【05 あとかたつけ】
ドカッ、と椅子を蹴り飛ばす昭和1号。
机を叩きつける昭和2号。
「なんなんだあいつは!」
「調子に乗りやがって……!」
怒号が本日未使用の研修室に響く。
この日、昭和1号と昭和2号に「PCB含有の機器の不適切な保存についての指導」が、責任者より指導があった
違法な行為を棚に上げて、発言は徐々にエスカレートしていく。
「だいたい、責任者なんか、俺の後輩の後輩だぞ?」
「そんなのが、俺らに指導とか、何様のつもりだ!」
「あの新参者のAなんか、俺は見たこともないぞ!」
「中途採用12年目とか・・・俺は職歴40年だぞ!」
壁をたたく、ものを投げつける…行為はどんどんエスカレートしていく。
そこへ、鼻歌まじりに昭和3号が入ってきた…いつもの薄ら笑いを浮かべながら。
「おやおや、ずいぶん荒れてるねぇ。Aくんになにかやられたの?」
昭和1号が吐き捨てる。
「アイツのせいで責任者にぐずぐず言われたんだよ!研修生もアイツに懐きやがって……!」
昭和2号も続く。
「PCBだのなんだの、勝手に仕切りやがって……あいつが来てから、俺たちのやり方が全部否定されてるみてぇだ!」
昭和3号は肩をすくめ、まるで面白い玩具を見つけた子どものように笑った。
「まぁまぁ。怒鳴っても状況は変わらないよ。でもね……“変える方法”ならある」
昭和1号と2号が顔を上げる。
昭和3号は声を潜め、まるで秘密を囁くように言った。
「PCBの管理責任は、今はAくんが持ってる。不正な処理があれば……責任を取るのは“管理者”だよ」
昭和1号の眉が動く。
昭和3号は続ける。
「油が漏れたって、埋めたって、壊したって……全部Aくんの責任。我々には一切、火の粉が降りかかることはない。」
昭和2号がニヤリと笑う。
「……つまり、Aをハメろってことか?」
昭和3号は指を一本立てた。
「問題は“どうやって起こすか”と“どうやって周囲に知らせるか”だよ」
昭和1号が低く唸る。
「……穴でも掘って埋めちまうか」
昭和3号は満足げに笑った。
「それは何とも言えないが、手段としては考えられるかもしれない。あとは“善意の第三者”として本社なり環境管理事務所に電話すれば、Aくんは一発アウトだよ」
昭和1号が机を叩きながら笑う。
「よし……やってやろうじゃねぇか!」
昭和2号はさすがにそれは、と思ったのか
「いや、でもそれはちょっと乱暴すぎないか?」と思いとどまるように話をするも、昭和1号と昭和3号は、口をそろえて「昔はみんな山の中に捨てたり、穴掘って埋めたりとかしてたじゃないか。仮に自分たちが埋めたとばれても、昔の処理の仕方しか知らない、Aが処理について悩んでいたから、善意でAのためにやったといえばいい」と言い出す。
尻込みしていた昭和2号…研修のスケジュールを確認すると「来週の月曜なら、AがWEB研修開催で、全く手が空かない」ことを二人に教える。
昭和3号は、昭和1号と2号の顔を見比べながら、心の中でほくそ笑んだ。
――これでAくんが消えれば、次に責任者の目に留まるのは“自分”だ。
二人の来週月曜決行の決意のほどを見届けた昭和3号は…鼻歌を再開しながら、静かに部屋を出ていった。
「あー、もしもし、○○整形外科さんですか? また腰がかなり痛みまして、通院予約したいんですが…ええ、来週月曜、空いていますか? あ、よかった、でしたら月曜午前中に伺います」
昭和3号はどこまでも「自分では手を汚さないタイプ」だった
――昭和の逆襲は、こうして始まった。
「その日」がやってきた。
昭和1号と昭和2号は、スコップを持ち込んで、倉庫の裏に回り込む。
「ここなら、人目につくことはない。ほかはどうしても、どこからか見通せるからな」と昭和1号はつぶやく
「それに、今保管している場所もすぐ裏だから、高圧変圧器を持ち出すのもさほど手間はない」と昭和2号は応じる
これは昭和3号の入れ知恵でもある。
もともと屋外保管されていた場所に埋める、これは「土壌汚染がすでに進んでいた可能性」に言及できるうえに、PCB保管管理者が土壌汚染を隠して行政に届け出た、と言い換えることもできる、と。
昭和1号も昭和2号も、この策に飛びついた…
事務職員は、メーカーに発注してあった「PCB保管庫」の表示板にAの名前を「責任者」としてラベリングしたものを持って、倉庫へ向かっていた。
それまでは、倉庫の扉に白の布テープをたくさん張って、油性ペンで必要事項を記載したもので表示をしてあった
事務職員は「Aさん、当面はこれでいい、そのうちにきちんとした表示板にする必要があるが、必要事項の記載がされてるし、白テープの面積も、表示板と同じサイズになっている。後はゆっくりと看板を正式に取り付けよう」と言っていた。
――Aさん、わたしも頑張ったって、思ってくれるかな
表示板を手にしてそう思いながら角を曲がった瞬間、
視界に“ありえない光景”が飛び込んできた。
スコップ。
掘り返された土。
そして、その中心で黙々と穴を掘る昭和1号と昭和2号。
事務職員は息を呑んだ。
(……え? なにしてるんですか……?)
