19話
さて、そうして迎えた日曜日の正午。二人は緊張で縮こまった胃に何とか美味しい昼ご飯を詰め込んで、それから迎えに来たスーツ姿の雪子の車でエスポワールの事務所まで。
雪子の真っ黒な普通自動車は、彼女の普段の酒浸りの生活と大らかな性格を考慮すると、思っていたよりも綺麗に掃除されていると言えた。
いつ、誰を乗せてもいいようにと配慮されているのかもしれない。
さて、四十分ほどで到着したエスポワールの事務所は渋谷の高層ビルにあった。
地下駐車場に降りて三十秒ほど歩いて地上に戻り、高層ビルの自動ドアを抜ける。
そして、その二階から七階までを埋め尽くす『ステラ・テクノロジー』のネームプレートに紅音が戦慄していると、どうやら何度か来ているらしい水鳥は、新鮮さよりも目先の緊張の方が勝るらしく、やや俯いて雪子の踵だけを見詰め続けていた。
――くい、と、紅音は水鳥のシャツの裾を摘まむ。水鳥の視線がこちらに。
紅音は次いで水鳥の手をきゅっと握り締め、向けられた視線から緊張の色が抜けたのを感じた。代わりに、水鳥は緊張の種を押し付けるように強く紅音の手を握り返す。
「緊張してる?」
「緊張してない。でも吐きそうだし脚が震えてる。胃がぎゅっとなってる」
「紛うことなき緊張だね、それは。ほら、胃よりも手をぎゅっとして」
紅音が薄く笑って手をニギニギすると、水鳥は繋ぐ手に更に力を入れる。
そうしてエレベーターに乗り込む最中、
「仲良しだねぇ。羨ましい」
そんな光景を微笑ましそうに見ていた雪子が呟く。茶化すような意味合いは無さそうだったので、紅音は素直に照れた。しかし、それはそれとして思わず手を外そうとしたのだが、水鳥が容赦なく握り返してきたので、頬を染めつつも「いいでしょう」と胸を張っておく。
「雨宮さん」
水鳥が声を掛けると、「うん?」と階層表示を眺めていた雪子が振り返る。
「色々、本当に……ありがとうございます」
水鳥がそう言って頭を下げると、微笑んだ雪子は黙ってその頭を撫でた。
そうしてエレベーターで四階まで向かい、グレースケールのタイルカーペットを行軍して閉ざされたガラス扉の前に立つと、雪子はインターフォンを鳴らす。
すると、向こう側の曲がり角から足早に七緒が顔を出した。開錠音。七緒が扉を開ける。
「時間通りね。お二人とも、お疲れ様です」
雪子にはチラリと一瞥を寄越すだけで、七緒は紅音と水鳥に丁寧に頭を下げる。
二人が口々に挨拶を返してお辞儀をする中、雪子は事務所内の曲がり角を一瞥する。
「椛島さんは?」
雪子の尋ねに、七緒は声を潜めて「ついさっきご到着した」とだけ。
紅音と水鳥の背中に緊張が差し込まれ、ピンと背筋が伸びる。ごくりと誰かの唾を呑む音。
椛島――それが叔母の姓だろうか。嫁入りして姓が変わったのか、それとも水鳥の母方の旧姓なのか。今は然程大事なことではない、と、思考を切り替えようとしたが、彼女が家庭を持っているかは大事なことだろうと思い直す。しかし、今考えても仕方は無い。
「行こうか」
雪子の号令に従って、七緒の案内で三人は事務所の中に踏み入る。
入り口から少し進んだ曲がり角を左折すると、奥には大量のデスク群。そして、その手前の通路の左右には会議室が二つずつ、合計四つ配置されており、七緒はその内の一つを指した。
そして、七緒はノックして「戻りました」と扉を開ける。
雪子が襟を正して後に続く。紅音は、水鳥が緊張しないように先に入ろうかとも思ったが、件の叔母が誤解しないように、先ずは水鳥からだろうと握っていた手を離す。
そして、背中を撫でるようにして優しく押して、水鳥に勇気を分けた。
「失礼します――若菜水鳥です」
言いながら入った水鳥に続いて、紅音は少しでも相対的に水鳥の印象が良くなるように、無言で人相悪く入室する。そして、水鳥の肩越しに会議室の中を見回した。
