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途上のシャムロック  作者: 納戸
贄のこども
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   2

「じゃあ、今日中に設定してしまおう」


 山ほど紙袋を抱えたマルスが休憩所に帰ってきたあと、三人は列車を乗り継いでマルスの家までやってきた。ヨクリとフィリルは、マルスに昨日おとずれた作業場へ通される。

 がしゃ、とマルスが壁に取り付けられている金属の棒を上に押し上げると、部屋の四隅からじわりと光が漏れはじめた。


「それは、図術ですか」


 フィリルの問いにマルスは頷いて答える。


「そうだ」

「高いんだよね……?」

「まあな。ただ、いちいち蝋燭に火をともさなくて済むし、火事の心配もない。……この部屋は燃えやすいものが多いからな」


 言いながら、マルスはがちゃがちゃと木張りの机上に自身が購入した図術用品を並べ、必要なものを選りわけている。次にあの怪しげな装置を引きずりながら運んできて、その脇に今日ヨクリが買った品を置いた。


「そのへんに木槌があるだろう? 取ってきてくれないか」


 部屋隅の椅子に座っていたヨクリはマルスに言われたとおり腰をあげ、木槌を探す。


「その山のあたりにあるとおもう」


 木や鉄の端材やなにかの部品など、こまごましたものがうずたかく積まれたところを指差される。ヨクリは手探りで見つけようとするが、その一角を崩すたびに埃が舞う。口内に塵が入り、じゃりじゃりとした感覚に顔をしかめた。


(きったねーなぁ……掃除しろよ……)


 面に出さず悪態をつきながら捜索し、埃をふんだんに被った木槌を救出する。


「ごほっ、ごほっ……これ?」


 ヨクリは咳き込みながら渡すと、マルスは「ああこれだ」と受け取る。そしておもむろに金属の立方体を装置の天板に掘られた溝へ差し込み、上から木槌で叩きはじめた。がん、がん、と、耳障りな音が部屋に響く。


「……大丈夫なの?」


 叩かれている装置が繊細そうに見えたヨクリは、心配しながらマルスに訊ねる。


「問題ない。こうしないと台座がはいらないんだ」

「入れているのが連結台座?」

「そうだ。施文するときに必要になる。施文装置と引具をつなげる役割をする」

「じゃあやっぱり、それって施文装置だよね……?」

「ああ」


 ヨクリはその説明を聞いてなおさら不安になった。施文とは、ひな形の状態にある引具に紋様を施す作業だ。聞いただけで慎重に扱わないといけない気になるのに、木槌でそれを叩くなど、故障の原因になるのではとはらはらする。


「……叔父のつくったものだからな。滅多に壊れない。仮に不具合が起こったとしても、内外の要因を問わず結果と素体両方を守る。装置の役目を完璧にこなすんだ」

「君の叔父って、図術士だったよね?」


 ヨクリはマルスの叔父と面識がある。シャニールについて何度か言葉を交わしたが、図術士と言われても凄すぎてぴんとこないのは本当のところだ。


「あぁ。クラウス・ファイン。ファイン家の現当主だ」


 図術士とは、図術・引具・エーテルの三要素に博識な人間の称号だ。名乗るには国の認可が必要で、ランウェイルの図術発展に大きく貢献した人間のみに与えられる。なまなかな力量では授与されず、そこいらの具者などとは比べ物にならない知識が必要で、図術士でなければ使えない大掛かりな図術も存在する。


「槍を取ってくれ」

「わかった」


 マルスに求められ、ヨクリは購入した槍斧を手にとり、マルスに渡した。ついでに隅のフィリルに手招きをする。ヨクリに気づいた少女は、ゆらりと二人が集まる装置へ寄った。


「よし」


 台座に槍を置いたマルスは、箱形の装置に黒い外装の紐を取り付け、反対側の先端に着けられた金属棒をフィリルに握らせた。


「僕がいいと言うまで、離さないでくれ」

「これは?」


 フィリルが問う。


「それで君の波動情報を読み取る」マルスは装置の正面に腰をおろし、「エーテルは物体を成す要素という説明は覚えているか?」

「はい」


 こくりとフィリルが首肯する。マルスはがちゃがちゃと鉄でできた管やら金色の細長い部品やらを装着しながら、


「エーテルが物体を形作るとき、その物体ごとに特定の情報を持つようになる。それが波状に認識されることから、エーテルの情報そのものを波動情報というんだ。物体ごとに波動情報は異なっていて、つまり、僕やヨクリ、君にもそれぞれの波動情報がある。付け加えるとそうだな……例えば今ここでヨクリの右腕を切断したとする」

