第01話:電光石火のモーニング・ルーティン
柔らかな朝日が、ベルシュタイン城の重厚な石造りの窓を抜けて、お嬢様の寝室に差し込んでいました。私はいつものように、一分の隙もない侍女服に身を包み、伊達メガネの位置をミリ単位で調整してから、その扉を開けます。
「お嬢様、6歳のお誕生日おめでとうございます!」
私は努めて冷静に、しかし心からの祝福を込めて声をかけました。カーテンを開け、清々しい空気を部屋に取り込みます。ベッドの中で目をこするお嬢様は、まるで天界から舞い降りた天使のよう。そのプラチナブロンドの髪が朝日に透けて、サファイア色の瞳が宝石のように瞬く。
ああ、今日も私のお嬢様は世界一可愛らしい。この尊いお姿を拝見できるだけで、私の心臓は朝からフルマラソンを完走したかのような高鳴りを覚えています。もし許されるなら、今すぐこの光景を絵画にして永久保存したい。いいえ、いっそ私がこの瞳のシャッターで記憶の深層に焼き付けるべきでしょう。お嬢様の寝起きの欠伸一つで、私の寿命は確実に五年は延びました。
「っ?」
「お、お嬢様? どうなさいましたか? まるで何かに取り憑かれたようなお顔で……。」
突然、お嬢様がガバッと起き上がり、姿見の前で呆然と固まってしまいました。その表情は、まるでおぞましい魔物でも見たかのような戦慄に満ちています。私は即座に、周囲に潜んでいるかもしれない暗殺者や不浄な霊体の気配を探りましたが、何も感じられません。
「アンナ、今すぐお父様のところへ行くわ。洗顔も着替えも最短ルートで終わらせて!」
お嬢様が叫ぶような声を上げました。その瞳には、先ほどまでの眠気など微塵もなく、燃え盛るような、あるいは飢えた獣のような鋭い光が宿っています。
「ええっ? まだパジャマのままですよ!」
私は反射的に声を上げましたが、頭の中ではすでに「最短ルート」という命令の解析が始まっていました。最短? 通常、令嬢たるお嬢様の身支度には、洗顔からヘアセット、ドレスの調整まで含めて最低でも四十五分は要します。しかし、今のお嬢様の切迫した表情。これはただ事ではありません。きっと何か、この世界の存亡に関わるような重大な天啓を受けられたに違いない。
そうとなれば、私のすべきことは一つ。お嬢様の望む「最短」を、物理法則を無視してでも実現することです。通常の身支度が四十五分なら、私はそれを三分……いいえ、一分で終わらせてみせましょう。それがお嬢様を愛し、お嬢様に人生のすべてを捧げると誓った私の、侍女としての矜持です。
「少々お待ちくださいませ、お嬢様。最高の効率で、貴女様を完璧な状態に仕上げてみせますわ。」
私は一度部屋の外へ出ると、廊下で待機していた下級メイドたちを鋭い視線で射抜きました。伊達メガネの奥で、私の計算式が猛烈な勢いで展開されます。
「全員、配置につけ! フォーメーション・ブリッツ! お嬢様を扉から食堂まで、一歩も歩かせることなく着替えさせるわよ! 失敗は死に値すると心得なさい!」
私の号令に、メイドたちが一斉に動き出しました。お嬢様の願いは、私の願い。そして私の願いは、この家における絶対神の神託も同義なのです。
まずは洗顔。廊下の角に配置した二人のメイドに、温かい蒸しタオルを準備させました。お嬢様がそこを通過する一秒の間に、汚れを拭き取り、化粧水をミスト状にして吹きかけます。次にヘアセット。これは三人がかりで、一人が右、一人が左、そして私がお嬢様の正面からリボンを固定。櫛を通す暇などありませんが、お嬢様の髪は元から宝石のように美しいので、魔導具の風で一気に整えれば十分です。
一番の難関はドレスです。しかし、中途半端な着替えは不要。私はあらかじめ、お嬢様が今日お召しになる予定だったドレスの背中を、特殊な魔法糸で仮止めしておきました。これを一気に引き抜けば、お嬢様がドレスを「潜り抜ける」だけで着替えが完了する手はずです。
「お嬢様、行きますわよ! 舌を噛まないようお気をつけて!」
私はお嬢様の小さな体を抱きかかえるようにして、廊下を疾走しました。まるで障害物競争のような光景ですが、私の脳内では完璧な段取りが組まれています。
