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24話

 二人でリビングに戻ると、既に三人は到着していた。


 四人掛けのテーブルに七緒、雪子、そして美琴が着座してマグカップを片手に談笑に耽っている。こちらに気付いた三人が「おかえりなさい」と迎えてくれるので、この家の住人として、何だか不思議な感覚に陥る。


 さて、それから紅音が手洗いを済ませてリビングに戻ると、四人掛けのテーブルが一つ空いていた。代わりに雪子が立っている。「私は司会だからね」とメモ帳を片手に格好をつけるので、今日は大人の厚意に甘えることにして、礼と共に着席した。


 それから数秒、お互いの顔を確かめ合うような奇妙な沈黙が場に下りた。


 三名の大人は、自分達の意思が決定に影響を与えてはいけないと思っているのだろう。言葉を選んでいる空気だ。だが、それは紅音も同様。紅音も、自分の意思で水鳥の決断を左右していいとも思えず、同席はしたものの、今日は場の流れに身を任せるつもりだ。


 そんな重苦しい沈黙を破ったのは、児童相談所の代理として場を仕切る雪子だ。


「さて、今日はアイスブレイクをする空気でもないし――早速、答えを訊いてもいいかな?」


 目を細めて口許だけにはどうにか人当たりの良い笑みを浮かべた雪子に、水鳥が黙って頷く。


 その所作を見た瞬間、紅音は自分の臓腑が何者かに握り締められるような圧迫感を覚えた。吐き気、とも言う。胃液が喉奥まで混み上がってきた錯覚。否、事実なのかもしれない。鼻腔の奥に酸っぱい匂いがする。紅音は胸を押さえ、目を瞑って、十三階段を上る足音にも聞こえる水鳥の呼吸音に耳を澄ませる。彼女も緊張しているのか、浅い呼吸が四回続いた。


 止めたかった。今、ここで――薬指を繋げば、水鳥はアメリカでの治療を諦めてくれるだろうか。五月蠅い理性を今だけは黙らせて、感情のままに、自分さえ居れば大丈夫だと説得してみたら、全てが上手く運ぶかもしれない。だが、駄目だ。真面目な自分がそれを邪魔した。


 そうして、水鳥は意を決して唾を呑んだ。




「――養子縁組の件、よろしくお願いします」




 深々と水鳥は腰を折って、はらり、とその焦げ茶色の髪がテーブルに垂れた。


 注射を終えた後の子供のように、紅音は徐に目を開けてテーブルを見詰める。何も言わず、何も表情には乗せず、ただ、そこに異議が無いことだけをハッキリと、顔で示した。


 最初に海外での治療を提案されたあの日、紅音は水鳥の依存を拒んだ。


 だが、彼女は強い。今はしっかりと自分の足で自分の人生を歩こうとしていた。


「高校を卒業したら、アメリカで離人症の治療を受けさせてください」


 水鳥が頭を下げたまま続けたその言葉に、言葉を失っていた大人三人も我に返る。


 そして――その言葉が示す意味を充分に理解しているからこそ、三対の視線が一斉に紅音を捉える。紅音は、何も気にしていないと虚勢を張るように眉を上げて頬を綻ばすと、どうかしたのかと首を傾げる。しかし、少し白々しいかと思い直して、笑顔で首を左右に振った。


 これでいい、きっと、これが正解だ。紅音は自分にできる選択肢を模索した。


 水鳥を引き止めたかった。引き止めても問題ないと精神科医が太鼓判を押した。それでもやはり――『紅音は私の気持ちを分かってくれる』という言葉と組み合わせると、危険な化学反応を起こすような気がした。果てにあるのは共依存という劇毒のような、そんな気が。