「笑えないぞ」


 腕を組んで黙していたヨクリは、聞き捨てならない言葉に嫌そうな顔でマルスに突っ込むが、金髪の青年はどこ吹く風で続ける。


「ヨクリと右腕は物理的に切り離されてはいるが、同一な波動情報を持つ。元が同じ物体だったからだ。しかし、ヨクリの右腕からエーテルを取り除いて崩壊させた場合、なんらかの手段を用いて再び右腕を構築しても、構築された右腕とヨクリの波動情報は異なってしまう。これが波動情報のおおまかな特徴だな」


 マルスは一息でそこまで言い切ると、装置の上に乗っている槍を指差し、


「今から君の波動情報を引具に記録し、君専用の引具にする」

「わたしの」

「そう。設定したら、もう君以外扱えない」


 マルスは装置の正面に付けられている窓のような四角い面を見ながら、そのすぐ下から突き出た板を両指で叩いている。窓は淡く発光していて、ヨクリには読めない文字列がつらつらと並び、下方へ流れてゆく。ヨクリが何度も見た光景だ。

 これまでの推測から、どうやら窓に表れている文字でなんらかの情報を読み取り、板で装置を操作しているらしいが、文字が読めない以上やはりヨクリにはマルスが具体的になにをしているのかさっぱりわからなかった。


 装置の右上に取り付けられた小さな箱は、エーテルシリンダーに似ているが、それよりもかなり大容量だ。ぼこぼこと、中の液状になったエーテルが泡立っている。


「よし、もういい。手を離してくれ。ああ、そこら辺に置いてくれればいい」


 フィリルはマルスに従い、金属棒を手放して足下にそっとおいた。

 シリンダー内の気泡が大きく激しくなると、台座に乗せられた槍斧が淡緑色の燐光をまとい、やがて収束する。


「完了だ。これで、この引具は君のものだ。まだ槍斧には触れないでくれ」


 マルスが注意を促すと、少女はこくりと首肯した。


「これじゃまだ、なんの図術も使えないでしょ?」

「いや、強化図術はどの引具にもあらかじめ施文されている。……具者が絶対的にそれ以外の人間よりも強い理由はヨクリも知っているだろう?」


 そうだった、とヨクリはマルスの説明で過去に習った事柄を思い出し、


「強化図術が一番の要因だって聞くよ。現に俺だって、戦いではそれしか使わないときがあるからね」


 マルスはヨクリの応答に頷き、右手の中指で眼鏡のふちを押し上げフィリルのほうを向くと、


「具者が戦闘で用いる図術は、主に二種類ある。一つ目は僕とヨクリが言った強化図術。もう一つが干渉図術だ。……干渉図術に関しては、今は後回しにしよう」


 ヨクリはマルスの提言に少しだけ逡巡してから、


「それがいいね。そもそも強化図術が使えなきゃ、干渉図術の話はできないし」


 ヨクリの了解を得たマルスは、こほんとひとつ咳払いして説明をはじめる。


「強化図術は、ヒトの身体能力を底上げする機能を持っている。一斉蜂起の際に世界中で繁殖した魔獣に対抗するためにつくられた術だ。言ったとおり具者最大の武器で、強化図術の扱いが個人の戦局を左右すると言っても過言ではない」

「身体能力……」

「向上するのは力と認識力——知覚だ。力は想像しやすいと思う。主に筋力の強化だ。それと、上昇した力による肉体への反動を打ち消す。知覚は使ってみればわかるんだが、あれは少し独特だな。時間が引き延ばされる、という感じが近い」

「時間が?」


 小首をかしげつつのフィリルの問いに、ヨクリが反応する。


「加速した体に精神が置いてきぼりにならないように、五感が研ぎ澄まされるっていうのかな」


 独り言っぽい口調で呟いたあと、


「マルスの時間が引き延ばされるってのは、よく特徴を表してると思う。ただ、言葉にすると簡単なんだけど、やっぱり実際に使うのと、頭だけで理解するだけとでは全然違うよ」


