22話
翌朝は久しく酷い寝覚めだった。十一歳のインフルエンザの日以来か。
頭が痛く、口の中は嫌に乾いて、体中は妙な汗でびっしょりだ。しかし、あの頃と違うのは介抱してくれる家族は家に居ないことと、そもそもこれは病気でも何でもないこと。胸の中の引っ掛かりのせいで眠るのが遅く、眠りも浅く、ただ、寝不足が身体を蝕んでいるだけ。
紅音はベッドに寝転がったまま、カーテンの隙間から伸びる朝日を眺めた。
「サボるか」
そうと決めるや否や、枕元のスマホを取り出して学校の電話番号へ発信。
時刻は七時。どうやら朝早くから出勤している教員も居るようで、何度か会話した程度の教科担当ですらない先生が電話に出てくれた。体調不良で欠席する旨を伝えると、普段はある程度真面目な授業態度であるという点も加味してか二つ返事で病欠を快諾してもらった。
ふう、と紅音は大の字になって天井をぼんやりと眺める。
このまま二度寝を敢行したい気持ちもあったが、それでは水鳥が心配するだろうと思い直した紅音は、徐に毛布を剥いでのそのそとベッドを出る。
紅音がリビングに顔を出すと、水鳥は既に制服に着替えて朝食の支度を済ませてくれていた。本当に、ずっと彼女に甘えっぱなしだなぁと思いながら、笑みを貼り付けて手を振る。
「おはよ」
「おはよう。今日は随分と眠そうだね?」
「んー……よく眠れなくて。だから今日は学校をサボります」
言いながらフラフラと洗面所に向かうと、「悪い子だ」と淡々とした水鳥の指摘が背中に。紅音は「ふふふ」と演技半分、本心半分の笑みをこぼしながら顔を洗ってうがいする。
リビングに戻って二人で朝食を食べていると、水鳥がこう切り出した。
「今朝、養子縁組の件を雨宮さんと椛島さんに送った。すぐに返事が来たよ」
「……そっか」と紅音が目を細めて相槌を打つと、水鳥は「うん」と頷く。
「今日の午後、私の学校まで雨宮さんが迎えに来てくれる。それで、児童相談所に伝える前の最終確認をこの家でするつもり。私と、雨宮さんと、椛島さんと、氷室さん」
箸を持っていない手で四人を指折り数えた後、水鳥の朝日を帯びる琥珀の目が紅音を見た。
「紅音は、どうする?」
その質問は――今の自分達の関係性が、ほんの数日前とは変わってしまったことを察しているが故のものなのだろう。紅音は最早、美琴から水鳥を守る必要性を感じてはいないし、美琴の提案を呑むべきとすら思っている。そして水鳥もまた、紅音には依存しない。
本当に、今はもう、ただのルームメイトと呼ぶのが相応しいのかもしれない。
まだ答えられていない霊園での彼女からの告白を脳裏に思い浮かべながらも、紅音はそれをそっと記憶の片隅に片付け、場を明るくするために笑みを取り繕った。
「気を抜くと椛島さんに変な噛み付き方をしそうだから、やめとく!」
水鳥は淀みなくキャッチボールしていた言葉を一度止め、口を閉ざして紅音を見詰める。
相変わらず微動だにしない表情。水鳥と接していく内に、段々と、彼女が何を考えているのか分かるようになってきたつもりだったが――ここ最近は、何だか、よく分からない。
紅音が愛想笑いのような笑みを浮かべて疑念を返すと、水鳥は静かに会話を再開した。
「分かった。じゃあ、四人で話そうと思う」
「了解、私は昼過ぎには適当に外に出てるから。夕飯は食べて帰るよ」
「あんまり遅くなっちゃ駄目だよ。気を付けて帰ってね」
紅音は父親のことを思い出しながら「はーい」と軽い調子で返事し、それから、二人で何事も無かったように雑談をして、テレビを眺めて、紅音は登校する水鳥を見送った。
表面上は何事も無かったように振る舞うことができるが、お互いの内心はきっと淀んでいるし、お互いにお互いの胸中が清流ではないことを知っている。けれども、そうして振る舞えば少しずつお互いに納得していけるだろう――そう思う反面、内心を隠した表面的な交流を続けていくほど、培ってきた互いの信頼関係が徐々に色褪せていく気がして、それが怖かった。
