第二十三話 『初めての 甘酸っぱさは 恋の味』
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玄関の鍵を開けた俺はかぐやの背中を見送っていた。
「家には戻らないって? かぐやのやつなにを……達者で暮らせ?」
もう一度かぐやの言葉を思い出してみる。
「私はもう――この家には戻らん。短い間ではあったが、
今まで世話になった。康平も達者で暮らせよ」
この家には戻らん → なにか用事があって出掛ける?
世話になった → どういたしまして?
達者で暮らせ → 別れの言葉?
「――別れのって……あいつ、家出か!? 家から出ていくつもりなのか!?」
言葉を発するのと同時に走り出していた。
路地に出てかぐやが去った方を見るがその姿はない。
「家出っていっても、どこ行くつもりだよ」
自然と足が動き、かぐやが去った方へと走り出す。
家出をするということは俺といるのが嫌になったということなのだろうか?
それほど山小屋でキスしそうになった事を怒っているのだろうか?
俺はたぶん……いや、間違いなくかぐやが好きだ。キスをしようとした事だって後悔はしていない。
ただ――それがかぐやの気に障ったのなら、傷つけてしまったのなら、俺は謝らなければならない。なんて言えばいいのかなんてわからないけど、とにかく謝らなければ!
走る先にはT字路がある。右か? 左か?
答えは左だった。俺は視界にかぐやの背中を捉える。
「かぐや!」
俺の声に反応したかぐやがビクッと背中を震わせて振り返った。
「ちょっと待てって。お前、どこに行くつもりなんだよ」
立ち止まるかぐやと数秒間の視線を交わす。そして俺が一歩踏み出すと、かぐやは素早く反転して走り出した。
「なぜ走るかぁぁぁっ!?」
当然俺は追いかける。
かぐやの身体能力はかなり高いが、それでも足は俺の方が速い。かぐやとの差はグングンとまではいかないが確実に縮まってくる。
「来るな! 来るでない!」
差が縮まっていることに危機感を覚えたのか、振り返ったかぐやは大声で叫ぶ。
「そういうわけにはいかないんだよ! いいから止まれって!」
前へ向き直ったかぐやの長い髪が風に揺れる。追いかける俺は思い切り腕を振ってさらに加速した。
緩いカーブを走っていると、前から知った顔が歩いてきた。お隣に住んでいるおばさんだ。
最近は顔をあわせることが少なくなったが、この母親よりも年上のおばさんとは幼い頃からよく挨拶を交わしている。きっと夕飯の買い物をしてきたのだろう。腕にエコバッグをぶら下げ、収まりきらないネギが顔を出していた。
「ど、どうも、こんばんわ」
走りながら俺は頭を下げた。
こんな時でも挨拶してしまうのは習慣というか性格というか――。
おばさんは「ああ……こ、こんばんわ……」と困惑した顔で挨拶を返す。
その表情を見て、俺の頭に考えたくもない余計な映像が浮かんでしまった。
――路地で立ち話をする何人かの主婦の方々が俺の噂を始める。
「奥さん。ちょっと聞いてくださいな。
この間、お隣の康平くんったら夜道で
女の子を追いかけ回していたんですのよ」
「まあ怖い。おとなしそうに見えるのにねぇ」
「康平くんって彼女がいないらしいから、
きっと女日照りで飢えているのね」
「あら、そうなの? だったら私たちも気を
つけたほうがいいのかしら」
「奥さん美人だから、康平くんならわからないわよ~」
「あらやだ、それなら捕まってみようかしら。お~ほっほ……」
「お~っほっほっほ……」
「――そんなわけあるかぁぁぁッ!」
浮かんでしまったとはいえ、自分の想像に突っ込みを入れることほどむなしいものはない。なぜこんな映像が浮かんでしまったのかはわからないが、たぶんそれだけ今の俺は混乱しているということなのだろう。
それにしても、わかってはいたがやはりかぐやは足が速い。そして、思っていたよりも体力がある。
その差は少しずつ縮まっていたものの、今は少しずつ離され始めていた。油断すれば曲がり角などで見失ってしまいそうだ。
ここで俺はあることに気付く。かぐやはまだこの辺りの地理に疎い。俺から逃げ切ったとしても行くあてのない彼女は、無意識のうちに俺たちの家を始点に大きな円を描いて逃げている。
「ということは――」
