二話 縹渺の息吹
日も落ちてからかなり経ち、窓の外には月が浮かび、月光は雲に覆われて朧だった。
キリヤは、窓際の机について、右手で受信機を耳にあてている。燭台の明かりでキリヤの影が机と壁にくっきりと映し出されていた。
落ち着き払った様子は、キリヤの周りに漂う空気を凍り付かせさえしそうな冷徹な雰囲気を覚えさせた。受信機の向こう側の声はもの静かだが、獰猛な獣のような鋭利な印象を与えている。
しんとした室内は、二人の話し声がつぶさに聞き取れるほど沈静していた。
「…………はい、経過は順調です。不測が僅かに存在しますが、無視できる程度です」
『……予定通りに運ぶように進めろ』
「はい」
『異変が確認され次第、私もそちらへ向かう』
「出向かれるのですか」
『私でなくては制御できない』
「…………」
『連絡を怠るな』
「了解しました。……失礼致します」
キリヤは受信機を置くと、ため息を漏らした。
前に垂れていた右の赤髪を掻きあげ、後ろに流す。山積みになった書類を脇にどけ、冷めたカップをなめるように啜り、顔をゆがめた。
「…………」
カップを置き、両肘を机につき顔の前で手を組んで俯く。
「……私は」
儚げなささやきの続きは窓の闇にとけ込み、誰も耳にすることがなかった。
■
図術強化の施されている区域は、ヨクリにはあまり馴染みがない。下流から上流までおおまかに区分されている円形都市内で経済の中枢を担っており、富裕層のみが暮らしている場所が上流層だ。建造物も下流や中流層のそれとは比べ物にならないほど大規模で、高さも中流層の建造物の三、四倍はある。
陽光をきらきらと反射する青色をした素材の建造物は、すべて図術で保護されている。それは魔獣の襲撃や、引具を用いた犯罪への対策だ。ちなみに、基礎校だけは上流層の建物と同じ素材でできている。生徒の図術訓練に耐えうる建物である必要があるからだ。
上流層と中流層の丁度境目には鉄道がぐるりと円を描くように敷かれており、放射状に外へ伸びている。そしてそれは円形都市の外へと続いていた。引具を扱わない人間が円形都市外を行き来するときには、必ずその鉄道を利用する。
中流層以下との格差は一目瞭然だが、これは図術実験の目的も多分に含んでいるらしい。最新の技術を建築に取り入れ、その成果は全て学術都市ハスクルへ伝達、さらに改良される。事故などの危険はあるらしいが、それが貴族の役割でもあるのだとか。正直ヨクリにはその言い分は言い訳にしか聞こえない。そんなところに金を使うくらいなら、集落や下流層の暮らしを改善させたほうがいいのではないかと、そういう疑問があるからだ。ただまあ、ランウェイルの末席にお情けで置かれているヨクリにその意見をひけらかせるほどの度胸はない。
ファイン家で顔合わせと軽い講義をしたその翌日。
ヨクリとマルス、フィリルは上流層にある駅で、ちょうど赤褐色をした列車から降りたところだった。
ヨクリは日にちがかわっても黒の上着に、黒緑色の下衣、同系色の首巻きという姿のままだ。ヨクリが服を替えない理由は二つある。一つ目は、基本的に業者は住居を持たないから。ヨクリも例に漏れず点々と都市間を渡り歩いており、移動の手荷物が増えるのは避けたかった。もうひとつは、今着用している衣服は戦にも使うからだ。特殊な図術加工が施されており、耐熱、対衝撃に優れる。
フィリルも基礎校の制服姿だ。それは、ヨクリがフィリルに指示していたからだった。基礎校の制服も図術訓練などの講座に用いるので、一般的な衣服よりも頑丈だった。それに、身分がわかりやすいという利点もあり、前もってヨクリは少女に頼んでおいた。
家があって、レンワイスに滞在しているマルスは白褐色のベストに、白いシャツ、黒のスラックス、いつもの青い外套と、服装をかえている。
周囲の人間をよくよく観察すると、髪の毛の色がまばらだ。青黒かったり、若草色をしていたりしている。それは過去に行われた生体図術研究の遺物だった。おそらく、キリヤの赤髪やフィリルの青空色の髪色もそうだろう。
人種的には明るい茶や金髪だったそれだが、初号引具が発掘され医療技術へ図術が用いられはじめた際、図術研究に携わる学者達はその安全の証明に、自らに”毛髪を染める”という図術を使用した。それは富裕層——主に貴族達の権威誇示に利用され、その名残で色が遺伝継承されている。その流行が最盛期に達したのは、瞳の色にまで着手した頃だ。しかし、人体に対する図術実験が禁止になるとそれらはぱたりと止んだ。そういった歴史的一面からみて、毛髪や瞳の色に差異のある人間は往々にして裕福であることが多い。