さて、誰も居なくなった静かなリビングで、紅音はソファに仰向けに倒れる。
肘掛けを枕代わりにして仮眠を試みた。
目を閉じて、三分。目を開けてテレビを消す。
再び目を閉じて、八分。今度はお手洗いへ。
再度目を閉じて、十四分。下らないスパムメールに舌打ちをする。
それから、ようやく仮眠。一時間と二十五分後に目を覚ます。
少しだけ頭がスッキリして、紅音はようやく水鳥のことを割り切れたような気がした。
たった一年だ。受け入れるべきだろう、穂積紅音。
紅音は自分にそう言い聞かせながら、暇潰しに寝転がったままスマホで動画アプリを開く。
手癖のように水鳥の――甘党あずきのチャンネルを開くと、昨晩二十二時頃、一時間程度配信された雑談のアーカイブが残っていた。動画を開く。
イントロ部分を無気力なタップで軽く飛ばすと、画面中央で甘党あずきが喋り出した。
『表情? ああ――いや、もう皆にはバレちゃったしわざわざ変えなくてもいいかなって。え? あ、スミマセン、スミマセン、はいはい、変えますよ。変えます、ごめんなさーい』
どうやら配信開始早々、コメントに無表情を指摘されたらしい。
水鳥は渋々、怒られた腹いせにスライダーを滅茶苦茶に動かしたのだろう。甘党あずきの顔がイラストレーターに怒られそうなくらいの百面相をする。目の当たりにした視聴者に爆笑の渦が巻き起こる中、流石におふざけが過ぎたと思ったか、水鳥は粛々と微笑に表情を変えようとして――甘党あずきの眉尻を下げた。
『ところで、少し――相談してもいいかな』
不意の話題に、紅音のところの視聴者とは比べるまでもない物腰柔らかな相槌が返る。
見ていた紅音も、何の話だろうかと眉を顰める。
『できれば、ここは切り抜かないでほしいんだけど』
切り抜き動画の作成を牽制しつつ、水鳥は本題を切り出した。
『ちょっと前に、友達ができたって言ったでしょ? 実は最近、その子と上手くいってなくて』
心臓と呼吸が止まって、その狭間で壁掛け時計の秒針の音が響く。そしてすぐ、動き出す。
鼓動二回の裏拍に秒針を聴きながら、紅音は彼女の指している人物が自分であることを即座に理解し、すぐに動画を一時停止する。半ば無意識に音量を落としていき、スマホを一度、ソファに置いた。目が動揺に泳いでいた。スマホから視線を逸らそうとする感情と、スマホを見詰めようとする理性のせめぎ合いの末、紅音は深呼吸を繰り返して脈拍を鎮める。
そして、スマホの音量を二つほど上げた。身体を起こす。
ソファに横向きに座って、その上で胡坐をかいた。
震える指先で二度ほど狙いを誤った後、再び再生ボタンをタップした。水鳥が語り出す。
『私に……私が…………うんと、どの口がって感じのことを言うんだけど』
珍しく言葉を濁した水鳥は、続けてこう言った。
『最近、その子の考えていることが分からないんだ』
項垂れるようにして画面を見詰めていた紅音の双眸が丸く見開かれ、その瞳孔の中央で、スマホの画面に映る甘党あずきが更に悲しそうに顔を作り変えた。
――考えていることが分からない? 私の? 考えが?
一瞬、意味が分からずに紅音は自分の顔を揉む。知らず知らずの内に無表情で接していたということだろうか。そんな訳がない。水鳥の苦しみを知っているからこそ、余計に、表情豊かに会話をしてきたつもりだ。そうして自分を振り返って――ふと、昨晩の出来事を思い出す。
例えば、顔を見せたくなくて俯いたまま話した。
例えば、彼女を心配させまいと無理な笑顔を浮かべた。
例えば――彼女の背中を、感情ではなく合理性で押した。
一緒に居たい。水鳥を止めたいと、口先では言った。無理な笑顔で冗談を交えながら。
――私は、真剣に自分の気持ちを語っただろうか?
