9話
雨宮雪子が都内某所にあるカフェバーを訪ねると、待ち合わせ相手は既にテーブルに居た。レンガ調の壁面に木造のテーブルセットと床。それから西洋風の暖色照明に彩られた、やや薄暗い店内の隅の方で、その女性は静かに紅茶を嗜んでいた。
「七緒、お待たせ」
雪子が笑顔で席に近付くと、その女性は微かに目を上げてティーカップを置いた。
「久しぶりね、雪子。先に頂いてるわ」
――氷室七緒。年齢は二十七歳で雪子の一つ年下の女性だ。
雪子と並ぶ長身でありながら、デスクワークが主で筋肉量は少なく、全体的に華奢。真っ黒な癖のある髪は背中まで伸びており、色白の肌には薄いメイクが乗っている。
顔立ちは美形かつ繊細。派手なアクセサリーを付けている雪子とは対照的に、カフェバーに埋もれるような大人しめなカジュアルコーデだ。
七緒は一足早く飲み物を注文していたようで、その旨を詫びるが、雪子は「全然構わないよ」と言いながら着座し、店員を探して「アイスコーヒーお願いします」と注文した。
さて、雪子は改めて七緒と向き合い、七緒も静かな眼差しで雪子を見詰める。
「ごめんなさいね、折角のお休みにこんな場所まで呼び出して」
七緒がまずは謝罪から入るので、雪子は幼い満面の笑みでそれに同調した。
「ホントにね。ホテルだったら喜んで行ったんだけど」
「……貴女、まだ私を諦めていないの? いい加減、他の女の子を探したら?」
七緒は嬉しそうな、それでいて呆れたような顔で嘆息して説教をする。
しかし、この時間の為に大好物の酒を抜いて、今もアルコールを注文しない雪子は、目を細めて犬歯を覗かせるように笑い、「やだ」と一言で切り返した。
昔から変わらない雪子を七緒は色々な思いの籠った目で見詰め、「相変わらず」と苦笑。「八年間惚れっぱなしだからね! もう九年も十年もそのままだよ!」と雪子は破顔。
雨宮雪子と氷室七緒は、元々十代後半から同じプロゲーミングチームに所属して、男女混合の大会に一緒に出場していた間柄だ。三年間の活動で世界大会優勝経験は一回。その他も上位に食い込む頻度は高かったものの、ゲームの人気が衰退するに伴って大会も消え、それに伴ってプロゲーマーを引退した。
そこから、雪子は新しくゲーミングチームを創り上げ、それを有名企業に買収させるまでに至って、安定した生活を送りながら不動産の大家も務めている。
対する七緒は、しのぎを削っていたライバルチームの運営元会社である『ステラ・テクノロジー』の社長に拾われ、そこで働くことになった。担当業務はマネジメント――つまり、ステラ・テクノロジーが運営するVtuber事務所『エスポワール』のマネージャーだ。
そして、その担当は――
「――本題に入るんだけど。若菜さんの件、後見人になってくれてありがとう」
氷室七緒こそ、若菜水鳥を児童養護施設から引っ張り出したマネージャーであった。
引っ張り出すと表現すると、まるで児童養護施設が悪であるかのようだが、そうではない。ただし、水鳥にとって不特定多数の人間と暮らすことがどれだけ苦痛かを知っているからこそ、もう少しだけ気楽に生きていけるようにと尽力し、代表取締役に掛け合ってタレントの契約形態に固定給を追加する制度を用意させ、昔馴染みの雪子に新居を借りたのだ。
七緒の水くさいお礼に、雪子は緩やかに首を左右に振る。
「お礼ならもう何度も聞いたよ」
「新居を貸してくれたお礼はね。でも、後見人にまでなってくれたじゃない」
「私の管理する不動産に住むんだから。私がなった方が合理的でしょ?」
「……本当にありがとう。貴女に助けられた」
深々と頭を下げる七緒に、雪子は「いいって」と朗らかに手を振った。
「七緒に頼まれたからやってる――と言えばその通りではあるけれども。でも、発端はそうであっても、私自身、水鳥ちゃんの境遇を聞いて無視はできなかった。君の依頼で動いてるんじゃなくて、君の仲介で私は動き始めたの。君のお礼は受け取れない」
雪子がキッパリと言い返すと、顔を上げた七緒は「分かった」と微笑した。そして数秒の沈黙と共に雪子を見詰めたかと思うと、「はぁ」と露骨に溜息を吐いて頬杖を突いた。
「素敵な人なんだけどね。どうして相手ができないんだか」
「やだなぁ、君に一途だからだよ!」
「ふぅん、まあ、それは置いといて」
話半分に聞き流した七緒は、一転して少し真面目な顔で話題を変えた。
「――どう? 若菜さんは問題なくやれているかしら?」
「ふむ」と頬杖を突きながら唸った雪子は、ちょうどここに来る前の出来事を思い出す。
当初は心配していたが、気付けば紅音は水鳥の事情を知って、それを教えなかった雪子を糾弾までしてきた。今日に至っては一緒に遊びに行くと語っており、他でもない水鳥本人が『ここ最近で、一番ワクワクしています』とまで言っていた。
