the 4th door:骨の責め苦
先日、ラジオで、『魚の小骨が喉に引っかかって一週間取れず、まんじりともしない思いをした』というリスナーからのお便りが紹介されていた。
それを聴いて、ふと思い出した。
うなぎだ。
うなぎは日本人に好まれる食材のひとつであり、私もご他聞にもれず大好きである。
ここ最近、稚魚減少のあおりを受けて、うなぎの値段はそれこそ『うなぎのぼり』である。
去年は早々に諦め、あなごを食べた。
今年は去年より少しはマシという話だったが、土用のうなぎの時期、見間違いであって欲しいと思うような値がついていた。
一方で、今年は稚魚が豊漁らしい。今秋には値下がりするかも、という話もある(実際にどうかは知らない)。
しかし、今年の6月、国際保護連合はニホンウナギを絶滅危惧種に指定した。つまり、全体的にうなぎ資源が減少傾向にあるのは確かなのだ。いずれは漁獲量も制限され、目玉が飛び出るどころか宇宙に吹っ飛ばされるくらいの値段がつき、王侯貴族かマフィアの親分くらいしか食べられなくなるかも知れない(個人的予測)。そして、うなぎ闇ルートが出来、一匹の末端価格が1億円くらいになるかも知れない(個人的予測)。そうなれば、「家庭の食卓に上らなくなる」に違いない(巷で囁かれている噂)。
将来的な予測はさておき、アベノミクスの風などチラっとも吹いてこない一般庶民(=私)にとって、手の届きにくい価格になっていることに変わりはない。今年も無理か、しばらく無理か、誰かおごってくれないかと思っていたら(自腹を切るつもりナシ)、近しい仲のマーガレット(仮称)が近しい仲のカッパどん(仮称)に誕生日祝いとして贈ったと聞きつけ、まんまとご相伴に預かった。
ちなみに、私はカッパどん(仮称)とも近しい仲である。それなのに、なぜ私には贈られないかというと、そこはまあいろいろである。人間関係はかくも難しいものなのだ。うなぎのようにつかみどころがない。
そんなわけで、今年は無事に食することができたのだが、胃袋へ到着する前に、ひと悶着が起きた。
このとき、うなぎ様は白焼きで出されていた。白焼きは柔らかい。脂もいい感じで乗っている。
私は思い切りよく頬張った。
そして数秒後。
私の口は、ピタッと止まった。
──痛い。
刺さった。骨が。歯茎に。
かくて<骨抜き祭り>が始まった。
もはや、うなぎの存在は虹の彼方に吹っ飛び、歯茎に刺さった骨だけがこの世を支配している。
『奢れる者も久しからず』とはこのことか(←それは『驕れる人は久しからず』である)。
指を突っ込み、鏡を覗き、誰にも見せてはならぬ顔で、私は孤軍奮闘した。
そのとき私の周りには、360度の透明な壁ができていたに違いない。
なぜならば、カッパどん(仮称)を含む他の者たちは、ふがふが唸っている私に気遣いの言葉一つなく、黙々と箸を動かしていたからだ。
責め苦だ。
まさに責め苦だ!
喉に引っかかるというのはよくあるが、なぜに歯茎なのだ!!!
だが、これが初めてではない。
あれは今を去ること十年前かどうかわからないくらい昔。
うなぎの美味い店があるというので、知人に連れていってもらった(←もちろん奢りだ)。
そのときは、白焼きではなく、うな重を注文した。飴色のタレがとろりと絡まり、いやがおうにも食欲をそそる。箸で大ぶりにちぎったうなぎと白飯を口の中に放り込み、至福のうちに咀嚼していた私の口がピタっと止まった。
──痛い。
刺さった。骨が。歯茎に。
骨の責め苦に煩悶としている私を見て、知人たちは笑い転げた。
散々笑ったあとで、「白焼きなら柔らかいよ」と、残った端切れを勧めた(ひどい)。
以来、うなぎに限らず、鯛やハモ、アジフライでも同じ目に遭っている。
ひょっとして歯周病かと思ったが、今のところ歯科検診では優等生だ。
だが、歯周ポケットが普通より深いのかも知れない。もしかしたら、歯茎だけ馬なのかも知れない。
だから、骨のある魚を食べるときは、ものすごく気をつけるようにしている。
だが、また遭ってしまった。
二年ぶりのうなぎだったのに。
白焼きでもダメなものはダメなのだ。
来年はリベンジできるだろうか。
駄菓子菓子。
ついこの間、マーガレット(仮称)が、『カッパどん(仮称)が私の誕生日を忘れてた』と平静な顔で話していた。
平静な顔で、だ。
実にまずい。
取り急ぎ、カッパどん(仮称)にアラートを出しておかねば。
そうでないと、来年はうなぎを食べられない(=ご相伴に預かれない)かも知れない。
骨の責苦に遭おうが、やはりうなぎは食べたいのである。