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5話

 その日、紅音は夕方から配信を始めた。


 途中、水鳥からLINEで夕飯ができた旨の連絡を受け、料理だけを受け取って防音室に戻った。トレイを渡す際の彼女は相変わらず無表情で、何を考えているのかはさっぱり。とはいえ、何度も配信で愚痴を言うのもネガティブな印象を与えるだけなので、紅音は笑顔で雑談をしながら料理を食べ終え、プレイしていたゲームの区切りも良かったので、配信を終えた。


 紅音がトレイを持ってリビングに戻ると、水鳥は背筋を伸ばしてテレビを眺めながら、まだ、ゆっくりと夕飯を食べていた。バッチリと目が合い、他人行儀に会釈を交わす。


「ご馳走様でした。相変わらず今日も美味しかったよ」

「お粗末様。食器は置いといてくれたら後でまとめて洗うよ」

「作らせといてそこまでさせられないって――ってやり取りも四回目くらいかな? 今日は絶対に私がやるからさ、食べ終わったら流しに置いておいて」


 言いながら紅音は食器に水を張り、「分かった」という返事を背中に聞く。


 シーリングライトが照らすリビングダイニングには、テレビで話す芸人の声が響く。対して、律義に照明を落としたキッチン側は薄暗く、ピチャ、と水滴が蛇口から食器に滴る音が反響した。本当に些細で、些末な音と明るさのコントラストが水鳥との垣根を思い出させた。


 紅音は徐に身体を反転させると、そのまま流し台に腰を預けてリビングを見る。


 水鳥はこちらに背を向けたまま、ぼんやりとテレビを眺め、黙々と食事をしていた。初めて一緒に食卓を囲った際、相変わらず無表情ながらもあれだけ饒舌に会話をしてくれた彼女の姿は当然無く、『君がたくさん話すからね』という彼女の言葉がリフレインする。


 二人分作った夕飯を、一人で静かに食べる水鳥の姿が――何故だか、寂しそうに見えた。


 ――所詮はただの同居人。馴れ馴れしく踏み込むべきじゃないんだろうね。


 紅音は昼間に緒方へと語った自分の言葉を思い出し、静かに葛藤して瞳を伏せた。


 この私室と防音室が二つ付いた物件を一人で使うなど勿体ないことはできず、しかし、都合よく二人で入居させられるような知り合いも居なかったのだろう。だから大家である雨宮は紅音と水鳥にルームシェアをさせた。この関係は、ただ、同じ家に居るというだけのものであり、寝る部屋は違うし、仲良くする義務は無い。お互いがお互いの生活を尊重し合えるのであれば、そこから先は欲張りというものであり――――ただ、ただ。


 それでも、朝と晩に同じ料理を食べている。作ってもらっている。


 目を細め、その事実を噛み締めた紅音は、足音を立てずに歩き出してリビングに近付く。照明の点いたリビングと、点いていないキッチンの間のフローリングに浮かぶグラデーション。少しずつ明るい方へと進んでいった紅音は、ある程度進んだ場所で、止まった。


 ――所詮はただの同居人。馴れ馴れしく踏み込むべきじゃないんだろうね。


 再び、そんな自分の言葉を思い出す。


 水鳥は別に、紅音と仲良くしようなどとは思っていないはずなのだ。退屈そうな真顔がそれを物語っている――と、そこまで考えた紅音は、ふと自分の思考に疑念を抱いた。


 『無表情だから何を考えているのか分からない』と苦手意識を持っている癖に、『表情が無いということは自分と親しくする意思は無いのだろう』と決めつけるのは、筋が通らないのではないだろうか。結局、自分は期待を裏切られることを恐れ、不明瞭な部分を黒と決めつけて、最初から自分が傷付かないよう、この彼我の距離感を色眼鏡で見ていたのではないか?


