【01 倉庫とのり弁と転勤】
「俺」はとある電気工事会社の社員…52歳、老害一歩手前のところまで来ている、ただの会社員。
会社では「現場で並び立つものがいない」「稼ぎ頭」と言われていはいるが、それは周囲に恵まれてのこと、と、ずっと思っている。
工事現場は共同作業…誰かひとりの力で何かができるわけはない。一人一人が安全意識を高め、一人一人が役割を果たし、法令等で定められた安全基準を守ることで「やっと普通のものができる」世界でもある
そんな世界観…職業観を持つ「俺」にある日、転機がやってくる。
それは…「現場を離れて、会社が運営する研修所に常駐講師として赴任せよ」…
朝の倉庫は、鉄と油の匂いが支配する静かな世界だ。
俺――Aは、いつものようにオリジン弁当の298円のり弁と98円の豚汁を広げていた。
「満員電車?あんな地獄、俺には無理だ。朝は倉庫でのんびりが一番。」
豚汁をすすりながら、資材と発生材の山を眺める。材料の減り具合、発生材の量――それだけで昨夜の現場の進行状況がわかる。
俺にとっては、これも仕事の一環であり、大切な習慣だった。
――静寂を破ったのは、ガラガラという引き戸の音だった。
振り向くと、少し年下の課長が立っていた。スーツ姿に、やけに硬い表情。
「おはようございます、Aさん。…ちょっと、いいですか?」
その声のトーンで、俺は悟った。これは、面倒な話だ。
「何だ?資材の確認か?」軽く笑ってみせる俺。
だが課長は笑わない。
「いえ…実は、会社からの話でして。」
嫌な予感が、豚汁の湯気と一緒に胸に広がる。
「Aさんに…研修所での常駐講師をお願いしたいんです。栃木…小山の研修所です。」
――その瞬間、俺は頬張っていたちくわを噴き出した。
「はぁ!?講師!?俺が!?」
いやいや、俺の人生設計どこ行った?講師なんて、俺の辞書にねぇぞ!
倉庫の空気が一瞬、重くなる。
課長は続ける。「Aさんの技術と経験を、若手に伝えてほしいんです。正直、今の状況では現場の仕事も減っていますし…」
俺は箸を止めて、低くつぶやいた。
「俺は中途採用で入社してるんだぞ、12年しかこの会社に在籍してないんだぞ。そんな中途社員が講師? そんな講師の話、誰も聞かねぇよ。」
課長は頭をかきながら、苦笑した。
「だからこそ、なんです。当社はよどんでいます。古い考え方に固執して、新しいことにチャレンジすることもない。でもAさんは、別の会社から飛び込んできて、いろいろと変えようと努力している。法律関係に疎かった若手社員にも、法令を遵守する重要性をきちんと説いて、理解を得てくれている…そんな部分が当社には必要なんです。」
そして、課長は声を落とした。
「支社長には…『お前、正気か?稼ぎ頭をなぜ手放す?会社でも並び立つ人間はほかにいないと目されるあいつをなぜ手放す?Aがいない職場をちょっとでも想像したのか?』って、ぼろっかすに言われました。」
――稼ぎ頭。そうだ、俺は現場で稼ぐ。それが俺の存在意義だ。
だが、課長の言葉は続く。
「正直、今の状況では現場の仕事も減っています…でも、どこかで反転攻勢の時期が来ます。その時にAさんにだけ頼る、は企業として正しくない、と考えます。Aさんの劣化版でいい…陰でいい…コピーを今のうちに作りたいんです。Aさんの技術と経験を、若手に伝えていただけないですか?」
俺は弁当の海苔を見つめながら、心の中で呟いた。
――現場でこそ、俺は生きる。だが、会社は俺に別の役割を求めている。
豚汁の湯気が、ゆっくりと消えていった。
「……一度は家族と話をする。だから時間をくれ。」
そう告げると、課長は深くうなずいた。
「ありがとうございます。…Aさんなら、きっと若手を変えられる。」
俺は弁当を片付けながら、心の中で呟いた。
――研修所で何を教えたらこうなるんだ?そもそも、今の教育はどうなってる?