 それは駄目だ。だから、胸が張り裂けるほど痛かったとしても、紅音は笑顔を浮かべる。


 何故なら、水鳥の回答が正解だと理解しているから。正答には笑顔が相応しい。


 三名の大人は紅音の様子から納得を汲み取って、後ろ髪を引かれながら話を進める。


 当然、ここから話の中心となるのは義母となった椛島美琴である。彼女は、二人を慮るように優しい微笑みを浮かべ、少しだけ眉尻を下げながら身振りを交ぜて告げる。


「顔を上げてください、水鳥さん。貴女の気持ちは確かに受け取りました――貴女の母親として、貴女の将来がより豊かになるための最大限の努力を、させていただきます」


 徐に顔を上げた水鳥は、無表情のままチラリと紅音を一瞥する。


 しかし、笑顔の紅音を見ると、すぐに視線を前に戻して頷いた。


「是非、よろしくお願いいたします」

「早速ですが、高校卒業をしたらというのは――直後という認識でよろしいでしょうか?」

「厳密な構想は追々お義母さんと練っていけたらと思っているのですが、今のところは、高校卒業を一旦の制限時間にさせてもらえたらと思っています」


 制限時間。ふと、その単語が引っ掛かった面々が怪訝そうな素振りを見せる。


 思わずといった様子で、今まで沈黙を貫いていた七緒が「制限時間、ですか?」と尋ねる。他三名も、少し怪訝な顔だ。話と繋がっていないというか――目安の日程という話なら分かるのだが、制限時間という言い方だと、まるで何か別の目的を果たすまでの制約のように聞こえる。無論、単なる言い間違いの類である可能性も否定はできなかったが。


 言い間違いでないことは、続く水鳥の言葉が否定した。


「はい、高校を卒業したら海外での治療を受けさせてください。ですが――」


 そこで一拍を置いた水鳥は、一度、覚悟を決めるように深呼吸を挟んだ。


 そして、両膝に手を置くと、真顔のまま、背筋を伸ばして自分の意思を告げた。


「治療は、明日から国内でも始めます」


 全く想像もしていなかった言葉に、四人は目を見開いて耳を疑った。


 ――最初に納得したのは、雪子。少し遅れて美琴。


 その後に七緒で、紅音は、ずっと唖然とし続けていた。


 一体、どういう心境の変化なのだろうか。海外の治療をするくらいなら、その前に国内でもできる限りをしたいと思ったのだろうか? 紅音が困惑をどうにか無表情で塗り固め、水鳥の横顔を見詰めていると、水鳥は美琴を見詰め続けたまま、こう言った。




「高校卒業までに症状が改善したら、海外での治療の話を、中止にしていただけますか?」




 そこまで至って、ようやく、紅音は大人たちに理解が追い付いた。


 目を見開き、僅かに口を開けて。思考を整理する癖のように唇を巻き込んで、目を泳がす。


 思考は白いペンキをバケツごとぶち撒けたようにクリアだった。


 しかし、徐々に、徐々に色褪せた思考と純色の感情に色彩が戻っていく。


 紅音は錆びた首を持ち上げて、ぎこちなく水鳥を見た。


 「水鳥」と、紅音が思わず彼女の名前を口にすると、水鳥はチラリとこちらを見る。


 一瞬、これは希望的観測に基づく錯覚かもしれないが――その口角が、微笑を浮かべたような気がした。けれども、瞬きをした次の瞬間にはいつもの無表情に戻っていた。


 腰が折れそうだった話を支えるように、腕組みした雪子が見定めるように問いを投げる。


「君が……今までも治療を頑張り続けてきたことは私が証明するよ?」


 彼女にしては珍しい、寄り添うというよりも推し測るような問い。それは、『君の努力は誰にも否定させない』などという話の流れを汲まない優しい言葉ではなく、『今までも頑張ってきたのに改善しなかった。それなのにそんな条件でいいのか』と訊くものだ。


 当然、水鳥は怯むことなく頷いて見せた。嬉しそうに微笑む雪子へ、こう語る。


「私は、途中で嫌気が差してやめました。『完治は難しい』とお医者さんに言われた時、掛かる場所を変えるという選択肢を理解していたのに、そこから目を背けて。今までも頑張ってきたかもしれないけど、ベストは、きっと尽くしていない。だから、もっと頑張ります」

「苦しい道を進むことになるかもしれないよ。制限時間を設けてしまったら、焦りが出るかもしれない。精神疾患に焦りは禁物じゃない? 本当に、それでいいの?」


 もう雪子の腹は決まっているだろうに、それでも確かめるのは意地が悪いのか――それとも、後見人としての最後の仕事か。そう、短い間だったとはいえ、自分を心配してここまで動いてくれた一人の、ある意味、親のような女性に対して、水鳥は真っ直ぐに応じる。


