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マルスの家で引具の設定を終えたあと、ヨクリはそれから一週、フィリルに付き添い、強化図術の制御や体の動かし方を教えた。
場所は、基礎校だ。職員に連絡を取って施設利用の希望を申請すると、いとも簡単に通った。さすがは上級依頼だと納得し、そしてヨクリは確信していた。
信頼は、こつこつと築き上げるだけでは不十分で、地位によって盤石足り得る。冷えきっているが、それが世界の理だ。ただヨクリは地位も自らによって作れるものだと理解していたし、それを維持する困難も知っていたからそれらに異論を挟まない。
だが一方で、どうしようもない状況におかれてしまう理不尽もヨクリは身をもって知悉している。ヨクリ自身がシャニール人であるがゆえの迫害は大小あるが経験しており、それを呪うこともあった。
両者を知っているからこそといえるのかもしれないが、そういった身の上の人間は結果をなにより重んじるべきなのだ。平民や、更にそれよりも劣悪な立場のシャニール人など、生まれついて低い身分の者は個々の奮励によって地位を確立してゆくしかない。若いうちに努力を重ね、多くの人間が有能と認める場——具体的には上等校など、難関の突破によってのみ、己の出自を問われなくなる。
いくら不条理だと声を大にしようとも、信頼がなければ言葉に力などない。ヨクリは上等校に進学できなかったという事実から、ほかでもない己自身が原因で、この国から弾き出されたと痛感していた。
そんなヨクリにとって僥倖だったのが、マルスやアーシスが、二人が生まれ持った高潔さで、ヨクリに手を差し伸べてくれたことだった。マルスの場合は家が特殊でシャニール人に肩入れしやすいという面がないとは言えない(もちろんそれだけではないのだろう)が、アーシスにはそういう理屈が見当たらない。だから、こと精神の豊かさという点では、ヨクリは普段どちらかといえば粗雑な側面の多いアーシスを深く尊敬している。ヨクリがアーシスのような普通の——という言い回しは少しおかしいが、ただのランウェイル平民だったなら、シャニール人を迫害していなかったとはどうしても言えないからだ。
一週の教えを、フィリルはその身に余すことなく吸収した。少女はめきめきと上達を見せ、円形都市外へ出ても問題のないくらい(当然ヨクリらの付き添いがあってだが)に強化図術の技術は向上している。
それはヨクリの指導が特別よいというわけではない。ひとえに少女の性質が貢献していた。全武器学一位の身体能力と冷静さ、わからないところを物怖じせず問う賢さ。それらが短期間での大幅な上達につながっているのだ。
ともすれば、フィリルはこの国を担うような逸材になるかもしれない。事実、僅かの時間で初蝕を終えるなど、すでにその片鱗を見せつつある。ヨクリはその祝福を受けたかのような俊才に、素直に驚いていた。これほどの大器は、嫉妬など浮かぶ前に軽く吹き飛ぶ。
ヨクリは基礎校の演習場で、フィリルと対面していた。互いに、手に武器——引具を携えて。
少女の最終評価に、模擬戦闘を用いると決めていたのだ。今日はその実力を確かめる日だった。
ヨクリの手に持つ引具は普段使っている刀ではなく、基礎校が模擬戦等で使用する、生徒用のそれだ。刀よりも僅かに長い刀身の、両辺に刃の付いた軽めの片手半剣。縁取りのされた鍔を含め刃から柄頭まで銀色で、柄には申し訳程度になめし皮が巻かれている。
フィリルの引具は、ヨクリが買い与えたものだ。なぜヨクリだけ武器を変えたのかというと、ヨクリの刀は干渉図術が使えてしまうから、公平さを重んじるために基礎校から引具を借り受けたのだ。
(……わりと、人が多いな)