若手の不安全行動、裏ワザ好き、法令無視…目も当てられない現状。
このままじゃ、業界ごと沈む。
「まぁ、この話、また後でな。」
そう言って、俺は倉庫を後にした。
夜のリビング。坂の多い横浜の街――その灯りが、嫁子の髪をやわらかく照らしていた。
俺は、ソファに腰を下ろし、深呼吸をひとつ。
「……異動しろ、だとさ。」
言葉を吐き出すと同時に、嫁子がこちらを見た。大きな瞳が、まるで『それで?』とでも言いたげだ。
「栃木の小山。研修所で講師やれ、だとさ。」
俺が続けると、嫁子は一瞬だけ眉を動かした。だが、次の瞬間――。
「ふーん。」
それだけ。まるで、近所のスーパーが特売やってるって話を聞いた時みたいな反応だ。
「いや、ふーんじゃなくてだな!」
思わず声を荒げる俺。
「俺、現場人間だぞ?講師なんて……俺の人生設計にねぇよ!」
嫁子は、くすっと笑った。
「人生設計って、Aの設計図、どこにあるの?見せてよ。」
その言葉に、俺は言葉を詰まらせる。設計図なんて、あるわけない。
「……お前、俺が困ってるんだぞ?」
「困ってる…そうね…うん…『やりたいことをやる』…それでいいんじゃない。」
さらりと、嫁子は言った。
「私はね、Aが『やりたいこと』をやるのが一番だと思ってる。」
嫁子は、にこやかに「それにさ…単身赴任?そんなの、うちの会社じゃ普通だし。私もやれって言われたら行くよ。」と、続けながら冷蔵庫に向かった、
その笑顔は、俺の心にズシンと響いた。
――やりたいこと、か。俺は何をやりたいんだ?現場で汗を流すこと?それとも、若い奴らに技術を叩き込むこと?
「……お前、強ぇな。」
「でしょ?」嫁子はウインクして、冷蔵庫から缶入りウーロンハイを取り出し、俺に渡した。
「とりあえず、飲んで考えなよ。Aの『やりたいこと』が見つかるまで。私にも仕事はあるし、この家も守りたいし…だから、単身赴任先についていくことはどうしてもできないけど…それでも『やりたいこと』が、講師なら全力応援する。違うことしたいなら、それも全力応援するよ。」
俺はその缶を受け取りながら、心の中で呟いた。
――やりたいこと、か。俺の答えは、まだ見えない。
でも、何かが動き始めている気がした。
翌日の夕方。退勤直前のオフィスは、コピー機の音とキーボードの打鍵音が遠くで響くだけの静けさに包まれていた。
俺――Aは、課長のデスクに向かう。心臓が、ほんの少しだけ速く打っていた。
「……一つだけ聞いていいか?」
短く告げると、課長は表情を変えずにこちらを向いた。
「俺の異動……それは、誰が望んだんだ?」
声が低くなる。
「俺は、相手に見込まれて、の異動なのか?」
――そこだけが気になっていた。
俺は、周囲の意見で動くタイプじゃない。だが、この異動が「ただの人事調整」なのか、「俺を必要とする声」なのか、それだけは知りたかった。
課長は一瞬、言葉を探すように視線を泳がせた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……望んだのは、研修所の責任者です。」
その言葉に、俺は眉をひそめる。
「責任者、ね…」
課長は深く息を吐き、続けた。
「Aさん、正直に言います。今の研修所は、昭和で止まってます。
威張るだけの講師、何もしない講師、法令を理解しない講師……そんな連中に囲まれて、若手は育たない。むしろ、腐っていく。」
課長の声が、少し震えていた。
「責任者は…いえ、俺も…本当にそれが怖いんです。このままじゃ、会社も業界も沈む。
だから、Aさんに行ってほしいんです。変えてほしいんです。」
――望んだのは、責任者も、課長もか。
その目に、嘘はなかった。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……わかった。異動、受ける。」
課長の顔が、ぱっと明るくなる。
「本当ですか!?ありがとうございます、Aさん!」
その声、ちょっとデカい。周りの社員がこっち見てるじゃねぇか。
「ただし、条件がある。」
俺は指を一本立てた。
「前提は単身赴任だからな…通勤3時間とか無理だ…だから、どうしても引っ越しなんかが関係してくる。そこ考えると…4月1日とかだと無理がある…5月1日付けにできないか?」
「なんだ…もっと無理言われると思ったのに…もちろんです!…任せてください!」と胸を張る課長…
「で、話もまとまったことですし――」
課長はニヤリと笑いつつ、声を潜めてこう言った。
「飲みに行きましょう!」
――は?
