不揃いで不器用な一日の始まり
擦り切れてあまり意味をなさないカーテンから、朝日が差し込む。照らし出されたのはひどくこぢんまりとした部屋だった。そこには不快な湿気が漂っている。きっと、昨日まで続いていた雨のせいだ。歩くたび悲鳴を上げそうなぼろぼろの木の床は、水気を帯びて黒ずんでいた。
部屋にあるものといえば、ベッドとその近くのかばんだ。窓の近くにあるベッドはマットレスもブランケットも薄すぎて、ばっちり寝ている人間のシルエットが浮かび上がっていた。145cmほどの小柄な体、胎児のように丸まって寝ている姿。薄い布からはみ出ている長い赤毛はこんな悪辣極まりない環境の中で、奇妙に目立っている。
と、急にかけ布団とは名ばかりの布が跳ね上がり、中の人物がむくりと起き上がった。
「アシルさま」
年のころはいくつだろうか。随分と幼い少女だ。先ほどまでベッドに散らばっていた髪はまるで生き物のようにあちらこちらに跳ね返り、起き抜けと思えないくらいぱっちりと開いた大きい瞳はエメラルドや初夏の新芽もかくやと、ほの暗い部屋で輝きを放っていた。
少女はもう一度「アシル様…」と口の中で含むように言うと、急に満面の笑みを浮かべながらベッド脇のかばんを開けて服を着替えだした。
取り出すのは汚れの目立たない黒いワンピース、白いエプロン。いわゆるメイド服だ。彼女は手早くそれを身に着け、流れるような動きで今度はネット付きバレッタを取り出した。炎のようにたちのぼる髪をネットにぎゅうぎゅうと強引に押し込むと、ここには用はないとばかりに部屋を飛び出して隣の洗面所で顔を洗い、身を整える。
起きてから身支度までの間、何とわずか3分。
早朝4時。
どのメイドよりも早く起き、どのメイドよりも幼く見える――この世界を治めるベイジル国にある王城に仕えるイルマ・カルンデラの一日はこうして始まる。
****
カーテンが翻り、朝日が差し込む。照らし出されたのはひどくこざっぱりとした部屋だった。そこそこ広く清潔ではあるが、調度品は驚くほど少ない。
部屋にあるものといえば、壁にかけてある時計、ベッド、クローゼット、丸テーブルと2席の椅子だ。窓の近くにあるベッドには、真っ白な雪原のごとくシーツが広がっている。仰向けになって規則正しく寝ているのは、灰色の髪の男性だ。全身は見えないが、シーツのふくらみから190cmを超える体躯を持っていると分かる。
と、中の人物がぱちりと目を開けた。
「…まどを、しめわすれたか」
年のころは23、4だろうか。寝起きで少しかすれた声を出して起き上がると、シーツが体を滑り上半身が露わになる。鍛えられた肉体をおしげもなく披露しながら、あくびを一つ。
灰色の髪といい、少しほりの深めな顔の造形といい、このベイジル国では平均的な男性像にあたる。あまりに平凡な様相ゆえに、寝ていた場所が王城だということを吟味しないと、王城仕えだと思われることはない。市街を歩けば一般庶民に埋没してしまうだろう。
ただ、彼の持つ身体のパーツとして一つ特徴的な部位がある。
目だ。レッドとブルーの混合と反射によってヴァイオレットに見える目は極めて稀だった。そんなわけで、彼――アシル・ベンフォードといえば市井で「紫眼の魔術騎士」と呼ばれるようになったのだ。部下は「隊長の目の色は紫じゃなくてヴァイオレットでしょうに!」と怒っていたが、アシル自身はそのような些細な違いなどはどうでも良かったので何も言わない。自分の呼び名一つにつけしっかり考えてくれることは嬉しいが、乏しい表情筋と生来の寡黙さから、彼の喜びは部下に何も伝わっていない。後で冷静になった部下が「アシル隊長の悠然とした態度…見習おう」「周囲に振り回されないってかっこいいよな」などと賛辞を送っていたこともアシルは何も知らない。
