2話
――甘党あずきの話をしよう。そして、その為にはまず、彼女の所属事務所から説明する必要がある。Vtuber事務所『エスポワール』はゲーミングデバイスの開発に注力し、プロゲーミングチームも保有している株式会社『ステラ・テクノロジー』が運営元になっている。
所属するタレントは合計で五十二名。男性が十四人で女性が三十六人。性別不詳が二名。
業界では上の中に位置する有名事務所であり、新しいタレントがデビューするとなれば、それなりに話題には上がり、動画配信プラットフォームのチャンネル登録者数は一か月もすれば紅音を超えるくらいには、事務所単位でのファン――俗に、箱推しというものが付いている。
さて、そんな事務所のタレント一覧を開いたとしよう。
そして並び順をチャンネル登録者順に変更する。
上から二つ目に、チャンネル登録者八十万人超えの人気タレント『甘党あずき』の名がある。
配信の同時接続数は平均して八千。多い時は一万を超える。デビューから間もない新星だ。
容姿――即ちイラストは長い茶髪に童顔に印象的な和装を着せたもの。設定上はお茶屋の看板娘だが、お茶の知識に疎いことはご愛敬。配信者としての彼女は、喜怒哀楽豊かな表情から繰り出される、少しだけ冷めたトークの切れ味が売りだ。デビューからまだ間もないが、彗星の如く登場して、あっという間に業界で名の知れた存在になった。
そんな甘党あずきの中の人が目の前に居る事実に、紅音は動揺を隠せなかった。何故なら、他でもない紅音こそ、そんな甘党あずきのトークに惹かれてファンになった人間なのだから。
「あ、えと――ほ、穂積紅音です。アナグラムで『みづほ』って名前で配信やってます」
先程の水鳥からの自己紹介に応えるように、紅音は困惑しながらも手短に自己紹介を返す。
水鳥に比べると随分と質素な挨拶ではあったが、彼女は決してこちらを侮ることなく「よろしくお願いいたします」と再び頭を下げてくれた。ホッと胸を撫で下ろしていると、どうやら水鳥の荷物はそれほど多くなかったようで、あっという間に搬送が終了する。
少し慌ただしい空気なので、自己紹介は後で改めてするとしよう。
紅音が引っ越し業者の撤収を待っていると、殺風景なリビングの端で管理人と水鳥の保護者のやり取りが聞こえた。
「それでは、雨宮さん。何かと大変かとは思いますが、何卒よろしくお願い申し上げます。それから、もしもご不明点等ございましたら、お気軽にお申し付けください」
そう言って丁寧に書類を手渡しするのは水鳥と一緒に来た保護者の女性。保護者――だとは思うのだが、不躾に頭から爪先まで舐め回すように見るも、水鳥の面影はない。まあ、そういうこともあるだろうと思いながら、紅音はその保護者と小声でやり取りをする管理人を見た。
「ええ、初めてのことなので、何かとご迷惑をお掛けすることがあるかもしれません。極力、自分でどうにか解決しようとは思いますが、その際にはぜひ、よろしくお願いいたします」
そう返すのは、齢二十八にしてプロゲーミングチームのオーナー、雨宮雪子だ。
金髪をウルフカットにした八頭身のスレンダーな女性で、臍には一つのピアス。ストリート系の服を好むということもあって風貌だけ一見すると威圧感を与えがちだが、面持ちはにこやかで愛嬌があり、実態はただの酒好き。かつ、善人である。
そんな彼女はゲーミングチームのオーナーを務めつつも、同時に、この部屋、ひいてはこのマンション『アマミヤ荘』の管理人兼大家でもある。
さて、そんなやり取りを盗み聞きしている間に、引っ越し業者は撤収していく。
それを見た水鳥の保護者は、引き際を見付けて雨宮に会釈し、その場を離れる。そして紅音の少し隣の方に居る水鳥を見ると、穏やかな笑顔で手を振った。
「それでは水鳥さん、私はこれで失礼いたします。後のことは雨宮さんに」
――何とも余所余所しい。家族ではないのだろうか?