「今日はどちらへ?」
三人が天井を支える鉄柱を避けながら出口へと歩くなか、問うフィリルに対してヨクリはにこやかに答える。
「きみの引具を買いに行くんだよ」
「わたしの?」
「そう。エイルーンは持っていないでしょ? 訓練するにしても、どうしたって必要だからね」
基礎校生は図術の訓練が開始されると、学校側から訓練用の引具が渡される。それまでは基本的に基礎校内で引具に一切触れることができない。優秀生の育成に実戦とあったので、専用の引具は絶対に必要だとヨクリは察していた。依頼の報酬金が高いのはそれを加味しているのだろう。法を犯した罰の免除でこの依頼を受けているのでおそらく報酬は受け取れないヨクリだが、貯金はかなりある。ヨクリは浪費せずに金を貯めておいて本当によかったと思っていた。
「あまり持ち合わせがないのですが」
「俺が出すから大丈夫。心配しないで。仕事だから」
「そうですか」
自然と、ヨクリは”仕事”の部分を強調した。少女に深入りしないという意識がそうさせたのだと、言葉の後で腑に落ちる。現にヨクリがフィリルのことをエイルーンと姓で呼ぶ行為は、そこからきていた。
ヨクリは東西南北ある出口の南に迷いなく先導して進む。これから向かう店には何度か足を運んでいたので、道順は把握済みだった。
「思ったより人が少ないな」
「行く場所が行く場所だしね。学生の冬期休暇は始まってるけれど専門店街に子どもはあまりこないし、休日じゃないから。今日青の日でしょ」
意外そうに言うマルスに、ヨクリが返答する。
植物神リリスがランウェイルでは広く信仰されており、リリス教に深く関わる光の要素から月週の呼称が定められている。一週は七日あり、休日に制定されている黄の日から始まって、緑の日、青の日、藍の日、紫の日、赤の日、橙の日となっている。
「そうなのか。僕は初めてだから、実は少し楽しみなんだ」
ヨクリは目を丸くし、
「へぇ、意外だな。よく来ていると思っていた」
「ハスクルの工房になら叔父と一緒によく行っていたんだが、レンワイスは初めてだ。そもそも、図術系の品なら、家にあるもので事足りるからな」
ヨクリはマルスの受け答えにさすがファイン家、と感心したあと、大まかに特徴を説明する。
「ハスクルとは少し違うよ。レンワイスのは大量生産品の品揃えがいいんだ。下手な特注の引具よりも性能の良いものもあるし、なにより、財布に優しい」
「それは興味深いな! 勉強になりそうだ」
「エイルーンの引具を選んだら、少し自由行動にしよう。面白いものもたくさんあるから、見て行くといいよ」
珍しく弾んだ口調で楽しげに言ったマルスを見て、ヨクリは二人に提案する。
「ありがたい!」
「わかりました」
マルスは喜んで、フィリルは平坦に、それぞれ賛同した。
そんな話をしながら駅を出ると、視界に青色が飛び込んでくる。建物の淡青色が光を反射し、ちかちか眩い。ヨクリは円形都市の上流層にくると、いつも別の国をおとずれているような錯覚をする。実際、上流層にある建造物に施されている技術や材質は中流以下の層とは、外見も性質も大きく違っている。
丸みや自然の温かみが感じられない。ほとんどの建築物は角張った造りをしている。金属質の光沢は、空を映し出し、街の中に雲が見える。上流層はここで暮らす貴族や権力者以外は、作業員か研究員しか滅多に訪れない。ヨクリらの目的である図術用品などを販売する店を除くと、食品、生活品の加工場、図術研究施設、管理塔の点検部品工場、他には浄水やエーテル備蓄庫で、生活感が非常に希薄だ。
レンワイス中央北は図術に関する品が豊富かつ安価に取り揃えられている。隣の図術研究が盛んな都市ハスクルから直送された最新の引具等は、評価が高い。
三人は駅からすぐの、雨よけの天井が敷設された柱廊然とした大通りに足を運んだ。通りの左右には商店が隙間なく並びにぎやかだが、通りや建物は清潔に保たれている。入り口付近の大きな看板には、おおまかなこの通りの説明と商店の一覧が記されている。ヨクリらはそれをたよりに、目当ての店に向かった。
■
「すごいな!」
店に入るとすぐに、マルスが感嘆の声をあげ、足早に商品棚へ近づいた。