グレーの絨毯が一面に敷かれた長方形の空間だ。中央には二種類の長机が二個ずつ長方形に組み合わされており、凡そ十四人が利用できる規模になっている。下座にはホワイトボード。上座には各種雑多な機材。窓には黒の遮光カーテンが伸びており、頭上にはシーリングライトの全般照明。流石は渋谷のビルだと舌を巻きながら、紅音は下座に立つ人物を見る。
その人は、一目で水鳥の血縁者だと確信できるくらい、水鳥と容姿が酷似していた。
年齢は三十代前半くらいだろうか。紅音が想像していたよりもずっと若い。
日本人にしては少し珍しい焦げ茶の髪を一つ結びにした女性で、雪子と殆ど変わらない長身。アメリカで働いていたらしいが、それに由来するものか、眼光は鋭く立ち振る舞いに隙が無い。上から下までをパンツスタイルのスーツで固めており、今は真っ直ぐに背筋を伸ばして水鳥達を迎え入れる姿勢を見せていた。――頭の中で、どこか分かりやすく嫌な人を想像してしまっていた紅音が唖然としていると、彼女は丁寧に腰を折って挨拶をした。
「初めまして、椛島美琴と申します。本日は貴重なお時間で話し合いの場を設けていただき、皆様、誠にありがとうございます」
この場で唯一のアウェイであろう美琴は、それを全く意に介さず威風堂々と挨拶した。
凛とした声だった。外国の企業を戦い抜いてきた女傑の風情を感じる。
さて、既に彼女を迎え入れていた七緒と、既に話し合いをしていたらしい雪子は軽い会釈程度に留めている。水鳥は入室時に挨拶をした。必然、この場で唯一名乗っていないのは紅音だけなので、紅音は狼狽えながらしどろもどろに「友人の、穂積です」と軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
と、子供相手にも丁寧に美琴が微笑むので、内心では『騙されないぞぉ』と思いつつ、紅音は笑顔で応対をする。――さて、お互いに迂闊なことは言うまいと思っているのだろう。紅音も水鳥も七緒も美琴も神妙な顔で押し黙るので、仲介役が笑顔で手を叩く。
「さてさて、そんな怖い顔をしないで! 今回はあくまでもラフな顔合わせの場なんだから。取り敢えず最低限の自己紹介も済んだことだし、皆さん座りましょう。ほら、椛島さんも下座とか意識しないで、話しやすい場所に座ってください。私の隣とか」
雪子が上座にどっしりと座り込むので、「ええ、ですね」と美琴はそれに続く。
窓際奥に美琴と雪子が二人並んで座ったので、バランスを考えて紅音、水鳥の順で廊下側に奥から席に着く。そして、七緒は水鳥を守るようにその隣に座ってメモ帳を広げた。「よろしくお願いします」と見定めるような意を隠しきれていない挨拶に、美琴は頬を綻ばす。
コホン、と咳払いをした雪子は重たい空気を切り裂きながら本題に入る。
「さて。ええと――まあ、申し上げるまでも無いでしょうが、今回、若菜水鳥さんのご親族の方が後見人になると申し出てくださり、それについて本人の判断の一助とするべく、お互いのことを知る機会を設けましょうという会を開きました。しかしながら、こちらもご存じの通り、若菜さんは事情が事情ですので、空気が重たくなることについては各々ご理解ご協力を」
そう言って雪子が視線を巡らせると、三名の首肯に続いて、
「当然です。姉のしたことは許されることではありません」
痛ましそうに瞳を伏せ、自責の念に駆られた顔で椛島美琴がそう言った。
紅音は戸惑いと警戒に顔を歪め、七緒は薄っすらと目を細めて一挙手一投足を見張る。
傍目には心から水鳥を心配しているようにも思えるが、真相は分からない。
正直なところ、未だに紅音は美琴を信用しきれていない部分がある。
