6話
「はいこれ、お弁当」
若菜水鳥の精神疾患を知ってから数日後の朝。欠伸をしながらリビングダイニングに顔を出した紅音へ、制服を着た水鳥が風呂敷に包まれた箱を差し出した。
すっかり目が覚めてしまった紅音は、パチクリと目を疑いながら受け取る。
「ど、どうして急に。あれ、私、寝ぼけて頼んだりしたっけ?」
「別にしてないけど、君、お昼はどうせ菓子パンしか食べてないでしょ?」
「何で分かるの?」
「なるほど、異世界転生の知識無双ってこんな感じなんだね」
『どうして分からないと思ったのか』とでも言いたげだ。随分である。
「食べないなら私の夕飯にするけど」
そう言って水鳥が奪い返そうとするので、紅音は慌てて抱きかかえて守る。
「食べる食べる! 是非ともいただきます! い、頂いていいものかと思っただけで」
「一人分作るのも二人分作るのも、大して手間に差は無いからね。高血圧で君の動脈を硬化させるのは君の自由だけど、学校帰りに君の私室から腐臭がして困るのは私だから」
「よ、容赦ないね」
凄まじい言い草である。紅音が思わずツッコむと、水鳥は首を傾げて言った。
「代わりに健康診断の結果をちゃんと報告してね。嘘吐いたら怒るから」
言葉の内容はどこか冗談を含んでいるが、実際には紅音の食生活を真剣に心配してくれているのだろう。そう感じ取れたからこそ、紅音は改めて自分の私生活を見直すべきなのだろうと思ったし、正直、それは面倒だと思ったので、今は水鳥の手料理に甘えようかと思った。
「了解です。……アレだね、同居人に恵まれてるのは私の方かもしれない」
笑いながらそんなことを言うと、水鳥は淀みなく厳しい言葉を吐いていた口を閉ざし、黙って紅音を見詰める。照れているのか、何か不満に思っているのか。しかし不満だったらハッキリと言いそうなので、きっと照れているのだろうなと思って、紅音は意地悪く笑った。
「君のご飯は本当に美味しいから。有難く頂くね」
きっと照れ隠しだろう弱いパンチが、紅音の肩に飛んできた。
「何それ」
「愛妻弁当」
その日の昼休み、紅音と緒方は各々の席で手を合わせて昼ご飯を開始した。
生徒の半分ほどが残っている教室は充分な喧騒に包まれていた。カーテンが開けられた窓からは鬱陶しいくらいの陽射しがこれでもかと注いで眠気を誘っている。開いた窓から吹き込む初夏の風は心地よいくらいに涼しかった。孤独を愛する者はスマホで動画を観るなどして暇をつぶしながら、そうでない者は机を共有し合うなどして楽しげに。距離を近付けぬまま談笑をする紅音と緒方の姿は、このクラスではやや珍しく映るだろうか。
「愛妻弁当?」
紅音のとぼけた回答を聞いた緒方は眉根を顰め、そして紅音の弁当を注視する。
好奇心に満ちた視線の中、紅音は久しぶりの手作り弁当に少しワクワクしながら風呂敷を広げ、そして中に入っていた二段弁当を開けた。一段目には胡麻を振って一部にのりを被せた白米。二段目には唐揚げが三個と、卵焼きと、ほうれん草の胡麻和えときんぴらごぼう。
期待を裏切らない中身に相好を崩した紅音は「どうよ」と緒方にそれを見せびらかす。流石の緒方も紅音以外の人間に悪態を吐く気は無いらしく、「見事ね」と賛辞を送った。
「よくもまあ、ただのルームメイトにここまで立派な弁当を作ってくれるものね」
そう言ってコンビニ弁当を食べる緒方を優越感と共に見下して、紅音は肩を竦める。
「ノンノンノン、ナンセンスだね、緒方。今はただのルームメイトじゃなくて友達だから」
「否定してやりたいけど、そこまでしてくれるなら本当に友達なのかもしれないわね」
緒方は呆れ混じりに苦笑して、そんな風に紅音と水鳥の関係を評した。
紅音は早速箸を伸ばし、手当たり次第におかずを口に運んでいく。唐揚げは昨晩の残り物だ。卵焼きは朝食と一緒に作っていたものだろう。ほうれん草は弁当用に下茹でをしてから作ったもので、きんぴらごぼうは冷凍食品。よくもまあ、ここまで手間をかけてくれている。
美味しい昼食に舌鼓を打って上機嫌になっていると、緒方は肩を竦める。
「一時期は嫌われてるんじゃないかみたいなことを言ってたのが嘘みたいね」
「……いや、なに。『相手が気持ちを伝えてくれない』は幼稚だったなって気付いてさ」