「今のところは問題ないどころか、今日は同居人と遊びに行ってるよ」
「……ああ、なるほど! だから昨日――」
何かを得心した七緒が手を打つので、雪子は「昨日?」と先を促す。
「若菜さんにビデオ通話でハーフアップのやり方を教えたの」
七緒は少し可笑しそうに語り、それを聞いた雪子は吹き出すように笑う。
言われてみれば、今日の水鳥は髪型を少し変えていた。そのやり方をマネージャーに聞くとは、随分と頼られているらしい。
「信頼されてるね」
雪子がにこやかに呟くと、七緒は少し照れながら不愛想に言い返す。
「身近で信頼できる大人が酒浸りの貴女か私しか居ないんじゃない?」
「心外だなぁ! これでも少しはお酒を控えるようになったんだから」
「どうだか」と肩を竦めて紅茶を一口含んだ七緒は、少しだけ表情を曇らせる。
どうかしたかと雪子が案じる目を向けると、七緒は罪悪感を目に滲ませた。
「――真面目な話をしてもいいかしら」
「どうぞ?」
改まってどうしたと雪子が先を促せば、七緒は深々と天井へ溜息を吐いた。
「私はさ……大人に良い思い出を持っていない若菜さんにとって、信頼できる大人で居たいとは思ってる。だけど、同時に私はマネージャーで。若菜さんを商売道具としてお金稼ぎに使っているビジネスパートナーでもあるから、あんなに信頼される資格は無いのよね」
七緒はそう言って自嘲気味に笑うから、雪子は苦笑と共に嘆息を返した。
「どうしたの、珍しく弱気で。実はお酒でも飲んでる?」
「飲んでないわよ。でもオフの日くらいは愚痴を言わせてよ」
「愚痴って誰かの悪口を言うものだと思ってたけど」
「私の悪口よ。保護者の仕事とマネージャー業を割り切れないバカ女の」
はぁぁぁ、と長い溜息を吐いてテーブルに突っ伏す七緒。彼女がこんなに弱みを見せてくれるのは自分だけなんだろうなぁ、と雪子は密かな優越感を抱きながら慰める。
「君が水鳥ちゃんの事情を訊いて、新居で暮らせるように動き回って私に仲介した時点で。君はビジネスパートナー兼保護者。割り切らなくていいんじゃない?」
少しだけ顔を上げた七緒は、「……そうね」と、渋々納得をして身体を起こす。
「ところで、若菜さんの同居人さんって――」
「――『みづほ』ちゃん。同年代の配信者をやってる女の子」
声を潜めて回答すると、その名前を知っているらしい七緒は「彼女か!」と目を丸くして声を上げた。そして手を組んで両肘を突いたまま数秒考えた後、七緒は心配して微かに首を捻る。
「若菜さんも、彼女のことは信頼しているのかしら?」
「少なくとも病気のこと、施設出身のことは教えてるみたいだよ」
「そこまで話してるってことは、本当に――気を許してるんでしょうね」
安心した七緒が露骨に頬を綻ばせる最中、「でも」と雪子は呟く。
「どうして離人症になったのかとか、両親のこととか――施設でどんな感じだったかまで詳しくは知らないと思う。いつかは、そこまで吐き出させてあげたいね」
当然、それは水鳥の意思で、水鳥の歩調で進むべき道だ。とはいえ、彼女の意思とは無関係な場所に障害があれば、それを取り除くのが雪子や七緒の仕事だ。
七緒は悩ましそうに目を瞑ると、椅子の背もたれに身体を預け、うわごとのように言う。
「……『虐待によるPTSD』――そう簡単に話せるようなものじゃないと思うわ」
若菜水鳥は、元暴力団の男と、彼と駆け落ちした女の間に生まれた。
これは誰も知る由が無い事実だが――男は子供を望んでいなかった。毎晩のように致していた女が妊娠したら堕胎を迫るつもりだった。しかし、女は妊娠を自覚してもそれを男には伝えなかった。産みたかった、子供が欲しかった――そんな綺麗な理由ではなく、単純に、面倒で、構わず行為に及んでいれば勝手に死ぬのだろうと思って快楽に浸っていたのだ。
いざ妊娠が誤魔化しきれなくなった時、堕ろせば母体が危ういということも一緒に発覚したため、止むを得ず二人は子供を産むことにした。
名前は出産に利用した水鳥病院からそのまま拝借して、『みどり』となった。
当然、そこに愛情は無かった。死んだら面倒だからという一点で必要最小限の栄養だけを与えられながら、泣いたら部屋に閉じ込められて、物心付いてからは殴られて。
「テメェは何回言ったら分かるんだよ! 部屋から出んなって言っただろ!」
「ねぇ、コウ君まだぁ? もう縛って部屋に放り込んどこうよ」
「腐ったらメンドくせぇだろ。ったく、だから妊娠したらすぐ言えって言ったんだよ!」
――生憎、教育を受けてこなかった水鳥は二人が何を言っているのかはサッパリと分からず、ただ、痛かった。痛いことは嫌なので、そうしないと、動物のように思っただけだった。