ふと、そんな疑問を思い浮かべた紅音は、「言ってない」と、他でもない自分自身がそう断じた。そう、言っていないのだ。ヘラヘラと無理に笑いながら『離れたくないよ』とそれらしい言葉を言って、その後は合理性を突き付けただけ。美琴に提案をされたあの日、あの帰り道の車内で交わした言葉が最後の本音ではなかっただろうか?
『だから、どう接すればいいのか分からなくて――』
スマホの中で甘党あずきが、水鳥がそんな風に不満を吐露する。
ああ、自分の気持ちが伝わらないというのはこんな感覚なんだな。そう思った矢先、
『――私はいつも、友達にこんな思いをさせてたんだなぁって反省してる』
全く同じことを、水鳥がぽつりと呟いた。
紅音はその言葉を聞いた瞬間、表情を消した。そして、動画を止める。
途端に訪れる静寂の中、浅い自分の呼吸音だけを聞いて、徐にソファに背中を預ける。
紅音がそう思っていたように、水鳥もまた、紅音の気持ちを知りたいと思っていた。
紅音は本当に――本心から、水鳥には行かないでほしいと思っている。
アメリカでの精神疾患の治療が彼女の人生でどれだけ大事かを知った上で、それでも、たった一年だとしても、彼女と離れ離れになるのが苦しい。このまま、ずっと一緒にこの家で水鳥と暮らしたい。朝起きたら彼女の顔を見て、寝る前に最後に見るのも彼女の顔で。
休みの日は、今まで彼女ができなかったことを楽しませてあげたい。
そんな人生を、これから、ずっと彼女と送りたい。一年たりとも無駄にしたくない。
しかし、それは感情だ。合理的ではない、感情的な願望で、その果てにある水鳥の苦難を無視している。最たる例が胡桃沢の一件だ。今後、彼女が仕事で出会った相手が、彼女の病気を知っているとは限らない。知っていても理解があるとも限らない。その果てに、徒な吹聴が待ち受けているかもしれない。だとすれば、この感情は捨てるべきではないだろうか?
――それでも捨てたくないのなら、どうすればいい?
ポツリと、握り締めた感情から絞り出された一滴の疑問が脳を叩く。
考えが――凝り固まっていたのかもしれない。
ようやく、椛島美琴の提示した『納得』という言葉の意味を理解できたような気がした。
今まで紅音は、病気の治療を促すか、それとも引き留めて彼女の人生を背負うかの二つの選択肢で考えていた。だから、その妥協点を模索しようとして、頑固な結論しか出せなかった。
だが、違う。どうやって、という一つの疑問を自分の結論に投げるべきだった。
どうすれば水鳥と離れずに居られるだろうか。
どうすれば水鳥の人生と、病気と誠実に向き合えるだろうか。
――そんな時、置いた紅音のスマホが不規則に振動する。通話の着信だ。
紅音が慌ててスマホを取ると、そこには『お父さん』の四文字。今更ズル休みをしていたことを思い出した紅音は、少々ギクリと肩を震わせつつ電話に出た。
「あ、もしもし! 紅音です」
「父さんだ。久しぶりだな――元気してたか?」
取り敢えず第一声が説教ではなかったので、紅音は胸を撫で下ろす。
「元気……と、取り敢えず体調を崩したりっていうのは無いよ!」
学校は休んだけど。と内心で付け加えると、それを見透かしたように裕二は笑い声を出す。
「はっは、そうか。いや……学校から病欠との連絡を受けてな」
唇を尖らせて目を見開き、冷や汗をぶわっと浮かべる紅音。
裕二が今の暮らしを許してくれた理由の一つには、『学業を疎かにしないこと』がある。これは言い逃れのできない悪行だ。しかし、裕二の笑い声は演技という訳でもないらしい。彼は特別に紅音を咎めることもせず、少しの呆れと理解を含んだ声で付け加えた。
「安心しなさい、別に怒る気は無い」
「本当? 今土下座の準備をしてたんだけど」
「されても見えんよ。そのまま床掃除でもしなさい」
ふう、と溜息を吐いた後、裕二は通話の向こうでこう続ける。
「普段の授業態度が――まあ、一部を除いて良好であること。それから、欠席は今学期で最初であることも聞いている。配信活動を頑張っていることも、勿論、知っている。お前がしっかり頑張っていることは、よほどのことがなければ疑わないよ」
