23話
「――失礼します」
紅音の名前を呼んだ精神科医が扉を引いてくれたので、紅音は会釈しながら中に入る。
連絡から数時間後に訪ねた診察室は、随分と風変わりだった。
紅音が普段世話になっている内科や耳鼻科は照明が明るく、ビニル床で、清潔感を優先し、機能性を重視して不必要なものを削ぎ落している印象を受ける。
対して、この部屋は落ち着くような暖色の仄暗い照明が用いられており、絨毯が敷かれ、緊張感を削ぎ落すような観葉植物や本棚、絵画といったものが雑多に置かれている。そして、デスクの形もまるで違う。ローテーブルを挟むように二台のソファが置かれていた。
それから同様に、今回の担当医と思われる男性も、医者としては珍しいように思う。
まず、白衣は着ていない。そして、当然のようにフォーマルな格好でもない。上は襟付きのグレーのシャツを袖捲りして、下はジーンズだ。胸から提げている名札が辛うじて彼を医者だと証明していた。名前は『茅野晶』。このクリニックの院長らしいが、外見から推察できる年齢は二十代後半程度。推察通りの年齢だとしたら、相当な敏腕か相当な人脈を持っているか。
「――ウチの方針でして、医者らしさよりも親しみを押し出した方が安心して話していただけるだろう、と。ご要望とあれば白衣を着ますが」
あんまりマジマジと見詰めたものだから、担当医は不敵に笑ってシャツの襟を摘まむ。
紅音が気まずくなって「素敵なシャツですね」と薄笑いを返すと、担当医は「ユニクロのヴィンテージ。三年ものです」と微笑しながら、ソファを差した。
「どうぞ、お掛けください」
紅音がソファに腰掛けると、少し遅れて担当医も対面のソファにゆっくりと座る。そして紅音がそわそわと辺りを見回していると、担当医は穏やかに笑って壁際の冷蔵庫を指す。
「精神科と聞くと中々物々しい印象を受ける方もいらっしゃって――お茶でもいかがですか?」
どうやら緊張していると思われたらしい。否、実際、緊張はしているのだろう。しかし、これを解す手段はカフェインよりも自白剤だ。紅音はどうにか笑みを浮かべて首を振る。
「いえ、先生の貴重なお時間を頂く訳にもいきませんので」
「そうですか……それでは早速、本題に」
担当医はローテーブルに置いてあったメモ帳を読みながらペンを手に取る。
先ずは家族相談なので保険適用外、つまり自費での負担であることや、様々な守秘義務を順守する旨の宣告を済ませる。
それから、紅音は相談を始めた。
内容はルームメイトについて。守秘義務を守るという前提はあれども、流石に踏み込み過ぎたことを相談する気にはなれず、『家庭環境が悪かった』という濁し方をしながら、ルームメイトがPTSDによる離人症であると過去に診断された旨を伝えた。
「――成程、離人症ですか。それもPTSDが原因で、表情が変わらない」
紅音の話を聞き終えた担当医は、顎を摘まんで「ふーむ」と唸りながら虚空を凝視する。
「そもそも、これってどういう病気なんですか?」
説明は済ませたが、それだけでは彼も何を話していいか分からないだろう。
早速、紅音が質問を始めると、担当医は悩む素振りを止めて顎を擦り始めた。
「さて、どこから説明しましょうか――ちょっとややこしい説明をするので、不明な点があったら都度質問をお願いします」
どうやら複雑な話らしく、担当医はソファに座り直すとジェスチャーを交えて語り出す。
「まず、最初にその診断をした精神科医の方、またはその話が貴女に伝わるまでの過程に何らかの誤解があって、その説明は現在、不正確な状態になっています」
あまりにも予想外の第一声に、紅音は眉を顰めて前のめりになる。
「ふ、不正確……ですか?」
「はい。『まず、PTSD由来の離人症』というものは存在しません」
紅音は見開いた目を担当医に向けるも、彼は冗談を言っている訳でもなさそうだった。
「どういうことですか」と紅音が問うと、彼は神妙に説明を始める。
「離人症というのは他にも離人感・現実感消失症とも呼ぶのですが、これの鑑別条件には『PTSD等の他の精神疾患で説明できない』というものがありまして。簡単に言い換えると、『PTSDだとするなら離人症という病名ではない』と診断を下すことになります」
思考回路がショート寸前ではあったが、紅音は一生懸命にその言葉を噛み砕く。
つまり、水鳥は離人症ではない――否、離人症という病名ではないということだろうか?