 これについては追々だね、とヨクリが言う。それにマルスが頷き、付け加える。


「強化図術は、痛覚もある程度抑制する働きがある。戦闘において痛覚というのは往々にして邪魔になることのほうが多いからだな。ただ、留意してほしいのは飽くまで”抑制”にとどまるという点。それと、腱や骨を傷つけられたとき、その察知が遅れるという点だ」

「うん。甘く見ていると、突然足や腕が動かなくなっている、なんて事態もあり得るからね」

「わかりました」


 それぞれの解説に、フィリルが首を縦に振った。


「こんなところかな?」


 とヨクリが聞くと、マルスは「これは蛇足になる話だが」と切り出す。


「今説明した強化図術こそが引具や図術研究の粋だと言われているんだ。これが全ての引具に備わっている理由は、その紋様が精巧かつ繊細だからだ。そこらの施文士では到底把握できないほど緻密につくられている」

「逆じゃないの? そんなに難しいものなら、全ての引具にあるほうがおかしくないか?」

「違うんだ、ヨクリ。量産品から特注まである引具だが、施文部は全て国が作成している」


「国が?」

「正確には国の図術士が、だ。……紋様は一般の人間が書き換えられないよういくつもの偽の紋様で防護されている。暴走を起こさないためというのが名目上の理由ではあるんだが、様々な利権なども絡んでいるんだろうな。引具や図術の情報開示は他国にされているものの、技術に先んじているランウェイルはやはり主導権を握りたいらしい」


 マルスの口上に思い当たったふしがあり、ヨクリは聞く。


「そういや、このまえフェリアルミスの議会がそんなふうな話をしていたね」

「ああ。ざっくり言うと、諸外国の、ランウェイルに最新図術の情報開示を更に求める声がここ数年で高まっているという時勢があるが、隣国のスールズとの深刻な摩擦があるなか、ここから先公開していく内容にどう折り合いを付けるか、という内容の議論だったな」


 マルスはここで長い台詞を一旦きり、


「まぁ、実際の話し合いは見聞きに耐えないものだったがな。遠回しに、図術利権に固執する貴族議員がどう利益を確保するかという実にみっともない議論だったよ」


 あれは議論とも呼べるかどうかもあやしい、とすこしうんざりしたように言う。


「さすが貴族。詳しいじゃないか」

「いや、僕はまつりごとについてはからきしさ。言い訳じゃないが、ファイン家は昔から統治貴族ではないからな。代々持った知識や知恵を統治貴族へ伝えたり、一族の人間を派遣したりすることで、彼らのおこぼれに預かっているようなものだったし」


 言外にこの程度の知識は常識だと言われたような気がして、ヨクリは頷きながらも決まりが悪かった。



 貴族には統治貴族と、統治区を持たない貴族の二種類が存在しており、ファイン家は後者だった。キリヤの属するステイレル家は代々統治貴族で、ランウェイルの東方に統治区を持つ。

 当然統治区を持つ貴族のほうが権力も強く裕福だが、有事の際はその区域で起こった事象の責任を全て取り、また統治区民の信頼を得なければ満足のいく政治が行われない。


 人の大多数が円形都市へ移住してもなお、ごく少数だが統治貴族は存在しており、統治規模を円形都市内に縮小した形で継続している。それぞれの円形都市にはそれぞれの議会が存在するが、統治貴族の統治する区域は、法やしきたりの施行を議会に代わって行う。基本的に円形都市議会で締結された法律などを統治区へ広めることが主だが、その法が不服な場合は、正当な理由があれば例外的に適用を拒否することもできる。


