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渚ナギサ

作者: 把 多摩子

2020年10月5日

管澤捻さまが描いてくださった素敵な二人のイラストを挿入しました(*´▽`*)

ありがとうございましたー!



挿絵(By みてみん)

 軽井沢といえば、日本の避暑地として有名だ。

 最近は落ち目になっているけれど、僕は気に入っている。自然が多く残るこの地は、澄んだ空気と過ごしやすい気温の為、昔から別荘地として栄えてきた。高級ホテルが幾つも並び、品の良いショッピング街も揃っている。“○○ホテルで修行した”という肩書きのシェフが構えている小さなフレンチレストランが多々点在していて、食事には困らない。行き交う人々の多くは高級ブランドの服に身を包み、血統書付きの犬の散歩をしている。

 まだまだ、ここは上流階級の人々が集う場所。

 観光で来ている家族や恋人も見かけるが、僕が滞在している別荘地は、年配の夫婦や、裕福な家族で賑わっている。ゆとりのある敷地に建っているから、時折見かけるだけだけど。都会のように、家が窮屈にひしめき合っているわけじゃないから。

 最近通っているお気に入りのカフェで、珈琲を飲みながら僕は人間観察をしていた。

 フルーティーな香りに、少し酸味のきいた繊細でまろやかなコクがあるオリジナルブレンド。最初に飲んでから惚れてしまい、この店ではこれ一本。豆を買って家で飲んだけど、どうしたって味が違うんだ。

 このカフェは、僕の別荘から徒歩で十五分程度の場所にある。

 高級ホテルの一角にあるカフェで、宿泊者以外も自由に出入り出来る。庭にドッグランが併設されており、今も目の前で多種の高級犬を連れた夫婦が犬達を眺めながら優雅に朝食をとっていた。

 このカフェを気に入ったのは、珈琲が僕の口にあったのと、トーストについてくるミルクジャムが美味しかったから。販売もしているけれど、珈琲同様この場で食べるのが一番だ。

 腕時計を何気なく見つめる。

 父から誕生日に貰ったグッチのアナログ時計は、十時を過ぎたところだった。

 そろそろ、行こうか。

 席を立ち、会計を済ませてカフェを出る。

 夏休みの間、僕はここで勉強をしている。家庭教師つきだが、今は自由時間。十一時から勉強が開始なので、毎朝七時に起きて朝の空気を吸い込みながら散歩し、ここで暫し一人の時間を楽しんでいる。

 もうすぐ、一人の貴重な時間が終わる。家庭教師は僕の別荘の一室に寝泊りしていて、彼は適当に朝食をとっているらしい。つまり、別荘に戻れば四六時中彼と一緒だ。

 昼食と夕食は、家政婦さんが来て用意してくれる。だから、就寝まで勉強に打ち込むしかない。

 こんな生活だけれど、僕には苦痛ではなかった。

 僕の父は、世界的にも有名なクローン研究者の一人。幼い頃から、偉大な父の背中を見ていた。


『大きくなったら、僕はお父さんを手伝うよ!』

『頼もしいなぁ、渚。待っている、早く追いつきなさい』


 時折家に帰ってくる父と、そんな会話を幼い頃からしていた。

 僕が尊敬する、自慢の父。父が書いた書籍は数冊世に出回っているし、海外のテレビ番組にも時折出演している。

 そんな父と同じ研究チームに入ることが、僕の夢だ。親子二代による研究成果を世界に発表する……、考えただけて胸が高鳴る。

 だから父は僕に夏の間別荘地を与え、教師と家政婦さんをつけてくれた。何処にも行かない、友人はもともと少ないし、勉強をしていたほうが楽しい。テストで上位は問題なくとれるけど、そんなところで満足していられない。

 僕の目標は、誇らしい父なのだから。


 夏休みに入って三週間が経過し、僕は変わりなくいつものカフェで珈琲を飲んでいた。天気は曇り、少し肌寒い。

 

「わぁ、このミルクジャム美味しい!」


 閑静なカフェに似つかわしくない声が響き、僕は怪訝にそちらを見やった。僕以外の客も、一斉にそちらを見た。

 平均より低いが、若い女の声だ。上品さが微塵も感じられない、僕が苦手とする人種だろう。

 