大人七、八人程度が縦に並ぶくらい高い天井に、大人数を収容できる空間は、全てが淡青色の素材でできている。その演習場内で、ヨクリは辺りを見回した。
模擬戦に使用する試戦場は、正四角形を描いた白線で床面が区切られている。枠の中でヨクリとフィリルは相対しているが、外には少なくない人数の基礎校生が観戦にきていた。特に上階の観戦席には、ずらりと生徒がならんでいる。
冬期休暇にもかかわらずこれだけの人が集まっているのは、ヨクリにはうまく推理できなかった。考えられるのは、フィリルの優秀さが生徒のうちで有名だという線。しかしそうだとしても、少女の性格から友人が多いとは思えないので、生徒間に今日の予定が知れ渡るという可能性はおそらくない。なら、職員が口でも滑らせたのか。ヨクリはつらつらと考えを巡らせていたが、実のところさして問題ではなかった。——見せ物にされるのは、気分はよくはないのだが。
「じゃ、はじめようか」
気軽にフィリルへ声をかける。少女は僅かに首肯し、槍を構えた。ヨクリは枠外の、立ち会いを申し出た若い女性職員に目配せすると、職員はこくりと反応を返した。肩よりも少し長い金髪の職員は腰に帯剣しており、柄頭を右手で触っている。
抜き身の長剣をだらりと右手に下げたまま、ヨクリは言った。
「手加減はいらないから」
「はい」
平静に返答したフィリルだったが、通常の精神ではありえなかった。なぜなら、対人の模擬戦は、基本的に図術をもちいないからだ。
そもそも基礎校とは、図術の基礎を学ぶために設立された学校であり、それは全て魔獣に対抗する力の養成を目的としている。そして業者とは、魔獣を討伐する依頼が主であり、犯罪者の摘発のような例外を除いて、図術は人間へ振るわれない。
ヨクリとフィリルがこれから行う図術使用ありの模擬戦は特例中の特例だった。ヨクリが提案を持ちかけた職員はさすがに難色を示したが、条件として、ヨクリは携えた引具での直接攻撃を絶対にフィリルへ当てないこと、そして、ヨクリがフィリルに対して致命傷を与えそうになったとき、職員がヨクリへの干渉図術の使用を厭わないことを約束した。つまるところ、フィリルの身の安全を絶対とし、ヨクリ自身はどうなっても——たとえ死亡しても構わないという約束だ。
(きみがどれくらいの力を持っているのか。ここで見極めさせてもらう)
ヨクリがフィリルとこうして手合わせをするのははじめてだった。力を量りたいのは少女とて同じだろう。実力の劣る人間に指導されるのはいくら無感情なフィリルといえど、不本意なはずだ。
「合図はいらない。きみの思う間でいいよ」
「わかりました」
鈴の鳴るようなフィリルの返事。即座に少女は地を蹴ってヨクリへ肉薄した。
初蝕の終わらないうちに図術は使えない。それは『生まれたての赤子が自在に歩けない』のと同じだと、図術研究者らの説にある。
初蝕とは、体に図術の使い方を植え付ける行為。つまり、初蝕を終えた者には図術を使うというある”器官”が備わる。
それは『手足のような、これまでとは全く別の役割を持つ器官』だ。目には見えないが、頭はそれを理解している。具者は、そういう感覚を初蝕によって植え付けられる。
眼前のフィリルは初蝕を終えた。当然、ヨクリも昔に終えている。その”器官”を呼び出すのは他愛もなかった。
少女が地を蹴る瞬間、ヨクリは強化図術を起動した。頭のなかにある五感とは全く別のなにかに火をともすような、あるいは電流が全身を駆け巡るような、そういう感触。ばちりという、自分のなかにあるなにかが鼓動し目覚める感覚とともに、周囲の人間が急激に遅くなる。
マルスの言っていた時間が引き延ばされるような感覚とは、これだ。だが、周りが遅くなったわけではない。ヨクリの世界が加速しているのだ。