 ファイン家のような統治区を持たない貴族は技術や知識、資金など、形式は様々だがそれらを統治貴族や公共団体へ貸与、譲渡することで貴族の地位を確保している。

 安全で地価の高い円形都市に統治区域を持つ貴族は、それ相応の資金を持っていなければならない。故に統治区域を持つ貴族は力の強い家々に限られる。



「大人の政治話ほど、子どもにとって詰まらないものはないだろう」


 ヨクリの内心を知ってか知らずか、マルスは脇道に逸れた話を打ち切った。


「さて、それじゃあ実践といこうか」

「ここで? 大丈夫なの?」


 これからのことは基礎校に問い合わせてから行おうと思っていたヨクリはきょとんとする。


「問題ないだろう。空き部屋がある。なにかあれば、そこで休ませればいい」

「いや、許可とか」

「それも問題なかろう。事前に署名しただろう? 落ちぶれたとは言っても、貴族だからな。あれで足りるはずだ。……それでも不足なら、あとで叔父にも頼むさ」

「なにをするんですか?」


 二人の話を黙って聞いていたフィリルが反応する。


「初触って聞いたことある?」

「しょしょく?」


「よし、それを説明してから行おう」


 マルスはそう言いだして、


「初触とは、人間が初めて引具——図術に触れることを指す」


 よくわからないというふうにまばたきするフィリルにヨクリは、


「エイルーンは、そもそも図術をどう使うか想像できる?」

「…………」


 少女はヨクリの問いかけに沈黙で返す。


「わからないよね。俺もわからなかった」


 うん、と首を縦に振りながらヨクリは言い、


「図術を使うって感覚を体に植え付ける。それが初触」

「感覚」


 単語を抜き出して呟いたフィリルの表情はやはりかわらない。

 ヨクリはさきほどの問いを返したマルスの、その理由を聞いていないと思い出し、青年に小声で耳打ちする。ヨクリは、答えて貰わなければ納得できなかった。


「……それはそれとして、副作用は大丈夫なの?」


 マルスは顔を寄せたヨクリに、


「問題ないさ。……君が想像してる事態に関してもな」

「答えになっていない」

「暴走なんて起こらない。そもそも初触が原因で起きた暴走の事例は、図術の発展が安定期に入る以前の出来事だ。最後に起こったのはもう七十年も前だぞ」

「そうだとしても、絶対に起こらないという理由にはならないじゃないか」

「……まぁ、君の気持ちはわかるがな」


 マルスはふう、とため息をついたあと、


「ここで彼女に初触を経験させないというのなら、僕の協力はここまでだ」

「なぜ」


 青年の返しにヨクリは表情を固く強張らせる。


「逆に問おう。どうしてそこまで避ける」


 質問に質問で返すな、なんていう言葉を口にするほどの余裕はない。


「それは……責任がとれないから」

「嘘だな」

「……」


 マルスの断言に、ヨクリはなにか反論を返そうとすこし口を開け、しかし諦めて認めた。


「……そうだよ。俺は怖いんだ」

「彼女はもともと君とは無関係だろう。……そのために、彼女を姓で呼んだりなんかしているんじゃないのか」

「そう、だけれど」


 ヨクリのどちら付かずの返答に、マルスは一度瞳を閉じ、再び開くと、ヨクリに諭すように言った。


「忘れろとは言わない。だが、そろそろ慣れろ」

「…………わかった」


 ヨクリの許諾に、マルスは「心配いらないさ」と保証したあと、フィリルに向き直った。

 二人のやりとりに興味はないのか、ぼうっと立ったままの少女に、マルスは告げる。


「待たせて済まないな。それじゃあ、はじめよう」

「なにをすればいいんですか」


 フィリルが聞くと、マルスは槍斧の引具を指差し、


「難しくはない。君の引具に君自身が触れる。ただそれだけだ」


 マルスはそう答えると、机上の袋から小さな箱を取り出す。次に台座の上に置かれた槍斧を手にとり、シリンダー挿入口を開いた。


「こいつを入れてやらないとな」


 マルスは小さな筒——エーテルシリンダーを挿入口に差し込む。


「さて、そのまえにいくつか注意点がある」

「注意点?」

「ああ。一つ目は、初蝕は慣れるまで一週程度かかること。だから、定期的に初蝕を終えるために引具に触れる必要がある。次に、初触は苦痛を伴うということ」