水鳥が配信者として高額を稼げるようになってから、急に現れた叔母。それも、虐待した母親の妹であり、引き取りを拒んだ夫婦の娘だ。
どこを汲み取れば彼女を信頼できるのかさえ分からない。
七緒も同じようなことを思っているのだろう。視線に油断は無い。
だが、美琴は二人の敵愾心のようなものに気付いて視線を向けてくる。それでいて、微かも気分を害した素振りも見せず、寧ろ嬉しそうな、寂しそうな微笑を見せた。紅音が怯んでいると、彼女は雪子に視線を向けて身振り手振りを交えながら話を始める。
「そうですね――先ずは、私がどういう立場でここに居るかをご説明しましょう。雨宮さんも、それで構いませんね?」
美琴の確認に、雪子は「ええ」と報告書作成用のメモ帳とペンを取り出し頷く。
警戒を察された紅音と七緒は少々バツが悪そうにしながらも、しかし水鳥の安全に関わることであるため、彼女の過去を知る人間として一切妥協をせずに傾聴の姿勢を見せた。
「結論から申し上げますと、私は水鳥さんの後見人になるべく立候補に参りました」
途端、七緒は警戒を濃くして居住まいを正し、唇を結ぶ。
水鳥を挟んだ右手側に座る紅音も、彼女の了見を見逃すまいと静かに見詰め返す。
その中央で、水鳥は確かにその旨を聞き遂げ、その是非を判断する材料を問う。
「ありがとうございます。ですが――その、どうして、ですか?」
「質問に質問を失礼します。どうして、というのは『どうして今更になって』でしょうか?」
水鳥の推し測るような問い掛けに、美琴は僅かも気分を害した素振りを見せない。
水鳥は気後れしたように口を噤んで数秒ほど黙った後、「はい」と頷いて続けた。
「それと、どういう意図があって――なのか。椛島さんにどんなメリットがあるのか」
すると美琴は「ふむ」と顎を摘まんで視線を虚空に投げ、「言葉を選びます」と黙った。
嘘を吐くための準備ではないだろうなと穿った見方をしてしまうのもやむを得ないだろうか。生憎と、もしも再び水鳥の『親』が水鳥を傷付けるなら、それは承知できない。
そんな二人の身構えを歯牙にもかけず、美琴は手振りを添えて語り出した。
「現状、私は皆さんに全く信用をされていないと思います」
当然、美琴もそれは自覚していたらしい。
「しかし、私の両親や姉のした振る舞いを振り返れば、それは当然のことであり、私は寧ろその状況に安心をしておりますのでご安心ください」
やけに殊勝な美琴に紅音たちが肩透かしを食らっていると、美琴は神妙に話を続けた。
「それを前提として――警戒を解くために、敢えて愚直に明かします」
そう言うと、怪訝に思って眉を顰める紅音と七緒、そして首を傾げる水鳥に彼女は言う。
「メリットはありません。私がそうするべきだと思ったから行動しています」
俄かには信じ難い。紅音は露骨に眉を顰めてその言葉の裏を探る。
だが、七緒は探るよりも揺さぶる方が効果的だと思ったのか、疑念を口にする。
「『そうするべきだと思った』ですか?」
「ええ、それを語るにおいてはもう少し言葉を尽くす必要があるのですが――」
美琴はそこで一呼吸を置くと、その場に居た全員を見回す。
先ずは対面に座っている水鳥。次に、その右隣の紅音。そして、左隣の七緒。
自分の横に座っている雪子を順番に見た後、美琴はテーブルに手を組んで言い切った。
「――今日、ここで話して、私が後見人になる必要性は皆無であると判断しました」
いよいよ掴み所が無くなってきた美琴の言葉に、七緒は眉根を顰めて押し黙る。
紅音も意味が分からずに唇を噛んだ。――椛島美琴は水鳥の叔母である。そして、今更になって水鳥の後見人となる旨を進言してきた。紅音と七緒はそこに何か裏の目的があるのだと思っていた。それこそ、金を稼げるようになったから、それが目当てではないかと。