俺はまだ追いかけているというのを印象付ける為、もう一度大きくかぐやの名を呼んでから追跡ルートを変えた。
視界からかぐやを離すことに不安はあるが、上手くいけばかぐやの先回りをすることが出来る。
何度か曲がり角を抜け、坂を上がり、自動販売機で温かい飲み物を二つ買い、俺はかぐやが来るはずの場所にたどり着いた。後を振り返ったときに俺の姿が見えなければ、走り疲れたかぐやは一時的にここで身を隠そうとするだろう。
そういう俺もかなり息が上がっていて、口から出る白い息が絶え間ない。だから俺は、かぐやと出会ったこの高台にある公園のベンチに座って彼女を待つことにした。
俺が不安を感じはじめた三分後、何も知らないかぐやがこの公園へとやってきてくれた。
白い息も絶え絶えで、周りの様子を確認する余裕もない彼女は路地からは見えない茂みの傍のベンチに腰掛ける。
かぐやは気付かなかったようだが、そこは俺の隣のベンチだ。
俺は安堵の息を吐きながら、かぐやの息が整うのを待つ――。
「かぐや、疲れただろ? 温かい紅茶でもどうだ?」
二分後。俺は息が落ち着いたかぐやが顔を上げたタイミングで話しかけた。
「こ、康平!? なぜお前がここにいるのだ!?」
「なぜも何も、俺の方が先に来ていたんだぞ」
「な、なんじゃと!?」
驚くかぐやが立ち上がる。
「まあ座れって。せっかく買ったレモンティーが冷えちまうぞ」
上着のポケットから缶を取り出して隣に置く。
俺は先に缶を開けて一口飲んだ。時間が経ったのと冬の寒さのせいで、それは非常にぬるくなってしまっている。
「う、うう゛~……」
なにやら唸るかぐや。
また逃げるのかレモンティーをとるのかを悩んだようだが、観念したかのように近づき、缶を取って俺の横に座った。
「少し――ぬるい……」
一口飲んだかぐやの感想は俺と同じものだった。
「なぜ、私がここに来ることがわかったのだ?」
かぐやは俺の方を見ずにそう言った。だから俺も――
「ま、なんとなくな。かぐやはまだこの辺のことはあまり知らないだろうから、隠れるとしたらこの公園かな~って」
かぐやを見ずに答えてまた缶を傾ける。
「……ふ~ん」
わかったようなわからないような、曖昧な返答をしてかぐやも缶を傾けた。
ベンチにもたれて見上げると、空はもう真っ暗だ。
しばらく俺とかぐやに会話はなく、二人並んで冬空を流れる低い雲を見送るだけだった。
「――やっぱり、あの時のことを怒っているのか?」
何分黙っていたのかわからないが、雲を見上げる俺は視線だけを動かしてそう訊いてみた。
そんなの訊くまでもない事なのはわかっている。山小屋での二度目のキス未遂以外、かぐやが家を出ようとするほど怒る理由が思いつかないのだ。
「あの時? 怒る? 私が何に怒るというのだ?」
目をパチクリさせるかぐや。その反応は想定していなかった。
「だから、あの、山小屋で、なんていうか、二度目の、その……」
口ごもる俺は、隣からクスッと笑う声を聞く。
「接吻をしかけたことを言っておるのか? それならば気にすることはない。あの時は、私もそうしたいと思ったのだから」
その答えこそ想定外だった。
「え? それを怒ったから家を出ようとしたんじゃないのか?」
「なぜ怒る? 好いた者とそうありたいと思うのは普通のことであろう」
想定外が重なり、俺は少し混乱した。
「そ、その答えだと、かぐやも俺のことが好きだということになるんだが……」
「うむ。私は康平を好いておる。離れたくないと思ってしまうほどにな――」
かぐやは微笑む。耳を疑うことも出来ないほどはっきりとした口調に、俺は返す言葉が出てこない。
「月世界から地上に落とされ、康平に出会った時から好感は持っておった。お前は信用できると思ったからの」
かぐやは冷たくなった缶を両手で持ち、懐かしむような目でそれを見つめる。
「その好感が好意に変わっておると気が付いたのはあの山小屋じゃ。あの時、目が覚めて康平を見た時、助かったことではなく康平が傍におることに安心し胸が高鳴った。顔を寄せてくる康平に、私も接吻で応えたいとも思ったのだ」
口元が綻びるかぐや。しかし、次に見せたのは哀しげな表情だった。
「じゃが――そう思ってはならん。私は、康平を好きになってはならんのだ!」
