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第02話:【常識人視点】我が家には「天使」と「狂信者」がいる

視点:ベルシュタイン辺境伯


私は、平和主義者だ。

ベルシュタイン領を治める者として、争いを避け、全方位に配慮し、穏やかな日常を守ることこそが領主の徳だと思っている。

だが、今日の私は、自分の執務室でこれまでにない混乱の中にいた。


「……おかしい。何かが、決定的に間違っている」


私は、愛娘リーゼロッテから手渡された「事業計画書(と彼女は呼んでいた)」の束を前に、こめかみを押さえた。

6歳。今日で6歳になったはずの私の天使は、今朝の食堂で、焼き立てのパンをちぎるような手つきで私の「常識」を粉々に粉砕していった。


「お父様、この『絶望の荒野』の譲渡契約書にサインを。あと、私への投資として金貨100枚をお願いしますわ。……ああ、別に『今すぐ全額』とは言いません。キャッシュフローの範囲内で構いませんから」


キャッシュフロー。

なんだそれは。6歳の誕生日に、そんな単語が娘の口から飛び出すものだろうか。普通は「ケーキのおかわり」とか「可愛いおリボン」ではないのか。

金貨100枚。辺境伯家の予算からすれば、決して出せない額ではない。妻が己の宝石を換金して添えてくれた分も、その袋には含まれていると後で知った。だが、それを6歳の子供が、遊びでも贅沢品でもなく「事業資金」として要求しているという事実が、私の理解の範疇を超えていた。


「リーゼロッテ……。その、ドレスとかは欲しくないのかい? 王都で一番の職人を呼ぶ準備をしていたんだけど……」


「お父様、機会損失オポチュニティ・コストという言葉をご存知? 私が着飾っている間に、防衛線が崩壊するリスクを考えれば、ドレスなど布切れに過ぎませんわ。……それとも、ベルシュタイン家は娘の虚栄心と領民の命を天秤にかけるほど、余裕があるのかしら?」


「…………」


絶句した。

6歳の娘に、国家防衛の優先順位について説教されたのだ。

そして、その娘の背後で、さらに恐ろしい事態が進行していた。


侍女のアンナだ。

彼女は、控えめで有能な「普通の」侍女だったはずだ。それが今日は、眼鏡の奥に「戦場を駆ける暗殺者」のような光を宿している。


「旦那様、お嬢様のお言葉通りに。……なお、お嬢様が6歳としての時間を無駄にされないよう、本日より侍女一同、通常の3倍の速度で業務を遂行いたします。先ほど、お嬢様の着替えと洗顔を合わせて42秒で完了させました」


「42秒!? アンナ、それはもう『お世話』のスピードは逸脱してないかい?」


「いえ、愛です」


アンナは真顔で言い切った。

聞けば、彼女はリーゼロッテの「効率化」という命令を文字通りに解釈し、メイドたちに軍隊のような規律を叩き込むらしい。廊下を通り過ぎるメイドたちが、全員「影」のように音もなく、かつ全力疾走しているのを見て、私は自分の家がいつの間にか特務機関か何かに作り変えられている恐怖を感じた。


結局、私は娘の迫力と、アンナの無言のプレッシャーに負け、契約書にサインをしてしまった。

金貨100枚の入った袋を軽々と(あるいはアンナが裏で支えていたのかもしれないが)持ち上げたリーゼロッテは、「これで第一歩が踏み出せますわ」と、どこかの征服王のような笑みを浮かべて去っていった。


……それから数時間後。

私はどうしても気になり、彼女たちが向かった「絶望の荒野」へと馬を走らせた。

そこは、何の価値もない、ただ石ころと苦い雑草が生い茂るだけの土地。

そこに、娘は「簡素な木造小屋を建てて、そこで陣頭指揮を執る」と言っていた。


「……まあ、小屋くらいなら、可愛いものかもしれないな。ままごと遊びの延長だと思えば――」


そう自分を納得させようとした私の目に飛び込んできたのは、荒野のど真ん中に燦然と輝く、「白亜の移動式離宮」だった。


「……は?」


私は馬を止めた。

小屋。娘は確かに「小屋」と言った。

だが、そこにあるのは、王都の貴族が避暑地に建てる別荘よりも豪華な、大理石をふんだんに使った建造物だ。しかも、つい数時間前には影も形もなかったはずの場所に、だ。


「アンナ……。あれは何だ。私の目が狂ったのか? それとも幻覚か?」


いつの間にか私の馬の横に並走していた(!)アンナが、涼しい顔で答えた。


「お嬢様が『小屋』を希望されましたので、侍女としての私の解釈で、最低限の居住性を確保いたしました。領内から腕利きの大工と石工を200名、馬車で『迅速に』搬送し、完成まで眠ることを禁じて突貫工事をさせましたので。お嬢様の肌が荒野の砂埃で荒れるなど、あってはならないことです」


「それはもう『小屋』じゃない! 立派な不法建築……いや、独裁者の宮殿だ!」


「お嬢様は満足されていますわ。『思ったよりしっかりした小屋ね』と。……お嬢様はビジネスに集中されるあまり、建築物の定義が少々、一般の方より高次な場所にいらっしゃるようです」


違う。娘がビジネスに夢中で周囲が見えていないのを、お前が「愛(という名の暴力)」で補完しているだけだ。


私は震える足で、その「豪華な小屋」の内部に入った。

そこでは、6歳の娘が、高級なソファーに深く腰掛け、机の上にある「苦い雑草(魔力回復草)」を真剣な目で見つめていた。


「その草を、どうするつもりだい?」


恐る恐る尋ねる私に、リーゼロッテは冷徹な「投資家」の顔で答えた。


「お父様、これは草ではありません。将来的に金貨10万枚に化ける『時限式の資産』ですわ。……アンナ、作戦開始よ。領内の子供たちを総動員して。銅貨1枚でこの草を買い取るの。一点突破、市場の独占。これが最短ルートよ」


「御意に、我がマイ・ロード


アンナが深く頭を下げる。

外では、アンナによって「高額報酬と厳しい規律」で集められた村の子供たちが、まるで訓練された兵士のように、目を爛々と輝かせて荒野に散っていくのが見えた。


「……お父様」


リーゼロッテが、ふと私を見て、6歳らしい可愛らしい微笑みを浮かべた。


「安心してください。私は、この家を滅ぼしません。……ただ、少しだけ『リノベーション』するだけですから」


その微笑みは、確かに私の愛する娘のものだった。

だが、その背後でアンナが「リノベーションの邪魔をする者は、私が物理的に撤去します」という書状をどこかへ送っているのを見て、私は悟った。


ベルシュタイン家は、もう元の穏やかな辺境伯領には戻れない。

6歳の娘と、その狂信的な秘書。

この二人が、これからの歴史を、そして私の「胃の健康状態」を、過剰なまでの効率と暴力で塗り替えていくのだ。


「……せめて、美味しい胃薬を開発してくれることを祈るしかないな」


私は、荒野にそびえ立つ「白亜の小屋」を見上げながら、遠い目をして呟くのだった。

お読みいただき、ありがとうございました。

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