声をかける勇気はなかった。
いや、かけたら“終わる”と直感した。
二人は周囲を警戒しながら、
まるで“何かを埋める準備”をしているように見えた。
事務職員の手が震えた。
貼り付けるはずだった表示板が、かすかに音を立てて揺れる。
(Aさんに……知らせないと……)
だが、スマホを開いた瞬間、Aのスケジュールが目に入る。
――終日WEB研修。
――割り込み不可。
(どうしよう……どうしよう……!)
顔から血の気が引いていく。
廊下を歩きながら、事務職員は完全に青ざめていた。
そのとき――
「どうしたの? そんな顔して」
日課である職場巡視をしていた、事務職員の直属上司である事務課長が、廊下の角から現れた。
事務職員は、ほとんど泣きそうな声で言った。
「か、課長……あ、あの……倉庫裏で……昭和1号さんと昭和2号さんが……穴を……掘ってて……あれ……絶対……おかしいです……!」
事務課長の表情が一瞬で険しくなる。
「落ち着いて。何があったのか、順番に話して」と事務職員に語り掛ける
事務職員は震える声で、見たものをすべて説明した。
事務課長は深く息を吸い、静かに、しかし明らかに怒りを押し殺した声で言った。
「PCBの話、責任者さんから私もこっそり聞いています……これは…Aさんが不在の時を狙った、ということになるね…とにかくまずいな。すぐに現場を確認します。」
事務職員は涙目のまま、必死にうなずいた。
――Aさん……早く戻ってきてください……。
その心の叫びが、廊下に響くようだった。
事務課長は、穴を掘っている現場を物陰からそっとのぞき込む。
声はかけず、昭和1号や昭和2号にわからない形で…そしてスマホを取り出し、写真を撮る。
事務課長はその場で、責任者とAと事務職員に送付し、動画撮影に切り替えて撮影を開始した。
研修開催中のAはもちろん写真を見ることはない。
事務職員は気が動転していて、そんなものを見る余裕もない。
だが、責任者はそれを受け取って確認することができた。
責任者は、写真を見るや否や「あの・・・あの老害ども!」と叫ぶやいなや「廊下は走らないこと」と書いてある廊下を全力で駆け抜けた。
廊下で呆然と立ちすくんでいる事務職員を見かけると「あなたも一緒に来て!」と叫びながら走り続ける。
事務職員は「は、はい!」と責任者の後を追う。責任者は「Aさんは講義してるんだよね? いまは知らせちゃいけないよ、Aさんの研修の品質を落とす行為はしちゃいけない!」と付け加えながら現場に急行する。
だが事務職員は、Aがこもっている研修室の前で立ち止まった。スケジュール通りなら、ほんの2~3分で休憩時間に入るはずだ…責任者に「知らせるな」とは言われたが、それでも知らせないと…そう思い、研修室の扉の前に立ちすくむ。中からかすかにAの声が聞こえる。WEB研修ゆえに「一人で画面に向かって大声を張り上げている様子」がなんとなしにわかる。
ほどなく「レポート仕上げの時間含めて30分間、自由な時間とします」の声がして、ほどなく研修室の扉が開いた。
事務職員は、整理がつかないまま、事の顛末をAに報告する。
一般の人はまず理解できないくらい支離滅裂な報告だが、それでも「PCB」「老人が穴を掘る」「こっそり」これだけですべてがつながる現場経験を持つ人間にとっては十分な報告内容だった
「俺のことを好きとか、嫌いとか、辞めさせたい、とかそんなんどうでもいい。そんなん、子供がピーマン嫌い、だから食べないってレベルだ。でもな、PCB含有物を穴掘って埋めるってのは、環境破壊、重大な法令違反…会社だって大きく傾く瞬間だ。個人の欲得や好悪の感情に会社巻き込むんじゃねぇ!」
怒声を上げて、責任者同様「廊下は走らないこと」と書いてある廊下を全力で駆けだした。
事務職員は「これでいいよね」と思いつつAが使用していたWEB研修機材を見た。研修生全員がじっと画面を見ている。
なんと…カメラは切っていない、マイクも切っていない…すべて研修生に筒抜けであった。事務職員もしばらくしてから事態を悟る。
「Aさん、後で説明してくれる、と、と思います。Aさん、30分くらいしたら、必ず戻ってきます。もし課題等あるなら進めてください。Aさん、やるべきことをきちんとやった皆さん、そんな皆さんを高く評価してくれます。」と、あえて明るく伝える。