ヨクリの目では霞のようにぼけていたフィリルが、鮮明に映し出される。少女は槍を振りかぶり、突進してきているところだった。ヨクリは強化図術の起動によってフィリルをはっきりと視界に捉えると、後方へ大きく跳躍した。
ヨクリの回避を見留めたフィリルは上へ構えた槍をくるりと回転させて力を殺し、攻撃の動作を中断、すかさず体勢を立て直す。
白線ぎりぎりのところに着地したヨクリだったが、少女の動向を注視するだけで、その場から動かない。
出し抜けにフィリルの槍が、ヨクリを間合いにおさめた。眉を顰めたヨクリだったが、横薙ぎに槍を振るうその腕の挙動に合わせて体を深く沈み込め、土蜘蛛のごとく地に伏し駆け出す。その一瞬、フィリルの瞼が大きく開かれたのをヨクリは見た。
「…………!」
フィリルの目からは、唐突にヨクリが消失したように見えただろう。少女の槍はヨクリの頭上すれすれを掠め、大きく空振りした。鋭い風切り音がヨクリの耳をなぶる。
ヨクリは低い体勢のまま剣を両手に持って力強く振るい、フィリルの槍を弾いた。フィリルの両腕が跳ね上がり、遅れて、甲高い金属音。少女の胴ががら空きになる。
しかしヨクリは隙の生まれた胴へ剣を滑り込ませずに、体を起こして左に飛び退り、少女と距離を取った。
一拍おいてフィリルは腕を引き戻し、間合いを詰めつつ槍を半回転させながら刃を振るうが、ヨクリはこれも剣で刃先を弾き軌道を変え紙一重の見切りをもってさけると、更に左へ足を滑らせた。
フィリルはなおも攻めの姿勢を崩さない。体の右方で槍を旋回させつつヨクリへ接近し、下から上へ刃を一閃させる。ヨクリは槍の長さを知っていたので、冷静に目測して足を引いて、ぎりぎり回避する。
それを予知していたように、さらにフィリルは踏み込んで事前の槍の円運動を生かし、逆の石突きでヨクリに奇襲をかける。鮮やかな槍さばきだったが、ヨクリは直前の少女の所作から追撃を察し、軽く後方へ飛び、これもかわした。
ちょうど、試合前と逆位置で二人は硬直する。
「…………」
驚くほど滑らかに動く少女に、ヨクリは舌を巻いていた。その所作には無駄が無く、まるで何年も研鑽を積み重ねてきたかのようだ。だが。
明らかにヨクリは手加減していた。フィリルの才は紛れもなく本物だが、ヨクリは今の自分の力量が少女より劣っているなどとは露ほども思っていない。逆にそうであるならば、そもそもこんな模擬戦を提案したりはしない。
ヨクリのその自信は、ただ一つ。経験の差だ。フィリルに勝っている点は、戦闘経験の量や図術や体術の試行回数。実に単純な差だが、しかしそれは具者対具者の戦闘では計り知れない強みとなる。
「どうした? 遠慮はいらないって言っただろ」
ヨクリは普段の柔和さを一切見せない、挑発するような言葉をフィリルに叩き付ける。その表情は剣呑さを隠そうとしていない。
三年の間業者を続けてきたヨクリは己の体格や顔、出自、自らを構築する全てが他の業者に食い物にされる大きな切っ掛けになるとはじめの一月で知った。ヨクリは実力の他に、他者に対して威嚇するような一面が必要だと悟り、依頼を受け、戦闘になった際につける仮面のようなものを身につけた。その仮面がこの剣呑さと、荒っぽい口調、それと、底冷えするくらいに殺気立った気配。
(化けの皮を剥がしてやるよ)
——フィリルのその不動を貫く面貌を。
ヨクリはこれまで保っていた守勢を一転させた。不利なはずの槍の間合いを恐れなく一瞬で詰める。邪魔な刃を長剣で打ち、正面へ体をねじ込む。不意を突かれたフィリルは強引に槍を引くが、刃は届かない。
フィリルが刃を上げながら後ろに移動して距離を白紙に戻そうとすると、好機と見たヨクリは合わせて前進。
ついに長剣の刃と槍の柄が斬り結ぶ。
互いの鼻先が触れそうな距離。つばぜり合いの状態で、ヨクリはフィリルを威圧的に見詰める。
