一話 往日の彼方から
序
太陽が低く落ち、辺りは橙色に輝いていた。欄干の向こうに広がる黄昏の空は昼よりも天を低く感じさせ、腕を伸ばせば黄金色に染まった雲に届きそうな錯覚を覚えさせる。
天井も壁もない、この屋上には三つの人影が静寂を共にしていた。三人ともが、六年前に終結した戦争の爪痕を忘れぬように染め上げられた、イヴェール地方独特の黒い衣服を着込んでいた。
その内の一人である少年はやわらかく日光を反射している床に座り込み、男にしては小さな手のひらをかざした。眩さに細めた少しだけ目尻の低い垂れ目は墨色で、とてもではないが高いとは言えない上背と相まって、どこか少女めいた印象を与える。勝ち気な雰囲気なのは、眉がきりりと上がっているからだろう。かすかに潮のにおいのする風が、瞳と同じ黒髪を優しくくすぐった。
イヴェールは遮壁に汀線を含むため、港湾都市と呼ばれている。名の通りハスクルや首都フェリアルミスから陸路を伝ってここイヴェールに運ばれたのち、更にリヴァ海に沿った他の都市へ物資や人が行き来する。
「ここを——基礎校を出たら、君たちはどうするんだい?」
胸ほどの高さの塀に身を預け、夕焼けに彩られた街を眺めていた少女は、ふっと振り返って後ろの二人にたずねた。淡橙色の光に照らされた染み一つない白皙と、腰まで届きそうなほど伸ばされた、水底のように暗い色をした髪は、シャニール人の特徴だった。
「急だな。なぜそんなことを訊くんだ?」
少年の隣にいた赤毛の少女が、ぱたんと読んでいた本を閉じて声のほうを見ると、左右に結わいた少し癖のある、しかし滑らかな赤髪が、所作に合わせて揺れる。
切れ長の釣り目を不思議そうにまたたかせながら、黒髪の少女へ問いを返した。
「まぁ、いいじゃないか。答えられる範囲でいいよ」
苦笑を浮かべて続きを促すと、赤毛の少女は空を見上げながら答えた。
「私は上等校へ行く。いずれは社会の悪習を変える仕事に就きたい。貴族として、それが自分にできることだと思う。上等校へ進めれば、もっと選択肢が広がるだろう?」
赤毛の少女は男性的な口調で、迷いなく言い切った。
三人は学徒である。黒衣は“基礎校”の制服であり、三人の身分を証明していた。黒髪の少女の質問から察せられる通り、皆もうすぐ卒業を迎える。年のころは十七、十八で、基礎校を出ると同時に世間的に成人とみなされる。もうすぐ、三人のなかの子どもは終わりを告げるのだ。
「キリヤらしいね」
キリヤと呼ばれた赤毛の少女はその言葉にふっと笑みをこぼし、所在なさげにしている少年に少女と同じ質問をする。
「ヨクリは?」
ヨクリと呼ばれた少年は未だ伸ばしていた手をようやく引っ込める。
正直に話そうと思ったがキリヤのような立派な志があるわけではなく、むしろあまり褒められたものではなかったので一瞬返答を躊躇した。しかしすぐにないものねだりだと諦めて口を開く。
「……そうだな。取りあえず、食い扶持が稼げればそれでいいかな……」
前途ある若者らしくない目標がやはり不服だったのか、キリヤは口を尖らせる。
「覇気が足らんぞ、まったく。……試験の申し込みはしたんだろうな?」
「まぁ、一応」
しぶしぶとヨクリが答えると、キリヤは尊大に頷いて、
「ならばいい。お前なら合格できるだろう」
「また根拠のない……」
「根拠ならある。お前は私の認めた男だからな」
「……いいや、もうなんでも」
自信満々に言い放ったキリヤに対し、ヨクリは呆れ半分笑い半分で、ため息混じりに呟いた。
その一連のやりとりを見ていた少女は、くっくっと腹を抑えて笑う。
「本当に君たちは仲がいいね」
「まあな」
ふふん、とキリヤが恥ずかしげもなく言い放った。ヨクリは再びはぁ、と頭を掻いて、少女に向かって言う。
「きみは? まだ答えていないでしょ」
「そうだな。言わないというのはなしだぞ。公平ではない」
キリヤが悪戯っぽい笑みでヨクリに同調する。少女は真っ直ぐな視線をヨクリに向けた。