「紅茶もとっても美味しい! 流石高級ホテル!」


 信じられない、この侮蔑極まる視線を多数集めながらも、気にせず堂々と飲み食いしている。僕と同じ年頃だとは思う、なんて品がない女だろう。

 しかし、更に驚いたのは彼女が一人で座っていたということ。よくもまぁ、ここに入る勇気があったな。

 ギャアギャアとカラスがゴミを漁っているような声で感想を言い続けた彼女は、一気に完食した。


「めっちゃ美味しかった! ごっちそうさまー!」


 恥ずかしい、見ているこちらの顔から火が出そうだ。情けない、あんなだから僕らの世代が大人に馬鹿にされるんだ。家族連れの幼い子供ですら、大人しく食事をしているのに。

 なんだアイツ。

 僕はここの優雅な空気が好きだったのに、今日は最悪だ。ブチ壊された。

 睨みつけると、女と目が合った。

 一瞬、喉がヒュッと鳴って呼吸が止まった気がした。

 彼女の、顏。

 何処かで見たことがある、今時の顔をしているが、そういう意味じゃない。明らかなつけ睫毛に、濃くて太い黒のアイライナー、茶色の長い髪は毛先が内巻きになっていて、そこらの女性誌を開けば載っている流行の服を着ている。どこにでもいる、普通の女。

 その、筈なのに。

 僕は彼女を知っている……?


「あっれー、何処かで会った気がするんだけどっ?」


 見をそらせずにいたら、ソイツが立ち上がって近寄ってきた。

 ……最悪だ、僕まで注目を浴びてしまった。冗談じゃない、同族だと思われたら立ち直れない。僕はもっと、上の人間だ。確かに有名だし美味いけれど、ホテルのジャムに引き寄せられてやってくるような味覚音痴で頭が悪そうな女と一緒にいるような人間じゃない。

 迷わず性急に立ち上がると会計に向かう。無言で支払って店を出て、早足で歩き出した。

 しまった、珈琲を少し残してしまった。あのバカ女のせいだ。


「ねー、待ってよー! そこの君、無愛想な君だよっ」


 信じられない、追ってきた! おまけに大声で話しかけてくる、冗談じゃない、関わりたくない。低俗な輩は不躾だ、僕の神聖な領域を汚してくる。これから勉強に挑む為の、朝の儀式が台無しになった。


「うるさいな、ついてくんなよ。通報するぞ!」

「あぁ、よかった! ようやく口をきいてくれた。ねぇ、何処かで会ったことない? 君の事、見たことがあるんだっ」

「お前なんか、知らねーよ!」


 思わず口を聞き、立ち止まって振り返ってしまった。失敗した。

 近くで見ると、この女。……確かに、見たことがある。こんな阿婆擦れの知り合いなんざ、いない筈だが。


「私、ナギサ! よろしくね! ねぇ、一人なの? 私も一人なの。昨日ここに来たばかり、よかったら一緒に見てまわらない? 同じくらいの子だよね、私は高校三年だよ。よろしくねっ」


 ナギサ? 

 僕と同じ名前、同じ歳だ。

 突っ込みたい点は多々あったが、その偶然に唖然としていたら、ナギサが首を傾げる。

 

「君の名前は?」

「……渚」


 今度はナギサが驚く番だった。瞳を大きく開いて、大げさなほどに顔を歪める。


「うっそー、運命だよこれ! ねぇ、遊ぼうよ! 私、めっちゃ暇なの」

「悪いが、僕は忙しい。十一時から家庭教師と夜まで勉強、暇は一秒たりともない」


 伸ばされた手を振り払い、平常心を装って僕はナギサをそのままに歩き出した。

 それでも、性懲りもなくナギサはついてくる。厚かましい奴だ、普通、ここまで邪険にされたら離れるだろ。暗黙の了解があるだろ、空気を読んでくれ。


「渚クンは良いところのおぼっちゃまだよね? 私も一応、お嬢様。えへへっ」

「嘘つけ! こんなみっともないお嬢様いねーだろ」


 思わず突っ込んだら、ナギサは笑った。……しまった、それが手だったか。


「一応、お嬢様だよ。でもね、裕福なおうちに引き取られた孤児なの。上品に出来ないのは、血のせいかもね」


 あっけらかん、と重いことを言うナギサに思わず言葉が詰まる。言われてみれば、確かに身にまとっているピアスやバッグに服は、女のファッションに疎い僕が見ても分かる有名なブランドものだ。確かに、身なりは小奇麗だった。

