第十話 『気にしないっ! その気持ちとは うらはらに……』
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ピピピピピピピ……とアラームが鳴る。
温かい布団のなかにいる俺には少々刺激が強い音だ。
「んぁ? なんだよ、もう少し寝かせてくれぇ~……」
一瞬開いた目にまぶしさを感じた俺は、固く目を閉じて布団へともぐりこむ。
当然ではあるが、そんなことでアラームの音が聞こえなくなるわけがない。
仕方がないので、俺は布団のなかから手を伸ばすが、目覚まし時計に触れることができなかった。
三度四度と伸ばすのだが、この手は目覚まし時計を掴むことはなかった。そうなるとイラつくもので、まるで――
「お前なんかに捕まってやんね~よ~だ。
もたもたしてないでさっさと起きやがれ!」
と、舌を出す目覚まし時計にバカにされているような気がしてしまう。
「くんぬぉぉぉ……」
強引に重いまぶたを開けた俺は、霞む視界で目覚まし時計を捕らえる。そして、いつもより荒々しくアラームのスイッチを切った。
時刻は朝の六時半。
いつもなら起床する時間なのだが、今日からしばらくは、もう少し惰眠を貪っても許される期間のはずである。
学期末のテストも終わり、残るは終業式のみ。赤点補習のない俺にとっては今日から冬休みみたいなものだ。
これといって早起きをする理由はないのだが、アラームの設定を解除し忘れていたらしい。
騒がしい音がなくなったことで安心したのか、再び目をつむった俺の身体から力が抜ける。
布団の温かさが心地良く、俺は遠くなっていく意識に極上の幸せを感じていた。
「――康平」
誰かが俺を呼んだ。
それは女性の声だが母親ではない。隣の部屋の住人であるかぐやの声だ。
いつのまに部屋へ入ってきたのか……。入るなとは言わないが、せめて声かけかドアノックくらいはしてほしい。
「これ、康平。いつまで寝ておる」
かぐやは布団ごしに俺の身体を揺らす。
あいにくだが、こんな軽い揺らし方では俺の眠気に勝つことは出来ない。むしろゆりかごのような心地よさに意識が遠のいていく。
「まったく、困ったやつじゃの……」
俺はかぐやのため息と布が擦れた音を聞いた。
あきらめて部屋を出て行くのだろうか? そうならば、その後ろ姿くらいは見送ってやろうと片目を開けたのだが――。
「お? ようやく起きたか」
かぐやは俺の目の前にいた。
ベッドに頬杖をつき、かぐやはパッチリと開いた目で俺を見ている。
お互いの顔までの距離――約30センチメートル。
これだけでも十分に近いのだが、その長いまつ毛と柔らかそうな唇が目に映ったとたん、俺の脳裏に昨夜の出来事がフラッシュバックした。
「――――っ!」
驚きの声も出ない俺はベッドから跳ね起き、背中を壁に貼り付けた。
「変わった起床の仕方じゃの」
表情が変わらないかぐやは、珍しいものを見た目で俺を見据える。
「な、なにやってんだよ、そんなところで――」
壁にグッと背中を押し付けながら立ち上がった俺は、ようやく言葉を出すことができた。
かぐやの無垢な瞳に、俺は言い知れない罪悪感のようなものを感じてしまう。このまま、壁を伝って天井へと上って行きたい気分だ。
昨夜、こたつで眠ってしまったかぐやを部屋まで抱えていったまでは良かったのだが、積んであった本に足をとられた俺は転倒。危うく――そ、その……き、キスができそうなくらいまで接近してしまっていた。
その時の無防備な寝顔を思い出し、俺はまともにかぐやの顔を見ることが出来ない。
そんなことを知らないかぐやは、頬杖をついたまま俺を見上げる。
「昼食が出来たので呼びに来てやったのじゃが……。それにしても、康平はよく寝る男なのじゃな」
「昼食? まだ朝の六時半だろ?」
俺は時間を確認する。目覚まし時計の針は十二時を少し過ぎていた。
「うわ、本当かよ……」
窓を見ると、まだ霞がかっていたはずの空が、いつの間にかきれいなブルーになっている。
アラームを止めてから、まばたきほどの時間で起こされたと思っていた俺にとって、それは時間が消えてしまったかのような感覚だ。
「康平も起きたようだし、私は先に行くぞ」
立ち上がったかぐやが背を向けた。
後ろでまとめられた長い髪が、腰のあたりで尻尾のように揺れる。
俺は開かれたドアから出て行こうとするその背中へ声をかけた。
「ちょっとまて。昼食は……かぐやが作ったのか?」
これは確認しておかなければならない。
昨日の夕食に出てきたような不思議な一品があるのなら、今度は胃薬を準備しておく必要があるかもしれない。
「いや、一時間ほど前に帰ってきた葉子が作ったのだが……。また私に作ってほしかったのか?」
「いやいや、そうじゃなくて。その……今度は俺が作ろうと思っていたからさ」
ホッとした顔がバレないよう、俺は愛想笑いをうかべる。
その表情がぎこちなかったのか、かぐやは僅かに首を傾けたが、「その時が楽しみじゃ」と微笑んで部屋を出て行った。
気にしない方が良いのだろうが、残された俺はかぐやの微笑みに胸が高鳴ったのを感じている――。
「一目惚れしたのだろう? かぐや嬢に――」
このやろう……また性懲りもなく出やがったな……
今日も頭のなかに京太郎の幻影が現れた。
だ、だから、そんな事はないって!