「僕の夢は、シャニールを復興すること」
凛とした声音で告げた。キリヤは先ほどとは打って変わって、沈痛な面持ちになる。長い睫毛を伏せ、
「……それは」
言いにくそうに言葉をつめたキリヤを、少女は遮った。
「わかってる。シャニールは敗戦国だ。企てれば、罪に問われるかもしれない。……僕が言っているのはそういう意味じゃないんだ。現状のシャニール人に対するこの国の待遇は、あまりに酷い。そうだろう、ヨクリ」
「……ああ」
問われ、同意したヨクリもまた、少女と同じシャニール人だった。黒髪に、色白の肌。小柄な体躯。シャニール人の身体的な特徴を受け継いでいる。
「それを、かえたい。もっとシャニール人が暮らしやすい、差別のないランウェイルをつくりたい。……僕がやらなければならない。それが、僕の義務だ」
何年かかるかわからないけれど、と笑った少女の笑みには胸を締め付けるようななにかが含まれていた。その少女の想いに感嘆の声をあげたのは、キリヤだった。
「……素晴らしい、夢だと思う」
「ま、そのためにはなんとしても上等校へ進学しないとね。骨が折れるよ」
少し重くなった雰囲気を払拭するように茶化した少女に、キリヤは不満な顔をせず、意図を汲みとったようにそれに乗っかる。
「君の成績でそれを言われたら、他の人間は立つ瀬がないな」
「僕と変わらないじゃないか。君こそよく言うよ」
二人の少女は目を見合わせてくすくすと笑った。普段落ち着いた印象が先立つ二人の、思いがけない年相応の女らしい仕草が意外でヨクリが密かに驚いていると、いつの間にか少女が再びヨクリを見つめている。
「……ヨクリ」
真剣な眼差しをおくる少女に、ヨクリは「なに?」と軽く返した。少女は一度唇をきゅっと固く結んだあと、ゆっくりと開いた。
「もし……そう、もしの話だ。君と僕、両方が上等校に進学できて、そして卒業できたら」
「僕の夢に、協力して欲しい。支えて、僕を助けて欲しいんだ」
少女の告白に、ヨクリは文字通り固まった。そんなことを言われるとは想像もしておらず、何と返答したらいいのか全くわからなかったからだ。驚愕混じりに口を突いて出たのは、ごまかしにも似た言葉だった。
「……それは、壮大なもし、だな」
「君がいてくれたなら……僕は嬉しい」
「…………」
ひたむきに反応を待つ少女に、ヨクリはすぐに返事ができなかった。自信がないからだ。少女に答えられるだけの実力が自身にあるとはどうしても思えなかった。
——だけど。もし、その夢に貢献できたら、それはどんなに幸せだろうか。
ヨクリは自身のなかで暖かいなにかがふつふつと沸き立っていくのがわかった。こんな感覚、ヨクリはうまれてはじめてだった。
どこまでも真っ直ぐなその想いを、ヨクリは受け止めたいと思った。
「……俺みたいなものぐさが協力したところでたかが知れていると思うけれど……まぁ、他にやりたいこともないしな」
「そうか!」
口からは皮肉混じりな台詞がでたが、まぁ性分だから仕方ない、とヨクリは思う。それに、こんなに嬉しそうな少女の顔をはじめて見た。些末事はどうでもよくなる。
「キリヤはもちろん、協力してくれるだろう?」
「無論だ」
静観していたキリヤは、突然振られた問いに対し、余裕の笑みを持って答える。それから三人は誰からともなく微笑みあった。
「先の話だけれどね」
「またそういう皮肉を……」
照れ隠しに軽口を叩いたヨクリをキリヤが眉尻を下げながら諌めると、その光景に再び少女は笑顔を浮かべる。
日が落ち、辺りを暗闇が包み込みはじめた。空気が冷たく澄み切って吐息が白を帯びる。そしてこうこうと星がまたたき、月が昇っても、三人は笑いあっていた。
——少女の夢が叶うことは、なかった。
■
山ひだにくっきりと影が落ちはじめている。峻嶺を際立たせる時間が訪れようとしていた。
その裾野は草原が広がっているが、太刀風を吹かすこの場所は荒れ、草根の生えぬ砂礫に満ちている。