「はい」


 簡素な一言だ。けれども、適当な相槌ではない。


 無表情で平坦な声ではあったが、そこに込められている覚悟も決意も確かに汲み取ることができたから、雪子は泣きそうな顔を微笑で誤魔化して、水鳥の頭を撫でた。


 水鳥は数秒、黙ってそれを受け止めた後、「今までお世話になりました」と礼を告げる。


「これからも君のお家の大家さんだよ」


 と、雪子は最後にポンと頭を叩いて離し、メモ帳をペンで挟んで天井を仰いだ。


 さて、バトンタッチをするように美琴が話を引き継いだ。彼女も、どこか嬉しそうに雪子と水鳥を順に見つつ、最後にチラリと紅音を一瞥してから話を切り出す。


「――私は当然、それでも構いませんけれども。思い切った決断ですね?」


 紅音は美琴の言葉に賛同するように水鳥の横顔を見詰める。


 そしてふと、視界の端で彼女の指が震えていることに気付いた時――ようやく理解する。平然と大人に自分の意思を伝えているように見える彼女が、緊張していることを。


 水鳥は深呼吸を何度かした後、横目に紅音を見て、こう告白した。


「私は、紅音が好きです」


 ――途端、脳裏に蘇る、霊園での一幕。


 驚愕に見開かれる二対の目。対照的に瞑られる雪子の瞳。


 紅音はそんな大人を尻目に唖然と水鳥を見詰める。


 まだ、紅音が返事をできていない水鳥の愛の告白。好きだ、と、彼女は言ってくれた。そして、その楔を起点に溢れ返ってくる彼女との二か月の日々が、紅音の顔を微かに歪ませた。


 『あのね――私、紅音が好き』


 その言葉を思い出した途端、焼けるような熱を目の奥に感じた。紅音は唇を噛み締める。


「私は紅音が好きだから、紅音と一緒に居たいです。……そして、大切な人が私の気持ちを分かってくれるから、それ以上は贅沢だと思って、それだけでいいとすら思っていました。でも、それを紅音に伝えた時に怒られたんです。それは……依存だって」


 紅音は、自分がどれだけ水鳥の心を突き放したのかを、今になって実感した。


 気持ちを伝えることに怯え、苦しんできた少女の伝えようとした気持ちを、紅音は汲み取らなかった。その事実に対する自己嫌悪に、紅音は膝の上で拳を握る。だが、


「私は実際、紅音が居なくなったらとても苦しんだと思います。自分の感情を伝える手段を探そうともしなかった。だから、きっと、依存をしてしまっていた。でも、じゃあ、紅音に気持ちを汲み取ってもらえて嬉しかった私の気持ちが生んでくれたのが、全部、紅音への依存なのかって聞かれたら、絶対に、そんなことはない」


 そこで少し言葉を選んだ後、水鳥はこう言った。




「この気持ちは依存じゃない」




 目尻に膨らんだ熱い雫が、紅音の頬を伝って顎から手の甲に落ちた。


 大勢が居る前で泣くなんて恥ずかしいから、一生懸命に嗚咽を殺して、熱く深い震える呼吸を繰り返して涙を殺そうとする。けれども、ポタポタと、涙の粒は止まらない。目を覆う涙に、テーブルに反射した照明がぼんやりと滲む。そこに、水鳥の心からの言葉が続く。