 それでもやはり、若菜水鳥の腹の内は分からない。何故なら彼女は表情を見せないから。


 だったら、対話をするべきだ。


 配信者とは、会話や表現で視聴者とコミュニケーションを取る人間なのだから。


 甘党あずきというVtuberが喜怒哀楽を見せてくれていることは、今、忘れる。何故なら目の前に居るのはVtuberではなく中の人で、その名前は若菜水鳥だから。


 水鳥は夕飯を食べ終え、そして静かに手を合わせて小声で「ご馳走様でした」と呟いた。そうして彼女が食器を重ね、片付けようと立ち上がりかけた、その時。




「――水鳥ってさ」




 水鳥が弾かれたように紅音の方を向く。


 しかし、その眉も瞼も普段以上に上がることは無い。表情の変化は皆無。そんな水鳥の顔をジッと見詰めながら、紅音は余計な気遣いをせず、率直に質問した。


「一人でご飯を食べるのと、誰かとご飯を食べるの。どっちの方が好き?」


 紅音は強張りそうになる顔にどうにか笑みを乗せ、水鳥の顔を穏やかに覗き込む。


 水鳥は質問の真意を探るように紅音を見詰め、「どうして急に」と聞き返す。一見すると平静を保っているように見えるが、実は動揺していたりするのだろうか。それを確かめたい気持ちはあるが、今は何よりも『水鳥は一人を好んでいるのか否か』を知るべきだ。


 紅音は水鳥の質問を受けて薄笑いを浮かべて目を逸らし、返答を考える。どう上手に言い返せば滞りなく会話が進むか。そんな打算を少し進めた後、やっぱり、素直に言うことにした。


「ちゃんと――うん、ちゃんと話してなかったなと思い直して。君は私に『わざわざリビングで食べなくてもいい』って言ったじゃない? で、私は部屋で食べている。だけど、別に私は一人で食べるのが好きって訳でもない。本当は……私は君と、一緒に食べたい」


 水鳥は静かに、表情を動かすことなく。ただ、口を結んだ。


 紅音も同様に口を噤むと、その沈黙は十秒ほど続いただろうか。


 やがて水鳥は食器に付けていた手を離し、そして己の口を押さえて俯く。「そうなんだ」と手に覆われてくぐもった声は、相変わらず平坦だったが、どこか驚いているように聞こえた。


 或いは希望的観測かもしれないが、今だけはその夢に浸らせてほしいものだ。


「でも、もしかしたら君は私みたいな騒がしい人間が好きじゃないのかも、って思ってさ! ほら、配信では良く笑ったりしてるのに、私には全然笑顔を見せてくれないじゃない? だからこう、上手く距離感を掴みたかったんだけど――言葉に勝るものはないって思い直した」


 口を閉ざしたままこちらを見詰める水鳥へ、紅音は再び質問した。


「だから、訊きたいんだ。君自身はどっちの方が好きなのかなって」


 すると水鳥は視線を虚空に送って考え始める。


 しかし、数秒と経たない内にその視線は紅音へと真っ直ぐに向いた。そして彼女は椅子の上でこちらに身体を向けるように座り直し、そして、膝の上に手を置いて、言った。




「私も、紅音と一緒にご飯を食べたいよ。初めて、誰かとの食事が楽しいと思ったもの」




 それは――嘘ではない。誤魔化しではない。リップサービスではない。


 事実だ。僅かも動かない表情から告げられた平坦な言葉であったとしても、それが事実であることは心が理解した。誰が何を言おうとも、それは、水鳥の本心だ。


 理解して、紅音は全身の緊張が一気にほぐれていくのを感じた。


 ついでに表情筋も、それから涙腺も、ほんの少しだけ緩む。何だか、泣けてきた。


 噛み締めるような無言のまま両手で顔面を覆うと、大きく息を吸いながら仰け反り、そして、熱い息を吐く勢いで身体を丸めて流れるように蹲ってしまう。


「紅音? 大丈夫?」


 心配するような水鳥の声に続いて椅子を引く音が聞こえたから、紅音は徐に立ち上がり、「大丈夫」とそれを制した。それから、すん、と洟をすすると、情緒が落ち着くまでの時間稼ぎをするように水鳥の食器を奪い取り、それを抱えて流し台へと向かった。


 水鳥が案じるように付いてきて、二人でキッチンに並ぶ。


「少しだけ話をしたいんだけど、時間は大丈夫? 配信とか」


 紅音は面と向かって話すと感動してしまいそうだったので、蛇口を捻って洗い物を始めながら、隣でそれを眺める水鳥に尋ねた。すると水鳥は、静かに、けれども確かに頷く。


「大丈夫だよ、腹を割って話そう。私も――話すべきだと、今気付いた」


 水鳥も思うところはあるようで、丁寧にそんな言葉を紡いで返す。


 さて、紅音は泡立てたスポンジで手早く食器を磨きながら、語り出した。キッチンの照明は点けないまま、リビングダイニングから差し込む明かりを背中に帯びて手元は暗い。けれども先程より気分が明るいのは、きっと、同居人と同じ明るさに居るからだ。