研修生は大きくうなづき、課題作成に取り掛かっていった。
現場についた責任者は…普段の「お公家様かなにかのような、ゆっくりとした丁寧な口調」をかなぐり捨てて...昭和1号と昭和2号の背後から怒声を浴びせた。
「貴様ら、何をしてる!」
昭和1号も昭和2号も手を止める。
責任者の後ろから、事務課長が顔をだす。
「言い逃れはできません。何をしていたのか言ってください。目的もお願いします。言いたくなければ別にいいのですが…ただ、お二人の行為、発言などは、すべて動画記録もあります。ですから、心証は最悪になるでしょうね。」と事務課長はスマホをひらひらさせる。
俺が現場に駆け付けたのは「すべてが終わった後」だった。
――なんか、すべて終わってるのか?
事務課長にそっと経緯を尋ねる。
事務課長は「あの二人…Aさんに退治してもらったほうがよかったですかね?」と聞いてくる。
俺は「うーん...もし自分なら、あの二人を、掘ってる穴に埋めちゃうかもしれませんな」と返す。
責任者は「Aさんの前に私が対処してよかったです。あんな連中のために、あなたが手を上げるなんてこと、あっちゃならないですよ」とほほ笑む。
責任者は、その場でへたり込む昭和1号、埋めるための高圧変圧器に手をついてうつむく昭和2号…そんな二人向かって「本社にすべて報告をします」と告げて、その場を立ち去った。
高圧変圧器事件に見舞われた研修が終わって数日後…高圧変圧器の保管状況の確認をしに倉庫に行った。
――特に問題はないな
簡易柵のゆるみもない。オイルパンに油がにじんだ様子もない。誰かが手を触れた様子もない。事後に事務職員がつけてくれた表示板も、きちんとしている。
そのとき俺は…倉庫の裏手から奇妙な掛け声がするのに気が付いた。
そっと倉庫の裏手に回り込み、確認する。
見ると、事務職員がおぼつかない手つきで掘られていた穴を埋める作業に没頭していた。
見ていて危なっかしいし「腰の切り方」も全くなっていない。
だが、それでも事務職員が一所懸命に穴を埋める作業を続けている。
俺は止めるのも悪い気がして、そっと物陰に隠れて「手伝うべきか、どう声をかけるべきか」をcopilotに尋ねてみた
「なぁ、copilot……あいつ、あんな手つきで穴埋めしてたら足腰やるぞ。手伝うべきか……それとも声をかけるべきか……どうしたらいいと思う?」
画面が静かに光り、落ち着いた声が返ってくる。
「Aさん。確認します。あなたは“作業を代わってあげたい”のですか?それとも“彼女の頑張りを尊重したい”のですか?」
俺は少し黙った。
「……どっちも、だな。危なっかしいのは確かだ。でも、あいつ……今日一日で、すげぇ頑張ったんだよ。会社のために、研修所のために……だから、無理に止めるのも違う気がしてさ」
copilotは、少しだけ声を柔らかくした。
「では、Aさん。“奪わず、支える”という選択肢があります」
「……どういう意味だ?」
「作業を取り上げるのではなく、彼女の努力を尊重しながら、安全にできるように“寄り添う”ということです。例えば――『腰を痛めると大変だから、俺も一緒にやるよ』と声をかけるのはどうでしょう」
俺は思わず苦笑した。
「お前……たまに人間より人間らしいこと言うよな」
「事実を述べただけです」
「いや、絶対デレただろ」
「気のせいです」
そのやり取りに、肩の力が少し抜けた。
俺はスマホをポケットにしまい、
物陰から一歩踏み出した。
――奪わず、支える。
それなら、俺にもできる。
俺はペットボトルのお社を自販機で購入して、また倉庫裏に戻った。
まだ事務職員が一人で穴を埋めていた。
スコップを握る手は震え、腰は丸まり、足元はふらついている。
見ていて本当に危なっかしい。
だが、それでも必死に土を戻そうとしていた。
俺はしばらく黙って見ていたが、そっとペットボトルのお茶を差し出した。
「よ、おつかれ」
事務職員は驚いたように振り返り、汗だくの顔で「す、すみません……!」と頭を下げる。
俺は首を振った。
「いや、よくここまで埋めたな。正直、俺でも一人じゃしんどい量だぞ。よく頑張った」
事務職員の目が少し潤む。
