逃避
夢の世界に逃げ込めば少なくとも本を読んでいる間だけは現実を忘れていられる。
世の中は不思議なものだ、とマリーは思う。
自分の事を嫌っていたはずの男から結婚の申し出があった時は驚いたが、結婚生活を始めてからは嫌味を言う相手が欲しかっただけなのだと分かってしまった。
顔を合わせるたびに嫌味を言われ、下手なことを言い返そうなら実家にまで迷惑が掛かってしまう。
毎度毎度グッと手を握り締めて我慢していたのは遠い昔の事のように感じる。
今ではもう波一つ無い湖面のように静まり返った心に波紋が広がることは無い。
何もかもが遠い世界のように感じるが、別にこの生活が嫌なわけではない。
夫が連れてくる女は同じ顔を見ることは稀だったし、適当な付き合いをしているのは分かる。
それでもマリーは気にもしない。
夫も連れてこられた女も彼女の自室には入ってこないからだ。
此処に居れば面倒な事に巻き込まれなくて済む。
侍女や他の使用人たちも特に干渉はしてこないので落ち着いて自分がしたいことを出来るのだ。
実家に居れば親戚から「結婚はまだか」「婚期が逃げる」などと言われ続けなければいけないが、結婚してしまえば静かな物だ。
不自然な結婚生活ではあるが、王の決めた『夜の会には無理に参加しなくても良い』と言う素晴らしい決まり事がある。
その時の王はきっと望まぬ結婚に嫌気が差したのかもしれない。
夫が夜会に出たい、と言えば代わりの女性を用意すれば良い。
女性同士の茶会等は一定の感覚で開かれているが、みな似たような結婚生活を過ごしているので自然と会話は趣味の話になる。
そのため、茶会は常に和やかな雰囲気を保つことが多く、参加する奥様方は多い。
マリーも折を見て参加しては趣味である読書や菓子作りについての話を盛り上げている。
「…奥様。そろそろ御帰りになられる頃かと」
「あら。もうそんな時間なの? じゃ、少し早いけど食事にしましょうか」
「では御部屋の方にお持ち致しますので少々御待ち下さいませ」
「それと夜食用にサンドウィッチをお願いできるかしら?」
「分かりました」
侍女は笑顔で一礼。
夫が女を連れてきたと知らせに来た時とは打って変わって颯爽と足取りも軽やかに去っていく。
可愛らしい後姿にマリーは小さく笑みを零すと締め切っている窓から見える空を見つめた。
父親は人間。母親は淫魔。
魔族と結婚した父の心は良く分からないが、深く愛し合っている両親の事をマリーは心から尊敬している。
年をとり、老い始めた父はお世辞にも素敵とは言いがたい。
人は見た目ではない。そう言い切る人がいるが現実では難しいと思う。
化け物のように醜く太り、脂ぎった男を果たして心から愛することが出来るのだろうか。
少なくともマリーは無理だと分かっている。
共同生活は出来るだろうが、きっと友愛や親愛を超えることは出来ないだろう。
年老いて背筋の曲がり始めた父を未だに麗しい美貌を保つ人外の母は心底愛している。
暇さえあれば娘であるマリーに対していかに夫が格好良いのかを話し続けるのだ。
惚気ている話を聞くのは辛いものがあるが、好きあっているのだと思うと我慢も出来る。
それに愛し合っている両親は、見ていて幸せな気持ちにさせてくれる。
「私も…そんな関係に憧れていたのですが…所詮は憧れ、なんでしょうね…」
ポツリと零した言葉に返してくれる相手は居ない。
何処かで新しい女を手篭めにしている夫を思うと自然と溜息が漏れてくる。
幸せとは言い難い生活ではあるが、悪いものではないだろう。
路頭に迷うことも無ければ毎日の食事に困ることも無い。
これ以上に一体何を求めろと言うのだろうか。
※ご静読有難う御座いました。