「一緒に食べたいって思ってくれてるなら、あの日、言ってくれればよかったのに」


 表情は笑いつつも、口ぶりには隠し切れない不満を抱いて紅音が切り出すと、水鳥は洗い終えた食器を紅音から受け取りながら、遠い目でそれを水切り籠に置いていく。


「私達は所詮、ただのルームメイトだから。それは駄目だろうって思った」


 淡々とした水鳥の言葉に、けれども紅音は強い感情を感じた。


 どんなものかは一言には言えないが、複雑な感情が宿っているのを確かに感じ取った。


 ――所詮はただの同居人。馴れ馴れしく踏み込むべきじゃないんだろうね。


 三度自分の言葉を思い出した紅音は、ああ、と胸の内で噛み締める。同じだ。全く同じだ。正確や表情や趣味嗜好、主義、チャンネル登録数や配信スタイル、何もかもが違うただの同居人でありながら、それでも、同居人との距離感に悩むという一点は、同じだったのだ。


「正直、嫌われてるかと思った」


 今更だから紅音がぶっちゃけて暴露してみると、水鳥は目を見詰め返して言う。


「嫌いになる理由が無いよ。……まあ、食生活はどうかと思うけどね」


 「でも」と水鳥は言葉を続ける。


「君はこんな私に根気強く接してくれる。今も、歩み寄ってくれたでしょ? それに君の話は面白いし、私とは全く考え方が違うから刺激的で楽しい。何より君は、私の料理を毎回、毎回褒めてくれる。あれ、本当に嬉しいんだよね。――同居人が君で良かったと、本心から思ってるよ」


 目を見てハッキリと伝えてくる水鳥に、紅音は照れくささを感じて目を逸らしてしまう。そして、仄かに感じる頬の紅潮を誤魔化すように、大袈裟におどけた。


「なにそれ! そんなに私のことが好きなら早く言ってよ」

「そっちこそ、社交的みたいな顔しておきながら。もっと早く言ってくれればよかったのに」

「こう見えて繊細なんですぅ。やれやれ、色々悩んでたのが馬鹿みたいだよ」


 言葉とは裏腹に、紅音は安心感に塗れた笑みを浮かべて胸を撫で下ろす。


 そうして食器を洗い終えると、手拭いをホルダーから外した水鳥が、「お疲れ様」と、わざわざ紅音の両手を丁寧に拭いてくれた。


 何だか照れくさくなりながらも、紅音はされるまま手を拭いてもらう。


 そして手の水気が拭き取られたかと思うと、水鳥は手拭い越しに紅音の手を掴んだまま、ジッと視線を伏せて固まる。「水鳥?」と、紅音は手に何か付いているのか見つつ、どうかしたのか水鳥に問いかける。すると水鳥は、浅い呼吸を一度繰り返してから、手に少し力を込めた。


 それは――初めて、明確に水鳥の感情の発露を受け取った瞬間だった。




「私、病気なんだ。表情が気持ちに付いていかなくて、笑ったり泣いたりできないの」




 ――耳を疑った。それでいて、見開くのは目。紅音は水鳥の言葉を脳に繰り返す。


 困惑が尽きずに脳ばかりが延々と動いて口は一向に言葉を紡ぐ気配がない。


 しかし、一度たりとも僅かも動かない表情と、それにしては感情豊かにしか思えない言葉の数々。紅音の食生活を咎めたり、料理を作ろうかと提案したり、紅音の言葉を先読みして一人で食べても構わないと言ったり。それらは感情が動いていなかったのではなく、抱いた感情を表情としてアウトプットできていなかっただけ。そう考えると、一気に辻褄が合ってしまう。


 自分が今まで抱いてきた無表情への不満が途轍もなく酷いものだったのではないかという自己嫌悪に指先を冷たくさせながら、紅音は疑念を納得へと帰結させてしまった。


「病気……」


 呆然と呟く紅音に、しかし水鳥は平然と言葉を加えた。


「正確には精神疾患に分類されるもので、『離人症』って言うらしい。もう何年も前からで……何度か精神科には行ったんだけど、全然治らないから、最近は行ってない」


 紅音の手を手拭い越しに握る水鳥の手。その手が少し、震えているような気がした。


 紅音が弾かれるように水鳥の顔を見ると、しかし、その顔に感情は宿っていない。


「もう少し早く言うべきだった。ごめんね、君にそんな思いをさせたかった訳じゃないの」


 淡々とした謝罪だが、そこに深い悔恨が宿っていることは分かる。


 しかし――手が震えている理由は後悔ではないだろう。恐怖だ。当然だ。自分が精神疾患でコミュニケーションを上手に取れません、などという話を平然とできる人間は多くない。相手を傷付けてしまう前に、という予防線を張るため速やかに告白できる者も居れば、上手にやっていきたい相手に、いつ、どこで伝えるかを悩む人間だって居て当然だ。