水鳥は七歳までの間、部屋に軟禁されたまま、義務教育は元より情操教育すら受けることも叶わず生きてきた。部屋以外に利用できるのは、汚されると面倒という理由でトイレだけで、風呂に入ることすら許されなかった。
泣けば殴られる。口を開けば殴られる。そんな環境で生まれ育った水鳥は、自分の肉体と心を守るために感情を表現することを諦め、そして自我を殺した。
転機は七歳のある日だった。部屋の外を行き来して廊下を歩く両親の足音が、一週間ほど聞こえなかった。初めて、好奇心が突き動かすまま、水鳥は廊下からリビングに続く扉を開けた。
そこにあったのは、全裸で注射器を片手に絶命している両親だった。
夏場だったから身体はとっくに腐敗して、ウジが湧いて白骨も見えていた。後になって分かったことだが、父が元々所属していた暴力団から覚醒剤を盗み、それを常用していたらしい。
涙は無かったし、ショックも無かった。高揚も、落胆も。無感情だった。
こういう時にどうすればいいのかも教えてもらえなかった水鳥は、ただ、自由を得たことだけは理解できて、好奇心だけは確かに存在したので、物心が付いてから初めて外に出た。
――そして、警察に保護された。
そこから行政は若菜水鳥の引き取り手を探し始めたが、これが難航した。
まず、父親の男は元暴力団の構成員で、天涯孤独。当然、頼れる親戚は居ない。
母親の女は幸いにも親族を辿ることはできたが、駆け落ちによる絶縁状態であったため、両親――水鳥にとっての祖父母が引き取りを強く拒否し、その剣幕から、どうにか引き取ってもらっても幸せに離れないだろうと判断した児童相談所が、児童養護施設へ入所させた。
それから、少しずつではあるものの様々な教育を受け、水鳥は常識を身に着けた。
しかし、自分を守るために殺した感情が蘇るのは、そう簡単ではなかった。
施設ではずっと表情を変えず、口数も少なく、何を考えているのか誰にも汲み取ることができず、最初は歩み寄ろうとしていた者達も、次第に愛想を尽かして離れていった。
「ほら、水鳥ちゃん。皆に『あそぼ』って言ってみよ。ね?」
八歳のある日、養護施設の職員が同じ施設の子との仲を取り持つように背中を押した。
養護施設の隣の部屋にお邪魔して、同年代の少女二人の前で、背中を職員に支えられながら、水鳥は小学生としては極めてたどたどしい部類に入る言葉遣いで促されるまま言った。
「あの、あそぼ」
顔を見合わせた少女二人の内、気の強い片方は不快そうに言った。
「みどりちゃん、なに考えてるか分かんないからやだ」
当然、少女は施設の職員に注意をされていたものの、嫌がるのに無理に遊ばせる訳にもいかないため、困り果てた職員はまず、水鳥の問題を解決する方に注力した。
「水鳥ちゃん。まずはお友達と遊ぶために笑顔を浮かべてみようか」
「こうですか」と口を開ける水鳥。「開けるんじゃなくて、笑うの」と指摘する職員。
目の前のお手本に従って、水鳥は口角を上げようとして、また口を開けた。「こう」と。
困った職員は「まあいいか」と呟いて、再び別の部屋の少女の場所まで水鳥を連れていった。そして、「笑顔であーそーぼって」と、再び仲を取り持とうとして。
「みどりちゃん、その顔きもちわるい」
――元々は情操教育を受けてこなかったことに端を発する、無知故の問題だと認識されていたのだが、その一言で相談所の結論に疑問を抱いた職員が、上長にその旨を報告した。
そして精神科を受診する運びとなり、正式にPTSDによる離人症と診断された。
何度か治療の為に精神科に通い続けたものの、一向に良くなる気配は無く、水鳥は半ば諦めるように、自分の精神疾患を受け入れた。
それからある程度の教育を受け――勉強の飲み込み自体は早かったため、教育委員会との相談の末でどうにか年齢相応の学年から小学校に通い始めた水鳥だったが、クラスメイトとの関係は施設の子供と然程変わらない。最初は編入生ということで注目を集めていたものの、不愛想で感情表現が苦手な水鳥との交流を面倒に思い、避ける者が増え始めた。
その環境が水鳥の感情表現を更に抑圧し、気付けば、水鳥は心すら失いかけていた。
しかし、自分のことは自分でできるように、と、様々なインターネットの知識を集めて配信者を始めてみた際、表情を通さずに言葉だけで交流する様々な人々は、自分の無表情を否定しなかった。そして、それを見付けてくれたマネージャーの氷室は、両親のような嫌悪感ではなく、養護施設の職員のような正義に基づいた義務感でもなく、合理性からかけ離れた感情で、水鳥の心を守る防波堤となってくれた。その事実に、折れかけていた心が少し癒える。
そして、緊張しながら新居で巡り合った同年代の友人は――驚くべきことに、枯れかけていた心の花に水を注ぎ、太陽のように明るく、隣で笑ってくれていた。