上段から振り抜いた剣の切っ先が、狙い過たず獣の首を捉えた。がつ、と生々しい感触が手元に響き、獣の体と頭はきれいに両断される。
血液をまき散らしながら地に落ちた体がぴくりと痙攣したのを横目で確認し、残りに向き直る。
「……あと二匹」
ヨクリは誰ともなく呟き、わずかに反りのある片刃剣を正眼に構え直した。血糊がべったりとついた刀身をゆらりと残党に据える。
仲間の死を見た残りは、暗褐色の体毛を逆立てながら四肢を低くさせ、ぐるる、と威嚇した。犬に似た外見だが体長はヨクリの身長と同程度あり、強靭な顎は比喩でもなんでもなく、易々と鉄をひしゃげさせる。
さぁ、と一陣の風が、ヨクリと獣の間を吹き抜けた。砂埃が舞い一瞬獣の姿が隠れるが、ヨクリは動かなかった。ヨクリには姿が見えずとも、視えているのだ。
下級とはいえ最後に残っただけあり、二匹の獣はなかなか隙をみせない。ヨクリは思わずちっと舌打ちしたあと、両手で柄を握りしめた。
長時間の戦闘で、エーテルの残量も残り少ない。替えのシリンダーは一つあるが、それは帰還用で、ここでは使えない。もうこれ以上長引かせるわけにはいかなかった。
切っ先から血のしずくがぽたりと、一滴地面に垂れてじわりと染み込んだ。それを皮切りに、刀身から淡緑色の光が漏れはじめる。
ヨクリの視界に、数多の線が唐突に現れた。それは奥行きのある地図とでも言うべきか。線で囲われたある一点に視線を合わせると、そこが赤く明滅する。
瞬間、淡緑色の面が幾何学模様を描きながら出現すると、ヨクリは眼前のそれを剣で薙ぎ払った。それを見留めた獣二匹は、まるでなにかを恐れた様子で同時に飛びかかった。だが、もう遅い。ヨクリは勝利を確信した。
刀の残光さえ消える前、ヨクリの足下から薄緑色の膜が発生し、全身を覆う。それに呼応するかのように幾何学模様の中心から、強烈な速度を持ったなにかが地面を削り取りながらヨクリの前方へと駆け抜けた。
それは地を蹴ってヨクリに迫る二匹の獣を巻き込み、ヨクリが視た赤い点まで到達すると、一度淡緑色に眩く光ったあと消失する。
巻き上げられた粉塵が辺りを覆い尽くし完全に視界をさえぎったが、ヨクリはそれには構わずに片刃の剣を二度振るい、刃を汚す血を散らせて鞘に納めた。
戦いの終決を告げるように、ヨクリの全身を覆っていた膜は徐々に輝きをなくし、消滅する。
「……ふう」
ヨクリが一つ大きく息をついて上着の裾で額の汗を拭い衣服に付いた土を払うと、丁度砂埃が収まり、視界が良好になった。
ヨクリの立っているところは干上がった湖の底に似ており、乾いた地面はひび割れている。草の一本も生えておらず、命の気配がいっさい感じられない。
漂う空気は体の水分を奪っていくようにざらついて肌にまとわりついてくる。しかし、この独特の雰囲気と感触が、ヨクリは嫌いではなかった。
円形都市の外はこういった場所が点々と存在している。学者達がこぞってそれについて研究してきたが、ついに明確な条件は発見できなかったという。
ヨクリは辺りを見回すと、首と胴が離れた一匹と、“なにか”に巻き込まれた二匹が地面に倒れて絶命しているのを認め、その二匹の死体に近づいて、検分する。
片方が頭部、もう片方が腹部、それぞれ原型を留めぬほどぐちゃぐちゃになっている。無惨な様相になったそれを見たヨクリは、しかし意に介さず呟いた。
「大分慣れてきたな」
うなずいたあと、死骸に興味を失ったヨクリは視線を逸らす。慣れた手つきで腰の革帯から鞘ごと片刃剣を外し、柄頭を人差し指で押した。すると、かち、と小さく音を立てて、半透明の筒が柄から突き出てくる。
露出した部分を摘み、くっと指先に力を込めてそのまま引き抜く。続けて腰に下げたポ—チから、抜いた筒と同じ物を手に取り、手の内でくるりと交換し、挿入した。
ヨクリは剣から取り出したほうをしげしげと眺めた。底に少量の、濁緑色の液体が溜まっている。