武器の形状ごとに通路と棚が区切られた、広い店内だ。建物の一階全てが一つの部屋でつくられ、その広大な空間に多種の引具がずらりと並ぶさまは圧巻といっていいだろう。これほど大規模な引具店は国内にもそういくつもない。
当然全てが新品で、刀剣の刃が己の切れ味を主張するかのように、眩く室内光を弾く。奥のほうは鞘や帯など付属品の陳列がされており、革と油のにおいが入り口まで漂ってくる。武器には魂が宿る、なんていういささか古めかしい考えはさすがにヨクリも持ってはいないが、やはり一介の剣士だ。美しい武具を見て胸が躍るのはしかたがなかった。しかし。
「エイルーンが先だよ?」
ヨクリは苦笑しつつ、眼鏡の奥の瞳を輝かせながら辺りを見回すマルスに言う。ここに、笑顔を隠そうともしない友人がいたので、自制するのは難しくなかった。
「う、そうか。そうだった」
マルスはこほんと咳払いして、ヨクリとフィリルのほうへ戻る。
ヨクリはおもむろに傍の休憩用の椅子に座り、腕を組んだ。
「さてと。どうしようかな」
「彼女の適正武器を見繕うんじゃないのか?」
基礎校では、最初の三年に一般教養、兵法、基礎体力の構築、武器の扱い等を学ぶ。図術が講座に取り入れられるのはその後三年だ。剣、槍、弓、鈍器など、その基礎校で教師が教えられる武器の扱いの基礎を一通り学習したのち、適正が一番高いものを引具に選ぶ。
「それが、全部横ばいの成績なんだよね」
「……それは本当か?」
「うん。成績表をみたんだけど、全部……同期のなかで一番なんだ」
「男女混合でか?」
「うん」
ヨクリの言葉に、マルスは絶句する。
前半の三年で最低五つ以上武器の履修選択があるが、全ての武器で一位を取るのは不可能に近い。基礎校時代武器の扱いが得意だったヨクリでさえ、一番成績のよかった刀剣技能でも、千人ほどの同級生のなか四十位から五十位の間をうろうろしていて、それ以外は後ろから数えたほうが早かった。そのヨクリが驚いたのだから、マルスはもっとだろう。この金髪の青年は図術の成績は最上位を誇るほど優良だったが、武器学はからきしでどの武器でも半分以上の順位になったことがないのはヨクリも承知していた。
ヨクリは迷いに迷い、傍らにいたフィリルに苦し紛れに、
「……エイルーン、一番得意な武器は?」などと訊いた。
「特に」
その淡白な返しにヨクリは少し考えてフィリルに向き直り、
「エイルーン。これから先、具者なら引具は絶対必要なんだ」
「知っています」
「今日買う引具をずっと使うわけじゃない。でもね、もしかしたら今日の選択できみの一生付き合っていく仕事道具が決まるかもしれないんだ。よく考えてみて」
ヨクリの真剣な言葉が通じたのか、フィリルは緩くまばたきをしてちいさな声で、
「……一番長い時間手に取っていたのは槍です」
「じゃあ、槍にしよう。形状は?」
「普段は先端に刃のついた槍斧を使っています」
「わかった」
ヨクリは立ち上がり、壁際の槍斧が陳列されている棚に向かう。槍は他の武器と比べて長く目立つので、どこにあるのか遠目でもわかった。迷わず着くと、様々な長さや軽さ、形状の槍が立てかけられているなかから、一柄の槍斧を手に取る。
槍というよりは、柄の長い斧だ。先端に大きさの異なった三つの刃がついていて、刃先から石突きまでの長さはフィリルの身長よりも少しある。見た目よりも大分軽く、ヨクリならなんとか片手で振れそうなくらいの重さだ。フィリルの体格ならば、頃合いの重量だろう。半ばに連結部品があり、上部と下部で分断できる。これなら持ち運びも楽だ。
「どう?」
フィリルに手渡す。少女は刃の部分に巻かれている保護布を取払うと、通路の広いところで構え、軽く回してみせた。年齢にそぐわない熟練した槍さばきは、ヨクリを内心で唸らせた。
「ちょうどいいです」
こくりと頷きながら答えたフィリルに、ヨクリはマルスに同じく訊ねる。
「マルスはどう思う?」
「ちょっと貸してくれないか?」
「はい」
マルスはフィリルから受け取り、「ふむ……軽金属でできているな。耐久度が気になるところだが……シリンダーの挿入口は……ここか。施文部位は……」などと、検分しながら独り言をぶつぶつと呟きはじめる。
マルスが槍を調べている間、二人は佇立したまま終わるのを待つ。無聊を託つヨクリだったが、ちかりと視界に光がきらめいた。
(ん?)