 本当のお嬢か、それとも援交やらで金を稼いだ女なのか。

 髪をかき上げた時に、一瞬見せた寂しそうな瞳が気になった。


「……明日、さっきのカフェで。僕は八時頃にはいる」

「ホント!? ありがとう、楽しみにしているね。私はあっちの別荘にいるの」

「僕はこっち」

「じゃあ、明日ね! お話してくれてありがとう、渚クン。またね!」

「あぁ。……またな」

 

 何故か、会う約束をしてしまった。

 どうしたんだ、僕。有り得ないだろう。

 不意に脾腹を突かれたような放心状態で、別荘まで帰った。僕は上に立つ人間であり、彼女のような見せかけだけの人種と付き合う暇はない。

 今までは、そうやって友人を選んできたじゃないか。なぜ、どうして。

 僕の脳に、知らない誰かが入り込んで指図をしているみたいで、気持ちが悪い。

 

 何時ものように、十一時から勉強を開始した。

 普段ならすんなり頭に入るのに、ナギサが気になって勉強に身が入らない。苦笑した家庭教師が、「たまには息抜きしよう」と休憩をくれた。他人ですら気づくほどに、僕は狂ってしまったらしい。

 時計を見れば、四時。

 この時間に外を出歩くことはなかったので、散歩をすることにした。気分転換には丁度良い、愛読している父の書籍を手に朝のカフェへ行くことにする。


「あっれー、渚クン! また会えたね」


 ……まさか、玉の輿を狙うストーカーなのか。行く手を阻むように、ナギサが立っていた。どういうことだ、この女は何故ここにいる。


「ぅぐ」

「今、嫌そうな顔をしたなー? ひどいっ」

「……驚いただけ」


 それでも、朝ほどの不快感はなかった。寧ろ、屈託ない笑顔を向けてくれたことに安心した。

 そうか、彼女はこんな風に笑うんだ。僕の周囲では見たことがない、優しい笑い方だな。

 それにしても、誰だ。誰に似てるんだ、コイツ。

 絶対に見たことある、知っている気がするのに思い出せない。

 何故。


「静岡から遊びに来てて、滞在期間は一週間。ガイドブックを買ったから、自転車でこの辺りをまわっていたの。ねぇ、渚クンはあのカフェ以外行ったことある?」

 

 相槌をうつ間もなく、ナギサはベラベラと個人情報を暴露する。


「……いや、ない」

「それなら、今から一緒に行こうよ! はい、自転車に乗って」

「あのな、話を聞け」

「はい、漕いで漕いでー!」


 強引に僕を自転車を押し付け、ちゃっかり後部に跨った。え、僕が漕ぐのか?


「あのな、僕は初めて休憩を貰ったから、静かなカフェで読書を」

「しゅっぱーつ!」


 背中を叩かれた、痛い。僕の通う学校に、こんなガサツな女子はいない。

 最悪だ。

 それでも、その叩かれた背中が暖かく感じられて、溜息混じりに自転車を漕いでみる。

 自転車を漕いだのは、何年ぶりだろう。通学も、図書館や本屋へ行くとも運転手つきの自家用車だから新鮮だ。幼い頃、庭で遊んだのが最後じゃないか?