「ギリギリだなぁ」
苦笑混じりにヨクリは言いながら、殆ど空の筒をポーチにしまう。
「さて、向こうは終わったかな……」
鞘に納められた剣を革帯にははめずに右手で持つと、唐突に寒気がやってきて、ヨクリはふるりと震え、首巻きを左手で整える。太陽は南中して日差しは暖かいが、ランウェイルは寒期に入っており、時折粉雪がちらつくほど最近の気温は低かった。
う—ん、と伸びをしてから顔を首巻きにうずめ、ヨクリは気怠く歩き出した。
章紋歴四百八十六年、上月 枯の二十日。
聖峰フェノールを北に臨むセラム平野に、それは唐突にあった。雲を突き抜けるほど高い円柱。それを囲むように、円柱より低い建造物が建ち並び、更にそのまわりにそれより低い建物、さらにその……という、構造。それらの一番外側に大人十数人が縦に並んだくらいの高さの石の壁がある。壁の側をぐるりと一周歩くと、大体二日から三日程度かかるだろうか。それがこのランウェイル国に十二ある最大規模の街のおおまかな造りだ。
円形都市。そこはヒトがこの世界で生きていくなかで、唯一安全が保証されている場所だった。管理塔と呼ばれる円形都市で一番高い建物を中心に円状に広がっている。
円の中心に近づくほど地価が高くなり、逆に一番外の壁——遮壁側に行くほど、地価が安い。それは円形都市に住む人間の貧富の差を如実に表している。
年末であるこの時期、都市の人々はせわしさに浮き足立ち、通りは賑わっていた。貴族、上流層の人間達は次々開かれる夜会へ着る服を仕立て屋に注文している。中流層、それを受ける人間は税のために帳簿を見直しているし、あるいは、家族や仲間内だけで、ささやかな祝いをしたりしているだろう。
そんな当たり前の生活を送るのにも、ランウェイル国に暮らす人々は古代文明の計り知れない叡智による恩恵に預からねばならなかった。
ランウェイルの民——いや、この世界に生きる人間ならば誰もが知っている“一斉蜂起”から、百五十四年が経とうとしていた。
■
薄らと埃が積もった部屋で、ヨクリは嘆息し、他の皆には聞こえない大きさで舌打ちした。
ヨクリのもたれかかっている土壁は煙草の煙が染み付いて全体的に黒ずんでおり、さらにところどころひび割れている部分を木材で修復してある。この部屋はどう取り繕っても清潔とは言えない。
平均的な成人男性と比べると、ヨクリの背は大分低かった。顔の作りもどこか少女めいていて、ひいき目に見ても少年としか思えないヨクリはこの場に似つかわしくないが、しかしそれを馬鹿にしたり、舐めてかかったりする人間は最近になってとんと居なくなった。業者生活が板についてきたのだろうとヨクリは解釈している。
部屋は民営宿場の一室で、一時的に地域滞在する業者が利用する施設だ。依頼管理所の空き室はこの人数では窮屈過ぎるため、ある程度余裕のできる話し合いの場として、参加者全員で金を出しあって用意した。室内にはヨクリを含めた六人が集っており、空間はそれでも些か手狭に思える。他の五人は木で作られた中央の卓に着き、各々が不服な表情で言い争っていた。囲まれた円卓にはその原因である、大金と呼べるだけの金銭が麻袋に包まれて置かれていた。
(このままじゃ、決まりそうにないな)
ヨクリは部屋の出入口である扉の近くで腕を組み直し、心中で独白した。
薄く開いた瞼から覗く墨色の瞳で五人を見ながら、中途半端な長さをした黒髪をくしゃりと撫でつける。すると、髪の毛の間からぱらぱらと砂粒が落ちた。昼間の砂埃のせいだなと、ヨクリはうんざりする。
今日中に決まるかどうかも怪しいなと思う。根拠はある意味一番信用できる。他でもない、ヨクリ自身の経験からきていた。
金で揉めるならずものは基本的に己の主張を変えようとはしない。なぜなら生活に直結するからだ。依頼を達成したあとにこういう面倒が起こるのは、ヨクリにとって珍しくなかった。