「じゃあ、水鳥の正確な病名は……?」
「それはご本人を診断しないと何とも言えませんが……」
そう前置きする担当医。それは仕方が無いだろう、と紅音は頷いて先を促す。
すると担当医は細めた眼差しで虚空を睨みながら、自分の海馬と相談をしてて言葉を紡ぐ。
「もしも酷い家庭環境によってPTSDと認められる症状があり、かつ、離人症と認めるに足る症状があるのなら、それは『解離型PTSD』と呼ばれるものである可能性が高いです」
「解離型……PTSD」と、紅音は聞き慣れない言葉を脳ではなく口で理解する。
「そうです。まあ、この場では面倒なので離人症で構わないでしょう――それなら何故、わざわざこんな区別がされていて、私もそんな指摘をしたのかという話なのですが。簡単に言うと、離人症と解離型PTSDでは処置の方法が少し変わってくるのです」
難しい話だが、理解できた。理解できたからこそ、紅音は呆然と担当医を見詰める。
そして、先刻に紅音に精神科への相談を促してくれた現職の医者を思い出し、感謝の念を抱いた。ここに来てよかった――そう思いながら、紅音は身を乗り出す。
「ぐ、具体的にはどう変わってくるんですか?」
すると彼は片手を握手するように差し出し、その手を自らの手でパチンと叩く。
「離人症においてはグラウンディングと言って、ふわっ、と身体から離れた意識を現実に引き戻す処置を行ったりします。一例ですが、冷たい氷をぐっと握ったら否が応でもぼんやりできなくなるでしょう? そういう処置を繰り返して、徐々に感覚を現実に戻します」
確かに、冬場にぐっと氷を握り締めると骨まで痛くなる。アレは利きそうだ。
「ところが解離型PTSDは違います。こちらは、トラウマ体験にスポットを当てて、処置をします。例えばEMDRといって、『めちゃくちゃ目を動かすと意外と気分が楽になるぞ?』って人間の機能を使った手法とか、安心できる場所で少しずつ嫌なことを思い出して慣れていく方法とか。つまり、前者は離人感の症状そのものに対して処置をするのに対して、後者は離人感の原因を除去する。要するに、両者は倒すべきウイルスが違います」
とても噛み砕いて説明してくれるので、今度は分かりやすい。
紅音は頻りに頷いて「なるほど!」と得心の声を上げる。
紅音は対症療法ばかり繰り返していたので、それを聞いたからといって今すぐに自分の過ちには気付けないし、これから何をすればいいかも分からない。けれども、知ったことで何かが見えてくるような感覚はあった。そんな反応の良い生徒に少し気を良くした担当医は、「以上を踏まえると!」と大袈裟に手を叩いて、話を進めた。
「――厳密な診断はできませんが、今のところは、ルームメイトさんは過酷な家庭環境に起因した解離型PTSDであると仮定するのが妥当でしょう。そして、その症状は感情の鈍麻。しかしながら、話を聞いていると、その人の感情そのものは豊かなように思えます」
「そっ」――ガタッとソファを立ち上がった紅音は、一瞬遅れて我に返る。
そして、膝下で蹴ってしまったソファを焦って戻しながら激しく頷いた。
「そうです、そうなんです! 感情自体は、凄く豊かな子で」
「そうなると、肝は解離症状と併発した感情表出の鈍化だと思います」
感情表出の鈍化。その言葉を聞いた途端、紅音は全てが腑に落ちた気がした。
感情そのものが麻痺しているというよりも、それに近い症状はありつつも、本質的には感情が表に出てこない部分が水鳥の精神疾患のように思える。紅音は目を見開いて口を押さえ、その言葉と紅音の知る過去の水鳥の言動を全て照らし合わせる。
否定の言葉は出てこない。チェックは全てクリアした。
「私も、そう思います」
何より水鳥自身が自分の状況をそう説明していたのだから、それで間違いないだろう。