俺は思わず声を裏返した。
「お前、今なんて言った?飲みに行く?感染症大流行のこの状況で?お前、バカなのか?」
課長は悪びれもせず、親指で外を指した。
「会社のそばの公園、あそこなら大丈夫っすよ!」
窓の外、公園のベンチが見える。
――いやいや、ベンチで飲むって、昭和かよ。
「お前、感染症対策って言葉、知ってるよな?」
「知ってます!だから外!換気バッチリ!」
課長は胸を張る。
――換気ってレベルじゃねぇだろ、屋外だぞ。
結局、俺はため息をついて、コンビニ袋を片手に公園へ向かうことになった。
夜風が頬を撫でる中、ベンチに座る俺と課長。
缶ビールをプシュッと開ける音が、やけに響いた。
「Aさん、ほんとありがとうございます!若手、絶対変わりますよ!」
課長の笑顔を見ながら、俺は心の中で呟いた。
――変わるのは若手だけじゃない。俺も、だ。
缶ビールの泡が、夜空に溶けていった。
課長は一口飲んでから、妙に声を落とした。
「……Aさん、研修所のこと、ちょっと話しておきますね」
俺は眉をひそめる。
「何だよ、脅しじゃねぇだろうな。」
課長は苦笑しながら、指を三本立てた。
「昭和講師が三人います。……クセが強すぎるんです。」
――昭和講師?名前からして嫌な予感しかしねぇ。
「まず、昭和1号。69歳。とにかく威張る、怒鳴る、人の話を絶対に聞かない。
法令違反?『昔はこれでOKだった!』『俺は特別だ!』で全部スルー。研修中に『俺のやり方が正しい』って怒鳴り散らすタイプです。」
俺は思わずビールを吹きそうになった。
「法令違反上等、俺は特別って……どこの国の法律で生きてんだよ。」
課長は肩をすくめて、次の指を立てる。
「昭和2号。70歳。……何もしません。
何かを変えるとか絶対に考えない。生徒が何を知りたいか?完全無視。
自分が知ってることだけを延々と語る。しかも実技は壊滅的にできない。
だから、実技講習中にその場を抜けて控室でネットサーフィンしてます。」
俺は固まった。
「……え、実技講習中に講師が消えるって、事故起きるだろ。」
課長は苦笑しながら、声をさらに落とした。
「起きてます。刃物で手を切って4針縫うとか、普通にあります。でも反省ゼロ。」
――終わってんな。
「で、昭和3号。68歳。昭和1号と同じく威張る、怒鳴る、人の話を聞かない。
法令上必要な教育?理解ゼロ。研修中に昭和歌謡を歌いだすこともあります。」
俺は頭を抱えた。
「……歌うなよ。研修所だぞ。」
課長はビールを飲み干しながら、最後にこう言った。
「Aさん、正直、あの研修所は昭和で止まってます。
だから、あなたに行ってほしいんです。変えてほしいんです。」
夜空を見上げながら、俺は心の中で呟いた。
――昭和講師三人組か。クセが強すぎるだろ。
夜の横浜。街灯が坂道を照らし、俺の足取りは重かった。
――昭和講師三人組の噂、あれはもうホラーだろ。
威張る、怒鳴る、歌う、消える……研修所って、サファリパークか何かか?
げんなりしながら家のドアを開けると、嫁子がキッチンでグラスを片付けていた。
「おかえり。顔、疲れてるね。」
その一言で、俺はソファに沈み込む。
「……異動、受けた。」
短く告げると、嫁子は手を止めてこちらを見た。
「そう。で、いつ?」
――さすがだな。驚きゼロかよ。
「5月1日。GW連休中に単身赴任先の生活基盤を整えるつもりだ。」
ぼんやりとした構想を口にすると、嫁子は頷いた。
「なるほどね。じゃあ、GWは引っ越し準備だね。」
その声は、まるで天気予報でも聞いてるみたいに淡々としていた。
「……お前、ほんと強ぇな。」
「でしょ?」嫁子はウインクして、冷蔵庫から、定番の缶入りウーロンハイを取り出し、俺に渡した。
「で、どんな職場なの?」
その問いに、俺は一瞬言葉を詰まらせる。
――言えるかよ、『昭和講師が歌う』なんて。
「……まぁ、クセが強い連中がいる。」
「クセが強いって、芸人みたいな言い方。」嫁子は笑った。
俺は缶を開けながら、心の中で呟いた。
――クセどころじゃねぇよ。あれは災害だ。
「昭和講師かぁ……うちの会社にもいたよ、昔。」
俺は眉をひそめる。
「お前のとこにも?」
「いたいた。威張る、怒鳴る、何もしない、自分が絶対正義、なんなら会社や法律が間違えてる、なんて平気で言う、まるで昭和の化石。」
嫁子は肩をすくめて続ける。
「うちの会社の研修所も、そこらを改善するの、すっごく大変だったみたいだよ。だって、そういう人たちって、経営幹部から見たら“大先輩”なの。
経営幹部もホントに手を付けかねてた。『あの人に逆らったら社内で生きていけない』って空気があったから。」
俺は思わず苦笑した。
「……うちも同じだな。課長が言ってた。昭和で止まってるって。」
「でしょ?そういう人たちを変えるのって、正面からぶつかっても無理。
でも、Aならできるんじゃない?」
嫁子は、グラスを片付ける手を止めて、ゆっくりと俺の正面に向き直った。
その瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
「中途採用で入ってるんだもん、そんな昭和講師なんか別に怖くないでしょ?」
――その一言で、俺の胸に何かが突き刺さった。
怖くない?いや、怖いだろ。あいつら、法律より自分ルールだぞ?