ヨクリを含めた六人は全員この国——ランウェイルで業者をしており、依頼管理所で請け負った依頼をこなすことで日々の生活を賄う糧を得ている。
管理所から受け取った報酬金は今回の依頼に対するものに相応しい金額だったが、均等分配では納得しない者がいた。それは、入り口の真正面の席にどっかりと腰を据える中年の男だ。男は自分の仕事量に吊り合わないと主張していた。
「だから、それじゃあオレが働き損だって言ってんだよッ!」
力任せに拳を打ち付ける音と男の怒声が部屋中に響いた。遅れて、じゃらりと、机上に置いてある麻袋の中で硬貨が擦れ合う。ヨクリはその声量に眉をひそめ、男を一瞥した。
レナール・アボサイと言う名の男。ヨクリが滞在している円形都市レンワイスの業者間では、そこそこ名の知れた人物だ。腕前も年齢に相応しく熟練しており、大柄な外見にそぐわない知略に富んだ行動をする。
レナールは座る四人を眺め、これみよがしに大きなため息を吐いた。他の四人では話にならないと思ったのか、一人言い争いを静観していたヨクリのほうに椅子ごと体を向ける。
「おい、兄ちゃんもそうは思わねえか? シゴトをキッチリやったのは、オレとアンタだけだろ」
レナールは骨張った顎に生えた無精髭を撫で付けながら、品定めするようにしゃがれ声を出す。ヨクリはゆるく瞬きし、肩をすくめながら答えた。
「確かにね。はっきり言ってしまうと、俺とあなた以外の人たちとでは練度が全然違うと感じたよ。現に、獣の処理数も頭ひとつ差があるし」
「なら、アンタはむかつかねぇのか。……ろくに仕事もできねぇような連中と報酬が同額ってことが!」
レナールは苛立ちを隠さずに再び拳で叩き、ヨクリに怒鳴った。他の四人はその音量にびくりと体を竦ませたが、ヨクリは眼を瞑り、反応しなかった。
レナールは眉を釣り上げたまま、ヨクリを睨みつけている。
この男の主張も解らないでもない。業者に対するこの国の制度は、能力のある者が損をする。それはヨクリも常々思っていた。
<多人数での依頼達成における、報奨金の均等分配>
大原則として、国法で定められている。これは依頼管理所に登録される人間が公務に携わる者とみなされていた頃の名残だ。蜂起が終息し、業者が市井の人間でも登録できるようになった現在もこの規則が残存していた。
つまり、どれだけ仕事に貢献しても、貰える金額は他のそれと変わらない。逆に足を引っ張る人間も、優秀な者と同額の報酬が得られる。男が不満を抱くのも無理はないのかもしれない。
だが、規則は規則。ヨクリはそう考えていた。決まりを守れない人間は、この世界で生きていく権利などありはしない。そこまで整理してから、ヨクリは静かに口を開く。
「あなたの不満はわかるよ。……俺も同じことを思わなかったと言ったら、嘘になる」
ヨクリは一旦切り、続けて、
「ただ、俺たちはそういう職業に就いてしまったんだ。望んだ望まないはこの際関係ない。だから、法や規則には従うしかない」
その返答に、レナールはいきりたって立ち上がった。肩を怒らせ顔を紅潮させ、今にも掴み掛かってきそうだった。ヨクリは面に出さず注意を払ったが、その必要はなかった。
レナールはぎり、と歯を食いしばったあと、拳を震わせ目を伏せた。その様子を見て、ヨクリはレナールがやり場のない怒りをぶつけていただけなのだと悟った。
男の年齢から察するに、長年不満を抱いて今日まで生きてきたのだろう。爆発したのがたまたま今日だった。それだけだ。ヨクリは、それについて言及するつもりはなかった。今しがたレナールへ向けた言葉は嘘ではないからだ。
長い沈黙が訪れた。争いの渦中に居たレナールは拳を握ったまま、いつの間にか椅子に座り込んでうなだれている。他の人間はヨクリとレナールを交互に見て、うろたえるばかりだった。
思ったよりも早く決着がついたな、とヨクリは密かに喜んだ。レナールが先ほど言った通り、まともに仕事をこなしたのはヨクリとレナールだけなのだ。依頼を達成し、管理所から金を受け取ってすぐに報酬分配の話し合いがはじまったのでろくに休息をとっていない。ヨクリはとにかく、一刻も早く柔らかい夜具へ体を投げ打ちたかった。
