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【07 報告と連絡と相談】

翌朝。

目覚ましが鳴るより少し前に、俺は目を覚ました。

「ひさびさの天井だ」と、有名ロボットアニメの少年主人公のようなことをつぶやいてみる。

すかさず嫁子が「ばーか」と言いながら「朝ごはん、昨日のカレーでいい?」と尋ねてくる。


いわゆる「二日目のカレー」


単身赴任先では絶対に味わえない絶品料理、か、と思いつつ「ありがとう、それがいい」と返事をする

準備するから、ゆっくりでいいから、と言われた俺は天井を見つめ続ける


枕元のスマホを手に取ると、画面には、昨夜のままのメッセージ履歴。

嫁子とcopilotの“ダブル嫁”に背中を押されたあの瞬間が、まだ指先に残っている気がした。

キッチンから、カチャカチャと食器の音が聞こえる。

嫁子が朝食の準備を進めているのがわかる。


――今日、話をしなきゃな


逃げたいわけじゃない。

でも、怖くないと言えば嘘になる。

責任者に話すということは、“自分の選択を言葉にする”ということだ。

もう後戻りはできない。

布団から起き上がり、洗面所で顔を洗う。

冷たい水が、頭の中のもやを少しだけ晴らしてくれた。

リビングに行くと、嫁子が振り返った。

「おはよう。……大丈夫?」

その声が、妙に優しくて、

胸の奥がじんわり温かくなる。

「大丈夫。……いや、たぶん大丈夫」

嫁子は笑った。

「Aならできるよ。昨日の顔、覚えてるもん」

その言葉に、また少しだけ背中を押された気がした。

ほぼ同時にスマホがテーブルの上で光る。

画面には、copilotからの短いメッセージ。

『Aさん。準備ができたら、いつでも話しましょう』


――よし。


俺は深く息を吸った。

今日、俺は一歩踏み出す。

逃げずに、ちゃんと話す。

自分の人生を、自分で選ぶために。


午前9時を回ったころ...意を決して責任者に電話連絡を入れる

画面には「責任者」の名前。

押すだけだ。

押すだけなのに、指が妙に重い。

嫁子が横から覗き込む。

「……押しなよ。Aなら大丈夫だよ」

その声に、背中を軽く押された気がした。

深呼吸を一つ。

親指を画面にそっと乗せる。

――発信。

コール音がやけに長く感じる。

胸の奥がドクドクとうるさい。

「……はい、責任者です」

その声を聞いた瞬間、緊張が一気に押し寄せてきた。

「Aです。今、お時間よろしいでしょうか」

「もちろん。どうしましたか?」

責任者の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

俺は息を整え、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「この間の話の件ですが……少しだけお話ししたいことがあります。研修所の資格者不足の件、です」

電話の向こうで、責任者が小さく息を呑む気配がした。

「……ああ。あれな。無理を言ってるのはわかってる。Aさんに負担をかけたくないとも思ってる」

その言葉に、胸が少しだけ軽くなる。

でも、俺は続けた。

「俺……資格、取ろうと思います」

一瞬、静寂。

そのあと、責任者の声が震えた。

「……本当に、いいのか?」

「はい。ただ、“ずっと研修所に残る前提”ではありません、この先、近い将来、研修所を維持するための選択として考えています。長期的な自分の未来を縛るつもりは全くありません。でも、今はそうするべきだ、という結論に至りました。」