「な、なんだよそれ。言っとくけどな、山小屋の時は気の迷いがあったわけじゃないぞ。なんか順番がおかしくなったけど、俺だってかぐやのことが――」
「言うなッ! その先は言うでないッ!」
俺が想いを口にする前に、かぐやは耳を押さえて首を振った。
「いいから聞けよ!」
「聞きとうないッ!」
「聞けってば!」
「嫌じゃッ!」
こんなやり取りを何度か繰り返した俺はベンチから立ち上がり、強引に耳を押さえるかぐやの腕を取った。
「かぐや聞いてくれ!」
「はなせッ!」
立ち上がったかぐやに俺の手が振りほどかれる。
そこで言葉は途切れ、なぜか俺とかぐやはにらみ合ってしまう。
なぜこうなってしまうのだろう? 俺はただ、想いを伝えたいだけなのに……。
「――わからぬのか?」
俺をにらむかぐやからひとすじの涙が零れ落ちた。
「私は月世界の住人じゃ。今は地上に落とされておるが、あちらへ戻される日が必ず来るのだぞ?」
その涙は止まることなく流れ出る。
「私は『かぐや』である。月世界の女王となることを宿命づけられた身じゃ。康平と共にありたいとは思うが、それはあちらの世界の存続と民たち……天秤にかけられるものではないのだ――」
かぐやはグッと唇を噛む。
月世界の女王候補に付けられる名が『かぐや』。候補とはいっても、それは事実上の次期女王だ。もしかぐやがその役目を放棄してしまえば、それは月世界とそこに住んでいる大勢の人々の消滅を意味することになる。
たしかに、天秤にかけられるものではないだろう――。
「わかったであろう。私はお前を――康平を好きになってしまった。康平を想う者がいれば渡したくないと、ずっと傍にいたいと思ってしまった――。辛いのだ。苦しいのだ。康平を想えば想うほど、別れの時が来るのが怖いのだ。それならば、これ以上お前を好きになる前に離れた方が良いではないか!」
涙を流して叫ぶかぐや。
俺は奥歯を食いしばると、その腕を引いて抱きしめた。
「それでもッ――俺はかぐやと一緒にいたい」
抵抗されているわけではないが、一瞬かぐやの身体から力が抜けた。
「ば、ばか者っ! 私は月世界を見捨てることなど――」
「そうじゃないッ!」
言葉を遮った俺はかぐやの肩に触れて胸からはなす。
「俺が言いたいのは、別れの時がくるからって今離れなくてもいいじゃないかってこと」
「そ、それは一時の思い出が欲しいということか? お前は一夜かぎりの恋のような気持ちでおるのかッ!?」
「ちがうわッ! そんな言葉どこで覚えたッ! そうじゃなくて、本当に好きな人との別れっていうのは、過ごした時間に関係なく辛いと思う。え~と……なんて言えばいいのかわかんないけど、そんな理由でかぐやが家から出て行くっていうのは違うと思うぞ」
「そんな理由じゃと!? 私がどれほど考え悩んだかも知らずによくも――」
「うるさ~いッ! ごちゃごちゃ言わずに俺のそばにいろッ!」
俺の叫び声に押されたかぐやが驚きの顔で黙る。
俺は今、どんな顔をしているのだろう?
ケンカ口調の勢いそのままに怒っているのだろうか? それとも、それでも家を出て行くと言われるかもしれないと不安げな顔をしているのだろうか?
ただひとつわかるのは、涙をうかべているかぐやの顔がぼやけてきているということ。
どんな顔をしているにせよ、たぶん俺は泣いている――。
「俺は――かぐやが好きなんだ。勝手に出て行くなんて許さないからな」
かぐやの肩をグッと引き寄せた。
そこに寒い夜風が吹きぬけ、かぐやの長い髪をなびかせる。
俺はかぐやの涙に張り付いた長い髪をそっと払い、親指でその目じりを拭った。
「康平――」
かぐやは何かを言いかけてその口をつぐむ。
何を言いかけたのかはわからないが、もう何も言わせたくない。
手を頬から首まで下げた俺は、ゆっくりとかぐやへ近づいていく。
かぐやも俺を受け入れるかのように少し顔を上げた。
お互いの鼻が触れそうになったところで、どちらからともなく瞳を閉じる。
鼻腔をくすぐる甘酸っぱい香り。
唇に経験したことのない温もりとやわらかさを感じた時、俺はそれがレモンティーの香りなのだとわかった――。
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読んでくださり、ありがとうございました。




