サグネゼルス編8 アセナードの過去2
「っ……!」
コアが噛みついた腕から血がポタポタとこぼれ落ちファナの顔が苦痛に歪む。
「コア、やめろ!」
咄嗟に俺は叫んだ。
威嚇レベルとは言え飛龍個体の力は大きい。あのまま力を込めれば彼女のか細い腕など容易く噛みちぎってしまうであろう。
「大丈夫です。止めないで下さい」
今しがたの苦痛に浮かべた表情は消え去り顔一杯に笑顔を浮かべながらファナは俺を制止した。
「何を言っている。そのままだと腕を噛みちぎられるぞ!」
「大丈夫です。コアトルはそんな事はしません。 私がしつこいからちょっと怒っちゃったんだよね」
笑みを崩さずファナはコアトルの頭を空いているもう一方の手で優しく撫で始めた。
額からは汗がこぼれ落ち、痩せ我慢をしているのは明白である。
それでも彼女は静かに、そして優しくコアに話しかける。
「コアトル、怒らせちゃってごめんね。
可哀想に……。こんなにも人間が憎いのね。お母さんを殺されてしまって悲しくて、悔しくて、辛かったのね。
貴方をそうさせてしまったのも私達ポルティア人の責任よ。私の事憎いよね? 殺してしまいたいよね?」
まるで母親が我が子をあやすかのように。
その顔は優しく慈愛に満ちていた。
コアの瞳から放たれていた敵意が徐々に鎮火していく。
「でもね。コアトル。もう少しだけ待ってほしいの。私にはどうしてもやらなければならない事がある。
そのために私は大切な仲間を失っている。だからこそ私はその分も生きて成し遂げなければならないの。
だけどね?」
尚も言葉を続けようとする彼女は撫でていた右手を精一杯に伸ばしコアの首を包み込むように抱きしめた。
「その夢が叶って、それでもまだ人間が憎いのであれば私を殺せば良いわ。
でも必ずその前に私が世界を平和にしてみせる。そして二度と貴方のような不幸な飛龍を出さないように飛龍狩りも無くしてみせる。
だからそれまで待ってほしい。そしてできたら私、貴方のお友達になりたいな」
抱きしめているコアの首に頭を預けファナは目を瞑る。
完全に敵意を無くしたコアはファナの腕から静かに口を離しその身を彼女へと預ける。
美しい月を背景に互いに寄り添う一人の少女と一匹の飛龍の姿はまるで絵画のように美しかった。
(この光景はまるで俺とコアが初めて出会ったあの日と同じじゃないか)
俺の脳裏に過去のとある光景が蘇る。
それにしても、何故この少女はここまでも献身的になれるのだろう?身体も違う、文化も違う、言葉も通じない。今日出会ったばかりの異種族に。
(腕を一本失うかもしれない状況だぞ?ここまで無償の愛を他人に注げる奴なんて少なくともサグネゼルスには一人もいない)
包容が暫く続いた後、小さく鳴き声をあげコアが預けていた首をファナの身体から離す。
「コアトル、許してくれるの?」
「すまなかった、と言っているぞ」
その鳴き声の意味を聞き取る事のできる俺はファナに代弁をする。
「ううん、良いの。許してくれてありがとう」
コアは自ら傷付けた未だに血が滴る少女の腕を舐め始めた。
「大丈夫よ。コアトルは優しい子だね」
「何が大丈夫だ。痩せ我慢はもういいから見せてみろ」
俺はファナの腕をとり、傷の具合を確認する。
「無茶をする奴だ。骨には達してないな。だが止血は必要だ。その包帯をこちらに」
ファナから包帯を受け取った俺は彼女の腕にそれを巻き付ける。
「これで大丈夫だろう」
「あ、ありがとうございます。ちゃんと上手に巻けるじゃないですか」
「どれだけの戦場を体験してると思ってるんだ。自分も仲間も何度も治療している」
「なるほど。人間だったら上手にできるんですね」
「放っておけ」
含みのある言葉の意味を理解した俺は少し恥ずかしくなり顔を背ける。
「あ、アセナードさん、今少し照れませんでした? 私、アセナードさんが表情崩すの見たのって初めてです」
「放っておけ、と言っただろう」
「いーえ、放っておきません。私は今回サグネゼルスに来て一つ解った事があるんです」