実は水鳥に食事を準備してもらっているのだが、紅音はそこにバツの悪さを感じつつも、それ以外は――自分でも、努力している自覚があるので「ありがと」と答えておく。
「もう一度、訊いておこう。元気か?」
裕二が再び尋ねてくれるので、紅音は微笑んで頷いた。
「うん」
晴れやかな声でそう答えた紅音は、通話の向こうで満足そうな裕二の安堵の吐息を聞く。
そこで紅音は、自分には頼れる大人が他にも居るのだということを思い出す。そして、気付けばこの口は実父へ悩みを吐露していた。
「ところで、ちょっと――父さんに相談したいことがあるんだけど」
「ほう? どうした」
と、怪訝そうな相槌を聞きながら、紅音は要点を掻い摘んだ。
「どう説明しようかな……簡単に説明すると、ある友達が病気を患ってるの。入院とか看病が必要なものじゃなくて……その、こう、精神疾患的な」
そこまで説明した紅音は、そこで自分の見通しの甘さを痛感する。
今更思い出したが、裕二は紅音の同居人が甘党あずきの中の人であることを知っている。
そして、先日、紅音が甘党あずきの件でフォローに動いていたことも。それから今の説明と今日の欠席を聞けば、頭のキレる彼ならば即座に全てを紐づけることができるだろう。
「なるほどな」と裕二は呟くも、追及はせずに「それで?」と先を促してくれる。
少々気恥ずかしい思いをしつつも、紅音は恥じらいを踏み躙って果敢に説明を続行。
「でね、実はある事情で。その子の病気を治療するためにとても有効で信頼できる手段が提示されました! んだけど、それが海外に行くって方法でね。その――――ええと、あの、何と言いますか。ええと、ですね。あんまり……行ってほしくないといいますか」
紅音が顔面を真っ赤に染めながら素直な気持ちを吐露すると、無言が返ってくる。
裕二が通話の向こうで唖然としているのが伝わってきた。聞き方次第ではとても強い好意を向けているように解釈されかねず、実際その通りではあるのだが、それを肉親に知られるのは恥ずかしい。恥ずかしいが、この気持ちを置いておいて説明はできない。
裕二は諸々の事情を察したようだが、言及はせずに「そうか……」とだけ噛み締めた。
「それで、つまり? 治療を応援するか引き止めるかで悩んでいると」
「そう……いう、ことになりますね。はい」
改めて整理すると、その二つの選択肢から後者を選ぶ人間は中々酷いものである。
しかし、そうしたいと心の底から思ってしまったのだから仕方が無い。紅音は、水鳥も近い意志を持っていただとか、こっちの気持ちを汲み取ってくれそうだとか、そういう言い訳を全て呑み込んで、断頭台に首を差し出すように黙って父の言葉の続きを待った。
すると、裕二は十秒近い沈黙の末、慎重に紡いだ言葉を吐息に乗せて押し出す。
「そうだな――その病気について詳しくない以上、適切な判断はできんな」
がっくりと紅音は肩を落とす。しかし、実にその通りではあるので苦笑するしかない。
治療をするべきかどうかは、その病気がどの程度のものであるかを知る必要がある。どれくらい命に関わるのか、人生に関わるのか。それを知らずに判断できないという裕二の言葉は真っ当であり、そして、彼に説明できるほど紅音も充分に理解はできておらず――
――「あ」と、紅音は小さく呟いた。
「そうだ。そして、その病気に疎いのはお前も同じだ――紅音。お前は自分で決断を下せずに父さんを頼ったのだろうが……俺が父として助言を送るなら、そこだ。まずはその病気について、せめて俺に説明できるくらいには勉強をして、そしてお前自身で判断をしなさい」
配られた手札で勝負する、そんなカードゲームのように考えていた節がある。
だから紅音は、現状の自分の知識と立場を以て今回の話に結論を下そうとしていた。
だが、そうではないはずだ。紅音が美琴を頼ったのは、美琴が海外に行くほど濃密な社会人経験を有していたから。そしてそれは一朝一夕で手に入るものではないから、その件で頼ったのはきっと正しい。けれども、他にも知識や経験を身に着ける術や余地はあるはずだ。