紅音がひっそりと目を丸くする傍らで、水鳥は寂しさも感謝も感じさせない真顔のまま、他人行儀に深いお辞儀だけを返した。
「はい。今日はありがとうございました。それと――長い間、とてもお世話になりました」
どうやら、本当に血縁関係という訳でもなさそうだ。
「活動、頑張ってね。応援していますから」
「はい。見守っていただけたら嬉しいです。――見送らせてください」
「ここで大丈夫ですよ。それでは、ルームメイト様も、彼女をよろしくお願いいたします」
そう言って保護者は紅音の方にお辞儀をするので、急な挨拶を受けた紅音は慌てながら「ああ、もう、勿論です!」と、どう答えていいものか分からないまま相槌を打った。
さて。不要だと断られはしたものの、三人でその保護者の女性を見送る。
玄関扉が静かに閉まって、玄関に初対面二人と共通の知人一人だけが残された。
「さて――それじゃあ、大家らしく、軽い説明だけして私も帰ろうかな」
気まずい沈黙が訪れる前に雪子がそう言ってくれたので、少しだけ気が楽だった。
部屋の間取りは至ってシンプルな2LDKだ。玄関扉を開けると短い廊下があり、正面扉の奥にお手洗いと浴室。戻って廊下の左側にはリビングダイニングとキッチンが広々と展開され、別の扉を開けると再び廊下、そして、そこには防音室を内包した十二畳の洋室への扉が二つ。
リビングにはテーブルセットすら無く、紅音が持ってきたラグだけ敷かれている。
三人でそこに座り込むと、間もなく雪子は家賃の支払いや騒音問題、共用スペース、ゴミの捨て方などを説明する。とはいえ、事前に書類付きで説明されていたことなので、再確認の意味合いが強い。説明を終えて質問が無い事を確かめると、雪子は長居せず玄関へ。
「そんじゃ、これからよろしくねぇ。――色々と」
言葉の尻目に雪子は紅音をジッと見詰め、何かを言いたげだった。
しかし何を言いたいのかはさっぱり分からず、紅音はサムズアップで「よろしくお願いします!」と元気いっぱいに返しておく。水鳥は相変わらず真顔で頭を下げるだけだった。
さて、雪子が去って、ついにこの部屋には同居人だけが残ることになった。
紅音と水鳥はリビングに戻ると、改めて向かい合って、数秒、言葉を探した。紅音はどうしたものかと悩ましげに、水鳥は何を考えているのか分からないポーカーフェイスで。
取り敢えず、紅音は場の空気を明るくするように元気いっぱいに挨拶した。
「ええと、それじゃあ改めまして、これからよろしくお願いします!」
すると水鳥は僅かに顔を上げ、頷くように会釈を返した。
「ああ、はい。よろしくお願いします――改めて、Vtuberをしている若菜水鳥です」
やはりテンションが釣り合わない。水鳥はまるで表情を変える気配すら無かった。
配信ではあれだけ喜怒哀楽豊かな表情を見せてくれているというのに、これが裏の顔ということだろうか。紅音は少しだけ寂しい気持ちになりつつも、めげずに笑って接する。
「えっと、細かい部分は後回しでいいと思うから、取り敢えず――早めに確認しておきたいところだけ話し合っておきましょうか。あ、私、一応高二です!」
念の為、年齢を伝えておく。すると水鳥は「む」と呟いて自分の胸に手を置いた。
「そうでしたか、奇遇ですね。私も高校二年生です」
「そうなんですか⁉ あ、じゃあ同い年じゃないですか。これからルームメイトになるんですし、アレでしたら、タメ口とかにしておきますか? 少し早いですかね?」
断られても傷付かないよう冗談っぽく提案してみると、意外にも水鳥は手を口元に添えて瞳を伏せ、考える。相変わらず口角も眉も動かず無表情だが、思案していることは分かった。
「――そうだね、タメ口でいいと思う」
早速水鳥がそう歩み寄ってくれたのが嬉しくて、紅音はパッと顔を明るくさせて笑う。
「そう来なくちゃ! 名前も、苗字じゃなくて名前呼びの方がいいかな?」
「うん、紅音と水鳥で呼び合おう。君が嫌でなければ、だけども」
「嫌なんてそんなまさか! 望むところですよ。よろしくね、水鳥」
紅音がそう言って手を差し出すと、水鳥は躊躇いなく「こちらこそ」と握り返してくれた。
そうして握手を交わすこと数秒、水鳥はその無感情な瞳で、ジッと紅音を見詰めた。顔に何か付いているかと紅音が空いた手で自分の顔を確かめると、水鳥はこう言う。