「気にしないでよ! そんな、精神疾患? 病気のことを、簡単に言えないのは当然だよ」

「ううん、私も、言うべきなんだろうとは思ってたから。ただ――嫌な印象が強かったから、怯えたまま前に進めなかった。君は、こうして歩み寄ってくれたのにね」


 自嘲。変わらない表情でも、言葉の言い回しで彼女が自らを嘲っているのは分かった。


 ――ああ、そうだ。彼女は表情が動かない。けれども彼女の言葉にも、視線にも、それから身体の指先の細かい動きにも、少しであっても水鳥の感情は宿っている。表情だけに囚われて、彼女の必死の自己表現に気付けなかった自分の不注意を紅音は恥じた。


「……それじゃあ、『甘党あずき』の表情は、もしかして」


 察した付いた紅音が明言を避けて尋ねると、水鳥は静かに頷いた。


「ソフトウェアの方で手作業で変えてる。表情はトラッキングしてない。私の病気を知っているマネージャーさんがデビューに伴って外注して作ってくれた」

「全然気づかなかったよ――そっか」

「ごめんね、皆を騙してる」


 水鳥が静かに謝罪をするので、水鳥は自分の気持ちが誤って伝わっていると理解し、手拭い越しに水鳥の手を掴み返す。徐に顔を上げた水鳥へ、紅音は真面目な顔で言った。


「それは違うと思うよ」

「……偽物の表情なのに?」

「――表情が動かないだけで、水鳥の感じた気持ちは本物でしょ? 抱いた気持ちを、表情でアウトプットするという過程を、水鳥はソフトウェアで繋いでるだけ。それは欺瞞じゃなくて努力だと思う。自分の気持ちを伝える努力を、水鳥はしているんだよ」


 水鳥の表情は動かない。けれども、次第に彼女の指先が震え、そして、強い感情を抱き締めるように、紅音の手を強く握り返した。「うん」と頷いた水鳥に、ファンとして「君は頑張ってるよ」と、紅音は本心をハッキリと伝えた。「うん」と繰り返す水鳥の顔は、やはり少しも動いてはくれなかったが、何だかその声も顔も、泣きそうなものに見えた。


 思っていたよりもずっと、若菜水鳥は、感情的な人間だ。全く気持ちが分からなかったのは、結局、分かろうとしていなかったからなのかもしれない。






 それから紅音と水鳥はリビングのソファに戻った。


 他愛のないバラエティ番組を目の前にしながら、しかし視線はお互いに。


「一応、表情筋自体は動かせるから、こんな感じで笑うことはできるの」


 そう言って水鳥は口角を上げてみせるが、ぎこちない。それだけではなく、笑った時に自然に動く目元などの筋肉は動かず、目が笑っていない。間違っても本人には言えないが、いっそ不気味な笑顔だ。それなら見せない方が辛うじてマシかもしれない。


「な、なるほど。泣いたりはできるの?」

「一応それっぽい顔はこれだと思ってる」


 そう言って水鳥は口をへの字に曲げるが、しかし目は真っ直ぐだ。紅音は思わず吹き出しそうになるのを懸命に堪えて「そっか」と震え声で言うが、水鳥が「笑っていいよ」と言ってくれるので、少しだけ吹き出して、口を押さえながら、どうにか笑みを殺した。


 落ち着いた頃、紅音はソファに寄り掛かって、どう言葉を掛けるか悩む。


 そんな折、水鳥は真っ直ぐテレビを眺めたまま、語り出した。


「私、ここに来るまで児童養護施設で暮らしてたんだ」


 紅音は見開いた目を向け、水鳥の横顔を凝視してしまう。


 水鳥は視線だけをこちらに向けている。冗談の気配はない。


 児童養護施設。それを口の中で繰り返して呟いた紅音は、驚きが理解に染まっていくのを胸の内に感じていた。保護者が居なかったり、虐待を受けていたりといった理由で、家庭で養育できない子供を養護するための施設だ。思い返せば、引っ越し初日に水鳥と来た保護者らしき女性は、顔も似ていなければ、やり取りも他人行儀だった。