しかし、今、自らの口で後見人となる道を否定した。まるで意味が分からない。
当然、水鳥も美琴の言葉をどこまで本気にしていいのか分からず、強張った声で問う。
「あの、どういう意味でしょうか?」
「言葉通りの意味です。後見人とは、財産管理や身上監護の観点から未成年に必要な補佐役の意です。しかしながら、今日――ここでこうして話し合いの場を設けていただき、充分に理解できました。自由を尊重しながらも職務を全うする後見人。急に現れた得体のしれない親族を警戒する事務所のマネージャー。友人。そして三者を信頼する本人」
順繰りに面々を見回した後、美琴は背筋をピンと伸ばし、鋭い眼光で断言した。
「私が介在する意味は、そこにありません」
「だったら、どうして――」と七緒が呆然と呟くと、美琴はその言葉を汲み取る。彼女は重々しく質問の意図を噛み砕くと、「順を追って説明します」と椅子に座り直す。
「まず、ご存じの通り、私は水鳥さんの叔母にあたります。そして、水鳥さんの身に何が起きたかも概ね把握しております」
そこまで語った美琴は、嫌なことを思い出したように眉根を寄せ、深呼吸を挟んだ。
「私が先日、アメリカから帰国して間もなく、実家である書類を発見しました。それは、私の両親の下で、姪である貴女を引き取れないかという要請でした。私が両親を問い質すと、彼らは素直に、姉が貴女を生み――許されない行為をした上で、既に他界していることと。そして、彼らの孫娘にあたる貴女の引き取りを拒んだことを白状しました」
美琴の表情は神妙だったが、卓上に置かれた手が堪えきれない感情に拳を握り、テーブルが震える。美琴はどうにか怒りを殺そうと唇を噛むと、一度深呼吸をした後、吐き捨てる。
「絶縁した娘の子供など知るかと」
吐き出すと、堪えきれなくなった怒りがその語気に荒々しさとして現れた。
「愚かな姉です。十七で駆け落ちをして好き放題に生きて、その癖に子供を産んだ責任を取らなかった! それに加えて私の両親も、そんな姉を産んでおきながら、自分達の子育てが誤っていた責任を放棄して、守られるべき子供を世間に放り捨てた!」
感情を殺しきれない美琴の怒声がビリビリと会議室に響き渡り、怯えたように水鳥がテーブルの下で紅音の手を握り締める。
しかし、紅音はその手を握り返しつつも、同時に、安堵を覚えていた。
――この人は、信頼できる人だ、と。
まだ完全に気を許せたわけではないが――彼女の言葉に演技の色を感じなかった。
そして、それは七緒も同様なのだろう。幾らか警戒を解いて、警戒よりも共感と理解を多分に含んだ静かな眼差しを向けながら、その言葉に聞き入っている。
「――この世に生まれた子供の為に親が果たすべき責任を、よりにもよって最も背負うべきだった四人が手放して、血縁者も居ない場所で暮らすことになった子供が居た! 確かに、見ず知らずです。馬鹿な姉の娘ですよ。でも、姪です。放っておける道理が無い!」
そう吐き出した美琴は、冷静さを取り戻すために一度怒りに満ちた空気を吐き出す。
眩暈を堪えるように大きく酸素を吸って、「失礼」と軽い咳払いをして語気を戻す。
だが、そんな彼女と同じことを思って動き出した人間が、ここに居た。
その人物は――児童養護施設から水鳥を引っ張り出し、仕事を渡して、そして生活を見守り続けた七緒は、真っ直ぐに、真剣な表情で美琴を見詰めていた。紅音がチラリと七緒を盗み見ると、同じように、同じ志を持って動いた人間であると理解していた美琴もまた、七緒に賛辞と感謝を送るように、微笑みを返す。
「――放っておける訳が無いんですよ。メリットが無くても」
それはもう、合理性の話では無いのだろう。
腹を痛めて産んだ実の母親が愛情を注がなかった一方で、全く縁が無かったとしても、人情の一言で自分にとっての負担を背負おうとする人間が居る。ここに、少なくとも二人。