「ふん。据え膳食わぬとは、男の恥だな……」
は? なんのことだよ……あ。
――また、昨夜見たかぐやの寝顔を思い出してしまう。
なんの警戒もない健やかな表情――。
甘い香りに、潤いのある柔らかそうな唇――。
俺は、そんなかぐやに見とれているうちに――
「どぅわぁぁぁっ! ちがうっ! 俺は何もしてないぞ!」
俺は頭と手を振って、高笑いする京太郎をかき消した。
あれは事故みたいなものだし、未遂じゃないか!……ん? 未遂?
違う違うっ!
未遂とは、その気はあったけれど達成できなかったことをいうのであって、
俺はキスをしたわけじゃないし、その気があったわけでもない!
俺がかぐやを好きになるなんて、今はそんな事ないしこれからもないはずだ!
――はずだ? 『はず』とは、大いに期待していることを表す言葉だ。
これでは、俺自身がかぐやを好きにならないように気をつけているみたいじゃ
ないか!
そうじゃない!
たしかに、かぐやは可愛いと綺麗を合わせ持った美女だとは思う。あのふてぶ
てしい態度も、話をする時には意外と気を遣わずに済む要因となっている。
……まあ、かぐやと付き合うことになったら楽しいとは――いやいや、俺は何
を言っているんだ? そんなことが問題なんじゃない!
え~と……。問題って――なんだっけ?
考えがまとまらない俺は、混乱する頭を何度も壁に打ち付けた――。
◇
着替えを済ませた俺は台所へ顔を出す。
そこでは、かぐやがひとりでラーメンを食べていた。
朝ではないから“おはよう”ではないが、“こんにちは”でもない。いや、俺は起きたばかりなのだから、きっと“おはよう”でもいいような気がする――。
かぐやと向かい合う席に座った俺は、
「お、おはよう……」
と中途半端な声を出す。
さっきかぐやに起こされたばかりだから変な感じはするが、挨拶はしていなかったのでおかしくはないだろう。
「んふぁふぉう。ふぃふんふぉふぉふぁっふぁふぉ」
「ああ。着替えていたからな。昼飯がラーメンなら、すぐに来ればよかったよ」
これは、「おはよう。ずいぶん遅かったの」と言ったかぐやへの返答だ。
俺は箸を手に取り、のびかけているラーメンをすする。
昨日もそうだったのだが、慣れない景色には違和感しか感じない。
俺が座っているのは、仕事で海外にいる父親の席であり、いつもは使用していない椅子だ。いつも俺が座っているのは目の前の、かぐやが座っている席。
だからどうしたということでもないのだが、この景色に慣れるにはもう少しかかりそうだ。
少なくなっているスープを飲んでいると、母親がやってきた。
「あら康平、おはよう」
「ああ。母さんも、おかえり」
普通に挨拶を交わした俺は、母親が手にしている物に気付く。
「食器用のもなかったの? 言ってくれれば、昨日ついでに買ってきたのに」
「買ってきた本人が何言ってるの。あんた、母さんに食器用洗剤で洗濯をさせるつもりだったの?」
「へ?」
よく見てみれば、母親が持っているのは俺がコンビニで買ってきた洗剤だった。
「はは。ま、間違えたみたいだ……」
呆れる母親の視線に、俺は笑って誤魔化す事しか出来ない。
昨夜は京太郎におかしなことを言われて、俺は混乱していた。その影響で買う洗剤を間違えてしまったらしい。
「今日中に買っておいてね。母さんは少し眠るから、あとはよろしく~」
母親は手を振りながら自室へと戻って行く。
まあ、買い間違えたのは俺だし、仕方がない……と思ったところで、再び母親が顔を出す。
「そうそう、かぐやちゃんから聞いたわよ。かぐやちゃんも旅行に行くのなら、スキーウェアを準備してあげなきゃね」
「あ、そうか。かぐやは、そんなの持ってないもんな」
京太郎のことだから、スキーやスノーボードの靴や板は用意しているだろうが、冬山に行くのにスキーウェアを準備していないなんてことまでは想定していないだろう。
ただ、ここで問題が一つある。スキーウェアというのはそれなりの値段がする。残念だが、俺の小遣いでは手も足も出ない。
「唯和叔父さんに連絡しておいたから、かぐやちゃんと一緒に行って好きなの選んでもらいなさい」
そう言った母親は、あくびをしながら去って行った。
なるほど、そういうことね。と、俺は納得する。唯和叔父さんは父親の弟で、商
店街のなかにあるスポーツ用品店を経営している。
あそこなら、母親のツケで買うことができるだろう。
「旅行へ行くには、スキーウェアというものが必要なのか?」
かぐやにはなんのことだか解っていないらしい。
「雪のなかで遊ぶわけだからな。よし。話が通っているなら、さっそく買いに行くか」
残りのラーメンを食べ終え、俺は席を立つ。
「かぐや。財布とスマホを持ってくるからさ、少し待っててくれ」
「そうか。ならば、私はその間に洗い物をしておこう」
かぐやが俺のどんぶりと箸を取る。
「悪いな。ありがと」
頭を掻く俺に、かぐやは軽く微笑んだ。
「よいのだ。昨夜、雫やみのりと料理や片づけをしたのは新鮮な体験であった。今までは世話をしてくれる者たちがおったからの。どうやら、私はこういった家事は嫌いではないらしい」
その微笑みに、俺は顔に熱が帯びてくるのを感じる。
「康平。顔が赤いようじゃが、どうかしたのか?」
「ら、ラーメンを食ったからな。身体が温まってきたんだよ」
キョトンとするかぐやに、俺は慌てて背を向けた。
そのまま階段を駆け上がって自室へと入る。
上着を着て、ポケットに財布とスマホを詰め込んだ。
そして……部屋を出る前に、俺はもう一度壁に頭突きをした――。
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