そして、紅音がそれに様々な思考を巡らせる中、主治医は紅音を見定めるように言った。
「――その方は、感情表現を許されない抑圧的な環境に居た可能性があります」
思考がリセットされる。ぷつんと切れた思考の糸を今は置いておいて、目を丸くして主治医を見る。彼は、あくまでも答えを求めるのではなく、確信に近い仮説を紅音に提示しているだけらしい。今の話だけでそんなことが分かるものなのだろうか、と紅音は舌を巻く。
紅音の驚嘆を以て的外れでないことを確かめてしまった担当医は、少々申し訳なさそうにしつつも、手を揉みながら話を進める。
「――あくまでも穂積さんを経由して得た知識で立てた仮説なので、鵜呑みにしないでいただきたいですが、現状、その方は過酷な家庭環境に起因する解離型PTSDである可能性が高いです――と、取り敢えず『どういう病気なのか』という質問にはお答えしましたが」
「どうでしょう」と主治医が見てくるので、紅音は緊張を溜息で解きながら頷く。
「ルームメイトの症状はよく理解できました」
「それは何よりです。それでは、次の質問をお伺いしましょう」
まだ訊きたいことがあることを表情で察した主治医が促すので、紅音は話が早いなぁと笑いながら、一度、深々と溜息を挟む。これもプライバシーに触れる話題だが、止むを得まい。
「これは少し踏み込んだ話になるのですが、そのルームメイトは、過去に何度か精神科を受診したことがあるみたいです。それで、一向に回復する気配がなかったので受診をやめたと語っていました」
担当医の渋い顔。思うところはありそうだが、今は言葉を呑んでもらう。
「ところが最近、アメリカの権威?的な精神科医の治療を受けられるという話が出まして」
「ほう! それは中々、素晴らしい伝手ですね」
主治医が驚いたように感嘆の声を上げるので、やっぱりそうだよなぁ、と少しだけ気後れする感情を自分の中に感じながら、それでも紅音は伝えきった。
「ですが……その、当然ながら治療をするとなると、相応の時間、海外に行く必要があります」
「それはそうでしょうね。適切な薬を処方してハイ完治、とはいかないですから」
「ですからその……」
紅音はそこで一度、言葉を濁す。改めて、我ながら馬鹿げた質問だと思った。
けれども、今日、ここに来た以上はそれをやり遂げる以外に道は無い。
「……もしも、アメリカでの治療をしなかった場合。どんなデメリットがあると思いますか?」
自分が引き止めたいだとか、そういった話を置いて、紅音は単刀直入に尋ねた。
当然、主治医はその発言から、約束された治療に背を向けさせたいという紅音の願望を汲み取り、怪訝そうにする。しかし――「なるほど?」と間を繋ぐように疑問符の浮かぶ相槌を挟んだ後、それから徐々に理解が追い付いて「なるほど、なるほど」と繰り返した。
「ちなみにお伺いしたいのですが、貴女はその方とルームメイトでしたね?」
「は、はい! まだ二か月程度ですけど……一緒に暮らしています」
「では、その方の感情表出に関連して、貴女自身に何か困ったことはありますか?」
紅音は虚空をジッと見詰めて顎を押さえ、記憶を二か月分遡る。
「そう……ですね。ええと、最初は何を考えているか分からなくて、コミュニケーションエラーはありました。ただ、彼女から症状に関する告白を受けて以降は、私の方でも気持ちを汲み取る為に色々とやっているので、特には。個人的には、他の人との交流が心配で」
すると主治医は唇を尖らせて何やらメモ帳に書き込んだかと思うと、首を傾げる。
「すみません、『気持ちを汲み取る為の色々』というのを具体的にお尋ねしてもよろしいでしょうか? それは、表情以外に何か分かりやすい感情の表出があるだとか?」
紅音は少し気後れしながらも、水鳥の為だと思って恥を忍んで右手を上げる。