「私はそれを証明したかった。だから私は、紅音が居なくても大丈夫だって証明するために、その為に、紅音と離れ離れになる道も受け入れます。その為の時間の制約です」


 紅音は手の甲で頻りに目尻を拭い、最早隠すこともせずに濡れた顔を上げる。


 すると、横顔に突き刺さる水鳥の視線を感じた。


 見ると、大人に向けて語っていた水鳥の言葉は、紅音へと向いていた。彼女は紅音を見詰めて、いつも通り――淡々と。


 けれども、もう、指を繋がなくても分かるくらい必死に、心からの言葉を紡いだ。


「昨日、君の意見を聞いて。私もしばらく考えた」


 「……うん」と、紅音はくぐもった相槌を一つ。


「私は一人で歩けるよ。だけど、君とはたった一年でも離れたくないの。だから、依存じゃなくて、好きだから一緒に居たい。その為に頑張る。これは……依存かな?」


 紅音は熱い吐息を吹き出すと、唇を噛んで、言葉もなく、緩やかに首を左右に振った。


 水鳥はその回答に満足したのか、視線を大人達に戻す。


 紅音は――水鳥を支えていたという事実を嬉しく思う反面、支えとは失ったら倒れるものであるとも思っていた。そして、支えるとはつまり、依存の関係であるとも思っていた。


 だが、違う。認識が間違っていた。


 依存とは、片方が片方に寄り掛かり、片方がそれを支える行為だ。


 だが、一人でも険しい道を歩くことができる自立した人間が、二人で居ることを選んで、より遠くまで、ずっと一緒に往く為に重荷を分け合うこともまた、支えと呼ぶ。


 それを今更になって理解して、紅音は手の腹で頻りに目尻を拭い続けた。


 いつまでも静かなままでは紅音に悪いと思ったか、七緒が話を継いでくれる。


「つまり、養子縁組はする。そして、高校卒業から話し合った期間を経てアメリカでの治療を検討したい。けれども、その前に国内で治療を再開する。穂積さんと一緒に。もしも、在学期間中に症状が改善したら……アメリカでの治療の件は取り消し、ですね?」


 簡潔に話を纏めた七緒に、水鳥は「はい」と頷いた。


 雪子と美琴は顔を見合わせてから、若く初々しい二人の少女を微笑ましそうに見る。


「そういうことなら――」

「――当然、私達に異議はありません」


 雪子、美琴の賛同の意を受けた水鳥は目を瞑って「ありがとうございます」と頭を下げた。


 紅音も三人の協力的な姿勢にお礼を言いたかったが、嗚咽が続いて声が出なかった。顔が涙で熱いのか、気化熱で冷たいのか分からなかった。そんな紅音を微笑ましそうに大人たちが見守り、隣の水鳥が心配するように顔を覗き込んだ。紅音は、照れ笑いを返しておく。


 そのやり取りを黙って眺めていた七緒は、軽い咳払いをして紅音の気を引く。


「とはいえ、国内での治療を穂積さんに支えていただくのであれば、穂積さんご本人の意思も確認しておくべきだと思います。貴女は――それで、構いませんか?」


 あの晩、紅音は水鳥が気持ちを繋げようと伸ばした指を繋ぎ返せなかった。


 紅音に気持ちが伝わるから、それで構わないと主張した水鳥の依存を、断ち切るために、依存以外の感情も諸共、切り捨ててしまった。その現場を七緒は見てしまったから、糸を繋ぎ直し、そして紡ぎ直すための糸車を拵えてくれたのだろう。紅音は洟を啜り、目尻の涙を目の甲で拭いながら、少し赤く腫れて光る眼差しを七緒へ――そして、水鳥へと送った。


「私は……」


 紅音はそこで、言葉を濁す。瞬間、水鳥が不安そうに右手を胸元に動かす。


 そして、水鳥は相変わらずピクリとも動かない表情のまま、その右手を恐る恐る、紅音の左手に伸ばす。しかし、少し伸ばしたところで、いつかを思い出したように、引っ込めた。


 それを静かに眺めていた紅音の脳裏に、日々が蘇る。


 ただのルームメイトだった。だが、彼女が食生活を心配してくれて、彼女の病気を知って、この関係は友人と呼び合うものになった。外で遊んで、彼女を知って、彼女の気持ちを汲み取る方法を考えて、彼女がそれを喜んでくれたから、段々と彼女を意識するようになった。炎上騒動に巻き込まれた時は相当に疲れたが、結果として彼女を守り切れたことは誇りに思う。そして、霊園で愛を告白されて――彼女を、ずっと支えたいと思った。


 そして、本当の意味で彼女の病気と向き合う時が来た。


 彼女を想えばこそ、しっかりと治療するように背中を押すべきではないだろうか?


 彼女を想えばこそ、自分への依存をしっかりと断ち切るべきではないだろうか?


