【イッソスの戦い】を考察してみたぜッ、ヒャッハー(*'▽')
基本的に文字だけで説明しますので、ざっくりといきます(*'▽')
アレキサンダー大王と言えば色んな逸話がありますけど、今回は“イッソスの戦い”に着目して行きますよ~♪
父王フィリッポス二世が暗殺され、従えていた諸勢力の反乱が起きるという苦境からスタートする二十歳の若者アレクサンダーですが、トラキア平定 → イリュリア攻略 → 都市国家テーベの撃破を二年程で成し遂げます。恐らく、この時の電撃的な連勝が東方遠征を支える将兵の結束・信頼を生み出したのでしょうね。
ギリシャの覇権を握ったアレクサンダーが次に目指したのは折に触れて干渉してくるペルシャ帝国の撃破です。遠征開始から約一年半でゴルディオインなど小アジアの都市群を次々に征服して、4万のマケドニア兵をタルソス近郊まで進めました。
対するダレイオス三世はアマノス山脈を越えた平原に10万の兵を用意して、難路で疲弊してくるであろうマケドニア軍を待ち構えますが…… やってきません。
大規模な軍勢を動かせば噂が広がり、先行させている密偵や商人などに伝わるのでしょうね(;'∀')
アレキサンダーは時間を浪費して待てば、補給を陸路に頼るペルシャ軍が大群を維持できなくなると考える訳ですね。なお、その時点でマケドニア軍がいるのは湾岸都市周辺なので海路による補給が受けられます。
結果的にペルシャ軍自らが動く状況となり、アマノス山脈を越えてイッソスの地に誘き出されるのです。この土地は山脈と海に挟まれた湾岸地帯で、大軍による展開はできません。
つまり、戦術の基本である局所的優位性を地理的に得られる訳ですが、ダレイオス三世にも意地があったのでしょう。比較的通りやすい山脈西側では無く、厳しい北側を越えてマケドニア軍の背後を突きます。
これでアレキサンダーの軍は山脈と海に挟まれた土地に追い込まれて退路を断たれます。そうした状況でイッソスの南にあるピナロス川を挟んで紀元前333年に両軍が相まみえるのです。
ある意味でマケドニア軍は背水の陣ですが、先も述べた通りに狭い土地ですから大軍だと遊兵が出てしまいます。こうなると将兵の質が大局を決める傾向が強くなります。
アレキサンダーが選択した陣形は包囲されないように山と海の間に全軍を展開し、左翼に騎兵、中央に精強なファランクス(槍兵)、右翼に自身を含む騎兵及び精鋭歩兵を配置するといったものです。
相手のペルシャ軍は騎兵を右翼に集中させて突破力を増させ、左翼は歩兵隊を充てるといった陣形で戦いが始まります。奇しくも両者の狙いは敵左翼の突破となりますが、ピナロス川は山脈から流れてきた石が川底に多く、流れも速くて騎馬での渡河に向きません。
実はアレクサンダーが右翼に混じらせていた精鋭歩兵隊はそのためで、後衛の弓矢による支援を受けながら前衛が先行渡河して橋頭保を築き、後続の王とヘタイロイ(近衛騎兵)を先導します。
因みに初手から騎馬で渡河していったペルシャ軍は時間が掛かる上に隊列が乱れてしまいます。そんな状況もあって王自ら率いる精鋭部隊が敵左翼を蹴散らしますが…… 倒しても押し寄せてくるてペルシャ兵に中央のファランクス部隊が苦戦し、自軍左翼に至っては押し込まれている状況。
それでもマケドニア軍左翼が瓦解しなかったのは、やはり狭い土地故に一度に相手にするペルシャ兵の数が限られていたからでしょう。
何とか持ちこたえている内にアレキサンダーが近衛騎兵と共にペルシャ軍中央へ側面と背後から突撃を仕掛け、負傷しながらも敵本陣へと肉迫していきます。
鬼気迫る突撃にダレイオス三世は色々と疑問が尽きませんけど、まだ勝ち目があると思しき状況で逃走を始めます。その噂はすぐにペルシャ軍全体に伝わり、全軍を瓦解させてしまう訳です。
終わってみればマケドニア軍千名強の損害に対して、ペルシャ軍は数万の損害を出して大敗するのです。
ここから得られる教訓は
①相手に利がある状態では戦わない
②大軍に対して何かしらの持久戦を仕掛けるのは思ってるよりも有効
③局所的優位性をどのように得るかが数的不利な側の最優先事項
④何やかんやで大将が居なくなる(逃亡or戦死)すると士気はだだ下がり
(※近代国家に至る以前の職業軍人は本当に極わずかなため、大半は無理してまで戦わないと思われる)
という感じでしょうか(*'▽')
微に入り細を穿つ資料分析や、膨大な時間を投じて書かれている物語(੭ु ›ω‹)੭ु
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