「そっか」
ストン、と、自分の胸に閊えていたものが腑に落ちるのを感じた。肩の力が抜ける。
呆然とした紅音の声を聞いたのだろう。裕二は可笑しそうに小さな笑い声を上げる。
「納得できたか?」
納得――それに勝る正解は無いと美琴は語っていた。紅音はその言葉に半信半疑だった。
例えば、紅音が納得した答えであってもそれは社会的に正解とは限らないだろうと。だが、そもそもの考え方が違う。選択肢を自分の手元に手繰り寄せるのではなく、自分自身が、納得できない物事を納得できるようになるまで、勉強し、そして経験を重ねることも正しい。
納得とは感情と合理の妥協点であるのと同時に、自我と正解の妥協点でもあるのだろう。
そして、暗闇を進むための覚悟であり、荒野を進むための原動力でもある。紅音はようやく手に入れた松明をかざすように、進むべき道を照らし、仄かに見える道に目を凝らす。
「ありがとう、父さん」
呆然から脱せないまま、ただ、火をくれた父に感謝の意を伝える。
裕二は照れくさそうに溜息を吐くと、頭を掻くような音の後にこう語る。
「お前は昔から歳不相応にませていて、色んな知識を持って色々な変なことをして。それはもう、俺も母さんも心配をしていたものだ」
そうだろうか、と我に返った紅音は頬を染めて記憶を辿る。そして、少なくとも中学生から顔出しで配信活動を始めた人間に悩む余地は無いだろうと思い直した。ふぐ、だか、うぐ、だか、識別不可能な呻き声を上げる紅音をもう一度可笑しそうに笑った後、裕二は言う。
「だが、今は応援している。頑張りなさい」
「うん」と噛み締めるような表情で頷いて、それから通話は終了した。
紅音はスマホを握る腕をぶらりと垂らすと、天井を見詰めて深々と溜息を吐く。細めた眼差しで見慣れた天井を眺め、脳細胞に乱雑に散らばったノードを手元に手繰り寄せる。そして、ガリガリと、削るような筆跡で乱雑にノードを結んでいき、思考を整理。
――精神疾患について。
まるでゲームのように自分の行動指針がチャプターとして浮かんだ紅音は、手に持ったままのスマホでSNSを開いて乱雑に文字を打ち込む。
『配信やる』と四文字を送りながら足早に私室に戻って防音室に直行。
それから、手慣れた所作でパソコンを起動。
各種機材を念の為指さし確認した後、速やかにOBSを起動して配信を開始した。
――これが、ベストアンサーとは思えない。けれども、紅音の持つ数少ない武器だ。
そしてスマホで自らの配信画面を開いた。画面は問題なく映っており、コメントも流れ出す。視聴者数は一桁から二桁、二桁からあっという間に三桁に突入して――流石に四桁までは時間が掛かりそうだが、それは仕方が無いとして、紅音は早速カメラに向かって手を挙げる。
「うっすうっす、配信始めますよぉ。――いや、今日はね、諸般の事情で学校が休みだったもので、平日だというのに配信しています。そういう君達は? 平日の昼だというのに配信なんか観ちゃって、お仕事は? それとも大学? それともぉ……?」
と、揶揄うように笑みを向けると『やめて』『許して』『おい』と悲鳴と怒号が入り乱れる混沌の事態に。無論、お互いに冗談ということは分かっているので騒ぎも程々に。
「まあ。人それぞれ事情がありますし、そこに踏み込む野暮ったい真似はしませんとも。何せ、私はできた女ですからね。や、平日昼間からこんな一流女の配信を観られるなんて、君達は前世で星を一つ救ってるのかもしれないねぇ!」
『ドラゴンボールか』というツッコミを皮切りに他愛のない雑談をする視聴者たち。
紅音はそんな名前も顔も知らない友人達を笑って眺めた後、「さて」と満を持して告げる。
「世間話もこれくらいにしておいて、実は今日は皆に相談があって配信をつけたんですよ」
『珍しい』『相談ですか』『企業に誘われた?』『Vtuberデビュー?』等々、様々な憶測があっという間に行き交う中、紅音は努めて水鳥のことを伏せながら説明を始めた。