 黙していたヨクリは、マルスの言葉に言い添える。


「……初触はさっきも言ったけれど、図術を使うって感覚を体に覚えさせる目的で行うんだ。だから、その唐突な違和感に体調を崩す人も居る」

「そう。頭痛や吐き気、めまいなど、人によって症状は様々だ。体に不調を感じたら、すぐに引具から手を離してくれ」


 マルスは「それと」と補足して、


「……滅多にないが、初蝕をすぐに終えてしまう人間もいる。そのときは、図術の使用は禁止だ。図術の訓練は、ここではできないからな」

「わかりました」


 フィリルの了解にマルスは、


「じゃあ、君に引具を手渡す」


 マルスはフィリルに近づき、引具を少女に手渡した。


「…………」


 引具を受け取ったフィリルの周りから、薄緑色の燐光が溢れ出す。以前エーテルの説明をしたときにこの部屋でヨクリがまとっていたそれよりも、少し青みがかっている。フィリルは燐光が眩しいのか、瞳を緩く閉じた。


「……落ち着いているな。その光は、エーテルが気化した際に発生する光だ。色は見た通り薄緑色だが、個人差がある」


 フィリルの気負いない様子に感心しながら、マルスが説明する。

 少女のまとう燐光が徐々に大きくなりはじめる。フィリルの足下から放射状に光が床へ伸び、下からヨクリらを淡く照らす。


「……む?」


 マルスは疑問の声をあげた。

 燐光が床一面に広がったあと、それは少女の体へ収束しはじめる。


「これは……」


 一度光がまばゆく輝き、ヨクリはとっさに左手を掲げ、顔に影をつくった。しばらくののち、それは唐突に消失する。


「……」


 フィリルは終息を悟ったように、閉じていた瞼をあげた。


「まさか、終わったのか?」

「…………はい、おそらく」

「どうやって図術を使うのか、理解できるか?」

「駄目と言われたので行いませんが、使えると思います」

「…………すごいな」


 マルスのつぶやきは当然だった。初蝕をこんなに短時間に終えた人間は、先ほどマルス自身も言ったようにごく稀だったからだ。刹那、マルスの表情の変化に気づかず、ヨクリは顔を庇ったまま、呆然と光景を眺めていた。


「…………」

「ヨクリ?」


 マルスは黙ったままのヨクリのほうへ振り向き、


「ヨクリ」


 再びヨクリへ呼びかける。


「…………」

「ヨクリ!」


 マルスは反応しないヨクリへ半ば怒鳴るように名前を呼んだ。ようやくヨクリはマルスの声に気づき、手を下ろして、


「……あ、うん。どうしたの?」

「どうしたの、じゃない」


 ほうけたさまで返答したヨクリへ、マルスは厳しい口調で返す。


「今の君は普通じゃない。……すこし外へでて落ち着いてくるんだ」


 マルスはヨクリの背中を押しやり、部屋の外へ出した。



 ふらふらと歩いて扉を開き、鏡の前へ立つ。

 途中ファイン家の、顔見知りの使用人に心配されたが、半ば無視してやり過ごした。


「…………」


 ヨクリはマルスの家の洗面所で、流しに手をつく。鏡の中を覗くと、ヨクリの顔は色が抜けたみたいに青ざめ、表情を忘れたように顔が固かった。


(似ていた)


 外見が似ているわけではない。雰囲気が似ているわけでもない。どちらかといえば、似つかないといってもいいくらいに、共通点はなかった。ただあるとするなら、その冷静な一面だろうか。


(違う。そうじゃない)


 フィリルの初蝕の様子に、ヨクリは強烈な既視感を覚えていた。


(——と、おなじ)


 ヨクリの記憶のなかに今もいる少女も、フィリルと同じだった。


「……」


 顔をあげて鏡を見ると、マルスも言ったように酷い顔をした自分が映っていた。ヨクリはそのさまにふっと一人薄く笑う。


(これは、思い過ごしだろうか)


 ヨクリは心のうちに芽生えた嫌な予感に、自問自答する。

 やがてヨクリは首をゆるく横に振る。


(わかるわけがない。俺には、やることしかできないだろう)


 そう言い聞かせると、ヨクリはぱしゃぱしゃと顔を洗った。刺すように冷たい水が、今は心地よかった。

 備え付けられた布で顔を拭うと、鏡の男はさっきよりも随分ましに見えた。


「そろそろ、戻るか」


 ヨクリは一度深呼吸したあと、扉を開けた。

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