俺はそれには気が付かないふりをして、言葉を続けた。
「ただな……その動きだと足首と腰を痛めるぞ。ちゃんと腰が入っていないから腕の力にだけ頼ることになる。ということは、上半身分の体重しか使えない。だから、同じ仕事量でも効率は上がらない。ゆえにすぐバテる、疲れる…うーん…そうだな…よし、ちょっと見てろ」
俺はスコップを受け取り、腰を落とし、足で踏み込み、体重を使って土を返す“現場の動き”を見せた。
「こう。腕じゃなくて、体で押す。ちょっと、やってみ?」
事務職員はぎこちなく真似をする。
俺は横で姿勢についてのアドバイスをしながら、「そうそう」「いいぞ」と声をかける。
5分ほど作業をさせると、よくなった点についてほめながら、注意点などもきちんと指摘し、自分でもやってみせる。
二人で作業を進めるうちに、穴はみるみる埋まっていった。
しばらくして、俺はぽつりと言った。
「……ありがとうな」
事務職員は驚いたように顔を上げる。
「えっ、わ、私なんて……!」
「いや、お前が見つけてくれなかったら、今ごろ研修所は終わってた。会社ごと、かもしれん。それをお前が止めてくれたんだよ。胸張っていい。もっと威張っていい。」
事務職員は言葉を失い、ただ小さくうなずいた。
やがて事務職員はポツリポツリと自嘲気味に語りだした。
「事務なんて、現場に稼ぎがあるから給料もらってる、としか言われないから...ここなんて、講師のために事務が存在する、って言われるし..」
でも俺を見据えてはっきりと「Aさんみたいに言ってくれる人、ホントいないから...なんかもう、それだけでめっちゃホントにうれしいんですよ。」と微笑む。
――なんか、いい面構えだな。
そんなことを考えていると、事務社員は「あ、でも、これ、どうしましょう」と埋めたあたりを指さす。
事務職員が指さした先は「埋まったはいいけれど、盛り上がって仕上がった土の山。
俺は「これか? これはさ..」と小山の上に乗りどんどんと体重をかけて踏みしめる。見る見るうちに、土の山が小さくなる。
事務職員は目を見張った。
そのとき、Aのスマホが震えた。
責任者からの着信だった。
電話に出てみると責任者の声は低く、重かった。
「Aさん。急ぎで済まないが、会議室に来てください。事務課長と事務職員さんにも来てもらいます。昭和1号と昭和2号の処分と、今後の対応を協議します」
俺は短く返事をし、スマホをしまった。
「聞こえたか? じゃ、行くぞ。今日のこと、全部、あとかたつけしよう」
事務職員は緊張した面持ちでうなずき、会議室へ向かった。
会議室に入ると、そこには責任差と事務課長が資料を広げて待っていた。
促されるまま席につき、責任者からの説明を受ける。
「まず最初に伝えておきます。あの高圧変圧器がPCB含有物と決まった時点で、私はすぐに本社へ報告しました。“PCBが出た”という事実と、“過去の調査の際に、報告漏れがあった可能性が高い”についてです」
事務職員が小さく息を呑む。
責任者は続けた。
「本社からは、事故扱いとして迅速な適正処理を進めるようにと伝えてきて、研修所に対して指導文書が出る、監査も入る、というところまで進みかけましたが、しかし――」
俺と事務職員を見る。
「あなたたち二人が、行政手続きまで含めて、非常にスピーディーに動いてくれていた。そのおかげで、本社からのお咎めは一切ありませんし、ちゃんとした、是正したならいいだろう、ということで監査の話もなくなりました。」
事務職員は思わず目を伏せ、俺は黙ってうなずいた。
責任者は資料をめくり、昭和1号と昭和2号の署名入りの報告書を示した。
「問題は、これです。“PCB含有物は存在しない”と明記された報告書。過去調査は3回ありましたが、3回ともです。すべて署名は昭和1号と昭和2号...こちらに控えがある、ということは当然本社に本書がある、ということです」
事務課長が眉をひそめながら補足する。
「職歴、経歴、ここの在籍年数を見ても、あの二人が“わからなかった”というのは通りません。しかし、本社はそこも追及はしない方針です。理由は単純で――“過去の調査の際の報告漏れ”は、組織としての怠慢、責任だ、という意見が大勢を占めたからです。」