「いえ、その――こう、指で、怒ってる時は私の中指を繋いで、とか、謝る気持ちが強い時は小指を繋いで、とか。表情に出ない部分を指で補完できたらな、って、思って……いて」
主治医の表情が段々と険しくなっていくので、あまり良くないことだったかと紅音は歯切れを悪くする。或いは、自分は彼女にとって邪魔になっていたのだろうか、とも。
しかし、主治医は一頻り考え尽くした後、顎を擦りながら質問を重ねた。
「ありがとうございます。ちなみに、そのルームメイトさんはそれに意欲的ですか?」
「い、一応。積極的に使ってくれてはいるんですが……あまり、良くないでしょうか?」
表情に乏しい精神疾患である彼女に、表情を変えずに済んでしまうような感情表現の方法を共有し合っていたことになる。精神科医として、何か思うところがあるのかもしれない。
そう思った紅音が恐る恐る尋ねたものの、主治医は「少し考えます」と言うや否や、片手で顔を覆って黙考を始める。ドギマギと断頭台でギロチンとの邂逅を待つような気分だった。
やがて、主治医は徐に真顔を上げると、端的に紅音の問いに回答した。
「逆です。素晴らしい」
紅音の思考が止まる。表情が錆び付いた。口が開かず、困惑と共に絶句。
「精神疾患の治療には、患者さんの周囲の方々の協力が不可欠です。その人にとって安心できる場所の存在は治療の効果を飛躍的に底上げしてくれる。故に、我々のような精神科医は、できることなら周囲の方々に、病気の理解と、それに寄り添ってくださることを望みます。例えるならば――病床に伏す家族を介抱するようなものです」
「けれども貴女のそれは違います」と主治医は断言した。
「穂積さんのしている行為は、ある意味、医者の領分に近い」
大袈裟な言い回しに臆しそうになる紅音へ、主治医はこう続ける。
「ルームメイトさんの診断をすることはできませんが、もしも私が仮定した通りの症状であるとするならば、その方は感情を表に出すことと苦痛がイコールで結び付いている状態だと推測されます。つまり、防衛本能が無意識に感情表出に蓋をしている可能性が高い」
「しかし」と主治医は真っ直ぐに紅音を見詰めて断言した。
「貴女は、苦しみを伴わない感情表出を模索して患者さんと擦り合わせている。少しずつ、トラウマであるはずの感情表現に慣れていただきながら。患者さんも、それに意欲的。これは、医者の視点から言わせていただくと、奇跡に近い状況です。実際にそのルームメイトさんを診断しない限り、医者として断言をするのは難しいですが――」
少しずつ、少しずつ紅音の心にその言葉が染み込んでいく。
正直なところ、紅音は自分の行いがどのように優れているかなどは考えたことも無かったし、こんな風に言われるような行為でもないと思っていた。けれども、私欲を理由に彼女を引き止める正当性を探すという咎の中、射した一条の光は、真冬の星空のように映えて見えた。
「――貴女の存在は、確実に、その心に積もった雪を解かします」
このまま水鳥と一緒に進んでいい。そう言われたような気がして、涙腺が緩む。
流石に、今、ここで涙を落とすのは心配をさせるだけだ。紅音はぐっと目を瞑ると、唇を噛んで俯く。手が震えないように、強く膝を握った。浅い呼吸を何度か繰り返す。
無力感があった。恵まれた人生を送ってきた紅音に対して、壮絶な人生を生き抜いてきた水鳥。呑気に日常を謳歌していた紅音に対して、人との接し方に苦しみ続ける水鳥。
紅音は水鳥と最も近い場所に居る人間でありながら、彼女の病気に対して無力だと思っていた。美琴が提案した国外治療は紅音という存在に介入する余地は無く、彼女を引き止めたところで、その人生の責任を取ることもできない。ただ、自分の手の届かない場所で大切な人が苦しみ続けているのだと、そんな風に思っていた。
