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21話

 納得――その言葉の行き着く先を探しながら、紅音は一人静かに帰路を辿っていた。


 美琴はタクシーを呼ぶと提案したが、それは断った。


 考え事をするのに夜道ほどのうってつけは無い。


 空は既に真っ暗だった。ガードレールを挟んだ向こう側を、光の尾を引きながら車が走る。エンジン音と排気ガスの香りが風に吹かれて鼻腔を擽る。機械的で無機質な音と香りが五感を包んでくれると、排除すべき感情が合理に塗り潰されるような錯覚を覚えて、幾らか気が楽になる。紅音は夜空を見上げて溜息を一つ吐いた。


 美琴は妥協点を模索しろと言ったが、紅音にとって合理性は極めて重いものだ。


 勿論、自分を感情的な人間だとは思っているし、感情を尊重できる人間だとも思っている。しかしながら、だからこそ、他人を感情で振り回すことには懐疑的だ。収入ゼロで『私と仕事のどっちが大事なの』という言葉を吐くのと同じように、将来的に水鳥を支えきれる自信も無い人間が、彼女の人生を左右しかねない精神疾患の治療を止めることに合理性は皆無だ。


 妥協点も何も、『治療を受けるように説得する』。正解はこの一点だけ。


 紅音は思わず立ち止まると、空を仰いで微睡に身を委ねるように目を瞑る。


 脳が疲れた。どうにか別の答えを探したくて脳細胞を総動員させるも、結局、自分の中で納得できる回答は一つだけ。治療を受けるように水鳥を説得するだけ。


 重い足を引き摺って帰路を辿り、やがてマンションに着いた紅音は、エレベーターに乗り込むと、階層ボタンを押して、そのまま閉扉ボタンも押さずに壁に寄り掛かった。ぐったりと液晶パネルを眺めていると、間もなく扉は勝手に閉まってエレベーターは動き出す。上昇する箱の重たい慣性を膝に感じながら、崩れ落ちそうになるのを耐え忍ぶ。


 やがて、幽鬼の如く廊下に出た紅音は、十三階段を上るような気分で角部屋の扉前に立つ。


 そして、ドアノブに手を置いて目を瞑った。


 紅音が止めれば、きっと水鳥もある程度はその気持ちを汲んでくれるだろう。これからも一緒にこのルームシェアを続けることができる。しかし、自分の言葉が水鳥に深々と届いてしまうからこそ、紅音は告げる言葉を慎重に選ばなければいけない。


 決意は緩い。固くなんてない。まだ未練が幾つも足を引っ張っている。


 それでも紅音はどうにか笑みを浮かべると、ドアノブを引いて明るい声を上げた。


「ただいまー!」


 蛍光灯が照らす青白い廊下から一転、暖色の照明に照らされた玄関へ。紅音が靴を脱ぎ始めると、一拍置いて「おかえりなさい」とリビングへの扉の向こうから水鳥の声が返ってくる。


 紅音は生き残った緊張を殺すように大きく息を吸い、漸進的筋弛緩法を実践。


 そして、自覚できるくらい柔らかくなった笑みを浮かべてリビングの扉を開けると、そこにはいそいそと夕食を電子レンジで温めている水鳥の姿があった。紅音が目をパチクリと瞬きさせると、「今ご飯温めてるから、座って」と水鳥に促される。


 テーブルの上の食器は二名分。時刻は十九時半。まだ水鳥も食べていないらしく、紅音は罪悪感に歪みそうになる顔にどうにか明るい顔を貼り付けて鞄を床に置き、シンクで手を洗う。


「先に食べてくれていてよかったのに!」

「そうは言っても、一緒に食べた方が美味しいでしょ?」


 ――一緒に食べた方が美味しいじゃない?


 いつだったか、そんな風に水鳥の準備を待っていた日を思い出した紅音は、軽く唇を噛むと、「ありがとね」と言いながら水鳥の支度を手伝って、二人前の食事をテーブルに並べた。


 罪悪感が、チクチクと胸を繰り返し、刺し続ける。痛みに胸を掻き毟りたくなる衝動を懸命に堪えながら「いただきます」と二人で手を合わせて豪華な食事に箸を伸ばした。夕飯は、紅音の大好物のハンバーグとミネストローネと、チーズが入ったサラダ。うっかり気を抜くと泣き出しそうな熱を目の奥に感じながら、紅音は黙々と夕飯に箸を伸ばす。