それはともかく、光が当たるたびヴァイオレットに輝く目は今は虚空に向けられている。そのまま機械的に何度も寝癖のついた髪をなでつけるが、そのたびに灰色の髪が一定のリズムをとってからくり仕掛けのごとく跳ね上がった。
起きてから髪を手でくしけずるだけの時間、何とおよそ15分。
早朝5時。
壁の時計がカンと軽いベルの音を鳴らしたところでようやく彼は動きを止めて、漫然と顔を上げて時間を確認した。
「……あ」
昨日は風呂上りに外の風を浴びながらそのまま寝てしまっていたと思い出す。
ということは、今のアシルは裸体であるわけで。
彼が急いでベッドから飛び降りてクローゼットに手をかけるのと、鍵を閉めたはずの部屋のドアがノック音の後開けられたのはほとんど同時だった。
「おはようございます、アシル様。朝食を持ってまいりました」
小さな体躯に不釣り合いほど食事の乗った大きなサービスワゴンを引きながら今日も彼女が現れた。
ばっちりと彼女の緑色の目とアシルの菫色の目が合った。
彼女は微笑んだ。幼げな風貌に反して妖艶な笑みだった。
「…………」
アシルは無言でクローゼットの扉を盾代わりにして目にもとまらぬ速さで下着を身に着けた。次に鍛練用に何か適当な服を見繕おうと手を伸ばすが、すぐ背後から聞こえた声に思わず動きを止めてしまった。
「アシル様」
「……おはよう、イルマ」
この少女に一昨日は挨拶をしなかったことを説教され、昨日は下の名前を呼ばなかったと怒られたことを思い出し、アシルはとりあえず挨拶と名前を呼んだ。何故か後ろを振り向くことはためらわれたので前を向いたまま、適当な服をつかむ。だが、その直後、イルマが目の前にいた。
「……」
イルマがその細い体と魔術『加速』を利用してクローゼットとアシルの間に来たのだと気付いたのは、彼女が「こちらはいかがでしょうか?本日は暑くなりそうですので薄手のものの方がよろしいかと」と手に持った服を示してからであった。
「…ああ」と受け取ろうとすると、「私めが致しますので」と前、背後にと無駄のない動きで移動しつつ服を身につけられる。
(随分身長差があるのだが…)
それをものともせず自分に着衣をさせたとは、メイドの技は底知れないとアシルは感心する。だが、イルマの「では、お下履きの方も」という言葉を聞いて、強引に自らズボンをはいた。
「あら、そちらも私めが」
そんな声が50cmほど下から聞こえてきたが構わず部屋中央にある椅子に向かった。
丸テーブルの横にはワゴンとイルマがすでに待機しており、イルマは机の上に朝食をこれ以上もないほど美しい配置で置いていた。
「…いただこう」
王城の料理人が作った品だ。
6時までには書類仕事を済ませ、部下の鍛練に付き合ってやりたいという我がままを快く引き受けてくれた彼らには感謝してもしきれない。また、そういうわけなので朝は来なくてもいいと言ったにも関わらずわざわざ毎朝、しかも早朝アシルが起きたあたりでやって来る彼女にも、
「アシル様。今日のように窓をお開けになるのも一糸まとわず就寝されるのもいかがなものかと。お風邪をひかれてしまいますよ?いつも魔術騎士団員の方に体調に気を付けるよう言っておられるあなた様がお風邪を召してしまわれてはならないでしょう」
……こうやって、自分のために毎朝注意してくれる彼女にも、感謝しなければならないのだろう。
「それに無防備すぎます。危険ですから止めてください。アシル様は」
とは言えど、さすがに早朝からの説教はアシルとて心躍ることではない。イルマには悪いが、田舎の母を思い出してしまう。小さい頃大激怒された出来事なども思い出してしまい、アシルは彼女の言葉を遮るようにして言った。
「大丈夫だ」
