暗号
「ふ~ん、変わった子だね」
と呑気に電話口で笑うのは、妹の沙良。
姉の私が古風な「史子」で、妹はハイカラな名前。
何の統一性もないでたらめな名づけに姉妹でよく親を批判したが、ハイカラな名前の妹は、その名のとおり(?)社交的で友達も男女問わず驚くほど多い。
長年お付き合いをしている職場の同僚永沢くんとの仲も順調で、そろそろゴールインの話も出ているらしい。
二つしか違わないので、中学生ぐらいまではよくくだらないことで喧嘩していたが、今は親友兼姉妹、というぐらい仲がよい。
今でも実家暮らしの沙良と、こうして時々電話で話し合うのも、デル=モナコ様の声を堪能する次ぐらいに(聞いてないから)ストレス解消になる。
「でもさあ、前から思ってたんだけど、ヒスオタとか別にバレてもいいじゃん。何でひた隠しにしてるの?「オタ」て言葉を使わないで、「オペラファンですのよ、オホホホホ」とか言ってればいいのに。素人の私からしてみたら、オペラ好きとか言われたら、何かすごく教養ある人みたいに聞こえるけど」
「でも、あんたも知ってるでしょ、私が元彼に振られた理由。しかも二人ともよ、同じ理由」
「ああ、「お前は俺よりも、マリオの方が好きなんだろ!!」てやつ! 今でも笑えるわ」
「笑い事じゃないわよ~。私の場合はオペラファンなんて生やさしいものじゃないんだから。振られただけじゃなく、初対面でオペラを語りすぎて「この人やばくない?」と引かれた事例は数知れず…。黙っておくにこしたことはないんだから」
私の場合、もし「オペラ好きなんだ、どんなところが好きなの?」とか「デル=モナコって何でそんなにいいの?」とか聞かれたら、とても一言では答えられやしないのである。
というか、しゃべりはじめたら、自分でも抑制がきかなくなって、いくらでも語り続けてしまう。
我ながら恐ろしいものである…。
既に死んだ人を、アイドルどころか、崇め奉ってると知られたら、さすがに他の先生や生徒に「あの先生、頭おかしくない?」という風に思われるだろう。
ジャニーズ狂いの英語科の佐々木先生も、生徒からからかわれたりしているが、彼女なんか、私に比べたらかわいいものである。
「でも、音楽のその、何だっけ、何とか先生には言っちゃったんでしょ? ほらその石川君が立ち聞きしたってやつ」
「あのときはあんまり時間もなかったし、たまたま何でかオペラの話になって、「私もオペラ大ファンなんです。特に、マリオ・デル=モナコとか」ぐらいしか言えなかったから、まあ、幸いなことに、て感じだけど、多分彼女は私を普通のオペラファンだと思ってるはず」
「ふ~ん…。ね、その石川君てさ、ちょっと怪しいね」
どこかで聞いたような台詞に、思わず、
「え、あんたまでそんなこと言うの」
「まで、って。誰か他にもそんなこと言った人がいるの?」
鋭く沙良からつっこみが入る。
「うん…。ほら、イケメンの山田先生、彼が「腹に一物ありそう」て…まるで陰の黒幕か何かのようにさ。でもそんなわけないじゃない、ねえ。ただの生徒なんだし」
「うーん、山田先生が言ってるんだったら、本当に気をつけた方がいいと思うよ」
思いがけない言葉に思わず聞き返す。
「え、どういうこと?」
「いや、だってさ、山田先生は、ほら…信用できるじゃん」
なぜか煮え切らない言い方をする妹。
「それは信用はできるけど、今の時点では信用とかいう問題じゃないでしょ」
「いや、まあそうだけどさ…。…あーあ、山田先生も気苦労が耐えないよね。私同情するわ」
なぜそうなる?
「苦労してるのは私でしょ? 何で山田先生なのよ。全くあんた、イケメンだからってそんな山田先生の味方ばっかりしてると、永沢さんに言いつけるよ」
電話口でもよく聞こえる大きなため息を一つついた沙良は、
「あのさあ、お姉ちゃん、もうちょっと現実に生きてる人のことよく見た方がいいよ。マリオ様だけじゃなくってさ」
う…。
それは事実だが。
「何で今そんなこと言うのよ」
「いや、私からはもうこれ以上言えないよ。今のヒントで勘弁して」
「は? ヒント? 一体何言ってるのよ、全く…」
全然話が見えないので、この話はもうあきらめて、沙良の会社のことなどに話題をうつして長々と話しこむ。そうして、夜が更けていった…。
翌日。
朝、ホームルームに行って出欠を確認し、連絡事項を伝える。中間テストまではまだ数週間あるが、今週校内で高三対象模試の予定がある。
まだ受験モードになっていない生徒もおり(高三になってまで!)、発破をかける。
…が、効いたんだかどうだか。生あくびをかみ殺している生徒もいる。
オイ!
一応日直当番もあるのだが、高三にもなると本当にどうでもよくなってきて、日誌が忘れられていることが多い。
今日も、案の定日誌が教卓に置き去りになっていたので、ぱっと開いて、前の日直を確認して次の日直に渡そうとしたら、小さなメモが挟んであるのに気づいた。
「Otello /Andrea Chénier / I Pagliacci or ….??」
こ、これは…。
どきっとして石川君を見ると、ニコニコしている。
やっぱり。
「オテロ」も「アンドレア・シェニエ」も「道化師」もどれも、デル=モナコの代表的録音であり、彼はどれが聴きたいかと私に聴いているのだ。
そういえば、昨日どれがいいとは言わなかったから…。
て、いやそうじゃなくて!
こんなところにメモ挟んだりして!
あくまで生徒全員に向けて話をしながら、メモの「or…」の後に「『蝶々夫人』お願いします」と書き足した。
「or…」の意味は、この3作品以外のどれかの場合は自分で書き足せという意味だと踏んだのだ。
「ほら、日直、また日誌忘れてる」
「すみませ~ん」
日直日誌を持って石川君の横を通る際にメモを机に落とす。
…何かカンニングでもしてるみたい…。
少しヒヤリとするが、誰も気づかなかったようだ。
そのまま進んで、
「君、日直忘れちゃだめよ。特に掃除は絶対に忘れないでね」
と言って日誌を担当生徒に渡した。
こんなわざわざ手のこんだことしなくてもいいのに…。
ちらと石川君を見ると、うれしそうである。
全く、私の弱みを握って何をたくらんでいるんだか…。
やれやれとホームルームを終えて、教員室に戻る途中、はたと、あれは石川君なりの暗号だったということに気づいた。
あんなオペラのタイトルを、しかも原語で書かれたら、他の生徒にはわかるわけがない。
他の生徒に見られてもいいように、あんな風に書いたのだ。
気を遣ってくれたのか…いやいや、策士というべきか。
そのとき、ふと、「気をつけた方がいい」という妹の言葉を思い出していたが…一体どういう意味なのか。
沙良が言ったことをまとめて反芻していたが、よくわからないので考えるのをやめた。
今日は忙しいのである。そんなことを考えている暇はない!
…と思いつつ、自然と、『蝶々夫人』の有名な合唱部分をこっそり口ずさんでいた。(デル=モナコのパートのピンカートンなんて口ずさめやしないので、簡単な合唱部を歌うしかないのだ!)
2回目の古典の授業に入る予定が…。話が長過ぎて入れられませんでした。すみません(泣)。