ぎちぎちとした感触が手元に伝わる。フィリルはやはり平静を保っているが、もう剣の間合いだった。ヨクリはにやりと笑みを浮かべると、ぐっと両手と腰に力を溜め、少女の体を槍ごと押しやった。
僅かに開いた空間をものにしたのは、ヨクリだった。長剣を盾にして強く地を蹴り躊躇なく体ごと突っ込むと、けたたましい音とともに、フィリルの小柄な体躯が後方へ吹っ飛ぶ。
試合線すれすれで受け身をとったフィリルに、ヨクリの影が落ちた。
ヨクリは長剣を大上段に振りかぶった。天窓から射す光はヨクリの影を少女に落とし、その体をすっぽりと覆った。
少女は弾かれたように膝立ちしつつ柄で防御しようとするが、ヨクリは刃を閃かせず、体を捻って槍へ蹴りを叩き込んだ。
「……っつ」
がつ、という音と、声にならない声を残して、フィリルの体は白線の外へ弾き飛ばされる。
今度は受け身をとれなかったらしく、少女は姿勢を崩した状態で床に横たわっていたが、槍は手放していない。
ヨクリは造作なくフィリルに近づくと、剣の切っ先を突きつける。
「立ちなよ」
それは普段のヨクリとはとても似つかない冷徹な声色だった。
「……」
フィリルは打ち所が悪かったのか、左足を左手で抑えながら、ゆっくりと体を起こす。
「やめなさい!」
誰かが間に割って入る。ヨクリはそれが誰なのか予想はついていた。
利発そうな碧眼の、金髪を後ろに流した女性職員だ。やはり、職員は佩いていた剣を右手に握りしめている。強化図術を起動済みなのだ。
強化図術の大きな欠点として、図術を起動しているものとしていないもので会話が成り立たないという点がある。図術によって強化された筋力と知覚をもって行われる会話は、起動しているもの同士でしか通じないのだ。端的に説明すると、図術を用いていない人間からは、会話がもの凄く早回しに聞こえる。単語のみだとほぼただの音にしか聞こえない。
だからヨクリの言葉に反応できるのは、この場で引具を携えている人間。ヨクリを除くとフィリル、それに立ち会いの女性職員だけだった。
「場外です! 彼女の負けでしょう!?」
「負け? 勝ち負けで模擬戦をやっているつもりなんて、ありませんよ」
「なんですって……?」
青筋を立てて詰め寄る職員を無視し、ヨクリはフィリルに向き直る。
「立ちなよフィリル・エイルーン。まだ終わっていない」
「だからあなたは……!」
「俺は彼女に訊いているんだ。邪魔をしないでくれ」
瞬間、職員の目がすっと細められ、がらりと雰囲気が一変する。その瞳は先ほどヨクリのたたえていた表情と同じ。
——戦の仮面だ。
ヨクリと職員の間で、寒気を感じるほど冷たい空気が漂いはじめる。
金髪の職員が剣を構えるより早く、ヨクリは軽く足を後ろに運んで距離を取った。
そして職員が戦闘態勢に入ろうとした、そのとき。
「あなたの相手は、わたしのはずです」
フィリルが槍にもたれ、杖がわりにしながら、ヨクリに平坦な声音で告げた。
その言葉を聞いたヨクリは、ふっと剣をさげ、一度瞳を閉じ、
「……うん、もういい」
剣呑な表情をおさめ、フィリルに柔らかく微笑んだ。
「……続けるのでは?」
「いや、もう終わりだよ。足、痛むんでしょ?」
「まだ続けられます」
「そうじゃなくてえーっと、その……合格だってこと」
左手で頭を掻きながらヨクリはフィリルに近づく。
そして、よくがんばったね、と少女の肩に左手を軽くおいた。
■
ごっ、という鈍い音が聞こえた。ヨクリは殴り飛ばされ、廊下の壁に背中をしたたかに打った。息を詰め、ぐっと僅かに呻く。
拳の軌道は見えていたので避けようと思えば避けられたのだが、そうすることはできなかった。それが責任だからだ。
基礎校一階の医務室前の廊下で、ヨクリは先ほどの職員に険しい顔つきで叱責されていた。
「なぜ殴られたのか、おわかりですか」