「相談というか、教えてほしいっていうのが実態に近いかな。勉強会をしようと思って。ほら、もう本当につい最近だけど、胡桃沢さんの一件で甘党あずきちゃんに頼ってもらったことがあるじゃない? 推しのことだしあれから色々と勉強をしてるんだけどね、精神疾患っていうのが中々難しいものでして。だからちょっと調べつつ、皆の知恵を借りられたらなと思って」
『ほう』『なるほど』『休みの日に勉強ですか』等々、反応は多岐に渡る。
わざわざ配信上で勉強会を開くことに懐疑的な眼差しを向けてくる者も居るようだが、それについては批判も懐疑も受け入れた上で、秘匿させてもらうしかない。紅音としては――ほんの少しでも、実例を聞きたいからだ。それに勝る説得力は無いと思っている。とはいえ、当然、それらをエンターテインメントのネタにするほど腐っているつもりもない。
「あ、この配信は切り抜き厳禁で。あと、この動画分の収益は寄付に出すから」
そう言いながら、紅音はコメントを見ることもせずにOBSにブラウザ画面を映す。
そして『精神疾患』と、検索バーに打ち込んで、ヒットした記事を閲覧していく。
早速、閲覧した記事を読み上げる形で、引っ張り出したメモ帳にペンを走らせる。
「で? 何々、精神疾患――精神障害って表現の方が一般的なのかな? んー、いや、そうでもない? 表記に関してはあまり気にしなくてもいいのかな」
紅音がそんな風に疑問をこぼすと、
『雑に考えると、疾患は病気そのもの。障害はその結果で生じるものって主治医が言ってた』
と、初投稿マークが付いたコメントがポツリと流れていき、それが紅音の目を引いた。
「そうなんだ」と紅音は目を丸くして呟き、一瞬、それを深掘りするか悩む。
主治医――ということは、彼あるいは彼女も精神科に掛かったことはあるのだろう。できることならばその話を聞いて、今は少しでも知識を深めたい。けれども、こちらから問い質すのは流石にプライバシーに踏み込み過ぎているかと思い留まり、紅音は配信を続行。
――ページを読んではメモをして、誤った知識は訂正が入って。その繰り返し。それらはどこからどこまでは信頼できる情報かは分からない。けれども、取捨選択をする余地すら無い紅音にとっては、玉石混交であっても、それに縋るのが最速かつ最高効率の道であった。
「……当然だけど、薬を飲んで即治療って訳にはいかないもんね。長く付き合っていくノウハウも蓄積されてる訳か。ええと、ストレス緩和……定期的な受診、睡眠、食生活、ふむふむ。つまり心身の健康が結果的に精神疾患と付き合っていくのに大事って訳だ」
精神科医が監修しているらしいページを唸りながら眺めてボールペンをガリガリと走らせる紅音。普段と比べてあまり面白くもない配信だろうに、不思議と減らない視聴者。
ふと、そんな雑多な視聴者のコメントの中に、誰かがこんなことを書き込んだ。
『俺も大学後半からずっとうつ病だったけど就活マジで苦労した』
紅音はボールペンを止めてそのコメントを一瞥した。
それから、視線を手元に落として尋ねる。
「……うつ病のお兄さんはさ、やっぱり治療とか大変だった?」
『治療が大変というよりも生きているのが苦痛だった。自己嫌悪と希死念慮がヤバいね』
「おぉ、無事に生きて配信を観てくれているようで何よりだよ。今は大丈夫なの?」
『休学してバイトも辞めて実家でダラダラしてたら治った』
面白おかしく話してくれるものだから、笑わない方が悪いかと紅音は視聴者達と共にクスクスと笑う。「やっぱり休むのは大事なんだね」と呟くと、その視聴者が返事を書き込む。
『そのせいで就活には苦労したけどね』
やっぱりそうなるよなぁ、と紅音は口を押さえて唸る。
水鳥も、離人症――ひいては感情表現の乏しさを改善しない限り、新しく就職活動をするに当たっては不利になるかもしれない。無論、履歴書に書けば理解は貰えるかもしれないが、今度はそれを理由に選考で不利を背負う可能性もある。
「月並みなことしか言えないけど、大変だったね」
と、紅音が労いの意を伝えると、
『家族に救われた。ずっと支えてくれた』
と、最後に一文だけを書き込んで、その人はそれから群衆に紛れ込んだ。