ああ、お嬢様の柔らかい体温が伝わってくる! このままどこか遠くへ逃げ出したい衝動に駆られますが、今は一秒を争う戦時下。私は己の欲望を鋼の意志で抑え込みます。お嬢様を抱くこの腕に、神のごとき加護があらんことを。右手に洗顔、左手に香水。すれ違いざまにメイドたちが差し出すアクセサリーを、私は空中ですべて受け取り、お嬢様の耳元や胸元へ、吸い付くような正確さで装着していきます。
食堂の扉が見えてきました。最後の一押し。私は全力のスピードを維持したまま、お嬢様の背中のドレスを一気に引き締め、リボンを結び上げました。その間、わずか二秒。
「お待たせいたしました、旦那様。リーゼロッテお嬢様がお見えです。」
扉が開くと同時に、私は何事もなかったかのように優雅に一礼し、完璧に身支度を整えたお嬢様を食堂へと送り出しました。背後では、限界以上の速度で動かされたメイドたちが、酸欠でバタバタと廊下に倒れ込んでいく音が聞こえますが、そんなものは些事です。
「お嬢様、見てください。時計の針は、お部屋を出てからちょうど三五秒しか進んでおりません。これが私の愛の結晶。貴女様の時間を、一秒たりとも無駄にはさせませんわ。」
食堂の椅子に座ったお嬢様は、筆舌に尽くしがたい愛らしさ。ああ、今すぐスケッチブックを取り出してデッサンしたい。しかし、今の私はあくまで冷静な侍女。メガネをクイッと上げ、お嬢様の斜め後ろで、気配を消して控えます。
「お父様、単刀直入に申し上げます。私、6歳の誕生日プレゼントは、ドレスも宝石もいりません!」
お嬢様が突然、旦那様の膝に飛び乗り、とんでもないことを言い出しました。宝石もドレスもいらない? ああ、なんという無欲で気高いお嬢様。通常なら、我儘を言って周囲を困らせる年頃ですのに。
しかし、その後に続いた言葉は、私の想像を遥かに超えるものでした。
「『絶望の荒野』の統治権、そして、キャッシュでの前借り。」
それを要求するお嬢様の瞳には、まるで行き過ぎた情熱と、冷徹な計算が同居しているかのような、奇妙な覇気が宿っています。旦那様がコーヒーを吹き出し、周囲の執事たちが凍りつく中、私の心臓だけは別の意味で激しく脈打っていました。
「お嬢様……。なんて、なんて素晴らしいのかしら!」
お嬢様が「狂気」と評されるなら、私はその狂気を現実の「秩序」へと書き換えるための、最強の執行官になりましょう。
たとえその荒野に、草一本生えていなかろうと関係ありません。お嬢様がそこを拠点にするとおっしゃるなら、私は一晩でそこに宮殿を建ててみせますわ。領内の職人をすべて拉致してでも、資材を市場から根こそぎ買い占めてでも。
「お嬢様、貴女様が進む道に、いかなる障害も置かせはしません。たとえこの世のすべての理が貴女様の邪魔をするというのなら、私はその理を、この腕の物量で力尽くで捻じ曲げて差し上げます。」
旦那様が圧倒され、統治権を認める言葉を口にした瞬間、私の眼鏡は怪しく光りました。
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「さあ、アンナ。今日からここが私の『オフィス』よ。」
数日後、お嬢様が指差したその荒野。そこには、すでにお嬢様の影となって動く私の手によって、完璧な布陣が敷かれようとしていました。お嬢様は「簡素な小屋」とおっしゃいましたが、そんな中途半端なものは許せません。
私は、お嬢様が見ていないところで、すでに裏の予算案を作成し始めていました。項目第一。お嬢様のデスクの椅子は、最高級の魔導クッションを使用すること。項目第二。荒野の砂埃がお嬢様の美肌を傷つけないよう、半径一キロ以内に空気清浄の大規模魔導陣を埋め込むこと。
「お嬢様、見ていてくださいませ、私の「献身」を。最強の成功へと導いて差し上げますから。」
私は静かに頭を下げながら、心の底で歓喜の叫びを上げていました。これから始まる、愛するお嬢様との、無謀で熱狂的なビジネスの旅。その裏側を支えるのは、この私、アンナをおいて他にいないのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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