俺の意思が尊重される事はなく彼女は対話を止めようとしない。
「私はポルティア以外の事を何も知りませんでした。口では世界の協和を謳っておきながら、です。
でも、だったら知れば良いんです。これからどんどん学んでいけば良いんです。
だって私達は同じ言葉を話す事ができるんですから」
「俺にはお前の夢が叶おうが叶うまいがどうでも良い話だ。俺には」
「お金さえあれば良い、ですよね」
ピタッと口元に一本指が立てられる。その指の主は尚も続ける。
「サグネゼルスの情勢も今日学びました。アセナードさんやルーイさんの事情も。
それが解っただけでも私は夢へと一歩近づいています。
相手の事も知らずに一方的にこちらの想いを伝えてもそれは押しつけとなってしまう。キース様にも学ばせてもらう事ができました」
「何故そこまでする? 獣人には殺されそうになり、会合も綱渡り、さっきは腕一本無くなるかもしれなかったんだぞ。一体何がお前をそこまで動かすんだ?」
「私は争いが嫌いです。人が傷付いたり悲しい目に遭うのを見たくないんです」
「そのためだったら腕一本くらい惜しくはないと?」
「はい、私の片腕で民が平和に過ごせるのであれば安いものです」
彼女はさらりと言ってのけた。
(こいつ、本気で言っているのか?)
理解し難い。それを達したところで何も返ってこないだろう。所詮民など利己的な存在。口でこそ感謝の言葉を述べるだろうがすぐに手のひらを返し裏切られるのが関の山だ。
「あ、でも命はダメですよ。この旅に出る時は捨てる覚悟でいましたがコルトスに怒られてしまいましたし今なら私もそう思います。
私の命はもう私だけの物でないんです。だから私は協和の叶う日をこの目で見るまでは生きるって決めたんです」
「綺麗事だ。お前の夢を叶えるためには必ず何処かで争いが生まれる。
サグネゼルスではたまたま無血にて成立したが他国で解らない」
「はい、綺麗事です。それもこの旅で学びました。
この先何処かで争わざるお得ない時も来るでしょう。その覚悟も今は持っています。
それでも立ち止まってしまっては夢は叶いません。だから学び、努力をするんです。実際に今その成果も出てるみたいですしね」
「成果?」
「はい、アセナードさん私とは会話しないって言っていたのにもう随分と話し込んでますよ?」
「それは……」
「私達はこうやって互いを知り合う事ができます。ですがそれは待っているだけでは駄目。自ら歩み寄らないと距離は絶対に縮まる事はない。
だから歩み寄れば必ず道は開けるって信じる事にしたんです」
不思議な女だ。思えば初めて森で会った時も、その後の会合も、そして今も、気付くとファナが主導権を握っていた気がする。
「ねえ、アセナードさん、一つ良いかしら?」
「なんだ?」
すると少しモジモジとするファナ、恐らく訊こうとしている内容が何か俺の核心に迫る事なのだろう。
だが恐らくファナなら
「貴方がお金が必要なのは解っています。サグネゼルスの事情も、獣人達の事情も、でも貴方の執着は特別に見えたんです。ただ生きるためだけにってだけじゃないんですよね?」
(やはり聞いてきたか。こいつは迷ったらば進むタイプだ。物怖じしても恐怖にかられても逃げる事はない。歩み寄れば互いの事が解る、か……正に有言実行だな)
「俺は獣人だ」
「知ってます」
「その気にさえなれば今この場でお前の喉笛を掻き切る事もできる。
お前の嫌いな争いで今日まで生きてきた。そんな存在だ」
「はい、それも知ってます」
「お前は獣人が、俺が怖くないのか?」
「全然怖くありません。私には貴方が悪い人には見えません」
「何を根拠にだ?」
「まず貴方は亡くなった私の近衛兵達の亡骸を運んでくれた際に悲しそうな目をしていました。
その時に貴方は人の死を悲しむ事ができる人間だと解りました」
確かにほんの一瞬だけ近衛兵達を哀れんだ。だがほんの一瞬だ。
「次に貴方は会合の場でも私の交渉が上手くいくようにキース様を説得してくれました」
「あれは」