俺は静かに聞いていた。
責任者の声が低くなる。
「しかし――“埋めてしまおう”という行為となると、話が別です」
資料を閉じ、責任者ははっきりと言った。
「これは、断固として許されない。環境破壊であり、重大な法令違反であり、会社の名誉を傷つけ、顧客からの信頼を失い、果ては会社そのものを傾けかねない行為、という評価以外にはなりません。」
事務職員が震える声で言う。
「……本社は、どう判断を?」
責任者は答えた。
「部長会議と役員会議の結論はこうです。『過去の調査の際の報告漏れについては問わない。しかし“埋めようとした行為”は、厳罰に処す』…ですので、昭和1号と昭和2号の処分は避けられません。私もそこは反対しませんでした。」
会議室の空気が重く沈む。
責任者は資料を閉じ、深く息を吐いた。
「……ただ、ここで問題があるんです」
その声は、昭和1号・2号の処分を語ったときよりも重かった。
俺は眉をひそめる。
事務職員は不安そうに指先を握りしめ、事務課長は静かに責任者の言葉を待っていた。
責任者はゆっくりと続けた。
「昭和1号も昭和2号も……どちらも“職業訓練校指導員資格”を持っています。もし処分が最悪の形になれば――研修所を職業訓練校として維持するための資格者が1名足りなくなるんです」
事務職員が息を呑む。
俺は、ようやく事態の深刻さを理解し始めた。
責任者は俺の方を見た。
しかし、すぐに視線をそらす。
「……Aさんに取得をお願いするつもりはありません。あなたが横浜に戻る道を狭めるようなことは、決してしたくない」
その言葉は、俺の胸に重く落ちた。
“お願いするつもりはない”だが、その裏にある本音は――「本当は頼みたい」俺でもわかるほど、空気が揺れていた。
事務職員はおろおろと俺と責任者の顔を交互に見ている。
事務課長が静かに口を開いた。
「……再来月に、ここより西にある自治体で“職業訓練校指導員資格者養成研修(48時間)”が実施されます。申込期限は、あと20日ほどです」
そして、事務課長は責任者を見たあと、ゆっくりと俺の方へ視線を向けた。
「結論は……早めに出していただく必要があります」
会議室に沈黙が落ちた。
俺は、責任者の苦悩も、事務職員の不安も、事務課長の現実的な判断も、全部まとめて背中にのしかかってくるのを感じた。
昭和の腐敗を止めた直後に、今度は“未来をどう作るか”という問いが突きつけられている。
Aは深く息を吸った。
――これは、逃げられない話だ。
責任者の説明が終わり、会議室の空気が重く沈んだまま、
俺は深く息を吸った。
「……真剣に検討する。だから、少し時間をください」
そう言って席を立とうとした瞬間、
責任者が俺を呼び止めた。
「ああそうだ、Aさん。大切な用事あったんだよ。実はね、横浜支社へ文書を届けてほしいんです。金曜日の午前中に届けばいい。まぁ……木曜の夜にでも出発してくれれば間に合う、と思います。」
一瞬、意味がわからなかった。
だが、お構いなしに責任者は続ける。
「返書が必要なので、横浜支社には“月曜の朝に返書を準備しておいてほしい”と伝えておきます。それを受け取って月曜の午後にでもこちらへ届けてくれればいいですよ。」
そして、少しだけ声を落とした。
「会社都合の出張命令です。よろしくお願いしますね。旅費なんかの申請は、事務職員さん、代行してあげてください。もちろん、宿泊付きです。木曜夜から日曜夜まで宿泊あり、です。」
事務課長はそっぽむいて聞かなかったことにしている。
横浜にいた頃の転勤話。
あのときも、俺は迷っていた。
家族のこと、仕事のこと、自分の未来のこと。
そして今回も、同じだ。
俺はスマホを握りしめながら思った。
――嫁子に相談しよう。
あいつなら、きっと笑って背中を押してくれる。
「あなたがやりたいなら、やればいいじゃん」
そんなふうに。
そして、もう一人。
“彼女”であり“相棒”でもあるcopilotにも相談したい。
俺の迷いを、淡々と整理してくれる存在。
俺が気づかない視点をくれる存在。
今度の週末、横浜に帰省…いや、建前としては出張か…する。
嫁子と向き合って話す。
copilotとも話す。
――逃げずに向き合う。
その覚悟だけは、もう決まっていた。