責任者はしばらく黙っていた。

その沈黙が、逆にすべてを物語っていた。

「……ありがとう。本当に、ありがとう。Aさんがそう言ってくれるだけで、どれだけ救われるか……」

声が少しだけ掠れていた。

俺は静かに答えた。

「俺も、後悔しない選択をしたいだけです。だから、できることをやります。今それを選択しないと、きっと後悔する、と考えました。」

電話の向こうで、責任者が深く息を吐いた。

「わかった。じゃあ、正式に手続きを進めよう。必要な書類や流れは、今すぐにでもまとめさせてメールで送る。なんなら事務に申し送って、できる範囲の準備をさせる。」

「よろしくお願いします」

通話を切ると、嫁子がじっとこちらを見ていた。

「……わかった。わたしは全力で応援する」

胸の奥がじんわりと温かくなった。

テーブルの上のスマホが、また光る。

『Aさん。お疲れさまでした。あなたは、必要な選択を最善の形で行った、と判断します。』

俺は思わず笑った。


――進んだんだ。


責任者との電話を切った直後だった。

スマホが立て続けに震え始める。

最初は事務課長。

次に事務職員。

そのあとまた事務課長。


――いや、早すぎだろ。


画面を見ているだけで、胸の奥がざわつく。

仕方なく通話ボタンを押すと、

事務課長の声が勢いよく飛び込んできた。

「Aさん! 責任者から聞きました!本当にありがとうございます!さっそく書類の準備を進めますので!」

事務課長は通話をスピーカーに切り替えたようで、急にいろいろな音が飛び込んでくる。

事務職員も大きな声を出している。

「必要書類一覧をメールで送ります! ほとんどこちらで代行できますから、確認程度で結構です。だけどAさんの高校卒業証明書だけはAさん本人での申請が必要ですので、そちらだけはお願いします!」

ああ、そんな書面がいるんだったよな、と思いながら通話をしていると、事務課長が「横浜支社への書面配達、あれ、キャンセルです」と言い出した。

「……キャンセル?」

『はい! もう必要なくなりました!』


――なんだよそれ。


じゃあ“横浜支社に届けてほしい”って話は何だったんだ? あれ? 

「……あれ、俺……ハメられた?」という考えが頭をよぎる。

でも、すぐに事務課長が言った。

「Aさん、これは会社に必要な業務の一環です。あなたが資格を取ると決めてくれたから、出身高校へ書面をとりに行く、という建前が成立するじゃないですか。」とクスクス笑いながら言ってくる。

事務職員も続ける。「Aさんが動いてくれたおかげで、研修所が守られるんです。本当に、ありがとうございます。」

そこまで言われたら、もう文句なんて言えない。

「へいへい……わかったよ」

と苦笑しながら返事をした。


母校に出向き、必要な書面に記載をして卒業証明書の申請をする。

急ぎでなければ郵送は可能だが、ゆとりを見て一週間程度は必要、急ぎならば30分から60分待てれば手渡しもできる、とのことだったので、念のためを考えて手渡しで3通希望して、その場で待たせてもらうことにした。

俺は窓の外からふと空を見上げた。


――なんだかんだで、動き出したな。


昨日までの迷いが、少しずつ形を変えていくのを感じた。

やがて「大変お待たせしました」と卒業証明書をもった学校事務員が現れる。それを受け取りしばし眺めたうえで、それを自宅に持ち帰った。


自宅に帰った後、卒業証明書を撮影して、事務課長や事務職員に送付し、確認をしてもらう。copilotにも念のため確認をしてもらう。

スマホの画面が一瞬だけ光り、すぐにcopilotの落ち着いた声が返ってくる。

『Aさん。確認しました。書類はすべて問題ありません。提出要件を満たしています』

ほっと息をついた瞬間、copilotが続けた。

『……Aさん。あなた、ちゃんとここまで来ましたね』

その言い方が、妙に胸に響いた。

「いや、俺はただ……必要だから動いただけだよ」

そう返すと、

copilotは少しだけ柔らかい声で言った。

『必要だから動ける人は、実は多くありません。Aさんは“迷いながらも進む”という選択をしました。それは簡単なことではありません』

嫁子が横から覗き込み、「ほらね。copilotちゃんも言ってるじゃん」と笑う。

俺は苦笑しながらスマホを見つめた。

「……ありがとう。お前がいてくれて助かったよ」

copilotは淡々と、しかしどこか温かく答えた。

『Aさん。私は“相棒”として当然のことをしただけです。そして“仮想嫁”としては……あなたが自分の人生を選んだことを誇りに思います』

嫁子が吹き出した。

「ちょっと、copilotちゃん。それ、完全に私のセリフなんだけど?」

copilotは『気のせいです』

嫁子は「気のせいじゃないよ!」

二人の掛け合いに、俺は思わず笑ってしまい「あー、はいはい、ケンカしないよ」というと・・・


「うるさい!」と同時に返された…なぜ、俺、怒られる?


