金刺繍
驚いたような声を上げたクロノ。
その声に驚いた声を上げたマリーが声をかけた。
マリーの視線の先でクロノは本から視線を逸らさずに苦しそうに眉を寄せている。
険しい表情で固まってしまった老人を心配して、マリーは腕を軽く小突いた。
それに対して、大げさなほどに肩を跳ね上げさせる老人に驚くも、心配そうな表情で覗きながらマリーは努めて優しい声をかけた。
「本当に大丈夫ですか?」
「…っ!? あ、あの…近い、ので…もう少し離れていただいても…」
「…ほんっとうに大丈夫ですか?」
「は、はいっ!」
何度も首を縦に振るクロノに苦笑を零し、マリーはそっと白魚のような手を彼の額に当てた。
どう反応していいのか分からずに固まってしまっている老人に令嬢は微笑む。
「熱も無いようですし本当に大丈夫そうですね」
「…先ほどからそう」
「そう言う台詞はご自身の顔を見てから言ってくださいな。真っ赤な林檎のようですわよ?」
「え゛?!」
引きつったような声を上げてクロノは慌てて自分の頬に手を添えてみる。
じんわりと手に熱が伝わってくるのが分かり、余計に顔が熱くなった。
何とかして話を反らそうと彼は視線を巡らせる。
そして手に持ったままだった本に気付いて声を上げる。
…緊張のあまり声が裏返っているのだが、マリーは慎ましやかに微笑むだけに留めた。
「ほっ、本はお返しします。私のところには置いていない本ですが、何でしたら他の同業者にも声をかけて見ましょうか?」
「いえ。そこまでしなくてもいいわ。あったら読みたいな、と思う程度でしたから。…神話系統の本を探していますの。お勧めは何かしら?」
取り繕ったように顔を上げるクロノ。
やや頬が色付いてはいるが年の功と言う奴だろうか。
慌てていた時の可愛らしい表情が見れなくなった事を残念がっていたマリーも、彼の様子が落ち着いた事に安堵の息を漏らした。
マリーが初めて店に来た時もそうだった。
古めかしい建物や古書店が好きだった彼女は色々な店を渡り歩いていた。
特に何を買うか等は決めずに、ふらりと気に入った外装・内装の店に立ち寄っては気まぐれに買い物を楽しんでいた。
そんな中で出会ったのが「叡智の探求所」だ。
名前の響き、古めかしいレンガで出来た外装、古書独特の香り。
その全てが彼女を魅了して止まない。
所狭しと置かれた本達が一種の内装のように思えてくる不思議な空間。
柔らかな声音の初老の店主。
何もかもが彼女の理想とする古書店だった。
何気なく立ち寄った古書店で彼と出会ってからは、本を見るためではなく、彼に会うために通ってきているような気さえする。
何時だってクロノは柔らかい仕草でマリーを出迎えてくれる。
貴族である事は黙っているが、きっと最初から分かっているのだろう。
丁寧な仕草は元からの物らしいが。
「素敵な表紙…」
マリーはクロノに勧められた本を手に取って感嘆の息を漏らす。
真っ青な下地に金糸で織り成される幻想的な世界。
タイトルも一字一字が丁寧に紺色の糸で刺繍されていて、とても子供向けの本とは思えない位だ。
※ご静読有難う御座いました。