婚約破棄されたので領地に帰ったら、なぜか元婚約者が毎週謝罪に来ます
「君は一人でも生きていけるほど聡明で強い。だが、エルナは違う。彼女の細い肩には、私が支えてやらねば耐えられぬほどの脆さがある。……すまない、エレーナ。君との婚約を白紙に戻してほしい」
王都のサロンには、初夏の午後の日差しが差し込んでいた。
豪奢な長椅子に腰かけたアルヴィン様は、淡く波打つ金髪を揺らし、これ以上ないほど真摯な顔で私に告げる。隣には、菫色の瞳に涙を滲ませたエルナ嬢。震える小鹿のように身を縮め、薄桃色のドレスのフリルを握りしめていた。
一方、私は執務にも差し支えない、飾り気のない濃紺のドレスを着ていた。
――ぱちん。
心の中で、何かが乾いた音を立てて弾けた。
怒りも、悲しみも、驚きもない。五年間、彼のために費やしてきた時間と気遣いが、昨夜の残り火のようにすっと冷めていく。
私はボーンチャイナのカップをソーサーに戻した。冷めかけたダージリンの水面に、蜂蜜色の瞳が映っている。
「左様でございますか」
「エレーナ……」
「アルヴィン様がそこまでおっしゃるのなら、喜んでお受けいたしますわ。私のように一人でも生きていける女より、お守り甲斐のある方を選ばれるほうが、次期公爵としての矜持も保てましょう」
「わ、分かってくれるか! さすがは君だ。話が早くて助かるよ」
アルヴィン様はほっとしたように息をついた。彼がそうして安心していられるのも、私が五年間、彼の頭痛薬を医師に手配し、面倒な交渉ごとを片づけてきたおかげなのだが――もう、私の知ったことではない。
「エレーナ様、ごめんなさい。私……」
エルナ嬢が、潤んだ目を伏せた。
「謝罪は不要ですわ。お互いにとって最善の道を選ぶだけですもの。では、失礼いたします」
私はドレスの裾を払って立ち上がり、完璧なカーテシーを一つ残してサロンを出た。
泣いて縋ることなど、少しも思いつかなかった。私には、これから片づけるべき仕事が山ほどある。
実家のタウンハウスに戻ると、長年仕えてくれている執事のバルトを呼んだ。
「お帰りなさいませ、お嬢様。……首尾はいかがでしたか」
「上々よ。婚約解消の意思は、本人の口から確かに聞いたわ。例の手続きを進めてちょうだい」
「承知いたしました」
アルヴィン様と婚約してからの五年間、私は公爵家のために多くの仕事を引き受けてきた。
先代公爵が残した負債の返済計画を練り直し、商会と利率を交渉する。領地の水利権を守るため、隣領との会談に出席する。社交界でアルヴィン様が無用な敵を作らないよう根回しをし、夜会の席次や公爵邸の予算まで整える。
その報酬を求めたことはない。婚約者として、将来の公爵家を支えるつもりでいたからだ。
けれど、私が動かしていたのは善意だけではなかった。ランカスター伯爵家は、公爵家の再建を助けるため、婚約期間中に限って融資の信用保証を引き受けていた。私個人の資産も、一部の契約の担保になっている。
婚約が解消されれば、支援を続ける理由はない。契約に従って保証を取り下げ、私が関わっていた実務からも手を引く。それだけのことだった。
「公爵家の融資については、信用保証の解除と再審査の通知を各商会へ出しました。お嬢様が管理されていた個人資産も、すべて引き揚げております」
「ありがとう。王宮への婚約解消の書類は、父が届けてくださるそうね」
「はい。馬車は今夜のうちにご用意いたします」
「助かるわ。明朝には領地へ出ましょう」
自室で乗馬服に着替え、必要な荷物だけをまとめた。
公爵夫人の座を巡る駆け引きも、他人の領地の帳簿を夜遅くまで睨む日々も、もう終わりだ。
ランカスター伯爵領は、王都から馬車で三日ほどの山あいにある。雪解け水が流れる果樹園では、名産の黒葡萄が実る頃だ。私には、帰る場所がある。愛する土地と、そこで暮らす人々がいる。
翌朝、王都が騒ぎ始める前に、私は身軽な馬車で出発した。
王都を離れて三日目、領地の屋敷に着くと、空気の澄み方が違うように感じた。
窓を開ければ、葡萄畑を渡る風の匂いがする。朝は果樹園を歩き、昼は領地の帳簿を確認し、夜は暖炉の前で本を読む。誰かの機嫌をうかがいながら手紙の束を開く必要はない。
王都で何が起きているかは、情報屋から届く報告書で知った。
婚約解消が王宮に受理されると、商会は公爵家の融資を再審査した。ランカスター伯爵家の保証がなくなった以上、以前と同じ条件では貸し続けられない。公爵家には返済計画の見直しが求められ、資金繰りは急速に苦しくなったらしい。
続いて、王立水利局から公爵家へ罰金の通知が届いた。水利権の更新期限を過ぎていたのだ。毎年、私が書類を整え、納付まで確認していた仕事だった。
「些細な事務仕事だ」と言われたそれを、今度は公爵家の事務官たちが引き継ぐことになった。だが、彼らは何年も私の指示を受けていただけで、交渉の経緯も、必要な書類の所在も把握していなかったという。
エルナ嬢を伴って出席した夜会でも、アルヴィン様は頭を抱えることになった。