「高校二年生で配信者をやってるなんて、君は凄いね」
――直球で賞賛された紅音は、どう反応していいか分からず言葉に詰まった。
まったくもって表情が変わらないので、どういう意図なのかも分からない。お世辞か、それともVtuberをやって、紅音以上に伸びている彼女なりの冗句か、本心か。さておき、紅音はほんのりと頬を染めて変な汗を流しながら、思うまま素直に答えることにした。
「年齢のことを言うなら、君だって同い年でVtuberをやってるんでしょ? それも大手事務所のナンバーツー! 広辞苑でVtuberと引いたら甘党あずきの名前が出るくらいには有名人じゃない! 君の方が凄いと思うよ!」
紅音が手放しに賞賛すると、水鳥は静かに視線を横に逸らした。
「……私は事情があるから。それに、色々な人の力を借りてる。君とは違うよ」
「私だってお父さんに機材とか買ってもらったし、人の力は借りてるよ」
謙遜気味な水鳥の言葉に、紅音は自分の成果には胸を張りつつも客観的な事実を返す。
水鳥は「そう」と、どんなことを考えているかも分からない呟きで相槌を打った。
――先程から思っていたが、やはりと言うべきか、若菜水鳥はとても素っ気ない。
紅音は笑みを浮かべつつも、その腹の内で彼女の淡白な対応に頭を悩ませていた。
紅音としては、若菜水鳥および甘党あずきのファンであるという点を差し置いても、同居人として彼女と仲良くしたい意思はある。水鳥も名前呼びに意欲的であったりと、ある程度はこちらと距離を縮めることに肯定的な節はある。だが、感情の機微が窺えない彼女の無表情を見る限り、踏み込んでほしくない一線があるような気がして、悩ましい。
それでも、やっぱり仲良くなれたら嬉しい。せめて、笑顔を見てみたい。
その一心で、紅音はやや照れくさく思いながらも、正直に告白することにした。
「それに――実は私、前々から甘党あずきのファンなの」
紅音は仄かに紅潮した頬を隠さず、ハッキリと以前からの好意を伝えた。
『あ、そうなんだ! なんか照れくさいね。でも、嬉しいよ。ありがとう!』
『なに、じゃあ憧れの人と一緒に住めるんだね? おめでとう、ふふ』
――なんて返答を期待してしまう。
しかし、そんな淡い希望を打ち砕くような能面が、淡白にこう言った。
「そうなんだ、驚いた。ありがとう」
それでも水鳥はやっぱり表情を変えず、棒立ちに真顔でそう呟くだけ。
塩対応――そんな三文字が真っ暗な紅音の脳裏に過って、紅音はぎこちなく笑うのに精一杯だった。甘党あずきの中の人は、思っていたよりも塩辛いかもしれない。
翌日の朝、紅音が欠伸をしながらリビングに顔を出すと、朝日の差し込む殺風景なリビングの床で、段ボールをテーブル代わりにして水鳥が朝食を摂っていた。
香ばしく焼き上げたトーストにバターとジャムを塗って、完成品で売られているサラダに割り箸を置いていた。その華奢な身体には学生服を、焦げ茶のロングヘアには櫛を通し終えている。対照的に紅音はぼさぼさな寝癖のまま、上は鎖骨が覗くような大きめのシャツ、下はショートパンツのまま。欠伸をしながら、服の下に手を突っ込んでポリポリと鎖骨を掻いている。水鳥は数秒ほど、黙って無表情にそんな紅音を見詰め続けた。
ハッと我に返った紅音は、寝起きの脳を覚醒させて背筋を伸ばし、両手を上げた。
「お、おはよう! 早いね!」
「おはよう、紅音は遅いね。もう七時だけど、そっちは学校大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫、寝癖は学校で直すから。私も朝飯食ーべよ」
紅音は再び欠伸をしながら電気ケトルに水道からの水を注ぎ込み、スイッチオン。乱雑に引っ張り出したカップ麺のフィルムを無造作に剥がす。そして昨夜の内にスーパーで買ったサラダ油を一匙、それから先入れの加薬を口笛混じりに入れてキッチンに腰を預けた。
「紅音の朝ごはん、もしかしてそれだけ?」
水鳥がトーストを手にしたまま無機質に質問をしてくる。
昨日の塩対応には少し落ち込んだが、冷静に考えれば彼女が自分と仲良くする義理はない。それに、落ち着いてから思ったが、相変わらず感情こそ読めないものの、少なくとも嫌われているということはなさそうなので、一先ずはそれでヨシということにする。