 虐待か、死亡か、或いは両方か。唖然とする紅音に、水鳥はこう続ける。


「こんな病気だから、施設の子にも気味悪がられてね。友達なんて居なかったし、職員さん達が陰で『どう接していいのか分からない』って悩んでるのを聞いたこともある。全部私が悪いから、せめて自分のことは自分でできるようになろうと思って、色々な勉強をして、それで、高校進学のタイミングで買ってもらったスマホを使って――配信活動も触れてみた」


 話が繋がった紅音は、「なるほど」と先を読んだ相槌を打ってしまう。


 水鳥は静かに頷いて、その先を語る。


「そこから今の事務所のマネージャーさんに見付けてもらったの。それで、私の事情を知った社長さんが、配信収益の取り分を減らす代わりに、固定給を付けてくれた。つまり、安定した収入ができたことになる。それでマネージャーさんが児童相談所と交渉してくれて、施設を出て暮らせるようになってね」

「す、凄いマネージャーさんだね⁉」

「うん、敏腕だと思う。ここの大家さん――雨宮さんと私を繋いでくれたのもその人。お陰様でこうして配信向けの新居を借りられたし、雨宮さんに後見人になってもらえた」


 自然に語られた『雨宮雪子が後見人である』という言葉に、紅音は驚かなかった。


 代わりに、手を叩いてしまうほどの強い納得を抱いた。


 初日に水鳥と一緒に来た施設の人間がよろしくと伝えていたこと。水鳥が恩義があると語っていたこと。そして雨宮が紅音に向けて『これからよろしく』と語ったこと。雨宮が水鳥の病気のことも知っていたのだとすれば、それら全てが一点に集約する。


 ――言ってくれよ! もっと早く!


 そう思わないことも無かったが、しかし、そう簡単に話せることでないことも事実。複雑な表情で腕を組み悩んでいると、水鳥の指先が、ちょいと紅音のシャツの裾を摘まんだ。


「――そのお陰で、君と巡り合った」


 そう続いた水鳥の言葉で、紅音は複雑な感情を全て払拭し――溜息。脱力して弱った笑みを浮かべると、「うん」と噛み締めるように頷く。


「私は今、今まで生きてきた人生で一番楽しい時間を過ごしてる。君のお陰だよ」


 水鳥が相変わらず動かない表情で、けれどもそんな言葉をハッキリと伝えてくれた。


 紅音は照れ笑いを浮かべながら目を逸らし、「どういたしまして」と気取った返事をした。


 ――これで、話したいことは全て話し終えただろうか。お互い、数秒ほど黙る。やがて紅音は静かに立ち上がると、動きを見守ってくる水鳥の視線を背中に受けながら、そそくさと私室へ。それから、水鳥が不安になる間もなく両腕いっぱいにお菓子を抱えて戻ってくると、ソファの上に滝の如く落として、口を横に結んだ水鳥へと笑いながら言った。


「今日は夜更かしをしたい気分。サブスクの映画とか観ながら」


 すると水鳥は結んでいた口を少しだけ緩め、開こうとして、閉め。


 それを何度か繰り返した後、ここに居座る意思を示すようにソファの座り方を変え、背もたれに腕と頭を預けた。そして、真っ直ぐに紅音を見詰めるとこう言った。


「寝る前は歯磨きをするんだよ」

「君は私のお父さんみたいなことを言うね!」


 翌朝、時間通りに起きた二人の目が殆ど開かなかったのは言うまでもないだろう。






「――『何か良いことがあったか』?」


 翌晩、雑談配信の時間を設けた水鳥は防音室で一つの視聴者のコメントを拾い上げた。


 『良いことでもあったの?』と。その言葉の意味が分からずに少し考え込んだ水鳥だったが、見れば、自分の顔をトラッキングするスマートフォンに表示されている、表情コントロール用のボタンとスライダーが、淡い笑みで固定されたままだった。――おっとと、と慌てて少しだけスライダーをマイナス方面に動かした水鳥だったが、直後、動きを止める。


 そして、やっぱり少しだけ笑顔へとスライダーを動かし、偽物の――けれども、彼女曰く、努力の証である笑顔を浮かべて、甘党あずきの口で、こう告げた。


「うん、実はね。最近、友達ができたんだ」



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