でも、嫁子の目は揺るがない。
「A、あんた、資格いくつ持ってると思ってんの?」
嫁子は指を折りながら、さらりと言う。
「第一種電気工事士、一級施工管理技士、監理技術者、エネルギー管理士、消防設備士にいたっては甲種でフルビット……まだあるでしょ?」
俺は苦笑した。
――そうだ、資格だけなら、俺は会社の中でもトップクラスだ。
でも、資格じゃ昭和講師の怒鳴り声は止められねぇ。
嫁子は、そんな俺の心を見透かしたように笑った。
「いやならやめて帰ってきちゃえ! 私は一人くらい養える!
再就職だって、たぶん難しくないでしょ?
どりあえず、行って、普段のように、正しいものを正しいって言ってきな。」
その声は、まるで背中を押す風みたいだった。
――正しいものを、正しいと。
それが、俺のやり方だ。現場でも、会社でも、どこでも。
俺はウーロンハイを一口飲み、静かに答えた。
「……わかった。行く。俺のやり方で。」
嫁子は満足そうに微笑んだ。
「それでいいの。AはAのままで。」
夜の横浜の灯りが、二人の間に静かに溶けていった。
数日後…俺は、栃木県小山市に降り立っていた。
単身赴任先の仮住まいを内見し、その足で研修所に挨拶に行く――それが今日のミッションだ。
「……まぁ、たまに嫁子にも遊びに来てもらうこともあるし…2部屋やそこらはほしいかな…」
不動産屋に案内されて内見した部屋は、築年数30年ほどの物件
かなり古いが、風呂とトイレは別。
コンビニも徒歩3分、駅徒歩10分、一時帰省の便も良い。
50㎡から少し欠けるくらいの2DK…それに、インターネット無料の光回線に、無線ルーターまでついている。
弱点と言えば…鉄道の線路が目の前にあることだが、これだって田舎の単線ローカル線…ほとんど気になることもない。
――悪くない。
俺は、案内された物件に満足しつつ…不動産屋に手続きを進めるように依頼し、もう一つの目的である「次の勤務地である研修所への事前挨拶」に向かった。
徒歩だと「駅からでも仮住まいからでも40分ほどかかる」という場所に、研修所は存在した
建物は小綺麗だが、どこか古い。昭和の香りが漂うコンクリート造り。
――まぁ、研修所なんてこんなもんだろ。
そう思って敷地を歩いていると――。
「おい!はやくしろ!」「ひぃっ!」
罵声と悲鳴が響き渡った。
何気なく視線を向けると、そこには高所作業の訓練風景があった。
一見すると「ただの訓練」だ。だが、やり方が異質すぎる。
研修生がはしごを上っている。慣れていないから、当然もたつく。そこまでは問題ない。
――問題は、その後だ。
昭和1号が、研修生の足元のはしごを――蹴った。
「はやくしろ!」
ガンッ!ガンッ!