紅音はヘラヘラと笑って、サラダ油を入れたスプーンを持ち上げ、こう返した。
「当然! 一見すると少なく見えるかもしれないけど、これはただのカップ麺じゃないよ! 他のより四割増しで高かったんだから。そこに一匙のサラダ油を入れるの。するとね、なんということでしょうか、カップ麺が本格的なラーメン屋の味になるんですよ」
「凄いね。知らなかった」
そう言ってサク、とトーストに齧り付く水鳥。
素っ気なさすぎる。紅音は彼女を苦々しい顔で見詰めるしかない。しかし、返事は素っ気なくとも彼女の瞳はこちらを向いたままなので、紅音は取り繕うように笑顔を浮かべた。すると、そんな紅音の顔をしばらく見詰めた水鳥が、目を瞑って呟く。
「少し失礼な質問をしてもいいかな」
「スリーサイズはゼロ・百・二百だよ」
「正三角形が喋ってる」
「最初の数字は頭のサイズじゃないけどね。質問は?」
「紅音ってお金が無い訳じゃないよね?」
ボケと本題に一切の継ぎ目が無いシームレスなやり取りは聞く者が聞けば混乱を生じたかもしれないが、お互いにテンポのいいトークを売りにしている配信者であるため、今しがたの下らなさすぎるボケは忘れ去られ、滑らかに真剣な視線を交えた。
紅音は唐突な質問に少し呆けた顔を見せた後、首を傾げて聞き返す。
「質問に質問を失礼するけど、どうしてそんなことを?」
「お金が無いからカップ麺ばかり買い込んでいるのかと」
なるほど、確かに失礼な質問だが、原因は確実に紅音にある。紅音は昨夜の内に大量に買い込んでキッチンの傍に積み上げたカップ麺の山を一瞥し、薄笑いを浮かべて腕を組む。
毎日四時間前後、同時接続数三千人前後の配信を数年間続けてきた実家暮らしの学生だ。投げ銭機能を切って広告収益だけに限定しているとはいえ、相当に余裕はある。
「違うよ。少し生々しいことを言うけど、私はお金をたくさん持ってるからね」
「……それならもう少し身体に良いものを――いや、これは過干渉か」
真顔でそう呟いた水鳥は、それから「納得した、ありがとう」と素っ気なく言って食事に戻る。要が済んだら話が終わりとは随分と寂しいものである。カチ、と湯気を立てていたケトルのスイッチが切れ、沸騰完了を示す。紅音はそれをカップ麺に慣れた手で注いだ。
しばらくすると、意外にも水鳥が向こうから話題を振ってくる。
「食事にお金を使わないってことは、貯金をしてるの?」
まさか水鳥の方から雑談を仕掛けてくるとは思ってもみなかった紅音は、しばし呆けた目で彼女を眺めてしまう。しかし、すぐに我に返ると「そんなまさか」と軽薄に肩を竦めた。
「そこまで食事に気を遣ってないだけだよ」
飄々と答えた紅音に、水鳥は静かに無感情な視線を注いだ。
「……紅音って、お金を稼ぐために配信してるの? それとも配信が好きでお金は二の次?」
――思っていたよりも、水鳥は自分に気を許してくれているのだろうか?
重なる質問に浮かれそうになりながら、紅音は手で輪を作って下卑た笑みを浮かべた。
「お金だね! 金・金・金! 私は趣味でお金を稼ぐために配信をしてるの。知ってる? 人間が人生で使うお金は約二億円と言われている! つまり、若い内に二億円を稼ぎきったら、残りは全く働かずにウィニングランの余生を過ごせる訳なんですよ!」
これは全く噓偽りのない紅音の本心である。
紅音は配信が好きだ。ゲームも好きだ。そして、それで食べていけるなら、それは何よりも素晴らしいことだと思う。だが、最優先は金だ。そして現状、それを最も効率的に稼げる紅音の手札が配信活動であるが故、配信をしているというのが実態である。
「なるほど」と水鳥は顎を摘まんで呟く。そんな水鳥の横顔を、紅音は黙って眺めた。
昨日に引き続いて僅かも笑みを見せてはくれないが、それでも、こうして質問をしてくれるということは、ある程度は自分に興味があるのだろう。やや希望的観測を含むものの、そう判断した紅音は、少しだけ勇気を出して、一歩、踏み込んでみた。
「水鳥は、何で配信をやってるの?」
特段、おかしな質問をしたつもりはない。
けれども水鳥は口を横に結んだまま、静かで感情の乗らない瞳を紅音に向けた。
相変わらず、表情は変わらない。けれども、何故だか強い葛藤の念を感じさせた。
「――ごめん。その話はまたの機会にさせてほしい」