その一言を噛み締める視聴者たち。紅音も、何も言わずにしばらく、コメントの滝を眺め続けた。短く簡素で飾らない文章だったが、家族への愛情を感じる一文だった。
紅音はしばらくその話を心に刻んだ後、紙にペンを走らせながら呟く。
「上手に付き合おうっていうのはさ――治らない精神疾患に対する対症療法的なものなのかな。当然だけど、治せる病気は、ちゃんと治した方がいいんだろうね」
紅音が勉強会を経て下した結論を告げると、視聴者からは賛同の意が返る。
それは当然のことであり、先程のうつ病だった視聴者も、今では笑って書き込めたとしても、その過去は決して明るく楽しい思い出ではないはずだ。
折れた腕を動かせないのと同じように、折れた心も動かせない。
治せるものなら治したい。当たり前だが、紅音はその事実を再認識して目を瞑った。
そして、踏ん切りを付けて目を開けた瞬間、飛び込んできたのはこんなコメントだ。
『現職の精神科医です。証拠のアカウントです。@xxxxx』
紅音が口を噤んで目をパチクリとする中、コメントも一瞬、その怪しげなコメントに動きを止める。「ええと」と紅音は半笑いでそのコメントにマウスカーソルを合わせ、アカウント部分をコピーしてSNSに貼り付けてみる。すると、都内の大学病院に勤める精神科医のアカウントがヒットした。フォロワー数は数千人。病院のアカウントと相互フォローであることから、アカウントそのものが本物であることは疑う余地も無い。「へぁ」と間抜けな声を上げながら投稿内容をスクロールすると、三分前に紅音の配信URLを『精神疾患について勉強会をしている配信者です』と文言を添えて投稿しており、紅音は開いた口が塞がらない。
「ふぉ、ほ、本物だ! あの、えと、半端な知識を垂れ流してごめんなさい!」
開口一番に紅音が謝罪すると、驚いていた視聴者たちに笑いがこぼれる。
そんな中、精神科医はパソコンから視聴でもしているのか、恐ろしい速度で文字を打つ。
『説明会ではなく勉強会なのでそれでいいと思います』
「な、ならよかったです……! あの、でも正しい知識でない場合もありますもんね?」
『はい。配信上で触れた話題には誤った情報も含まれていました。そのため、もしも精神疾患で困っている方には、精神科または心療内科の受診を勧めていただけますと幸いです』
「だそうです、皆さん! 困ってる人は必ず病院に行きましょう! 約束だよ!」
悪い事をしている場面を先生に見られた時のように心臓をバクバクさせながら視聴者に言うと、面々からは了解と笑いが次々に返ってくる。他人事だと思って。
「あの、もしかしてそういうお説教をされに来たという感じで……?」
『いえ、かねてより配信を視聴していたのですが、今回、本気で勉強をする意思があるように見受けられたので、僭越ながら出しゃばった次第です』
紅音は数秒ほど呆然とコメントを眺めた後、椅子の背もたれに体重を預けた。
自分でも、ネットの情報や素人の知識、経験談をかき集めるやり方が正解だとは思っていない。しかし、紅音は美琴のように豊富な社会人経験がある訳でも、雪子や七緒のように自分に自信がある訳でもない。他に手段が無いのだ。だったら、大正解ではない邪道だとしても、水鳥との繋がりを保つために、自分の持てる武器を使うしか道は無いと思っていた。
しかし、それが今――数奇にも正解に繋がった。浅く、浅く、それでいて広い繋がりを積み重ね続けてきた果てにあるこの巡り合わせを通して、紅音は過去に意義を見出す。
スマートではなく、情けない方法かもしれないが、この道を進んでいいのだと思えた。
「精神疾患について教えてほしいです。わ、私――――その、何も知らないんです」
紅音が溜め込んだ感情をマイクに乗せると、少し間を置いて十秒後、精神科医から返信。
『前提として、一般論程度であれば今の手法で勉強を続けて構いません。閲覧するページが精神科医によって監修されていれば、絶対ではありませんが、ある程度は信頼できます』
『そうなんだ』『名前だけ貸してる場合もあるらしい』等々、コメントが相槌。