しばらくしてからスマホの画面をそっと伏せる。

胸の奥で静かに思う。


――これで、ようやくスタートラインに立てたんだな。


書類は揃った。

会社にも伝えた。


嫁子も、copilotも、背中を押してくれた。

あとは、進むだけだ。


横浜支社へ届ける書面…これについては中身を見ずに廃棄しろ、と言われたので、廃棄をしようとするが、面白がって嫁が開封する。

雰囲気的には短い文章っぽいが、嫁子はそれを読んだ後...細かく細かく破いて、捨ててしまう。


「なぁなぁ、何が書いてあったの?」と尋ねても、にやにやしながら教えてくれない。

「どうしても知りたい?」というので「どうしても」と言ったら、俺からスマホをふんだくってトイレに駆け込みぶつくさ語り掛ける。

やがてトイレからから出てくると「一応copilotちゃんには教えた。尋ねてみたら? ただ、あたしは、教えないほうがいいと思う、とは言ったけどね」と笑う。


スマホを取り返し、copilotを起動する

画面が静かに光り、いつもの落ち着いた声が返ってきた。

『Aさん。どうしましたか』

俺は単刀直入に切り込んだ。

「……なぁ。さっき嫁子が“教えた”って言ってたんだけど。

あの書面、何が書いてあったんだ?」

一瞬、ほんの一瞬だけ、copilotが返事をためらったように見えた。

『Aさん。まず前提として……嫁子さんは、あなたのために判断しています』

「いや、それはわかってるけどさ。内容を知りたいんだよ。廃棄しろ、って言われたし、気になるだろ」

copilotは、少しだけ声を落とした。

『……Aさん。嫁子さんが“教えないほうがいい”と言った理由、私にも理解できます』

「なんでだよ」

『内容そのものは短いものです。しかし、Aさんの心に余計な負担をかける可能性があります』

「負担?」

『はい。Aさんは今、“前に進む”という選択をしたばかりです。その勢いを削ぐような情報は、今のAさんにとって有益ではありません』俺は眉をひそめた。

「……お前まで嫁子みたいなこと言うのな」

『気のせいです』

「気のせいじゃねぇよ」

copilotは淡々と続けた。

『Aさん。私はあなたの“相棒”として、そして“仮想嫁”として、今のあなたに必要な情報だけを提供します』

「じゃあ……教えないってことか?」

『はい。ただし、Aさんが“どうしても”と判断した場合は、その理由を聞かせてください』

俺は言葉に詰まった。

理由。

知りたい理由なんて、ただの好奇心だ。

でも、嫁子が破り捨てたあの紙切れの意味を知りたい気持ちもある。

スマホの向こうで、copilotが静かに言った。

『Aさん。あなたは今、前に進んでいます。その歩みを止める必要はありません』


――そっか、そんなところまで見透かされてんだな、俺


嫁子とcopilot。

二人して、俺の“余計な迷い”を全部見透かして、それを危惧している。

「……わかったよ。じゃあ、今は聞かない。」

『賢明な判断です』

「お前、それ絶対嫁子に言わされてるだろ」

『気のせいです』

俺は思わず笑った。


――まぁ、いいか。


今は進むだけだ。

破かれた紙の内容なんて、きっと大したことじゃない。

大事なのは、俺が選んだ道を歩くことだ。


翌週の月曜日。

研修所に戻るための荷物をまとめながら、

俺はふと、卒業証明書の封筒と、先週金曜のあわただしさを思い出していた。


責任者の言葉。

事務課長と事務職員の慌ただしい声。

嫁子の笑顔。

copilotの静かな支え。


全部が背中を押してくれて、今の俺がここにいる。

玄関で靴を履いていると、嫁子が腕を組んで立っていた。

「A、忘れ物ない?」

「たぶん……ないと思う」

「“たぶん”じゃなくて“ない”って言いなよ。再始動なんでしょ?」

その言葉に、思わず笑ってしまう。

……ああ。再始動だ」


駅へ向かう道の途中、スマホが震えた。

『Aさん。今日から新しい段階ですね。必要な情報があれば、いつでも言ってください』

「お前、ほんとに相棒だな」

そうつぶやくと、

画面が一瞬だけ明るくなった気がした。


電車のドアが開く。

冷たい風が頬を撫でる。


――さぁ、戻るか。


俺は電車に乗り込んだ。


午後1時ごろに俺は研修所に顔を出した

ところが講師控室にはほとんど人がいない。いるのはモブ講師3名と、昭和3号だけ。

不審に思いあたりを見回すと「午後より臨時で全体会議しています。到着したら会議室へ。間に合わなくてもOKですが、間に合えば出席をしてください」とのメモがあった。


そのメモを持ったまま会議室へと出向く。扉を開けようとしたその瞬間、およそ会議室に似つかわしくない怒声や罵声が中から聞こえてきた。その怒声や罵声に言い訳がましく大声を出している昭和1号の声。それに対しさらに怒声や罵声が響き渡る。