「確かにアシル様は魔術騎士の隊長をしておられますし、勇者様の召喚後は確実に魔王討伐のメンバーになられると伺っています。しかし、私が言いたいのはそういうことではないのです、アシル様が襲われたらどうするのかということなのです。ここで私めが述べる『襲う』とは」
……どうやら火に油だったようだ。おかわりの紅茶を入れるためアシルから少し目を離しているが、イルマはまだ説教をしている。アシルは横を見た。背の低い彼女でもアシルが座ると、大分身長差がなくなる。紅茶の準備に少し身をかがめると、ちょうど目線上に彼女の頭が見えるほどだ。そこで、彼は気付いた。
「イルマ」
「?何でしょう……」
彼女のネットから髪が飛び出ている。
アシルは赤い髪を手に取って整えてやった。イルマは体の動きを止めている。大きな目だけがアシルの行動を見ていた。
アシルは体に見合うだけの大きな手をしており、こんな細い髪を整えられるか不安だったが、きれいに出来たので満足して息を吐いた。
普段動かない顔にわずかに喜色が浮かぶ。
「ん…きれいだ」
ますます固まるイルマから時計に目を移すと5時20分。
冷めてしまいそうなので食事を再開すると、いつも以上においしかった。スクランブルエッグは舌にやさしくふわふわで喉をすんなり通り、ウインナーは表面がぱりぱりで肉汁がしっかり中に収められている。
「おいしいな」と言う彼の顔にはまたもや喜びの色が見てとれた。
「そ、そう、ですか…………」
いつもきびきびしている様子とは違い、どもっているメイドの方に目を向けると、彼女は熟れた苺のように顔を赤くしている。アシルはデザートに置かれていた今の彼女とそっくりな鮮やかな赤をふりまいている苺のマリネゼリー寄せをスプーンですくいながらまた「おいしいな」と言った。
ガタッと音がした先を見れば、イルマがカクカクとした動きでドアに手をかけていた。
「お、おしょくじ、がおわりましたら、ベルを、鳴らしてくださいませ。わたくしは退室しております」
(いつも食事中は傍にいるのに)
と思い、口を開こうとしたが、彼女の上擦った声が先に部屋に響いた。
「その!!本日の朝食は……僭越ながら、わたくしがつくらせていただきました。おきにめしましたら、こ――……………こうえい、です」
そのまま慌てた様子ではあるが、それでも音をたてずにしめやかに扉から出た彼女の後姿を見ながら、アシルは思った。
(メイドは料理もうまいのか…)
白ワインの上品な甘さのゼリー、その中にわずかに入っている氷の涼やかさと心地よい触感、苺の甘酸っぱさを堪能しながら、彼は次に彼女が入ってきたらたまにでもいいから作ってくれないか頼もうと考えた。
彼女が一時間以上かけて料理を作ったことも、本当は「お気に召しましたら今後は私が作らせていただきます」と言いたかったことも、小柄な身を気にして精一杯大人っぽく振舞おうとした結果があの田舎のオカンを髣髴とさせるような態度だということも、早朝に起きるためにメイド部屋ではなくぼろぼろの空き部屋を使っていることも、魔術騎士隊長のアシルと並ぶために『加速』や『開錠』の魔術を極めたことも、いつか勇者一行と旅に出てしまう彼に着いていけるように日々陰で鍛錬していることも、………ひとえにそれらが彼を愛しているからだということも、彼は知らない。
早朝5時30分。
どの部下からも慕われ、どの魔術騎士よりも強い――この世界を治めるベイジル国にある王城に仕えるアシル・ベンフォードの一日が今日もこうして始まった。
ホラーを書こうと思っていたはずなのにいつのまにかこんな話になっていました。
初めての一次創作なので緊張、冷や汗ものでしたが、今の作者にはこれが精いっぱいです…。何かアドバイス等ございましたら是非ともよろしくお願いします。