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雪と家族と最後の家

作者: 水原透子

家族が住み慣れた家を手放したのは、雪が降る前、冬のはじめごろだった。

父も母も亡くなり、家主がいない実家をひとり娘が手放した。


家族が暮らした大きな家は、娘がひとりで住むには寂しすぎた。

故郷を離れて都会で暮らす娘には、大事な恋人が傍にいて、笑顔が絶えない友人とよく語らい、生き甲斐の仕事にも精を出していた。都会には、10年掛けて築いてきた娘の宝物が娘の人生を包んでいた。


それとは別のふるさとに置いてきた娘の宝物は、不意を突いたように彼女のものになった。

そんな日は来なくていいとずっと思っていた。


あまりに大きな決断を娘はその冬ひとりで受け止めたのだ。

人の死をどのように受け止めるか、難しい問題を娘は小さなころから父に教わってきた。


父は、父の実家で両親を亡くしていた。

娘の祖父母にあたる人物を娘は幼すぎてあまり覚えていない。


父の実家も娘が育った街と似て、寒さが堪える地方だった。

娘が父の実家を訪れたのは、三回か四回くらいのものであった。多くの友人が夏休みに祖父母の家を訪れる回数に比べたら、少ないと感じるくらい父と祖父母の間には見えない壁と物理的な距離があった。


父の父親である祖父は、娘がほんの赤ちゃんの時に天へと旅立ち、その姿を娘は写真でしか知らない。


父の母親の祖母には、大きなケーキを誕生日に焼いてもらった。足が悪い小柄な人であったのを覚えている。爪の形がそっくりだと母と祖母が嬉しそうに話していたことをかすかに覚えている。


父の実家の裏庭には、柿の木と桃の木が植えてあった。幼い父がひとりで木に登って、そのたわわに実った柿やら桃やらをもぎ取って食べていたことを冒険譚や英雄勲章のように話していたのを娘は忘れられない。


祖母が祖父のもとに旅立った日は、3月にはめずらしく、その冬最後の雪が降った日であった。優しい祖父の笑顔の写真を枕元に、病院のベットの周りを親戚一同に見守られながら静かに目を閉じた。


祖母はたくさん動いて働いて最後まで楽しく生きていた。と父は誇らしげに娘に話した。父の涙目は、そんな多く見たことがなかったが、とてもくしゃくしゃな笑顔と赤い目で話しているところははじめて見た娘だった。


祖父母には、父はとても迷惑を掛けて家を飛び出したまま長いこと連絡をしていない時期があったようだ。娘には分からない事情だ。大きき柿と桃の木の上から、太陽に照らされて雪が解けて落ちていたことだけが祖母のお葬式で覚えていること。


その様子を父と母は大笑いして泣き出していたこと。なぜ泣くのか分からなかったが、やっぱり大人は泣きながら笑うこともあるのだなと娘は思った。


母が大きな音を立てて、夜中に娘を起こしたのは、尋常ではない様子を感じた。

娘が少し大きくなって、小学校を卒業する前だった。


2月の寒い夜。凍るような母の悲しみの声は、家中に響き渡った。朝になる前に父が息を引き取ると、母の声はもう出ないほど枯れていた。娘の涙も枯れていたが、外では吹雪が荒れ始めていた。病院を出て、父を自宅に連れていくこともできなかった。


数年後の4月、娘は大学に進学するために都会に出る。雪はすっかり解けて、少し残る肌寒さとさわやかな風が春の訪れを予感させていた。娘は、ふるさとに母をひとり置いて旅立った。そのことがとても娘の心残りになっていた。

母の喜ぶ嬉し涙は、娘の中の雪を溶かしてくれた。


大学を卒業と共に都会での就職に就いた。

娘が望んだ職場である。母は少し戸惑いながら、いつでも帰ってらっしゃいと手紙を届けた。

娘の心は雪を忘れて、木漏れ日の光を浴びていた。


就職した先で、良縁にも恵まれた。愛しい恋人、大切な友人、共に働く信頼する仲間、様々なことを教えてくれる人生の先輩、たくさんの出会いになかで、娘は次第にふるさとの寒さと雪の美しさを忘れていった。


忘れていなかったのは、たまに連絡がくる母の明るい声といつも頑張っているね、という労いの言葉の温かさ。ふるさとの母は、いつも木漏れ日のようにあたたかい。


寒い12月の夜。ふるさとの叔母から連絡が入った。

慌てて、電車を調べて飛び乗った。マフラーすら忘れて、なにも考えられなかった。


夜が深くて街頭の光も少ない駅が、ふるさとがいまも昔と変わらないことを告げているいるようで、思わずこれから父と母が待っているあたたかい我が家に帰れるのだと現実逃避をしてしまいそうな気がした。


叔母が鳴らした車のクラクションがいびつに静かな夜に響いた。

その夜、母は大きな病院のベットで静かに息を引き取った。

意識が戻らなかったので、娘は母の最期の言葉も聞けなかった。


大きな決断はそのひと月後に娘がひとりで行った。

東京での勤め先にこれ以上休みをもらうこともできなかったからだ。


ふるさとに帰ることも決断できず、家族の宝物を手放すことを決めた。


家族が宝物だった。これからもそれは変わらない。


家族が笑いあったあたたかいその場所は、娘の手からするりとなくなってしまう。

分かっていても痛みが伴って、娘は大きな息を吐いた。


「お父さん。お母さん。我が家にも柿と桃の木を植えてくたらよかったのに。木の上で少し考える時間が欲しかったよ」


娘の実家には、柿の木も桃の木もなかったが、父と母と過ごした芝生の庭に大きな白樺の木があった。登りにくいその白樺の木を娘は必死で登った。大人になった娘が木登りなんて。娘は自嘲気味になりながら、そこからの景色を目に焼き付けた。


家族の最後の宝物を、これから先の人生で忘れてしまわぬように。

熱い涙の温度とともに。冷たい雪の柔らかさとともに。








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