「全く無関係かもしれないけど、私は貴女の助けになれたらと思いました」
自分を情けなく思うような弱々しい笑みで。美琴が水鳥を見詰める。
視線を受けた水鳥は警戒を緩めるように、テーブルの下で紅音の手を握る手から力を抜く。紅音も、彼女に抱いていた警戒を、胸の内の謝罪と共に解いて水鳥の手を握る。
「だけど――私の支えは必要無い。今日、この場で私はそれを確信しました」
全ての辻褄が合った。しばらく、話を整理する為の沈黙が会議室に落ちる。
高校卒業と同時に椛島美琴はアメリカの会社で働き始めた。その頃には水鳥の母親は椛島家から事実上の絶縁状態だったのだろう。そうして駆け落ちした男性との間に子を設け、水鳥が産まれた。それから歳月が過ぎて水鳥の両親が死亡。水鳥の引き取りを祖父母は拒んだ。
そして今に至って日本に帰国した美琴は全てを知り、その時に拒んだ子供の為に動き出した。
だが、実態を見てみると、自分が想定したよりもずっと安心できる環境だと思ったのだろう。少なくとも、血縁というだけで一切の関係性が無い自分よりも、警戒心を剥き出しにして水鳥を守ってくれる七緒や、良き理解者である雪子に任せるべきだと判断したのだ。
同じように思考を整理した七緒が、沈痛な顔で美琴に頭を下げた。
「大変――失礼な態度を取りました。申し訳ございません」
すると美琴は嬉しそうに「何を言うんですか」と微笑む。
「逆です。私の身内が果たすべきだった責務を貴女が果たしてくれた。私が同じ立場でも、今更出てきた血縁者を信用なんてできる道理が無い。寧ろ……貴女が、そうして動いてくれたから、今、健やかに成長している姪の姿があるのです。ありがとうございます」
美琴は座ったままではあるものの、テーブルに頭が付くくらい深くお辞儀をした。
――束の間、静寂。
次いで僅かに乱れた呼吸。紅音と水鳥が視線だけをそちらに向けると、そんな言葉を貰えるとは思っていなかったのか、目を濡らした七緒が「いえ」とくぐもった声を上げる。
ずっと気を張っていたのかもしれない。美琴が現れてから。或いは、それ以前から。
自分は果たして正しいことをできているのだろうか、と。当然だ。一人の少女を児童養護施設から引っ張り出して、タレントとして仕事を渡して。七緒が現れたことで水鳥の生活は一変した。その変化がプラスであったという証明を欲するのは道理だろう。
そんな姿を見詰めた水鳥は、相変わらず表情を変えずに、けれども――そうするべきだと判断して、七緒の手を握った。唇を噛んで目を洟をすすった七緒は、そっと手を握り返した。
――同居の切っ掛けにもなったVtuberデビュー。マネージャーとの出会いかな。
かつて人生の幸運について話した時、水鳥は紅音との出会いに勝る一位をそう語った。
その時は嫉妬をしたものだが、今なら、水鳥が七緒に注ぐ親愛の情は当然のものだと思えるし、寧ろ、それを嬉しく思う。
さて、あまり長々と湿っぽい話をしても仕方が無いと思ったか、頃合いを見計らって雪子が話を戻してくれる。
「――さて、それじゃあ美琴さんの後見人の提案は取り消しということで?」
そんな風に雪子が尋ねるので、美琴は涙を見せる女性から紳士的に目を逸らして頷く。
「ええ、雨宮さんにはお手数をお掛けしますが、その方向性でお願いします――が、」
てっきりこの会は当初の目的を失って、話はここで終わりだと思い込んでいた。
しかし、そんな紅音の予想とは裏腹に、美琴は表情を僅かに真面目に作り変えて逆接を言葉尻に付け加えた。何やら不穏なものを嗅ぎ取った紅音と七緒が目敏く視線を向けると、美琴はやや気圧されたように苦笑をして「落ち着いてください」と二人を宥めた。