冷やかに、女性の職員はヨクリに問うた。
「すみません」
口を切ったらしく、鉄の味がする。しかしそれや頬の痛みに構わず、ヨクリは深々と頭を下げた。
「理由をお聞かせ願えますか」
「試したかったんです」
「試す?」
「彼女の技術は俺もよく知っています。……今の力量でも、下級の獣なら問題ないでしょう」
ヨクリが答えると、職員はさらに問いを重ねた。
「なら、なにを試したかったんです」
「彼女の度胸……というのは少し変ですが、さっき俺とあなたの周りにあった空気。あれに耐えられるのかどうか。それをみたかった」
相手を殺すという気迫は、根源的な恐怖を相手に与える。そしてそれは、弱冠十五のフィリルを計る大きな指針になる。
ヨクリはこの模擬戦で、技術よりもむしろその胆力を見極めようとしていた。ここで腰が引けるようなら、殺気をまき散らす外の魔獣に相対させることなどできはしない。
「……嘘ではないみたいですね。……ですが、それをするのなら、私に言って下されば」
はあ、とため息を吐きながら、呆れ混じりで職員はヨクリに言う。
「あの子は聡いですから。まだほんの少ししか彼女と会話していませんが……もしかしたら、俺の考えがばれてしまうんじゃないかと思って」
「確かに……フィリルさんは愛想がよいわけではないのですが、勘の鋭いところがあります」
「じゃあ、エイルーンの?」
「はい。あの子は私の担当です」
「そうですか……あ、えっと、すみません!」
ヨクリは頷き——職員とのやり取りを急に思い出し、反射的に重ねて謝った。
「?」
「いやあの……とんでもない振る舞いをしてしまって」
「ああ……」
職員は苦々しく笑いながら手を振った。
「お名前、伺っていませんよね」
「そういえば……フラウ・リズベルと申します」
「ヨクリです」
手を差し出すと、フラウは握手に応じた。
握手を交わしたあと、フラウは生徒に対するような、厳しめだがどこか優しさの感じさせる表情でヨクリに言う。
「ヨクリさん。あなたの行動は理解できますし、仕方がなかったのかもしれませんが、少しフィリルさんには厳しいと思います。確かに優秀生に選ばれるほど彼女はひとより優れていますが、かといってあのような折檻に近い行いは私は感心しません」
「……すみません」
学生のころに時間が移動したようだ。ヨクリはなぜか逆らう気力が起きない。ただ、意図だけは伝えておこうと思い、口を開く。
「でも、俺は間違ったとは思いません」
「なぜです?」
「死ぬよりは、絶対にいい。俺は彼女をいたずらに傷つける意思はない。もし俺がやりすぎたのなら、俺の依頼を撤回すればいいだけ、ですから」
「……」
「……エイルーンは優秀生だから。これからさき、上等校へ進学する道もある。そのときでは、もう遅いかもしれない」
言葉尻に妙な色が混じる。余計に口走ってしまい、ヨクリは内心でしまったと思った。キリヤの提出した資料以上のことを基礎校側に調べられると、ヨクリにとっては非常にまずい。
おそらく、この学校——基礎校レンワイス管理塔東は、キリヤの身分から、ヨクリを深く調べていない。仮にそうなら、ヨクリはフィリルの教育の任を降ろされているはずだ。
フラウはヨクリの憂事には気がつかなかったようで、
「…………よく、わかりました」
どうやら矛をおさめたようだった。
「それはそれとして、素晴らしい腕でした」
「……ええと?」
話の展開についていけず、ヨクリはほっとする暇もないまま首をかしげる。
「フィリルさんとの模擬戦。余裕のある、洗練された動きでした。うちの基礎校の職員と遜色がないくらいです」
フラウの声色は、純粋にヨクリを賞辞するものだった。