先ほどフィリルが槍をふるっていた場所に、金属っぽいなにかが落ちている。ヨクリは近づき、屈んで拾い上げた。
(首飾り、みたいだな。エイルーンのか?)
植物の葉を模した金色の首飾りだ。首に掛ける鎖が、半ばで切れている。
「これ、きみの?」
虚空を見据えていたフィリルに見せると、
「……はい」
「向こうに落ちていたよ。痛んでいたみたいだね」
「ありがとう、ございます」
礼を言ったフィリルに返す。鎖がしゃらりと音を立てた。少女は切れた部分を少し眺めたあと、首飾りを制服にしまった。
「待たせたな。この槍ならば、家で施文できそうだ。ただ、台座が必要だから、それもここで調達しよう」
「了解。じゃあ買うもの買って、出よう」
検分を終えたマルスに、ヨクリが答える。マルスから槍を預かり、刃先に布を巻き直す。
ヨクリは他に必要なものをマルスから聞きながら、店内を散策した。
■
「結構時間かかっちゃったね。お金足りてよかったー」
三人は店を出て、すぐ近くの植林されている休憩所に足を運んでいた。
ヨクリの左手には紙袋がぶら下げられ、もう片方には購入した槍型の引具が携えられている。全部をあわせると結構な出費だったが、所持金を多めに見積もっていたのでまだ財布の中身は余裕があった。
ヨクリは空いている長椅子に座り込み、紙袋を膝に、槍を右に立てかけた。
「……ふう。じゃあマルス、好きな所を見てきていいよ。俺はここで待っているからさ」
「そうか! なるべく早めに戻る!」ヨクリの言葉を聞くとすぐに、喜色満面でマルスは来た道を引き返していった。
(元気だなあ)
ヨクリは普段体力のない友人が意気揚々と歩く後ろ姿を見て思う。好きな分野なら疲労も感じないというところなのだろうか。このときばかりは、ヨクリには普段理知的なマルスが無邪気な少年のように見えた。
「エイルーンはどうする? なんだったら、きみも好きな所回っていいよ。俺は二人が戻るまでここに居るから」
傍で置物のように直立したままのフィリルにヨクリが声をかけると、ゆるゆると首を横に振る。
「いえ、特に」
「そう、じゃあ立っていないで隣座りなよ」
促すと、フィリルはすとんと左に座った。しばらくのあいだ二人は椅子に腰掛けていたが、ヨクリはしびれをきらしはじめた。会話がない。少女に深入りしないと決めてはいるが、こうも二人きりで沈黙が続くのも心に悪い。
(あ、そうだ)
ヨクリは店内での出来事を思い出す。
「エイルーンって、教徒?」
「……?」
「首飾り。あれって、リリス教の象徴じゃないの?」
広く信仰されているリリスは植物神と知られている。そのリリス教の象徴が、少女の首飾りが模している三葉だった。
「……いいえ、違います」
ヨクリはじゃあなんで、という二の句が継げなかった。かすかに、少女の声色に感情がこもった気がしたからだ。
「…………」
会話が途切れた。フィリルはもうヨクリから顔を外し、ぼうっと正面を見詰めている。
(どうでもいいか)
気のせいだとは思うが、いたずらに少女を詮索するのも、なんの利益もない。無口だが、今まで指示を素直に聞き入れてくれていたのに、ここでフィリルの機嫌を損ねて今後やりにくくなっても面倒だとヨクリは判断する。
(ま、怒るとも思えないけれど)
どうせ、なにを言っても反応は薄いだろう。ヨクリのなかでの少女の評価は、目下”とんでもなく優秀でとんでもなく感情のない子ども”というところで落ち着いている。
ただ、もしさっきヨクリの直感が正しかったとしたら、フィリルは意図的に感情を抑えているということだ。
(それって悲しい、よな)
ちらりとフィリルの横顔を盗み見ながら巡らせる。まだ十五歳の少女が気持ちを押し殺して生活しているのだとしたら、それにはなにか原因があるのかもしれない。
そうは考えながらも、ヨクリには内で慮ってやるくらいしかできないし、フィリルになにかするつもりもなかった。他人の事情に首を突っ込む余裕なんて今のヨクリには毛ほどもない。
(なるようにしかならないんだよ、結局)
緩く吹く冷たい風が、さぁ、と枝を擦れさせ、フィリルの髪を揺らしている。ヨクリは少女に薄くあわせていた視線を戻し、両手を組んで背もたれに体を預け、マルスを待った。