「まだ、何かお話があるんですか?」
人間は現状に満足している時、当然だが変化を嫌う。それが将来的にプラスになるとしても、そこに確信が持てなければ一歩を踏み出すことを避ける。どう転ぶかはさておいて、後見人の変化という選択を向こう側から撤回されてすっかり肩の力を抜いていた水鳥は、再び、七緒と紅音の手を握る手に力を込めた。緊張に身体が強張らせながら問う。
雪子も聞いていない話らしく、彼女も不思議そうな顔で美琴の横顔を見詰めた。
そんな中、美琴は臆することなく水鳥を見詰めて尋ねた。
「水鳥さんは、その――Vtuberの甘党あずきさんで間違いありませんか?」
突然の名前に、その場に居た四者は各々の驚きを見せた。
アメリカ企業で働いていたキャリアウーマンがその名前を知っていたこと。そしてその名前と水鳥を結び付けたこと。勿論、この会議室の場所など諸々の条件を考えると推測ができてもおかしくはないものの、それでも確信を持って確かめられるのは驚嘆に値する。
しかしながら、その通りですと無条件に頷くのは難しい。
「ご存じだったんですか。それとも、雪子が?」
七緒が目尻を拭って警戒は解きつつも探るように訊くと、雪子はとぼけた顔で肩を竦める。
「いいや、私は何も言ってないよ。個人情報だもの」
すると、美琴は内省気味に額に指を置いて目を瞑った。
「……すみません、過程を省き過ぎる悪癖を直します」
恐らく、最短効率で結果を追い求めながら仕事をしてきたのだろうなぁと思わせられた。
美琴は「ええと」と申し訳なさそうにこめかみを二度ほど叩いて、語り直す。
「元々私の勤めている会社では――こちらは一部守秘義務を含むのでアバウトな説明になりますが、主に配信者などを対象とした商品販売も実施しています。今回、私はその辺りの業績を買われて新設される日本支部長としての任を受け、帰国した次第です。それに伴って、当然ながら国内の有名配信者を洗いまして。勿論、穂積紅音さん――みづほさんの配信も拝見しましたし、エスポワールさんの配信も軒並み、有名どころは概ね」
まさか向こうはこちらのことを知っていたとは。
紅音と水鳥は思わず目を合わせ、驚きを共有する。
そして、同じように部署の前線で戦い続けてきた七緒としては、その仕事ぶりに思うところがあるのか「素晴らしい」と賛辞を口にし、「貴女ならご理解いただけると思っていました」と美琴もどこか不敵に笑う。――そんな様を、雪子は露骨に不機嫌に見ていた。
目敏くそれに勘付いた紅音は、普段なら探りを入れていたかもしれないが、今は勘弁してくれとしか思えない。そういう時間じゃない。紅音は様子を窺いながら話を進めさせる。
「それで……つまり、どういうことなのでしょう?」
本題を思い出した美琴は軽く咳払いをして、「つまり」と話を継ぎ直す。
「私の把握している若菜水鳥さんの身の周りの状況と、Vtuber甘党あずきさんの配信環境の変化が完全に合致していました。加えて、今日耳にすることができたお声と、それから――」
そこまで来ると、これ以上は疑う理由も無い。
水鳥は自分の頬に手を当てて言葉を引き継いだ。
「――表情、ですね」
美琴は少々言いにくそうにしつつも、重々しく頷いた。
「その通りです。離人症。それが最終的に貴女と甘党あずきを結び付けたファクターであるのと同時に、今回、後見人の立候補を取り下げた口でもう一つの提案をする理由です」
水鳥は不安そうに紅音と七緒の手を固く握り、励ますように二人で握り返す。
全幅の信頼を置けるかはさておき、少なくとも現時点で美琴を怪しんで警戒する要素は少ない。しかしながら、彼女という変数がもたらす日常への影響に身構えるのは致し方無いことだろう。紅音は握る手を一度解いて、薬指と小指を繋ぎ直す。すると水鳥もそれを感じ取ったのか、仄かに汗ばんだ手で固く紅音の指を抱き締める。