その声に、ヨクリは少しの会話で感じていた違和感を悟る。シャニール人に対しての嫌悪感が、フラウからは感じられないのだ。教職だからなのか、全くといっていいほど普通の感触だった。褒められたことと合わせて、なぜか恥ずかしくなる。
「そんな、俺なんてまだまだ……」
ヨクリは居心地悪そうに頬を掻いて、「あいてっ」と、そこが殴られた側だったことに気づき、痛みに眉をひそめる。
「ごめんなさい。痛かったでしょう」
「いえ、文句を言える立場じゃありませんから」
フラウの謝罪に、ヨクリは首を振って答える。フラウは少しだけ困った顔をしたあと、そろそろ時間だと、ヨクリに告げた。
「私は、まだ仕事が残っていますから、このあたりで」
「あ、はい」
「フィリルさんをよろしくお願いしますね」
「はい」
両者頭を下げ、別れる。ヨクリはフラウを見送ったあと、医務室の扉を開いた。
■
部屋に入ると、つんと薬の匂いが鼻をつく。設備の整った医務室には様々な薬が棚に並んでいるが、そのほとんどは医員が不在のときは使用できない。
窓から差し込む光は、夕方のそれだった。橙色をした光が床に反射し、白を基調とした部屋に色を添えている。この部屋だけ、ゆっくりと時間が流れているように感じられた。
ヨクリは辺りを見渡してからフィリルの腰掛けるベッドに近寄った。
「痛む?」
「いえ」
「そう」
そんな少女に、ヨクリは謝らなかった。ここで謝ってしまっては意味がない。フィリルはヨクリの頬を見て目をしばたかせながら問う。
「……顔、どうしたんですか」
「殴られた。きみの先生に」
少し腫れた頬をさすりながら、苦笑しつつフィリルに答える。
「そうですか」
「いい先生だね」
フィリルの首肯にヨクリはフラウを褒めるが、それには反応をみせなかった。
淡々と会話を交わすなか、ヨクリには僅かに、少女のまとう雰囲気がかわっているような気がした。
「……怖かった?」
「なにがです」
「俺が」
「そんなことは、ありません」
少女の返答に、ヨクリは眉尻を下げる。
「嘘ばっかり」
「嘘じゃ……」
「嘘だよ。手、震えているじゃない」
否定しようとしたフィリルはヨクリの台詞に、ヨクリから顔をそらして両手を見て、目を丸く開いた。
フィリルは、驚いたのだ。
「……」
「別におかしくないさ。はじめて人から明確な殺気を向けられたんだ。エイルーンはまだ、十五歳じゃないか」
その少女の表情に、ヨクリは少女のそれよりも驚きたかったのだが、言うべきことがある。
「もちろん、俺にはきみをどうにかしようなんて気は全くなかったけれど。でも、その感情を向けられてきみがどうするのか。それを、確かめたかったんだ」
ヨクリはフィリルの目を見ながら、できるだけ優しい口調で言う。
「きみは、怖かったんだよ。……でも、勇敢だった。よく頑張ったね」
深く微笑みかけ、フィリルをねぎらった。頭の隅で少し少女に近づきすぎか、とも思ったが、この場合自分の私情と仕事は関係ない。褒めるべきところは褒めるべきだと言い訳じみた考えをする。
しかしやはりどうにも長くは慣れず、空気を切り替えるために提案した。
「飲み物かなにか、持ってくるよ。待ってて」
そっと声をかけると、少女はこくりと頷いた。
ヨクリは静かに扉を開き、外へと出る。
■
フィリルはヨクリが退出したあと、しばらく医務室の扉を見詰めていたが、ぽつりともらす。
「わたしが……そんなはず、ない」
平坦だったが、聞いていた人間が居たとするなら、ごく僅かに、なにかの色を感じるような、そんな声音だった。
フィリルはやがて瞳を閉じ、俯く。震えの止まった両手でぎゅっと白いシーツを握りしめる。
誰も居ない部屋のなかでひとり、首を横に振る。フィリルの動作に合わせてゆるく、さらさらと青髪が揺れた。
「だって、わたしはもう……」
夕日に照らされるなか、フィリルは言い聞かせるように、ほんの少しの音でささやいた。