 意外に漕げるもんだな。


「やっほー」

「うるさいナギサ。大人しくしろ、恥ずかしい」

「えー、だってすっごく楽しいもん。楽しかったら笑って声を出す、美味しいものを出したら喜ぶ、嬉しかったら歌う。それって、普通でしょ?」


 ……僕には普通じゃない。初めて見るタイプの女に、僕は混乱した。

 振り回されているだけな気もするが、身体を使うのは体内に籠った熱を発散することが出来て爽快だ。普段は家のジムでトレーニングをするけれど、こういうのもいいな。


「お前重い」

「失礼だなー!」


 ガイドブックを片手に後ろから指示を出すナギサに文句を言いつつ、自転車を走らせる。老夫婦が経営している山小屋みたいなカフェで、ケーキを食べた。普通なら絶対に気にも留めない店だが、出てきたチーズケーキはひと皿四百円なのに、普段食べていた千円のものより美味しく感じた。

 なんだこれは、美味い。


「んー、美味しい! 渚クンもきちんと感想を言ってみなよ、もっと美味しくなるよ」

「うん、確かに美味いけど」

「もっと大きな声で!」


 ナギサの声が大きいから赤面し俯く僕だけど、周囲では子供達も騒いでいるし、経営者の老夫婦は何故か愉快そうに僕らを見ていた。この雰囲気なら、確かに声を出しても平気かもしれない。


「可愛い二人だねぇ、双子かい?」

「え?」


 経営者の老婆が話しかけてきた、言われて僕はナギサを見つめる。驚いた顔でナギサも僕を見ている。

 見つめ合い、自然と窓ガラスを同時に見やった。

 じんわりと窓に浮かび上がる僕ら。『双子かい?』老婆の声が脳内に響く。

 大きな音を出して、唾を飲み込んだ。

 今、気づいた。見たことがある筈だ、僕に似ていた。

 ナギサは、僕に似ていたんだ。

 化粧をしているからなんとなくだけれど、鼻や唇の形は同じに見える。有り得ないくらいに。


「……まさか、ホントに双子!?」

「んなわけない、父さんの子供は僕だけだ」

「で、でも、似すぎじゃない!? 待ってて、お化粧落としてみる」

「い、いや、そこまでしなくてもいいよ」


 ナギサが僕の顔を両手で包み込み、見つめてきた。自分に似ているというのに、何故か心がざわめいた、触れられている頬が熱い。


「昔から知っているような気がしたのは、似てたからかぁ」

「恥ずかしいだろ、離せ」


 震える声しか出なかった。同じ名前で顔が似ている、なんて有り得るのだろうか? 

 店を出て近くの服屋に入った僕らは、全身鏡の前に手をつないで立つ。

 身長は僕のほうが若干高い、だが、身体のラインは似ている気がする。


「これは、運命だよ渚クン」

「どうして女はなんでもかんでも運命にしたがるんだ」

「これ以上の運命なんてないよ! 前世で二人は双子だったのかも! いやいや、実は一人だったけど二人に分かれたのかも!」


 どういう発想だ、有り得ない。女はこれだから困る、現実的に考えて、これは……偶然だ。そう、世の中には自分と似たような人間が三人くらい存在するらしいから。

 偶然、似た二人が出会ってしまっただけのこと。


「偶然なんて、ないんだよ」

 

 まるで僕の考えを読んだかのように、淡々としてナギサが呟いた。真剣な眼差しで鏡越しに見つめ合うと、僕の背筋にゾク、と悍ましい寒気が走る。


「偶然は妄想の具現化、って誰かが言っていた。私は少し違うかな、偶然は必然だと思ってる、何か意味が有るはずだ」


 妙に冷めた声は普段のナギサの声と違っていた。

 ナギサの声が、僕の声にも思えた。

 暫く放心状態でつっ立っていたけれど、閉店の時間が近づき声をかけられたため、慌てて外に出る。脳内は、白紙状態。次の行動が思い浮かばない僕に、ナギサは手を差し伸べる。