「じゃあ、報酬は均等分配ってことでいいね」
ヨクリはぞんざいにそう言うと、空席の椅子に座った。そして金の入った麻袋に手を伸ばそうとした瞬間がたりと音がして、
「待ってください!」
円卓についていた六人のうちの一人が立ち上がって叫んだ。レナールではない。女の声だった。ヨクリは顔をそちらに向けると、金髪の女性が決意めいた表情をしている。一拍遅れて、他の四人も女に視線をやった。
「……私、やっぱりレナールさんと、それに、ヨクリさん。お二人と、同じ金額は受け取れません」
皆が注目しているのを感じ取ったのか、さっきの勢いとかけ離れ、女は詰まりながらぼそぼそと全員に向かって言う。
金髪の女性は、テリスという名だ。基礎校を出てすぐの新人業者。受注書にそうあったと、ヨクリは記憶している。
「……私はこれが初めての依頼で、全然役に立てませんでした。他の皆さんと同じ金額を受け取るのも恐縮なんです。だから……」
その言葉を聞いた四人はどよめいた。レナールははじかれたように顔をあげ、テリスを見つめた。四人はめいめいに「しかし、法がある!」「それだけじゃない! 分配の方法はどうするんだ」などと反論する。
ヨクリもほかの四人と概ね同意見だった。均等分配を行わないのであれば、配当になにかしらの基準を設ける必要がある。そうなると時間がかかるし、やはりなにより法を犯しているという事実が気がかりだった。
仮にここで均等分配の法を破っても捕縛される恐れは低いのかもしれない。法を犯して報酬金を分けている輩の噂や姿を、ヨクリは頻繁に見聞きしていた。
しかし、あくまで低い、というだけだ。実際に法を違えて捕縛される人間も数は少ないが確かにいる。それに、この均等分配の法は連帯だ。分配に参加しなかった者も、黙過した場合同じ重さの刑罰を受ける。
今見過ごせば、確かに報酬は僅かばかり増えるだろう。だが、拿捕されるかもしれない。その天秤はヨクリのなかでは全くつり合わなかった。妙な正義感をこちらに押し付けられても困る。新人は新人らしく、おとなしく言われたままの金を受け取っていればよいのだ。この国はそうやって人を育てているのだから。
「俺も反対だ。巻き込まれて捕まるなんて、冗談じゃない」
ぴしゃりとヨクリがそう言い放つと、落ち込んでいたレナールは人が変わったように反発する。
「ガキがびびりやがって……維持隊なんてきやしねぇよ! オレにはこの嬢ちゃんは善意で言ってるようにしか聞こえねぇ。テメェはそれをないがしろにする気か? それに、テメェだって言ってただろ! 足引っ張るような使えない連中と同等の報酬しか貰えないってことがなにより腹立つってな!」
レナールの最後の言葉に四人は思うところがあるのか、ぴたりと不満を止めた。
ヨクリは眼前の馬鹿みたいな茶番にめまいがし、こめかみを押さえる。レナールの仕事ぶりから内心で庇ったが、やはりただのならずものに過ぎなかったと、男の認識を改め直す。
(……一人味方についただけでこれだ。だから道理のわからない人間は嫌いなんだ。そもそも、俺は二十一だ。ガキって年齢じゃない)
ヨクリは心の中でひとしきり毒づいたあと、心底呆れた声音で隠していた本音をぶちまける。
「善意? なにが善意だよ。迷惑だって言っているんだ。治安維持隊がこない保証なんてどこにもないし、俺は金に困っているわけじゃない。それに、最後についてはさっきも言った。規則は規則だって」
ヨクリの冷めた返しに、レナールは激昂した。顔に血管を浮かべ目を真っ赤に充血させている。だが、不器用な笑みを作り、
「さすがは“姓無し”だなぁおい。てめぇしか考えやがらねぇ」
姓無し。ランウェイル人がシャニール人を罵るときに使う蔑称だ。敗戦国出身のシャニール人は、現在ランウェイルに貢献しているシャニール人のような例外等を除き、姓を名乗ることが認められない。
