背負わせただけだった。則子も潮音が体をこわばらせふさぎこむ様子を見て、それ以上声をかけることができなかった。
タクシーが自宅の前に停まり、潮音がドアを開けて車を下りたときだった。ちょうど目の前の道を、下校途中の暁子が近づいてくるのが見えた。よりによってこんなときにまずい相手に会うなんてと、潮音はどきりとした気持ちになった。
暁子は潮音の家の前で則子と一緒に人影がタクシーから下りたところを見て、驚きで目を丸くした。そして次の瞬間には、満面に喜びの表情を浮かべて駆け寄っていた。
「潮音…退院できたんだ。よかったじゃん」
しかし暁子が目の当りにした人影は、彼女が幼いころからよく知っている「潮音」ではなかった。タクシーを降りた人物はたしかに背丈も歳も潮音と同じくらいで、顔つきも潮音にそっくりだった。しかし長く伸びた髪をポニーテールにまとめた、少年とも少女とも見分けのつかない外見をしたこの人物は、自分がよく知っている「潮音」とは明らかに違うということを、暁子の勘ははっきりと見抜いていた。
「うそ…あんたほんとに潮音なの?」
暁子は息をのんだ。則子も観念して暁子に声をかけた。
「暁子ちゃん…時間はいいかしら。ぜひあなたにも話しておきたいことがあるの」
則子は暁子を居間に通し、紅茶とケーキを出した。そして暁子に事の次第を全て話して聞かせた。
「信じられない…潮音がこんなことになるなんて」
暁子も則子の話の内容、そして目の前にいる「潮音」の姿、そして声まで変ってしまったことに大きなショックを受けていた。
「せっかく体の方は元気になったのに、ほんとにどうすればいいのかしら。これから高校入試だけど、もし行ける高校があったとしてもどうやって高校に行けばいいのか…」
暁子は則子が表情を曇らせたのにやりきれないものを感じて、潮音の方を向き直した。
「潮音…そんなに落ち込まないでよ。せっかく退院できたのに」
暁子は潮音の手を取った。暁子の手の温もりに触れたとき、潮音はふと息をついた。暁子も繊細になった潮音の手の指に触れてみると、潮音の体が変ってしまったことをあらためてまじまじと実感せざるを得なかった。
「たしかに女の子になっちゃったけど、もう体の調子が悪いわけじゃないんでしょ? なんとかなるってば」
潮音は暁子にそう言われると、肩をすくめたまま瞳を少しうるませた。そのような潮音の姿を見て、これが本当にあの元気だった潮音なのだろうかと、あらためて暁子は内心で戸惑わずにはいられなかった。
ちょうどそのとき、玄関のドアが開く音がした。綾乃が大学から帰ってきたのだった。
「ちゃんと退院できてよかったじゃん。それに暁子ちゃんも来てたんだ」
綾乃はカバンを部屋に置いて手を洗うと、居間のテーブルについた。
「要するにあんたのことをどうすればいいか、みんなで話し合ってたわけね。ところで暁子ちゃんはもう志望校決めたの?」
「えっと、県立の夕凪高校に行こうかと思ってたけど、松風女子学園もいいかなって…」
「夕凪は綾乃も行ってた学校だけど、松風ってなかなかいい学校じゃない。勉強がんばんなきゃね」
則子に声をかけられると、暁子は軽く照れ笑いを浮かべた。しかしそこで、綾乃が潮音を向き直して言った。
「で、問題はこの子をどうするかよね。でもたしかに高校受験も考えなきゃならない問題だけど、まず今は生活をなんとかしなきゃいけないわね」
「潮音…学校行けるの?」
暁子は心配そうに潮音にたずねた。しかし潮音は、今の変ってしまった姿をクラスのみんなに見られたらどうなるかと思うと、思わず身を引きそうになった。
そこで綾乃は、潮音に声をかけた。
「今は無理に学校に行こうとしなくても、落着いてじっくり気持ちを休めるといいよ。そしてその間に、自分は何がしたいのか、何をしなきゃいけないかをじっくり考えることね」
「でも…制服とかトイレとかどうすりゃいいの」
不安げな表情を浮かべたままの潮音に対して、綾乃はさらに言葉を継いだ。