 思わず、その手を掴んでいた。


「もう少し、一緒にいよう」


 母のように、姉のように、妹のように、弟のように、兄のように、友達のように、全てを包み込むような声と曇りなき笑顔でそう言うから、僕は吸い込まれるように頷いた。

 近くの飲食店に入り、適当にピザを注文する。

 そして、互いのことを話した。

 僕とは全く違った世界に、ナギサはいた。規律正しい生活が全ての僕に対し、ナギサは何処までも自由だ。多くの友人に囲まれて、勉強はそこそこに遊んで過ごしているらしい。


「大学は短大、そんなに頭良くないし」

「教えてやるよ、朝持ってきな」

「えー、貴重な朝の時間に勉強するの!? ヤダー」

「本来なら有償ものだぞ。有り難く僕の教えを乞え」


 心底嫌そうに舌を出すナギサに、僕は笑った。

 ナギサは面白い、表情がくるくる変わって、まるで万華鏡。僕の周りに、ここまで表情豊かな人間はいなかった。彼女だけ、世界が違うとしか思えない程の色彩を放っている。


 早朝七時にあのカフェで約束をし、僕らは帰路につく。

 別荘には、冷めた夕飯が置いてあった。腹は満たされていたけれど、勿体無いので食べた。


「随分と遅かったね」

「勉強してました、ピザ食べながらですけど」

「はは、渚君は流石だ。息抜きは出来たのかい?」

「えぇ、貴重な時間をありがとうございました」


 家庭教師に視線を軽く投げ、早々と食事を平らげる。胡桃のパンと、鶏肉のグラタンにオニオンスープ。それに少ししなびたサラダ。 

 一人の食事は、味気ない。何より、この食事は父に雇われた家政婦が給料と引き換えに作ったものであって、僕の為に作られたものではない。確かな腕を持つ家政婦だけど、そうじゃない。

 誰かと共にする食事の方が、断然美味しいことに僕は初めて気がついた。そんなこと、知らなかった。


「あのチーズケーキ、美味かったな」


 見た目は普通だったけれど、愛情が籠められていた。僕は、あぁいうお店にもっと行きたい。

 ナギサなら、連れて行ってくれるのだろうか。


 翌朝、カフェでナギサに勉強を教える。

 差し出された教科書に目眩がした、こんな低レベルな勉強をしているだと? 同じ高校三年なのに、内容が全く違う。


「なぁに、難しいの?」

「違う、逆。簡単すぎてつまらない」

「えっ、そうなんだ。渚クンは頭がいいんだねえ」


 教えることに根気がいる、と思ったが、ナギサは飲み込みが早い。僕がある程度教えれば、すぐに理解し自分で解く。意外だ。もしかしたら、頭脳明晰な奴かもしれない。それこそ、勉強をし続けたら僕と並ぶくらいに。

 簡単に解けて嬉しいのか、ナギサは夢中だった。


「渚クンの指導が上手いんだよ、先生より圧倒的に分かりやすい。家庭教師のバイトとかすればいいのに」


 溢れるような笑みを浮かべるナギサは、素直で羨ましい。僕は、こんなに顔がくしゃっ、となるほど笑ったことがない。いつも口角を軽く上げるだけだ。

 十時になったので、カフェを出る。自由時間は終わりだ、また明日の朝約束をした。


「またね、渚クン!」


 今日のナギサは、真っ白なワンピースに麦わらの帽子をかぶっていた。造花がついていて可愛らしく、こうしていると確かに楚々としたお嬢様に見える。服装も好みだったけれど、何より僕だけを見て、僕の言うことに笑ってくれるナギサが、とても愛おしく感じられた。

 だから。


「きゃっ!」

 