彼女は貴族同士の関係を知らず、不仲で知られる二人の大貴族を同じ小円卓に招いてしまった。笑い話で済めばよかったが、片方は侮辱と受け取り、後日、正式な抗議が届いたらしい。
「君は聡明で強い」「エルナはか弱い」
そう言っていたアルヴィン様は、エルナ嬢の「か弱さ」が、支えを必要とすることではなく、努力をしないことだったと、少しずつ思い知っていった。
領地へ戻って一ヶ月が過ぎた、ある土曜日の正午。
朝露の残る葡萄畑を歩いて屋敷に戻ると、居間で帳簿を見ていた私のもとへ、バルトがやって来た。
「お嬢様……また、あの方がお見えです」
私はペンを置いた。
「お通しして。今度こそ、話を終わらせましょう」
応接室には、見る影もなくやつれたアルヴィン様が座っていた。
手入れの行き届いていた金髪はぱさつき、仕立ての良いフロックコートには皺が寄っている。自信に満ちていた青い瞳には隈が濃く、疲労の色が浮かんでいた。
「……エレーナ!」
私を見るなり、彼は立ち上がった。
「アルヴィン様。事前にお約束のない訪問はお控えくださいと、先週もお伝えしたはずですが」
「すまない。だが、手紙を出しても君は返事をくれないだろう。頼む、話を聞いてくれ!」
彼はテーブル越しに、深く頭を下げた。
「私が間違っていた! エルナとは縁を切った。あの女はわがままで、浪費ばかりして、公爵家の仕事など何一つできなかった。君がいなければ、公爵家は立ち行かないんだ!」
私は冷ややかに彼を見た。
「あら。アルヴィン様は、エルナ嬢の細い肩にはご自分が支えてやらねばならないほどの脆さがある、とおっしゃったではありませんか。私よりも、お守り甲斐のある方を選ばれたのでしょう?」
「そ、それは……」
「それに、私の仕事は誰にでもできる些細な雑務だと、公爵家の方々はお考えだったはずです。優秀な事務官の方々にお任せになればよろしいでしょう」
アルヴィン様の顔が赤くなり、やがて青ざめていく。
「エレーナ、頼むからそんな冷たいことを言わないでくれ……! 毎週、王都から片道三日もかけて謝罪に来ているんだ。これが私の誠意だと分かってほしい。君が戻ってきてくれるなら、どんな条件でも飲む。公爵夫人として迎え、今まで以上に大切にする!」
毎週土曜日に姿を見せるため、彼は火曜日に王都を発ち、金曜日に領地へ着いているという。日曜日には帰路につき、水曜日に王都へ戻る。休む間もなく仕事を片づけ、次の週にはまた旅立つのだろう。
かつて馬車の揺れに文句を言っていた人とは思えない。世間の目には、それが愛の証明に映るのかもしれない。
けれど、私には分かっていた。
彼が取り戻したいのは私ではない。自分の失敗を代わりに片づけ、崩れた生活を元通りにしてくれる、都合のいい誰かだ。
「アルヴィン様」
私は静かに告げた。
「あなたがどれほど足を運ばれても、私の答えは変わりません。私は今、領地と領民のために働く日々に満ち足りております。他人の失態の後始末をするために、この暮らしを手放すつもりはございません」
「エレーナ……!」
「どうかお引き取りください。これ以上、我が領民に公爵家の問題を持ち込むのはおやめになって」
「バルト、馬車までお見送りを」
「かしこまりました」
アルヴィン様は何か言いかけたが、結局、言葉にはならなかった。
私は彼に背を向け、応接室を出た。背後から「エレーナ、頼む!」と呼ぶ声が聞こえたが、重い扉が閉まると、それも途切れた。
翌週の土曜日にも、アルヴィン様はやって来た。
私は会わなかった。その次の週も、そのまた次の週も、門番に応対を任せた。謝罪を受け取るために、彼と会う必要はない。
それから半年後、王宮の監査局は公爵家の会計に不審な点が多いとして調査に入った。水利権の更新漏れや融資の返済遅延だけでなく、これまで表に出ていなかった不正な支出も明らかになった。
公爵家の領地管理権は一時的に王室へ移され、アルヴィン様は爵位を継ぐ資格を失った。彼は王都の外郭にある修道院で、帳簿整理をして暮らすことになったという。
毎週謝罪に通う気力があるのなら、その時間を自分の領地や仕事に使えばよかったのに。
最後まで、彼の関心は「誰かに救ってもらうこと」に向いていたのだろう。
秋が深まる頃、ランカスターの山々は黄金色と深紅に染まった。
屋敷のバルコニーに出ると、冷たい朝の空気が頬を撫でる。遠くの果樹園から、黒葡萄を収穫する領民たちの歌声が聞こえてきた。
「お嬢様、焼きたてのスコーンと、今朝届いたカモミールティーをお持ちしました」
バルトが銀のトレイを差し出す。湯気の立つスコーンと、琥珀色のお茶。私はカップを両手で包み、ゆっくり息を吸い込んだ。甘く優しい香りが胸に広がる。
もう、誰かの顔色を窺って夜を明かすことはない。
理不尽な言葉に耐えて、自分をすり減らす必要もない。
空はどこまでも高く、青かった。
私は温かいお茶を一口飲み、これから始まる一日に静かに微笑んだ。