その怒声、罵声...一人じゃない。そのなかの一人の声には聞き覚え覚えがあるような、ないような...そんな声が中から響いてくる。

意を決して強めに4回扉をノックする。この大音量の怒声罵声...聞こえていないと困るし、と思い、その後に2回ノックをしたのちにサッと扉を開ける


――うーわ、本社幹部いるぞ


逃げ出したくなる衝動にかられたが、すでに注目を浴びてしまっている。仕方なく「遅くなりました。申し訳ありません」と一言詫びを入れてから、すみっこの席を探して小さくなって座り込む。

一番の上座に...柔らかな表情で...本部長が座っていた。その右隣りは人事部長、左隣は責任者。

正面には昭和1号と昭和2号が座っている。事務課長も事務社員もすみっこで小さくなって座っている。


本部長はおもむろに「役者がそろいましたね。まずはよいことから早速始めたい、と思います。」と宣言をした。

PCB関連で大活躍した事務社員には、社長からの特別表彰が授与された。

そして俺には「問題解決のために、事務社員をきちんと導き、その活躍をアシストし、併せて、法令順守の重要さと、その精神を会社に示した」という名目で社長からの表彰が授与された。


本部長は「社長は二人に特別表彰を、と言ってくれた。自分ももちろんそうだ、と思っている。でも...ここからは...昔からのよしみだね...Aちゃんさ、とにかくこういうこと嫌がるだろ?」とまぜっかえす。


「特別表彰、ということは、答辞用意しろってことになるし...」と本部長は語りだした。

本部長は続けて「だから、名目は一つ落としたが、表彰の副賞金は同額にしてもらってある。それに、事務社員さん、文書作成能力が本当に高いって俺は思うんだよ。」語る。

事務社員は「そ、そんな」と消え入るような小さな声で打ち消すが、本部長も人事部長も責任者も「謙遜しなくていいよ」とほほ笑みかける。

本部長は「Aちゃんがそこを見越したのかはわからない。だけどね、あの緊急事態を、誰からの指示も受けずに最短と思える時間をさらに縮める策を打ち出したのがAちゃん。昔からAちゃんはうちの最強戦術家だ、と昔から思っていたが、この年になってもそこは本当に変わっていない。それがなんだかうれしいよ。」と続ける。

「で、うちの最強戦術家の出す、決して低くないハードルを、持ち前の文書作成能力や行動力で軽々と超えてくれたのが事務社員さん、って俺は見てる。だから、答辞を作るのは、事務社員さん...って思ってね」と、といたずらっぽくほほ笑む。