ヨクリはレナ—ルを見限った。初対面時はこの年齢の男にしては珍しく、シャニールについて言及してこなかったからそこそこの好印象も持っていたのだ。だが、この局面で出てきた言葉がこれだ。つまり、今の態度が男の本質。それ以外の全ては偽物。
この手の暴言を言われ慣れてきたヨクリはびくともしなかった。お前の余裕はそんなものかと挑発っぽく冷笑を浮かべる。
「自分のことしか考えていないのはあんたのほうだろ?」
「おい……口のききかたぁ知らねぇようだなぁテメェは!!」
立ち上がって投げ飛ばす勢いで椅子を引き、レナールはヨクリに掴み掛かろうとした。しかし、それをさえぎる影が現れ、ヨクリとレナールの線上を誰かが塞ぐ。テリスだ。
「やめてください……」
テリスを害する気はないのか、意外にもレナールは素直に立ち止まった。そのままテリスはヨクリのほうへ顔を向けて、
「あの……分配が終わったあと、個人的にレナールさんに私のお金の半分をお渡しします……それじゃ、駄目ですか?」
本当に茶番だ。もうどうでもいい。ヨクリはそう思いながらぐったりと再び頭を抑え、半ばやけくそにテリスに言い捨てた。
「……好きにしていいよ、もう」
全員がようやく席に着き、分配が始まった。
麻袋を開き、書面で見た金額とあっているか全員で確認し、各々の前に同額ずつ硬貨を並べていく。じゃらじゃらと、硬貨同士が擦れ合う音だけが部屋に響き渡る。
(……?)
ヨクリはふと手をとめ、右正面にいる細面の男をうかがった。男は目の前の硬貨を一応袋に入れているが、配られた額が合っているかどうか調べる様子がない。男が見ているのはもっと下、卓の影ですっぽり覆われている、床の辺りだ。
(なにをしているんだ?)
よくよく観察すると、右手で硬貨を移動させているが、左手は卓上に一度も出していない。左手で、何かを操作しているふうにも見える。
ヨクリはどうしても気になって男の手元を覗こうと、体ごと椅子を引いて首を下げようとした——そのとき。
「治安維持隊だ! 全員動きを止め、両手をあげろ!」
ばん、と扉が勢いよく開かれ、三人の男が部屋に侵入してきた。三人とも濃緑色の外套を羽織り、長帽子を身につけ、腰に帯剣している。まぎれもない、この街の治安維持隊だった。
背が一番高い一人が歩み出て、全員に起立を促した。
(……最悪だ)
ヨクリは命令に従って両手を上げながら立ち、絶望感に浸った。
「持ち物を検閲する。おい」
「はっ」
一歩前にでた男に命令され、二人の男が全員の所持品をくまなく調べはじめた。雑な物音が続き、そしてすぐに男が声をあげる。
「ん? なんだこれは。おい、これの持ち主は誰だ」
一人の男が指差した物は、二つの麻袋だった。隊長らしき男がふむ、と思案気な声を漏らしたあと、呟く。
「袋が八つある。空になっている一つは管理所のものだろう。後の六つは貴様らのものとして……一つ余るな」
隊長らしき男は押収したとみられるレナールの依頼受注書に目を通し、この依頼に参加した者が六名であることを確認すると、
「……見たところ、中身は他の袋の半分だな。なるほど、半分のものがもう一つ」
めいっぱい眉間にしわを寄せながら、
「なぜ袋が余分にある! この半分の袋二つはどういう目的だ!」
目を鋭く光らせ、怒鳴り声で全員に問うた。
「隠すとタメにならんぞ……そうだな、正直に言った者は見逃してやろう」
男の言葉にすかさず、ヨクリの右正面にいた細面の男が名乗りあげた。
「そこの女が、向こうの男にあとで渡すために袋を分別していました」
(やられた)
ヨクリは細面の男を薄目でみて、維持隊の申し出に一瞬躊躇してしまった己を呪った。
隊長らしき男は底意地悪そうに笑い、残り二人を呼び寄せる。
「貴様は部屋を出て行け。……残りの者を捕らえろ!」