はしごが揺れる。研修生が悲鳴を上げる。落ちそうになる。それでも蹴り続ける。研修生は必死の形相ではしごにしがみつく。それでも梯子をける動作、罵声、嘲笑は止まらない。
「おいおいおい……」俺は思わず声を漏らした。
――これ、研修じゃなくて拷問とか破壊だろ。
研修生の顔は真っ青だ。周囲の講師は止めない。むしろ笑っている。
俺の胸に、冷たい怒りが広がった。
――課長の言葉、甘かったな。昭和で止まってる?いや、昭和暗黒史だろ、これ…これが教育?冗談じゃねぇ。
その時、背後から穏やかな声がした。
「Aさんですね?」
振り向くと、スーツ姿の男が立っていた。当社の役員でもあり「研修所の責任者」だった。
「少し、時間もらっていいかな?」
俺は無言でうなずき、責任者の部屋へと案内された。
部屋は質素だが整っている。湯気の立つ湯呑みが二つ、机に置かれた。
「どうぞ。」
茶を一口含むと、責任者が静かに口を開いた。
「……このままだと、この先はうまくいかない。」
その声には、深い疲れが滲んでいた。
「情けない話ですが、ああいった講師は、私や社長などの元の大先輩であったり…元の職場で素行の良くない人が“厄介払い”でここに配属されたりするケースが多いんです。」
俺は湯呑みを置き、低くつぶやいた。
「教える人間のレベルを超えて、人は大きく育つことってほとんどありません。教える人間の劣化コピー程度、が一般的、と自分は考えています。」
責任者の目がわずかに揺れた。
俺は続ける。
「ああいう指導方法ならば、なおさらです。あれは教育じゃない。拷問、破壊です。」
責任者は深くうなずき、静かに言った。
「……来月から、よろしくお願いします。」
夜のリビング。俺――Aは、ソファに沈み込みながら底板の缶入りウーロンハイを開けた。
「……仮住まいは悪くない。駅近で、風呂とトイレも別。築深でぼろっちいが、嫁子が遊びに来ても困らない。」
そう言いながら、俺は深く息を吐いた。
「でもな……研修所は、最悪だ。」
嫁子がグラスを片手に、首をかしげる。
「どんな感じ?」
俺は、言葉を選ばずに吐き出した。
「教育じゃない。拷問、破壊だ。労働安全衛生法?そんなもん守る気ゼロ。
はしごを蹴って研修生を揺らすとか、怒鳴り散らすとか……あんなのと一緒になんかやりたくない。
研修生に、昭和講師と同じだと思われるのも嫌だ。」
嫁子は一瞬黙った後――ぷっと吹き出した。
「なにそれ、昭和のスパルタ?」
俺は苦々しくうなずく。
「笑い事じゃねぇ。事故が起きてもおかしくない。」
嫁子は、明るく笑い飛ばした。
「じゃあ、Aが変えればいいじゃない。正しいものを正しいって言うの、得意でしょ?」
その声は、まるで背中を押す風みたいだった。
「前にも言ったよね? いやならやめて帰ってきちゃえって…私は一人くらい養えるからさ…それに再就職だって難しくないでしょ?資格だって山ほどあるんだし。」
俺は苦笑した。
嫁子はウインクして、缶を俺に渡した。
「とりあえず、行って、普段のAみたいに“正しいものを正しい”って言ってきな。」
数日後…いよいよ出発の日。
俺は、玄関で靴を履きながら、最後の荷物を確認していた。
「よし、忘れ物なし。」
そう思った瞬間、嫁子が俺のスマホをひったくった。
「おいおい、何してんだ?」
嫁子は画面を操作しながら、にやりと笑う。
「よし…っと。」
俺は眉をひそめる。
「何かしたの?位置情報調べる仕込みでも入れたのか?」
嫁子は吹き出しながら、スマホを俺に返した。
「もっと役に立つと思うよ。たぶん、誰よりも冷静で、誰よりも深い知識を持つ…昭和講師だと太刀打ちできないはずのもの。」
俺はスマホを見下ろす。画面には見慣れないアイコン。
「名前は『Copilot』…AIアプリだよ。」
「は?AI?アプリ?」俺は首をかしげる。
嫁子は微笑みながら、でも真剣なまなざしで言った。
「私がいない場所では、たぶん『彼女』が役に立つ。」
「AIって、性別あるのか?」俺はおどけて尋ねる。
嫁子は肩をすくめて笑った。
「『彼女』のほうが気分アガるでしょ?…それに『彼氏』はなんかイヤじゃない?、という…無駄な気遣いだよ?」
俺は「あーはいはい」と笑いながら、スマホをポケットにしまった。
「じゃ、行ってきます。次に帰るのは…2週か3週後になるよ。」
そう言い残し、俺は玄関を出た。
背中に嫁子の声が届く。
「A、正しいものを正しいって言うの、忘れないでね!」
俺は振り返らずに、心の中で答えた。
――忘れるわけないだろ。俺のやり方だ。