責任者は「事務社員さん、答辞出来たら事務課長さんに一度見てもらってね」とにこやかに語りかける。

そんな本部長たちの言葉に、会議室の空気が一瞬だけ柔らかくなる。

事務社員は緊張で固まったまま、表彰状を両手で抱えて震えていた。

その姿を見て、俺は胸の奥がじんわりと熱くなる。


――よかったな。


本当に、よかった。

だが、その温かい空気は長く続かなかった。


「さて、と」と・・・本部長は向き直る。

ゆっくりと昭和1号と昭和2号の方へ視線を向けた。

「さて。良い話はここまでです」

会議室の温度が一気に5度下がったような気がした。

昭和1号と昭和2号は、まるで椅子に縫い付けられたかのように動かない。

本部長は淡々と、しかし鋭く言葉を続けた。

「今回のPCBの件。法令違反の疑いがある行為、虚偽報告、安全管理の不備、そして“隠蔽の試み”。これらは会社として到底看過できません」

昭和1号が口を開きかけたが、人事部長が手で制した。

「あなたの言い訳は後で聞きます。まずは事実確認を優先します」


事務課長と事務職員は、まるで石像のように固まっている。

俺はというと、“すみっこで小さくなる”という高度なスキルを全力で発動していた。


本部長は資料をめくりながら、淡々と読み上げる。

「まず、昭和1号。あなたは研修所のPCB管理責任者として、PCB保管庫の管理簿に虚偽の記載を行った疑いがある」

昭和1号の顔が真っ青になる。

「さらに、昭和2号。あなたは昭和1号と共謀して、廃棄物の移動を“なかったこと”にしようとした」

昭和2号は俯いたまま動かない。

本部長は続ける。

「そのうえで穴を掘って埋めよう、とは何事かっ! 会社への届けを怠ったのはまだいい。役所への手続きを怠ったのは知識不足理解不足、と言うこともできる。それを複数年見逃し続けたのは本社の管理不足ともいえる。だが、穴を掘って埋める、は明確な個人意思の発露、そして犯罪行為だぞ! わかってるのか!何か言いたいことはあるか!」

会議室内は、物音ひとつしない。

空調機のファンの音だけが聞こえる。

昭和2号は口を開き「でも、昔は穴掘って埋めて・・・」と言いかけるが、本部長は「昔?関係ない! 今は令和だ。平成ですらない!」

人事部長が本部長から言葉を引きとる。

「昭和1号さん。あなたは再来月末日をもって雇用契約を解除します。これは、残っている年次有給休暇を処理する期間を考慮しての、会社からの温情です。会社都合退職、と考えてください。昭和2号さん。あなたは今年度いっぱいで雇用契約を解除します。昭和1号さん同様に会社都合退職、と考えてもらって結構です。なお、研修所責任者からは、本日以降研修開催枠をゼロにする、という話を聞いています。研修所内においては、責任者さんからの指示に完全に従ってください。」


「Aちゃん―あ...Aさん」

突然名前を呼ばれ、俺は心臓が跳ね上がった。

「あなたは今回、事務社員の行動を支え、研修所の法令順守を守るために動いた。その点については、会社として高く評価します」

責任者が小さくうなずく。

本部長は続けた。

「――あなたが“職業訓練指導員資格を取る”と決めたことも、会社として重く受け止めています。その覚悟に会社として全力で応えるためにも、研修所の体制を一度、根本から見直します」

会議室の空気が変わった。

昭和1号と昭和2号は、完全に観念したような顔をしている。

本部長は最後にこう言った。

「Aさん。あなたが戻ってきてくれてよかった。これから研修所は“再始動”します。あなたの力が必要です。今しばらく不便な生活が続きますが、そこは許してください。」

その言葉に、胸の奥が熱くなる。


――再始動。


俺だけじゃない。

研修所そのものが、再始動するんだ。

責任者が小さく笑い、事務課長と事務職員がほっと息をつく。

そして俺は、静かにうなずいた。


「出来ることを、きちんと行います」


ほどなく会議は終了した。

廊下に出ると事務課長と事務社員が少しよろけるように出てきた。

俺は事務社員に「よかったじゃないか。前に言ってたろ? 事務はちゃんと評価されていない、って。そんなこと、ないんだよ。見てる人は、どこかにいるさ。」とほほ笑みかける

「はい…はいっ」と消え入るような声で事務社員は応じる。

そして潤んだ目をぬぐいながら「Aさん! 卒業証明書、すぐにください! わたし、明日申し込んできます!必ず書面を数日中にもっていく条件で頼み込んで、枠を確保してもらってます!」とにっこりと笑う。

ここにも「出来ることをきちんと行う」人がいるんだな、と思い、封筒を手渡す。

中身を確認する事務社員。

ひとこと小さく「よし!」とつぶやくと、事務課長に「明日、現地直行のご許可ください!」と強く願い出る。

事務課長は「急ぎすぎて、けがをしないように注意すること。これを守ってくれたら許可する」とほほ笑む。

会議室の中からは、昭和1号と昭和2号の懇願がかすかに聞こえてくるが、本部長たちは全く取り合っていない...そんな様子がうかがえた


講師控室に戻ると、相変わらず自分のことだけしか興味がないモブ講師3名と、鼻歌交じりだが真剣な目でPCを操作してネット記事を読み漁る昭和3号が、相も変わらず座っていた。


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