岩石砂漠
これを書いたのは3月末ですが殆どそのままです。
複数コメントを頂いていますが、結構自分の解釈と違って面白いなと思いました。
例えば、純粋なニヒリズムを感じるような作品として解釈してくださっている方もいました。まあ、それもあるので違うというわけではないのですが、僕はこの作品で、人生の目的ということに囚われてはいないか? ということについても書きました。
まず、岩石砂漠というタイトルありきで書き始めました。この段階ではオチも何も決まっていません。作品に対して妙なミニマリズムを抱いていたので、おおよそ全てのオブジェクトに意味を用意しています。しかし、最初の段階、つまり砂漠を歩き始める所までを書くまでは、それぞれはただのオブジェクトとして用意されたものでしかなく、主観者と僕は完全な同一存在でした。つまり、自分がそこにいたら何を見出すだろう、と云う所からスタートしました。意味も目的も理由も結果も書くがままに任せて書きます。
最終的に僕は一つ見出したものがありましたが、もしかしたら、そのまま完全なニヒリズムに終わっていたかも知れません。ちなみに後半に、そのオブジェクトがどういう意味を持っているか、いくつかは明確に書かれています(明確に書きすぎたかなという気も少しありますが)。
僕はこれを書いている途中までは、主観者のニヒリズムをこの作品に込めていました。そして、主観者が砂漠で遂に諦観を顕にして見たものが、ラストシーンにつながっています。そこからは、実は全然違う結論をも導き出せます。それをどう受け取るかは、僕の知らないような形でもあるかもしれません。
少女終末旅行という漫画がありましたが、かの作品も虚無主義の強い作品です。僕は虚無の中でどう生きるか、人生の目的とは、という強いメッセージを最終話で感じました。この作品と、かの作品は同じ結末に向かいつつも、同時に対極に位置する結論を導き出しているように思います。
自分のことですが、高専に入った頃、僕は非常な合理主義者でした。しかし、些細な事件を経て、懐疑主義者へと転身し、それは今も確かに燻っています。僕は今、確固たる芯の部分を無くしたまま、非常に不安定に、渦中の最中を踠いています。それが根源への探求心、小説を書きたいという渇望に繋がっています。それはある点、そんな根源などないと云うような、ニヒリズムの要素も内包しています。それらのごちゃごちゃとした思考が、ねじれたまま出てきたのが、「岩石砂漠」です。
文章としての不完全さ故に曖昧になってしまった可能性はありますが、今の僕にはこれ以上の話を新たに書くことはできません。もう一度書けば全く違うものができるだけです。ですが、そんな自己の一回性も、人生の一要素なのかもしれません。