だが、違った。――意味は確かにあった。
やがて、どうにか顔を上げた紅音は、「ありがとうございます」と頭を下げた。
頷いた主治医は、「先ほどの質問に答えます」と話を戻した。
「アメリカでの名医の治療という選択肢を選ばないのは、とても勇気の要る決断だと思います。自惚れるようで申し訳ありませんが、医者とは病気に対する正解を約束できる職業ではないものの、人類の中で最も正解に近い職業ではあるのです。そして、その提案されている名医が権威的な人物であるとするならば、その医者の中でも取り分けて正解に近い人です。つまり、その道を選ばないことのデメリットは、『最も正解に近い場所から背を向けること』です」
当然、如何に紅音が優れたアプローチをしようとも、それは医者には及ばない。
「しかし、国内にも精神医学の名医は数多く存在します。個人的な見解を述べさせていただくのであれば、先に彼らを頼るのも一つの手段だと思います。勿論、通院して症状が改善しないという出来事は、想像以上に患者さんの心に負担を積もらせる。お金だってかかります。あんまり安易に提案できることではなく――故に、一長一短ではありますけどもね」
最後に、主治医はこう言った。
「それからこれは、ご本人を診察してすらいない、医者失格の個人的な意見ですが」
前置きの後、少しの抵抗の後にこう続ける。
「国外治療の最大のデメリットは、貴女と離れることだと思います。努々、それをお忘れなく」
去り際、主治医は紅音を特効薬のようなものであると評した。
紅音は彼の言葉を思い出しながら、精神科から最寄り駅まで伸びる商店街の歩道を歩く。
店のシャッターは寂寥感を煽るように無機質に閉ざされている。空は既に橙色に染まり始め、首が痛くなるほど顔を上げれば、紫紺と星々が一面を覆っていた。キラキラと、人の気も知らないで輝くそれらは、腹立たしいほど綺麗で、少し見惚れた。
ふぅ、と、星という埃を吹き払うように吐息を吐いてみると、びゅう、と風が背中に吹く。
足を止め、大袈裟に踵立ちして数秒後、トンと踵を地面に置いて目を瞑った。
――依存は駄目だ。
紅音は徐に目を開けて、顎を引き、疲れた目で暗がりを帯びていく道路を眺める。
紅音は、自分の存在が水鳥の支えになっているという事実を心から嬉しく思う。一方で、支えとは、即ち失ったら倒れるものである。つまりそれは、依存という言葉に言い換えられる。
では、支えるという行動は、その全てが依存を招くかと考えると、そうではないはずだ。
支えられる。けれども依存ではない。支える。けれども、依存はさせない。
納得できない。理解ができない。上手に噛み切れない固い肉をずっと口の中で咀嚼しているような気分になりながら、紅音は自分が消えた後も健やかに生きていける水鳥を願いつつも、その隣に自分が立ち続けるという矛盾の妥協点を模索しながら、歩き出す。
ふと、商店街のモニュメントクロックが紅音の目に映った。
そろそろ、家に美琴たちが訪ねている頃だろうか。
本当は、精神科で納得できる話を聞いたら、すぐにでも電話をして同席させてもらうつもりだったのだが、納得できた分だけ、納得できない部分が浮き彫りになっていた。
紅音が水鳥を引き止めるのは、病気の観点からはそう悪い選択ではない反面、水鳥という個人を見た時に、彼女の自立を妨げる可能性がある。
今日の話し合いで全てが確定する訳ではないが、それでも、決まったことを覆すのは容易ではない。それなのに思ったよりも焦っていないのは、自分が諦めているからか。
――そんな風に考えた時だ。
紅音のスマホが不規則に振動する。着信だ。発信者は――水鳥。心臓がバクンと跳ねた。
気付けばスマホは耳元にあって、指が通話を開始していた。