 思わず引き寄せて、キスをした。いや、触れるか触れないかのところでナギサによって跳ね除けられた。僕のカバンが地面に転がり、中身が飛び出る。


「ご、ごめん、び、びっくりだよ、もうっ、恥ずかしい、こんな朝から! ま、またね、もう少し、待ってよね……」


 一瞬硬直したけど、地面に散らばった僕の本やらノートやらを慌ててかき集めると、無造作にカバンに詰め込み押し付けてくる。

 僕は拒絶されて狼狽し、そのまま走り去るナギサを止める事が出来なかった。

 意外と、ウブだったようだ。キスは、ダメだったのか。震える声と身体が、可愛かった……というよりも。

 胸中に、灰色の煙が舞い上がる。

 何故だろう、怯えていた気がした。顔は桃色に染まらず、青ざめていた気がした。男が怖いのだろうか? 今時の高校生は、キスくらい普通だと思っていたのに。

 僕は、微かな違和感に吐き気をもよおし俯いた。


「渚!」


 聞き覚えのある声に顔を上げると、黒い高級車が停車した。後部座席の窓が下がり、微笑んでいる人物と視線が合う。


「父さん!」

「休暇を貰ったから会いに来た。どうだ、順調か」

「まあね」


 まさか多忙な父さんが来てくれるとは思わなかった。嬉しくて駆け寄り、車に乗り込む。オートクチュールのパリッとしたスーツに身を包み、中年なのに贅肉知らずの自慢の父さん。息子の僕が言うのもなんだけど、スマートだ。メガネの奥に潜む眼光は鋭く、惚れ惚れする。


「……面白いな、渚。声が明るくなった」

「え? そうかな」

「何か良いことでも?」

「特にないけど……あ、ここで友達が出来た」

「ほぅ」


 メガネをクイ、とあげた父さんはそれ以上何も言わなかった。すぐに別荘に到着し、父の為に用意されていたワインとチーズを堪能し始める。

 僕は普段通りに勉強をした。昼食をとりながら父の研究の話を聞き、勉強を再開する。普段より豪華な夕食を食べ勉強に戻ろうとすると、父が部屋にやって来た。


「渚、最近天体観測はどうだ?」

「うーん、今はあんまりしてないな」


 子供の頃は、購入してもらった望遠鏡でよく星を眺めたものだった。あの頃の僕の夢は、そういえば宇宙飛行士だった気がする。


「近くにうってつけの小屋がある、行かないか」

「でも、勉強」

「つれない奴だな、わたしの為に時間を割いておくれ」


 存外、父はロマンチストだ。僕は、父と出掛けることにした。


 山小屋には車で三十分ほどで到着した。

 そんなに広くはないけれど、毛布や暖房器具に、簡易なキッチンと食器も置いてある。

 湯を沸かし、珈琲を飲む。あのホテルの珈琲には敵わないけれど、美味しいと思った。

 無言で外に出て、毛布を被り星を見つめる。綺麗だが、怖い。白濁した液体を流したような天の河が浮いているのを見ると、宮沢賢治の世界に迷い込みそうになる。星空はあまりにも広大で、自分の存在がちっぽけに思えてしまう。

 無数の星から見たら、僕はその程度のものだけれど。

 宇宙の前では、僕ら人間など無力。科学で解明出来ない点が、まだまだ多すぎる。あの暗黒に浮かぶ眩い星星に手が届く日は、何時だろう。

 そんな日は、来ないかもだけど。


「渚は利口だ」

 