紅音が意味深長なことを言い返すと、緒方は「ふぅん?」と相槌を打つ。
水鳥は精神疾患――離人症によって表情が乏しい。それ故に、彼女が何を考えているのかが紅音は分からなかった。そしてそれを緒方にも相談していた。しかし、実際には言葉や視線といった行動の節々に彼女の感情は表れており、それを汲み取る努力を怠ったのは紅音だ。
「『こっちからも気持ちを汲み取る努力をする』っていうのは、当たり前にやるべきことだよなっていうのを思い出した。問題があったのは私の方だったんだよ」
水鳥への罪悪感に突き動かされるようにそう呟くと、緒方は黙って紅音の横顔を眺めた。
そしてその視線を紅音の美味しそうな弁当に下ろすと、話題を切り替える。
「どうでもいいけど、一番幼稚なのはルームメイトに弁当を作らせてることじゃない?」
「う」
緒方の癖に鋭いところを突いてくる。苦い顔で目を瞑ると、緒方は呆れながら言った。
「アンタそれ、弁当に限らず朝晩も、その子にちゃんとお礼を言ってるんでしょうね?」
「失礼なことを言うね! お礼も感想も欠かしたことは無いザマス! 材料費だって私が多めに負担しているし、できる限り恩義には報いてるつもりだよ!」
「『つもり』でしょ。それはアンタの気持ち。相手がどう思ってるかは別。違う?」
――この女、普段はあれだけ醜い争いをしている癖に!
紅音はぐぬぬと歯噛みして睨み付けるが、悔しいことに緒方の言い分にも理がある。一理どころか十理はあるのではないだろうか。実際、お礼を欠かしたことは無いし、彼女もそれを嬉しいとは言ってくれているが、一度、しっかりとお礼をする機会を設けるべきだろう。
夕方。帰宅してリビングダイニングに顔を出すと、水鳥は買い物も済ませて一足早く帰っていた。どうやらシャワーを浴び終えているらしく、部屋着姿でソファに座ってテレビを眺めている。「おかえりなさい」と彼女が振り返るので、「ただいまー」と紅音は手を振った。
水鳥が観ていたテレビ番組は、芸能人がバスで旅行して飲食店を巡るというものだった。
また、飲食店だけではなく、その道中で見かけた様々な店に入ることもある。例えば調味料の製造工場、例えば特殊な品を取り揃える本屋、例えば輸入食品店。
今回の放送でも、芸能人たちは見付けた輸入品店に立ち寄って珈琲を試飲しており、水鳥はそんな様子をジッと見詰めている。――何だか、とても興味を抱いているように見えた。
「水鳥は旅行とか気になるの?」
鞄をその辺に置いた紅音は、番組の内容に小さな区切りが付いたタイミングで、ソファに両手を突いて水鳥に話を振ってみる。すると水鳥は顔をこちらに向けて応じてくれた。
「凄く興味があるよ」
相変わらず無表情だが、何だか彼女にしては珍しく子供っぽく感じて、紅音は微笑む。
そんな紅音に、水鳥は遠い目で語り出した。
「施設でも何度かそういう機会はあったんだけど、私が行くと嫌がる子も居たから。今まで旅行どころか、遊ぶための外出みたいなのも殆どしたことないの」
紅音は少し表情を曇らせて先日の水鳥の話を思い出す。
――こんな病気だから、施設の子にも気味悪がられてね。友達なんて居なかった。
何とも寂しい話で、紅音は「そっか」と弱々しく呟く。
施設に居た人達も、今までの紅音と同じように水鳥が何を考えているのか分からず、寄り添うことができなかったのだろう。かつては自分もそれに近かったからこそ、安易に否定はできない。しかしながら、施設に来る前――家族とも行ったことがなかったのだろうか。
聞ける訳が無くて、暗い顔で視線を伏せる紅音。しかし、水鳥は平然と言葉を重ねた。
「でもね、ようやく一人で自由な時間を取れるようになったし、雨宮さんはお金の管理を結構甘めに見てくれてるから。近い内に纏まったお休みで旅行に行く予定だよ」
そう語る水鳥の瞳はいつもより少し開いているような気がした。口ぶりも、長らく接しているからようやく勘付く程度に、少しだけ明るい。――思ったより感情的で、思ったよりも分かりやすいなぁと紅音は吹き出すように笑って、「そっか!」と、今度は明るく頷いた。
本当は『私も一緒に』なんて言いたかったが、一人で静かに楽しむのも旅行の醍醐味だと口を噤んでおく。すると、そんな思考を見透かした訳でもないだろうに、水鳥が紅音のブラウスを摘まんで、視線を交錯させた。無感情な目の中に、躊躇う紅音の顔が映っていた。