「コアトルのためですよね?」
「なっ……」
「あの時、私はアセナードさんとルーイさんにも聞こえるように敢えて資金援助の話を出しました。
そうすればもしかしたらお二人の助力も頂けるんじゃないかなって。
でもアセナードさんが一番反応したのはカメラの話の方でしたね」
まるで俺の心が何かで覗かれているのではないかと思う。
屈託のない笑顔で話す彼女のその仮説はその全てが的を得ていた。
「あの時は獣人が動物を何より愛していると言う話を聞いていたので飛龍狩りの抑制に繋がる事に対する反応だと思っていました。
ですがさっきの話を聞いて解りました。貴方は人一倍飛龍狩りの抑制を願っていたんですね。お友達のお母さんが殺されてしまったのならそれは当然だと思います。
だからキース様を説得してくれたんですね。そして最後に」
「最後に?」
「さっき私がコアトルに噛まれた時もすぐに止めようとしてくれましたしその後もすぐ手当てをしてくれました。
これは一銭にもならない事です。それどころか私は貴方から見ても友達のお母さんを殺したポルティア人。それでも貴方は心配をしてくれました。
貴方がお金を必要としているのは何かのため、誰かのため、であってそのためにはどんな汚い事でも引き受けている。
でもそれはあくまで仕事だから。貴方自身は心優しい人。少なくとも私にはそう見えてますよ。
だから貴方の事をもっと知りたいんです。貴方がお金が必要な理由は何ですか?」
そこまで言われ俺は視線を下へと向け黙りこくる。
この俺に対してそんな事を言ってくる者など傭兵団に入団してからいただろうか?
〔次の依頼はアセナードと同じ部隊だぜ。これなら楽勝だな。なんたってサグネゼルスのナンバーワンだからな。あいつに任せてりゃ儲けられるぜ〕
俺の力を利用する連中。
〔おい、聞いたかよ?こないだの飛龍狩りの奴らアセナードに皆殺しにされたらしいぜ。何十人をたった一人でだってよ。
流石は親殺しだぜ。恐ろしい奴だ〕
俺の力を恐怖する連中。
〔よーし、これで今日の依頼は終わりだな。報酬で皆で飲みに行こうぜ。あ、アセナードには言うなよ。あの野郎、自分が一番成果を上げたから取り分多めに持ってきやがったんだよ。依頼さえ終わっちまえばあんな奴もう他人だ。ちょっと強いってからって図に乗りやがってよ〕
誰も俺に。
〔んだよ、この飛龍、俺達は背に乗せないどころか口すらききやしねぇ。誰もアセナードに勝てないからって良い気になってんじゃねえぞ?〕
コアに。
親身になる者などいなかった。連中は都合の良い時は俺の力を頼りそれ以外では俺を除け者として扱った。
そしていつしか俺もそれが当たり前だと思うようになっていた。
俺には力さえあれば良い。俺には親友さえいれば良い。
だが……。
〔アセナード、世界中の全てが貴方を何と言おうがどんな目で見ようが私だけは貴方の味方よ〕
そうだ……。
〔あの人も、そして私も貴方の事を恨んではいない。あの人も貴方も獣人として生まれ持った運命を全うした。むしろあの人は貴方の成長を嬉しく思っていたはずよ〕
こんな俺にも味方がもう一人だけいた……。
〔アセナード。この地の神、アセナのように誰よりも強く、優しく育つようにあの人と私でつけた名前。
そして貴方はその通りに強く、優しく成長してくれた〕
母さん……。
〔私の可愛いアセナード、ずっと一緒にいてあげられなくてごめんね?
それでも生き続けて。きっといつか貴方にも私のように貴方を愛してくれる人が現れるから……〕
唯一の味方だった母さんの最後の言葉だった。
だが俺は母さんの優しさも温もりも一日だって忘れた事はなかった。
そう、心の片隅ではいつだって求めていた。
本当の俺を見て欲しかった。
本当の俺を認めて欲しかった。
本当の俺を愛して欲しかった。
「少し、長い話になるぞ?」
沈黙の後、俺は口を開いた。
その場に腰を下ろした俺に習うように隣でファナもまた腰を下ろす。
「はい、聞かせて下さい」
彼女の真剣な面持ちを横目に俺はゆっくりと語り始める。