第11話:聖典「ソン・シ」の編纂と、過剰なる教育的指導
離宮のテラスでは、午後の柔らかな光を浴びながら、お嬢様がギルバート様に向けて熱心に「昔話」を語っておられました。それはお嬢様が前世と呼ぶ異世界の知恵、経営の神髄とも言うべき深遠な理論です。私はその数歩後ろで、いつものように冷静沈着な侍女として、影のように控えていました。
お嬢様、今日もそのお声は鈴の音のように美しく、語られる内容は大陸の歴史を数百年は先取りする叡智に満ちています。ああ、ギルバート様、貴方は分かっていますか? 貴方の目の前にいるのは、未来を照らす生ける神託そのものなのです。その一言一句を、脳細胞の隅々にまで刻み込みなさい。もし貴方が一言でも聞き漏らすようなことがあれば、私がその耳を物理的に拡張して、二度と忘れないようにして差し上げますわ。
私は侍女服の袖に隠し持っていた、特注の魔導記録手帳を素早く取り出しました。ペン先が紙の上を火花が散るような速度で滑ります。
選択と集中。一点突破こそが弱者の兵法。中途半端な妥協は、死への最短ルート。
お嬢様が唇から零されるその黄金の言葉たち。私はそれを「聖典・ソンシ」と名付け、秘密裏に編纂を進めていました。これは単なる記録ではありません。ベルシュタイン領を、お嬢様の理想を実現するための「最強の組織」へと作り変えるための、絶対的な教典なのです。
「アンナ、さっきの話、聞いていたかしら? 私、この領地の事務処理をもっと効率化したいの」
「はい、お嬢様。完璧に把握しておりますわ。お嬢様が仰った『ボトルネックの解消』、すでに実行に移す準備を整えております」
「まあ、流石だわ。アンナに言えば、話が早くて助かるわね」
お嬢様が満足げに微笑まれ、私の胸は爆発せんばかりの歓喜に包まれました。お嬢様のお役に立てること、それは私の生存理由そのものです。しかし、私の仕事はここからが本番です。お嬢様が「効率化」と仰ったのなら、私はそれを「極限の最適化」へと昇華させなければなりません。
私はその夜、屋敷の全使用人と、要塞の文官たちを地下の講堂に緊急招集しました。私の手には、刷り上がったばかりの「聖典・ソンシ」の第一巻が握られています。伊達メガネの奥で、私の瞳は冷徹なまでの教育的使命感に燃えていました。
「全員、整列なさい! 今からお嬢様の叡智、聖典『ソン・シ』の講義を始めます。明日の朝までに、第一章から第十章までを暗唱し、かつ、それぞれの業務にどのように『全振り』するかを具体案として提出なさい」
「あ、アンナさん! 無茶ですよ! 今日の仕事が終わったばかりなのに、そんなの……。」
一人の若い文官が、震える声で異を唱えました。私は音もなく彼の間近に詰め寄り、冷たい指先で彼の喉元にペン先を突きつけました。
「無茶? お嬢様は6歳にして、この領地の未来に全てを懸けていらっしゃるのよ。そのお嬢様を支える私たちが、睡眠不足ごときで『中途半端』な泣き言を漏らすのですか? 理解できない者は、お嬢様の視界に入る資格はありません。今すぐ荷物をまとめて、北の荒野の開墾担当へと異動なさい。あそこなら、嫌というほど自分を『集中』させる時間が取れますわよ?」
「……ひ、ひぃ! やります! 死ぬ気で覚えます!」
「よろしい。いいですか、お嬢様が仰る『選択と集中』とは、不要なものを切り捨てること。貴女たちのプライベート、趣味、睡眠。これらはすべて『不要なリソース』です。すべてをお嬢様への奉仕に捧げなさい。それが、このベルシュタイン領で生き残る唯一の戦略ですわ」
(ああ、お嬢様。見てください。貴女様の言葉を、私はこうして物理的な規律へと変換しております。お嬢様が優雅に歩まれる道は、この鉄の規律によって磨かれた臣下たちが、一寸の狂いもなく舗装して差し上げますわ。お嬢様が望まれる『構造改革』とは、まず人間の精神を、お嬢様専用の部品へと再構築することなのです)
こうして、ベルシュタイン領の事務能力は、大陸のどの国家をも凌駕する「戦闘的集団」へと変貌していました。報告書は最短ルートで回され、予算配分はまったくの無駄もなく、すべてが要塞建設とギルバート様への投資へと一点投下されていきます。
「アンナ、最近みんなの動きがすごく早いわね。何か魔法でもかけたの?」
お嬢様、不思議そうな顔をして首を傾げるそのお姿、なんて愛くるしいのでしょうか。その純粋な瞳に、私の深夜の過激な教育実習の光景など、一分たりとも映してはなりません。
「いいえ、お嬢様。皆様がお嬢様の『志』に感銘を受け、自発的に全振りを決意した結果にございます」
「あら、そうなの? 皆、やる気があって嬉しいわ」
お嬢様が嬉しそうに仰るなら、それが真実です。背後で、目の下に深いクマを作りながらも、狂ったような速度で書類を捌く文官たちが血を吐こうとも、お嬢様が笑顔であれば万事解決なのです。
(ふふ、次はギルバート様への教育メニューをこの『聖典』に基づいて過剰に強化しましょう。彼を世界一の皇帝にするために、まずは一日二十時間の学習スケジュールを、物理的な拘束具を使ってでも完遂させなければ。上限なしの投資とは、上限なしの負荷(不可)と同義ですわ。ギルバート様、貴方もお嬢様の『最高のリターン』となるために、骨の髄までソンシを叩き込まれるがいいですわよ)
私はお嬢様の背後に控え、眼鏡を光らせながら、次なる「過剰なる育成計画」を練り始めました。お嬢様のビジネス理論を、私はこの領地の血肉とし、大陸最強のロジスティクスを完成させる。そのためなら、私は喜んで悪魔の教官になりましょう。お嬢様の「全振り」を支えるために、私はすべてを「過剰」に塗り替えていくのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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