「――その時は、紅音も来てくれたら嬉しい」
――ああ、本当に。分かりにくいだけで、本当に心から可愛らしい女の子だ。
紅音はぐっと胸を掴まれるような気持ちを耐えながら、緩みそうになる頬を懸命に堪えて、だらしない笑みを微笑に留め、「もちろん」と相槌を打つ。「約束」と水鳥が紅音の小指を小指で引っ張るので、「約束」と紅音は指切りを笑顔で返した。
「いやあ、その日が楽しみだね! 夏休み使って北海道一周しちゃう⁉」
「全然アリだね。夏休みには纏まったお金が入るから。沖縄も行こう」
水鳥は何だか随分とノリよく応じてくれるが、どこまで本気なのだろうか。本当に彼女が構わないと言うのなら、貯め込んだ貯金で二十泊くらいは平然と敢行するつもりだ。「いいの、本気にしちゃうよ?」と紅音が薄笑いを浮かべて尋ねてみると、「君が本気にさせたんだよ」と殺し文句が返ってきたので、紅音の夏休みの半分は予定が決定した。後日、視聴者や父の裕二に旅行のイロハやおすすめの観光スポットを聞いておくことにしよう。
そんなことを考えていると、ふと、紅音の脳裏に昼の緒方とのやり取りが過る。
――その子にちゃんとお礼を言ってるんでしょうね?
今朝を以てついには朝昼晩の食事の支度を水鳥に任せることになってしまった訳だが、単に材料費を出すだけで釣り合いが取れていると思うのは傲慢か。今の旅行の約束で代替をしようか、などとふざけたことを考える怠惰な自分を叱責し、紅音は「ふむ」と顎を摘まんで唸った。
丁度いい機会だと思うことにして、紅音は覚悟を決めて切り出した。
「旅行以前に、外に遊びに行く機会とかも無かったんだっけ?」
尋ねると、水鳥は「うん」と深く頷いた。
それを認めた紅音は、笑みを浮かべてペラペラと語り出した。
「なるほどね。ところで――ここ最近、まあ、色々と健康に気を遣ってご飯を作ってもらっている訳だしさ、お礼が必要かなと思ってるんだよね。で、まあ旅行は旅行で行くとして、その前に軽い遊びに出かけてもいいかなと思うんだ。君もそういう機会は無かったみたいだし、お代を私が負担すれば恩返しにもなるかなと。つまり、何が言いたいかというと――」
何をここまで予防線を引いているのか自分でも分からなかったが、とにかく、
「――お礼に今度、デートでもどうかな。買い物とか、食事とか」
照れ隠しに敢えて気障な言い回しをしながら、紅音はお姫様にするように手を差し伸べた。
道化のような振る舞いで断られた時のダメージを軽減しようという浅ましくも情けない工夫だったが、そんな小細工を尽く踏み躙るように、躊躇いなく、水鳥はその手を握った。
「行く」
即答だった。紅音は一瞬だけ思考が追い付かずに瞬きをして、その後、苦笑した。
「即答されるとは思ってなかったかな。えっと、ごめん、断られてもいいように敢えてちょっと変な言い方したんだけど、要は一緒に買い物とか外食とか奢るよって誘いで――」
「――うん。だから、行く。一緒に行きたい」
水鳥がピクリともしない真顔で真っ直ぐにこちらを見詰めてくるものだから、紅音は困り果てて視線を逸らしてしまう。自分から誘っておいて素直に喜びきれないのは、彼女から向けられている言動の全てに自分への友愛が満ちていて、照れくさいからかもしれない。
「本当にいいの?」
この期に及んで紅音が確かめると、水鳥は頷いた。
「うん。あ、でも、お金は自分で出すから大丈夫だよ」
「だめだめ、それじゃお礼にならないでしょ!」
「なるよ。私をこんな風に誘ってくれたのは君が初めてだもの」
「だったら猶更、お礼にならないよ。今度からはこれが当たり前だから」
舌戦では紅音が一枚上手か。水鳥は「む」と口を噤んで視線をあちこちに動かして反論の言葉を探すが、見つからず。「そうなの?」と首を傾げるので、紅音は「そうだよ」と頷く。
気付けば照れくささも忘れて、素直に水鳥と遊びに行く空気になっていたが、それも彼女の打算とすれば、一枚上手なのは彼女の方だったのかもしれない。
「そっかぁ」
と、珍しく子供っぽく呟いた水鳥は、一度頷くと、こう言った。
「それじゃあ、楽しみにしてるね」