「今ではLGBTと呼ばれる人たちの存在も知られるようになってきていて、学校でもそのような子どもに対する配慮も行われるようになってきているの。体が女に変わったからといって、無理して女子の制服着て学校に行かなきゃいけないなんてことはないわ。トイレだって…今すぐ対応するのは難しいかもしれないけど、学校に相談するしかないわね」
「でも…だったらこの髪の毛は…」
「あんたがこんな髪なんかうっとうしい、女に見られたくないとかいうのなら、バッサリ切っちゃってもいいと思うよ。そりゃ私から見たら、こんなきれいな髪切っちゃうのはもったいないと思うけど、決めるのはあんた自身なんだからね」
そこで潮音は、自分の髪を結わえてポニーテールにしていたゴムをほどいてみた。黒くて長い、さらさらした髪がはらりと潮音の両肩に落ちると、暁子も思わずその豊かでつややかな髪の美しさに息を飲んだ。その髪は櫛を通してみても、つかえることなくすらりと通りそうに見えた。
「潮音…こうしてみると本当に女の子みたい」
潮音自身、胸の奥の戸惑いを抑えることができなかった。自分自身、女の子に見られることは嫌なはずなのに、自らの長く伸びた髪を見ていると、その美しい髪にハサミを入れることにためらいを覚えずにはいられなかった。
そのような潮音の表情を見て、綾乃はあらためて声をかけた。
「ともかく今は、あまり思い詰めてクヨクヨしないことが大切だわ。入試まではまだほんの少しだけど時間の余裕はあるし、『なんとかなる』というくらいの気持ちでいた方がいいわよ。高校にしたって、定時制や通信制という道もあるし」
潮音の黙りこくった表情を見て、暁子も声をかけた。
「あのさ…潮音。考え込まないでよ。あんただっていろいろ大変かもしれないけど、困ったことがあったらあたしにも遠慮せずに相談してよ。少しは世話になってあげられるから」
帰りぎわに暁子が声をかけるのを聞いて、則子も安堵の表情を浮かべた。
「暁子ちゃんも心配してくれて助かるわ。この子のことをよろしく頼むわね」
暁子は潮音の家を後にした後も、変ってしまった潮音の姿がずっと脳裏から離れなかった。そして隣の自宅に戻ると、弟の栄介のカバンが部屋の中にほったらかしになっているのを見て、さっそく栄介を呼びつけた。
「栄介、いいかげんにカバンちゃんとかたづけろって何度言われたらわかるの。それからゲームばかりやってないで、ちゃんと勉強しなきゃだめでしょ。あと、お米といで炊飯器に仕掛けるのと、お風呂洗うのくらいはちゃんとやってよね。今は女性も社会に出て働く時代なんだから、『家事は嫁さんにやってもらえばいい』なんて言ってるような男は結婚できないよ」
栄介がすごすごとカバンを片付けるのを見守ると、暁子はスマホのSNSをチェックした。そこには母親から、「今日も仕事で帰りが九時過ぎになります。夕ご飯の支度よろしくね」というメッセージが送信されていた。
暁子はスマホをかたわらの机に置くと、自分の部屋に戻ってコートをハンガーにかけ、ベッドに腰を下ろしてふと息をついた。
──潮音がまさか女の子になっちゃうなんて。
暁子はあらためて、先ほど見た潮音の姿を思い出していた。自分が幼いころからよく一緒に遊んでいた、少々弱虫なところはありながらも、内心では強がりな潮音のイメージと重ね合わせても、暁子は潮音の体が変化してしまったことをどうしても受け止めることができなかった。
──ほんとにこれからどうするんだろう…。制服とかトイレとか着替えとか、それにやはり月に一度は女の子の日が来るということになるんじゃ…。そもそもあいつが女子のグループの中に混じって、本当にちゃんとやっていけるんだろうか…。
考えれば考えるほど、暁子の心の中には疑念と不安が募っていくばかりだった。さらにそのとき、暁子の脳裏に先ほどの優菜の表情が浮んだ。
──でもアッコと話したおかげで、少しほっとしたよ。
暁子は優菜のことを考えると、ますます気が重くなっていった。
──このこと、本当に優菜にも言った方がいいのだろうか。でも…。