公爵家当主
「せめて一言お別れを言うべきかしらね」
「旦那様に、ですか? それは少し危険なのでは?」
「…確かにそうかもしれないわね。実家から縁を切られてしまえば今まで通りの生活は出来なくなるんですもの。格下とは言え、我が家も貴族。此方に転がり込んでくるかもしれませんものね」
「はい。ですので、お会いしたいのであれば騎士の方に護衛を頼まれたほうが宜しいかと」
「いえ、その必要は無いわ。実家に連絡して向こうで護衛を頼んでいる人に来て貰うから。ああ、それともう一つ」
「何でしょうか?」
「夕食の準備をお願いね」
「…夜食用のサンドウィッチも御持ち致します」
互いに決まり文句のようになって来た言葉を交わすと、先ほどまでの暗い空気を払拭するかのように明るい笑みが零れる。
優しく笑みを浮かべて去っていく侍女を見送ってからマリーは小さく言葉を吐いた。
「愚かな人…」
◆ ◆ ◆ ◆
翌日、早朝。
マリーは夫であるローレントが起床するよりも早くに行動を開始していた。
手馴れた動作で貴族令嬢にはあるまじき速さで服を着替えると、はしたないとは思いつつも昨夜の内に用意しておいたパンを頬張った。
彼女専用に柔らかく焼かれたパンは時間が経っても食べやすい硬さのもまま。
二切れあったパンを紅茶で流し込み、部屋に備え付けてある洗面台で口を濯ぐ。
口元を綺麗に拭ってから髪を整え、軽く編みこんで終わりだ。
春とは言え朝方はまだ寒い。
長椅子にかけておいた上着を羽織るとマリーは静かに部屋を後にした。
音を立てないように玄関へ着く。
先に起きて準備をしておいてくれた執事が「お早う御座います」と声をかけてきた。
それに小さく言葉を返してから「どう?」と尋ねれば、執事はそっと玄関扉を開けて先を促した。
「後はお願いね」
「畏まりました。…御気を付けて行ってらっしゃいませ」
静かに頭を下げる執事に頷いてからマリーは外に出た。
薄っすらと白み始めた空に目を細め、すぐに視線を巡らせる。
ややって植え込みの影に隠れるようにして馬車が止まっているのに気が付いた。
小走りに周りの目を気にしながら馬車に向かう。
「御早う御座います、マリー様。御待ちしておりました。どうぞ中へ」
「少し遅れてしまったかしら?」
「いいいえ。それよりも御早く」
御者に急かされて馬車に中へと滑るように身を押し込める。
彼女が入るとすぐに馬車は何処かへ向かって動き出した。
走り出した馬車を気にもせず、マリーは眼前に座る人に頭を下げた。
「お早う御座います」
「うむ。急がせたようで悪かったね」
「いいえ。此方こそ御足労願いまして…」
その言葉に男はそっと苦笑を零した。
「くくく…」
「どうかしましたか?」
「いやいや。君のような聡明な女性はあいつの嫁には勿体無かったかな、と思ってしまってな」
硬直してしまったマリーを見て男は更に笑みを深める。
本当に勿体無い事だ、と男は胸中で呟く。
彼女のように大人しく、聡明で心の広い女性はそう多くは無い。
ローレントとの結婚も断られる事を前提で動いていたのだ。
まぁ、格上の家からの申し込みは断れなかっただけだろうが。
※ご静読有難う御座いました。