紅音は「なるほど」と呟きながら一般知識とネット検索の二つのノードをメモの上で結ぶ。
『しかし、もしもこれから専門家としてこの分野に関わるなら、専門の学術機関にて勉強をする必要があります。必要とあらば見学の機会をご提供することも可能です』
専門の学術機関――要は、大学で医療の勉強をしろということだろう。
紅音は堅苦しい響きを前に及び腰になる。確かに勉強は不得手ではないが、しかし、医者。それはあまりにも険しく高い壁であり、一朝一夕に決められることではない。だが、それが水鳥の為にできる最適解だとするのなら、或いは。それしかないのだとすれば――
唸りながら口を押さえて思索に耽る紅音。そこに、三つ目の選択肢が提示された。
『最後に、これは貴女とは無関係だと思うので参考程度に覚えておいてほしいのですが。もしも特定の人物、特定の疾患に対する向き合い方を模索されている場合は』
ギク、と紅音は無表情の裏側で擬態語を鳴らす。
そして、精神科医は途切れたコメントに数秒遅れて、こう繋げた。
『精神科に行きましょう。家族や友人の疾患に関する相談もできます』
紅音はメモ帳に置いていたペン先をピタリと止め、丸い目でコメントを見送った。
数秒、硬直していると、コメントが上に流れて消えていってしまったので、慌ててスクロールをして探し出す。そして、再びコメントを頭から尻の隅々まで読む。
しばらく、黙ってそのコメントを眺め続ける。やがて、浮いた踵を床に置き直して尋ねた。
「これは、私とはあんまり関係なくて、興味本位の質問なんですけど」
紅音は、今すぐに配信を切って駆け出したい衝動を一生懸命に堪える。
「精神科って……本人以外が質問することもできるんですか?」
もしもこの世界が配られたカードで勝負するゲームなのだとすれば。
行動とは、即ち、カードを手に入れることに他ならないのだろう。
『医療機関次第なので事前確認は必須の上、保健対象外なのでやや高くつきますが』
「でも、例えば――家族でなくても、友達とかでも相談は可能なんですね?」
『可能です。その場合は具体的な症例もメモしておくと良いかと思われます』
今、ここで。ペンを置いて配信を切ったら、きっと誰かの疾患について調べていたのだろうということは分かってしまうだろう。みづほと甘党あずきの裏の繋がりが割れるのは良くない。だから紅音は懸命に、それを「そう、なんですねぇ」と取り繕った笑顔で受け止める。
それから、精神科医はこう付け加えた。
『精神疾患は本人の努力も重要ですが、同じくらい周囲の接し方も大事です』
そうなのか、と感心の声を上げるコメント達の中で、精神科医は最後にこう残した。
『何かあればSNSのDMにご連絡ください。応援しています。頑張ってください』
その言葉を最後に精神科医は書き込みを終え、別離を惜しむような気のいい連中のコメントが流れていく。紅音は、しばらく黙って、彼の居なくなったコメントを眺める。
貧乏ゆすりを数秒。頬の内肉を軽く噛む。
どうにか逸る気持ちを抑えて、誤魔化すように言葉を並べる。
「いやぁ、まさか本物の精神科医が来るとは! こう、民間療法的な勉強をしている場所にアカデミックな人が来ると怖いね! こう、威張り散らかしていた小学六年生が中学生を目の当たりにした時みたいな。コンビニで屯している不良がヤクザを見た時みたいな」
ペラペラとそれらしい言葉を並べて一笑いを買った後、「さて」と紅音は白々しく時計を見る。
「なんて話してたらそろそろ三十分経つし、丁度いい時間だから終わっておこうか。いや、とても勉強になった! また次回も来てくれると嬉しいなぁ」
――そう言って、例の精神科医のSNSのフォローを促しつつ、名残惜しそうにする視聴者たちに惜別の別れを告げながら配信を終了する。徐に椅子を立ち、配信ソフトとスマホの両方を指さして配信が終了しているのを確かめると――もう、取り繕う理由がない。
紅音は淀みない手付きで素早く近場の精神科を調べ、出てきた病院に躊躇いなく電話を掛けると、防音室のドアノブに手を置いた。