 唐突に父が言うから、僕は笑う。


「父さんの役に立ちたくて、子供の時から勉強してきたしね。待っていてよ、約束しただろ?」

「すでに、十分な程貢献しているよ。大変面白い」


 違和感を覚えた。

 カップの熱が急激に冷めた気がして、そっと隣で星を見上げている父を見つめる。メガネに阻まれて瞳は見えないけれど、異様な空気を感じた。

 夜だというのに、何処かでカラスが啼いた。

 それが合図の様で、身体が跳ね上がる。得体の知れない黒い霧が足から這い上がってきて、僕の呼吸を止めそうになった。


「寒いか、渚。小屋へ戻ろう」


 震えていると父に促され、僕は虚ろに頷き小屋へ入る。

 ドアが閉まる音が、妙に耳の奥に響いた。まるで、牢獄に誘われた気分だった。

 何故、どうして。

 再び湯を沸かし始めた父を、目で追った。なんだろう、この感じは。気味が悪い。心臓がさっきから狂ったように脈打ったままで、警告を発しているよう。

 目の前の父の背に、不気味な影が見えた。

 コトン。

 テーブルに、父が何かを置いた。腕時計を外したらしい。


「そろそろ寝るか、二階にベッドがあるよ」


 僕は、頷かなかった。ここではなく、別荘に帰って眠りたい。けれど、そんな些細な意見すら口から出てこない。

 赦されないような雰囲気が、そこにはあった。

 小屋には運転手の男もいて、戸締りをしている。施錠音に、絶望を感じた。

 何故、どうして僕は怖いんだろう。

 風邪でもひいたのか、それとも闇夜の雰囲気にのまれてしまったのか。朝になれば、きっといつもの自分に戻れるだろう。大好きな父さんもいるのだから。

 あぁでも、ナギサと約束をしたんだ。だから、僕は別荘に帰りたい。帰らないと、時間に遅れてしまう。


「あの、父さ」


 意を決して開口すると、テーブルに置かれた物が目に入り硬直する。

 日本にあってはならないものが、いや、一般人が所持してはいけないものがあった。凝視した、何故ここにあるんだ。肌が、ザワザワする。

 9mmベレッタ。

 黒光りするそれに、喉を鳴らす。本物にしか見えない。

 僕の視線に気づき、父はそれを持ち上げた。


「護身用だ」

「ここは日本だよ、父さん。銃刀法違反だ」


 冬はハワイに行くのが恒例で、僕も射撃場で扱った事がある。だから、それが本物だと解った。

 脚がふらつき、目眩がする。ぐにゃりと歪む父の顔は、嘲笑しているように見えた。


「アメリカにいた被検体007が、先日、車に撥ねられて死亡した」


 父が嬉々として唐突に語り出す。

 僕には、何の話か解らなかった。


「エジプトにいた被検体011は、産まれてすぐテロに巻き込まれ死亡した。フランスにいる被検体003は絵画の道に入ったよ、芸術に触発されたらしい。タイにいる被検体018は病弱でね、長くはないだろう。韓国の被検体023は最近貧困層と口論になり、重傷を負った」


 一体、何の話を? でも僕の声は出ないし、唇も動かなかった。


「北海道の002は健康そのもので、農業に精を出している。、仙台の003は火事に巻き込まれ死に、静岡の004は」


 父が微笑む。悪魔の微笑、氷の刃が言葉となって僕に襲いかかる。


「オリジナルと遭遇した」


 何を言っているんだろう。


「まさか、出遇うとは。報告書を見て驚いたよ、それで飛んできた。これは偶然だ、計画に入っていなかった。どうだい、004は。産まれた時から女性ホルモンを投与してきたからね、若干声が低いが、なかなか可愛いだろう」


 何を言っているんだろう。


「取り巻く環境で、何処まで性格に変化が出るか。先天性と後天性は、どちらが勝るのか。予期せぬほど面白く貴重なデータがとれたよ、オリジナルと被検体004は互いに惹かれあった」


 何を言っているんだろう。


「もともとは同一人物だからな。似ていて当然、理解し合えて当然、惹かれて当然か。この世に自分以上に分かり得る人間など存在しないだろう?」


 何を言っているんだろう。


「このデータをもとに、思い通りの人格にクローンを育てられそうだ。いやあ、実に愉悦!」


 何を言って何を言って何を言って、父さんは何を言っているの。


「渚、これからも協力しておくれ。父さんと一緒に、クローンたちを観察しよう」


 眼鏡の奥で、炯々としている瞳は淡く光っている。

 あぁ、解った。

 僕の父は、知らぬ間に狂っていたらしい。

 いや、僕が産まれた時からこうだったのかもしれない。

 だから僕には母さんがいないのかな、愛想を尽かして出て行ってしまったのかな。

 病弱で死んでしまったって聞いていたんだけどな。

 そもそも僕は、本当にこの男の子供なのかな。

 喉の奥で笑っている父と、黙っている運転手を交互に見つめる。驚かないということは、彼も知っていたのだろう。

 父の研究は、すでに成功していた。クローン技術を掌握し、公に出来ない非道な実験を行っていた。

 僕に補佐役を求めておらず、実験台として必要だったらしい。なるほど、都合よいモルモットか。


「004に会いたいか?」


 004、それはナギサ。

 眩い笑顔の、僕に似た、同じ歳の女の子……ではなくて、僕。

 あれは、僕、僕自身、僕のクローン。双子でも、兄弟でもなく、僕自身。

 似ていて当然だ、僕だから。化粧と女性ホルモンで変わっていても、元は僕。あれは僕だから、教え方さえ間違えなければ有能な子に育つ。キスを拒んだのは、自分が本当は男だからか。彼女? 彼? には、恋愛感情などなかったのかもしれないし、あったのかもしれないし、困惑していたのかもしれないし、あぁもう、解らない。