安堵した表情を浮かべて細面の男が退出すると、ヨクリらは手錠をかけられ、各々の武器を押収された。
その後乱暴に部屋から引きずり出され、維持隊の増援がすれ違いざまに先ほどいた部屋に押し入っていく。
捕縛された五人は、皆憂色に包まれ、粛々と維持隊に従った。足取りが重いのはせめてもの抵抗だろう。
治安維持隊のうちの一人に手錠を引かれて歩かされながら、ヨクリは思った。
——間違いなく今日は厄日だな、と。
■
私物ほとんどを押収され、手錠を掛けられたヨクリが連行されたのは、一つの出入り口があり、窓はなく、鉄格子で区切られた広い部屋だった。
留置所、というものだ。ヨクリがその内の一角に押し込められてから、四半刻が過ぎただろうか。入れられてからすぐ衛兵が壁に灯をともしていたから、夕日がちょうど落ちる時間帯だろう。
この罪人のためにある部屋に入るのははじめてだったが、想像していたそれよりも清掃が行き届いており、異臭もなく、ヨクリは密かに驚いた。
部屋には二人の看守以外は誰も居らず、ヨクリの身じろぎによる衣擦れの音が大きく聞こえるほど室内は静まり返っていた。ひんやりとした石床に座り込み、ヨクリは思索に耽る。
(俺以外は別の部屋に連れて行かれたのか……?)
そう考えるのが自然だった。押収や衣服の確認作業で時間がずれ込むという線もあったが、それにしては遅すぎる。なぜ自分だけが別室なのかが、ヨクリにはわからなかった。
(しかし俺も、落ちるところまで落ちたな)
基礎校を卒業してから向こう、ほとんど絶え間なく依頼をこなしてきたのでヨクリの生活はさして逼迫しているわけではない。しかしレナールらを止めることをしなかったのだから、法律を犯したと咎められても言い訳はできなかった。
ヨクリはそこまで考えて、その自分の行動を冷静に省みれるという事実に、まるで他人事だな、と声を出さずに自嘲した。
後ろ手に拘束されたまま座り込んで考えていると、扉の開く音が耳に入る。同時に、「お疲れ様です」と、二人の看守が言った。
誰かがこの部屋に入ってきたのだ。それも、看守よりも地位の高い人間。
暗がりで、しかも格子が邪魔でヨクリには性別が判断できなかったが、背は同じくらい。ならば、男性とは考えにくい。ヨクリはふと、その自分を棚に上げた思考に苦笑する。
闖入者は看守の挨拶には答えず、なにかを看守から受け取った。間を空けずにこつこつ、と足音を立てながらヨクリのほうへ近づいてくる。
外見に興味は多少あったが、なんとなく様子を探っているを知られるのはばつが悪いとヨクリは思い、さっと頭を伏せる。
(俺に用があるのか?)
がちゃがちゃと金属同士が音を立てている。鍵を開けているらしい。ヨクリは耳だけで動向に気を配った。
やがてきぃ、と鉄格子が開かれる。そこでヨクリは平静を装って顔を上げ——文字通り驚愕した。
鮮烈な紅の印象。闖入者の正体を、ヨクリは知っていた。
「キリヤ……?」
ヨクリは思わず少女——いや、女の名前を呟いていた。計らず、掠れた声音になった。
燃えるような赤毛を左右に結わいた髪型。細身の体に褐色の外套を纏い、腰に装飾の施された細剣。切れ長の瞼の奥で、髪と同じ緋色の瞳に部屋の照明が反射して煌めいている。
その姿はヨクリの記憶とほとんど一致していた。
「久し振りだな」
女性にしては少しこなれた声、男性的な口調は、やはり過去の記憶と同じだった。
「ひさし、ぶり」
思わず目を逸らしながら、驚きのぬけないまま鸚鵡返しをする。ヨクリは二度とキリヤに会うことはないと思っていた。心のそこから。
キリヤは造作なく近づくと、ヨクリの後ろに回って手錠の鍵を外した。呆然としているヨクリにはかまわず、感情を全く面にださずに命令する。
「立て。付いてこい」
なにもわからぬまま、ヨクリはふらふらとキリヤに付き従った。なぜ彼女が。なぜここに。なぜ俺に。なぜ。なぜ。
残響のようにヨクリの頭の中を埋めるなぜという言葉は、いつまでも消えることはなかった。