 そんな二つの疑問、或いは不安は、確かに全て払拭された。もうここに憂いは無い。だとすれば、ずっと、保留したままの答えを今、伝えるべきなのだろう。


 紅音は最後にもう一度、指の関節で目元の湿気を拭うと、大きく息を吸う。涙に濡れて、熱く火照っていた空気を全て入れ替える。


 そして、左手を伸ばして水鳥の右手を探すと、見付けた温かい手を握る。


 一瞬、強張る水鳥の身体。紅音は恥ずかしくてそちらを向けないけれども、表情を見せなくても気持ちを伝えられる方法があるから、全ての感情を込めて、薬指と小指を繋いだ。


 熱い息が水鳥の口から零れ落ちる。そして彼女は、抱きとめるように指に力を込めた。


 紅音はその感触を愛おしく抱き締めるように感じ取って、水鳥の三人の親に伝えた。




「私は――水鳥を愛しています。彼女と、支え合って生きたいです」




 全く臆することなく真剣な眼差しで言い切ると、称えるような微笑みが待っていた。


 最初に水鳥を見付けて手を差し伸べた女性も、その女性に感化されて後見人になった女性も、そして、不器用に身内の咎を一身に背負おうとした女性も、一様に紅音を認めて笑う。


 それから、どこか、初々しい愛の告白に照れてしまったように目を逸らした。


「だ、そうで……す」


 七緒がその言葉を水鳥へと送るように視線を動かし、そして、その途中で言葉を詰まらせた。


 その目が大きく見開かれ、同じように水鳥を見た雪子と美琴も唖然と口を開ける。どうしたというのか、と、紅音が少し不安になって横を見ようとした瞬間――掠れ、くぐもった吐息の音が聞こえ、繋いだ水鳥の右手が不規則に揺れた。




 ぽつり、と。水鳥の膝に一粒の雨が滴った。




 口を開けた紅音が水鳥の顔を見詰めると、彼女は、もう片方の手で目元を拭っていた。


 水鳥は唇を噛むと、濡れた目から落ちるものを不思議そうに何度も拭っていた。


 弾むような呼吸が肺から絞り出され、ポロ、と球粒の涙が彼女の胸元に落ちる。


 「あれ?」と、不思議そうな水鳥の声が静寂の中に響く。「なんか」と、意味が分からないと言いたげに呟いて洟を啜った。そして、ようやく自分が何をしているのか理解したように「なんで?」と不思議そうに、涙に濡れた声を上げた。


 紅音は、洟を啜りながらその様子を見守る。


 果たして、あの精神科医の言葉がどれだけ正しかったのかは分からない。けれども、凄惨な家庭環境という冬に積もった彼女の雪が、今、確かに解け始めていることだけは確信できたから、紅音は笑いながら、涙を落とした。


 貰い泣きをしてハンカチを取り出す七緒。


 紅音たちの邪魔をできないから、そんな七緒を励ます雪子と美琴。


 紅音はポケットからハンカチを取り出すと、微笑みながら水鳥の頬を拭く。


「沢山、泣いていいんだよ」


 ここには彼女の感情を抑圧する人間は居ない。けれども、それを拭く人なら居る。


 水鳥はそんな紅音を濡れた目で真っ直ぐに見詰め、涙を堪えるように唇を噛んで、けれども誤魔化しきれずに涙が目元で膨らむ。ぎゅ、と目を瞑ると涙が再び溢れ出した。そんな涙を紅音が微笑んでハンカチで拭っていくと、繋いだ薬指と小指に力が入る。


「ずっと、一緒に居てね」


 涙にくぐもった水鳥の、そんな声。紅音は「うん」と笑顔で頷く。


「不安にさせてごめんね」

「……ほんとだよ、ばか。私は依存なんてしてなかったのに」

「してたよ、それはさっき認めたじゃない」

「してない」

「してたよ」


 そんな子供っぽいやり取りを聞いた大人達は、安心したように声を上げて笑う。そんな唐突な笑い声を聞いた紅音は驚いたように肩を竦ませて、そして苦笑を。水鳥は相変わらず、笑顔を浮かべてくれる気配は無いが、気持ちを分かち合うように、繋ぐ指に親指を加えた。


 今までがどうであったかは、さておき。


 少なくとも今は、水鳥は紅音に依存をせず、一人で歩くことができるだろう。


 そして紅音も、一人で歩くように水鳥の背中を押すことはできる。


 けれども、そうしなかった。だったらそれは、共依存ではなく、相互依存だろう。


 まだ完璧とは言えなくとも、これからきっと、そうなっていく。


 居なくなったら倒れてしまうから相手を求めるのではなく、好きだから相手を求める。そして、好きだから相手を支えて、その未来と向き合う。




 二人はそれを、愛と定義した。


 その気持ちだけは、もう、指を繋がなくても分かり合えた。

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