 ただ、父の探求心に火をつけた出遭いをしてしまったことだけは、理解した。

 ナギサは、僕、僕、僕、僕、眩い笑顔の、僕、楽しそうに笑える、僕、友達が多い僕、化粧をする僕、大声を出す僕、明るい僕、生きている僕、僕、僕、僕が生活してみたいと思ってしまった環境にいる僕。


「恋はできないぞ、あれは渚だ。あ、いや……そういうデータも必要か。『人間は、自分と身体を重ねる禁忌を犯すか』ふむ、興味深い」


 僕の中で、何かが割れた。

 急に脳内がクリアになり、沸き立っていた血が静まり、うごめいていた血管が正常に戻る。荒い呼吸も波が静まった海のように穏やかで、白い砂浜から青空を見上げて微笑むように、僕は顔を上げた。


「流石父さんだ、僕の理想の先を行く。僕は父さんの息子で光栄だよ、もう、これは神の領域だ」


 父は僕を見て、嬉しそうに顔を歪ませて哂っていた。

 あぁ、なんて醜いのか。この世の醜悪なものを全部集めて煮詰めたら、こうなるのかな。

 僕は、ナギサのように笑いたい。心から、楽しみたい。下品でも口を大きく開けて、見ている人を暖かくするような笑顔を浮かべていたい。


「物分りの良い息子を持てて、誇らしいよ」


 僕は、父の仮面を被ったナニカに近づいた。腕を広げた父の胸に飛び込むように、笑みを浮かべて堂々と歩く。


「僕の夢は、父さんの補佐」

「そうだな」


 満足して頷いた父に、皮肉めいて眉を釣り上げる。


「これは僕からの課題だよ、父さん。『オリジナルを失ったクローンは、どうなるのか』この実験は、どんな結末を迎えるのか」


 一見消えている焚き火の奥で、密やかに揺らめき燃えている火種のように。僕の心は、酷く冷静だった。

 テーブルの上の銃を掴むと、そのまま構える。


「頑張って。貴方ならこんな課題は楽勝だろう?」


 ナギサ。

 もしかしたら、僕は密かに君の生活に憧れていたのかもしれない。君は自分の感情を隠さないし、押し殺すこともしない。思うまま、自由に生きている。

 ナギサはこれからどう生きていくんだろう。オリジナルの僕がいたら、君は被検体004だ。

 君は、今まで通り君らしく生きてくれ。僕のようにはならないでくれ、君は自由だ。君はナギサという一個体であり、決して僕じゃない。

 傍で護れなくて、いや、一緒に生きられなくてごめんね。

 

「さようなら、ナギサ」


 僕は、躊躇せずに引き金を引いた。

 止めようとした父に、舌を出して嗤ってやった。涙が溢れた、悔しくて、情けなくて、弱くて、馬鹿げていて。

 一体、僕はなんだったの。

 それに、絶望している。ナギサは監視されていて、逃げられない。同じモルモットだ。

 でも、オリジナルが消えてしまえば、研究は中止になるかもしれない。新たな犠牲者は出るかもしれないけれど、その間に悪事が暴かれるかもしれない。

 どうか、産み出されてしまった大勢の僕が、逃げられますように。神の真似事をした最低な父から、解き放たれますように。

 僕の命を、賭ける。

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― 新着の感想 ―
[一言] ショートショートの神様、星新一先生を彷彿とさせるような展開でした。楽しく、途中からどきどきして読みました。 ラストに向かい、そっちに行くかというか、『行かない訳はない』計算ずくめの設定である…
[良い点] いやいや、、鳥肌が立ちました。 これだけの短編でこれだけの奥行を出せるのはさすがです、、というか、とても、とっても勉強になりました。 すごいなあ、すごいなあ [一言] とにかく、起から結に…
2014/06/20 10:57 退会済み
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