 落ち着け、落ち着け。踏ん張れ。今、しっかり伝えろ。


 咀嚼しながら次の料理を品定めしているフリで懸命に目の熱を引っ込め、それから――紅音は目を瞑り、箸を置いて、深々と溜息を吐いた。


 「紅音?」という水鳥の呼び掛けに顔を上げる。


 そして、相変わらず表情のない顔でこちらを見詰める水鳥。


 その瞳に映るのは、諦観に似た決意を瞳に宿した紅音。


 どうやら、水鳥も何かを察したらしい。箸を置いて、膝の上に両手を揃えた。


「あのね、水鳥。今日、一日……離人症の治療の件、考えてみたんだ」

「うん」


 水鳥の身体も表情もピクリとも動かない。


 瞳は、全てを受容するように紅音へと真っ直ぐ向いたまま。だから、紅音はどうにか笑う。


「誤解が無いように最初に伝えておくね! 私は、私も――水鳥と一緒に居たい。できれば離れたくないし、それがあまり良いことじゃなかったとしても、水鳥を止めたい。意外とさ、百万円くらい積んだら例の偉い精神科医? の人も日本に来てくれそうじゃない⁉」


 なんて冗談を言うと、水鳥も「ありそう」と変わらぬ調子で相槌を打った。明るく聞こえるその声の裏側にある感情は分からないが、きっと今、気持ちは同じだろう。


「だけどまあ、現実的にはそんな訳が無くて」


 紅音が笑みを弱々しく収めて呟くと、「うん」と水鳥も目を瞑って頷く。


 紅音は雑多な感情を全て詰め込んだ長い長い溜息を吐いた後、両手を顔で覆った。歪んで、今にも泣きそうな顔を見せてしまったら、きっと彼女を、心配させるだろうから。


「現実の……話をするならさ。これからの人生、何があるか分からない訳ですよ! 私は交通事故でぽっくり死んじゃうかもしれないし、エスポワールだって経営不振で潰れるかも。何か別の病気で水鳥が配信業を続けられない可能性だってあるし、AIのシンギュラリティがどうのこうのでエンタメ業界がどうのこうのなんだかんだなったりならなかったり……」


 紅音は両手を覆っていた手を膝の上に置くと、俯いたまま声を絞り出した。




「……だから、アメリカでちゃんとした治療を受けるべきだと思う」




 紅音は顔を上げることができなかった。水鳥の無表情を、無感情だとは到底思えないから。彼女の顔を見て、そこに宿る感情を見てしまったら、意志が変わってしまいそうだから。


 だから、最後まで彼女の背中を押し切るためにも、目を合わせなかった。


 しかし――水鳥は静かに、落ち着き払った声でその言葉に応えた。


「ありがとう、ちゃんと考えてくれて。ちゃんと、答えてくれて」


 思わず顔を上げる。すると、水鳥は凜と背筋を伸ばして紅音を見詰めていた。


 昨晩、『紅音が居ればそれでいい』と依存していた彼女の姿はそこには無く。だからきっと、彼女も一日、考え続けていたのだろうことを紅音はすぐに察して顔を歪めた。きっと彼女も苦しんでいたのだろうと思うと、目の奥が熱くなって、紅音は俯く。


 水鳥は丁寧に、紅音の気持ちを汲み取って、自分の気持ちを言葉にした。


「私もそう思う。私も――私を理解してくれる君に依存するだけじゃなくて、ちゃんと、自分の病気と向き合おうと思う。一人でも、生きていけるように」


 無表情から告げられる平坦な声に宿る決意と覚悟を、誰よりも色濃く汲み取った紅音は、彼女への心配こそが最大級の侮辱であると理解し、腑抜けた己を律するように瞑目する。


 水鳥は自らの足で前に進むことを決意した。


 それなのに、依存は駄目だと釘を刺した自分の方が取り残されていた。


 紅音はそんな自分に嫌気が差しながらも、しかし、決意を固めた水鳥を不安にさせてしまうような表情ばかり浮かべているべきではないと、どうにか淡い笑みを取り繕う。


「うん」


 紅音がどうにか首肯を返すと、水鳥は安心したように話を先に進めた。


「――明日の午後には、椛島さんに養子縁組の件も含めた返事をするね」


 紅音は水鳥の言葉に「うん」と、もう一度頷いた。


 それで、話は全て片付いた。


 椛島美琴の提案した海外の医療機関を頼るという方法を水鳥は受け入れ、紅音もそれに賛同して、話は終わり。水鳥は遠からず、最短一年程度はアメリカに行くことになる。


 たった一年。されど、その一年を想うと、今から臓腑と頬が引き攣る。


「いつ頃、治療を始めるの?」


 紅音が痛みから逃げるように、何気なく話を振ると、水鳥は箸を手に持って答えた。


「流石に高校を卒業してからかな。でも、椛島さんの仕事の件もあるし、三年生の間は準備期間にしたいから……今年度が終わる頃には、この家を出るかもしれない」


 紅音も置いた箸を掴んでハンバーグを割りながら「今年度」と呟いた。


 あと九カ月程度。まだ出会ってから二か月程度であることを考えると、これから、まだ、一緒に過ごせる時間は山ほど残っている。それなら、確定した別離の未来を憂うよりも先に、確かに残されている二人の時間を大事にする方が先決だ。


 紅音は貼り付けた笑みを手で確かめてから、笑顔でこう提案した。


「じゃあ――それまで、毎月、盛大な送別会をしようね」

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