紅音は目を丸くして電話に出た。
「も、もしもし! 水鳥?」
「水鳥だよ。ごめんね、急に。今大丈夫?」
紅音の上擦った声を揶揄うこともなく、水鳥は他人行儀にそう訊いてくる。
そろそろ話し合いをしている時間のはずだ。何かあったのだろうか? と紅音は声を潜める。
「大丈夫だけど……どうかした? 何かあった?」
まさか美琴が変な提案をしてきたのではないだろうな。それとも、また炎上だろうか。
嫌な心当たりを次々に思い浮かべながら表情を険しくさせる紅音だったが、その顔を見てるかのように「そういうんじゃなくて」と水鳥は淡々と否定をした。
「そろそろ氷室さんが来て、話し合いを始めるんだけど……本当に、紅音は来ないの?」
紅音は唇を噛んで、肩を落とす。思わず溜息が出る。眉尻を下げてその言葉を反芻した。
行きたいに決まっている。けれども、行ったら変なことを言いそうだとも思っている。
水鳥と離れたくない。この期に及んで、何か食い下がるようなことを言うかもしれない。
他でもない精神科医が紅音の存在には意味があると言ったが、紅音に依存している節がある水鳥に対して、それが正しいことであるかは分からない。加えて、それを承知しておきながら、この口は水鳥を呼び止めてしまいそうだから、行きたくない。でも、
「行く」
気付いたらそう答えていたから、紅音は己に失望しながら口を覆う。
呆けていることが分かるような間を置いて、水鳥が返す。
「本当?」
「うん、やっぱり行く。一秒でも多く、水鳥と居たい」
ここ最近のゴタゴタで、感情を建前で隠すのが上手になってしまった。
そんな中、久しぶりに告げたその言葉は、自分でも可笑しくなるくらい包み隠さぬ本音で、それは水鳥にも伝わったのだろう。心なしか、彼女の声は明るいような気がした。
「待ってるから。気を付けて帰ってきてね」
「うん、待っててね」
そんなやり取りの後、紅音は通話の切れたスマホを暫く眺める。
ふと、画面右上の現在時刻が一分動いたから、人を待たせているという事実を思い出してスマホをポケットに仕舞い、歩き出す。次第に歩調は速くなっていく。
少し息が乱れ始めた頃、頭の中は真っ白で、ただ、水鳥に会いたいという剥き出しの感情だけが残っていたから、それを原動力に、走り出す。
駅に着いて、ちょうど出発寸前だった電車に歩調を緩めて乗り込んだ。
降車駅のエスカレーターに近い車両まで移動してから、自宅の最寄り駅で急ぎ足に降りる。
そして、そのまま足を止めることなくアマミヤ荘のエントランスに到着。ライトアップされた石畳を駆け抜け、オートロックのエントランスを慣れた手付きで開錠し、エレベーターへ。
深呼吸を繰り返す。階層が一つ上がる毎に一回。次第に呼吸が整っていく。
帰ったら何を言おう。そんなことを考えながら、開いた扉を抜けて廊下へ。
待たせてごめんね。急に来るって言ってごめんね。最近、上手に話せなくてごめんね。作り笑いばかりでごめんね。突き放すようなことを言ってごめんね。支えてあげられなくてごめんね。ごめんね。ごめんなさい――君の助けになれなくて、ごめんなさい。
そんな言葉を沢山用意しながら自宅の扉前に立った、その瞬間。
「おかえりなさい」
聞き耳を立てていたかのように、扉が中から開けられた。
思考の為に伏せられていた視線が最初に視認したのは、サンダルを履いた少女の足。顔を上げると、既に部屋着に着替えている若菜水鳥。彼女は紅音を真っ直ぐ、静かに見詰めていた。
椛島美琴が治療を提案したその日から、今まで、忘れかけていたような日常を、その一言に思い出す。瞬間、紅音は用意した全ての謝罪が飛んでいくのを感じた。
「ただいま」
少しだけ固かったかもしれないが、それでも、浮かべた紅音の笑みは嘘ではなかった。