さて、美琴は満を持して「単刀直入に言います」と、もう一つの提案を繰り出した。
「――離人症の治療に協力させてください」
目を見張る三者。紅音、七緒、雪子。そして四対の視線を受ける無表情の水鳥。
だが、驚き戸惑っていることは誰の目にも明らかだ。しかし、そうであると分かるのは、彼女がそういう病気であると知って、気持ちを汲み取ろうと努力する人間だけ。今後、彼女がどのような人生を歩むかは分からないが、いつか、この病気が枷になる日も訪れるかもしれない。
「治療、ですか……?」
「そうです。その前にお尋ねしたいのですが、精神科に掛かったことはありますか?」
問いに答えるのは後見人の雪子だ。
「児童養護施設時代に十二回。私が後見人になってからは四回ですね」
その回答に、水鳥が負い目のある言葉で続く。
「その……あんまり、効果が無くて。それで、別にいいかなって」
雪子も苦い顔で、重々しすぎない程度の声色で最後の補足をした。
「それと、主治医から『完治は難しそうだから上手い付き合い方を探さないか』と」
水鳥とて自分の抱えている病気を何とも思っていない訳ではない。
彼女が苦しんできたことは誰もが知っている。だが、だからこそ、縋った医者の言葉で結果を得られなかった彼女が、失意と諦観を抱いて医療を諦めるのもやむを得ないことか。保護者としてはどうにか連れていきたいだろうが、無理に促すのも逆効果だろう。
回答を聞いた美琴は責め立てることをせず、大きく頷いてこう答えた。
「結果が出ずに通院を辞めるのはよくあることです。決して自分を責めないでください。しかしながら――十六回の通院で自他共に改善を実感できないのであれば、治療法を見直してもいいのではないかと私は考えます。私は門外漢ですが、その主治医さんは自分の力でできる最善を追求しようとしたに過ぎません。しかし、それが水鳥さんにとって最善かは別です」
周りに迷惑を掛けておきながら治療を諦めていたという負い目に瞳を伏せていた水鳥が、その言葉に顔を上げる。どういうことかと全員が見詰める中、美琴は言った。
「――アメリカに、PTSD治療を専門としている精神科医の知人が居ます。その分野の権威とも言われる第一人者で、その人なら、より効果的な治療ができるかもしれない」
「アメリカ」と、誰かが呟いた。つまり、海外のセカンドオピニオンということだろう。
家と、学校と、それから都内の遊び場。そのスケールで収まっていた紅音の世界を容易に粉砕するような規模の大きい話に、紅音は呆然と口を開けて美琴の顔を見詰めてしまう。
頭の中に色々な情報が入ってきた。
アメリカで名医の治療を受ければ、水鳥の病気は治せるのかもしれない。
そうすれば彼女の笑顔が見られる。彼女も楽になる。
そして、それと同時に、彼女と離れ離れになるという可能性に思い至ってしまう。
紅音は呆然と開けていた口を閉ざし、そして、繋いだ小指と薬指に意識を割いた。すると、全く同じことに思い至ったのか、水鳥もその指先を極端に強張らせて、紅音を見詰める。
その目が何を伝えたいのかは分かった。分かってしまったから、紅音は臓腑に絞られるような痛みを覚え、吐き気と共に頬を引き攣らせるようにして笑って、どうにかそれを誤魔化すことに必死になる。しかし、取り繕う紅音とは対照的に、水鳥は繋ぐ指を人差し指に変えた。
紅音は眉尻を下げて目を逸らすと、人差し指にぐっと力を込める。
今、ここで茶化して、美琴の話を遮ることはできる。
そうでなくても、我儘を言えば水鳥はその選択肢を選ばずに済む。
だが、それは自分の欲望で水鳥の人生を踏み躙るのと同義で、そんな選択はできない。
伏し目の紅音をしばらく黙って見詰めた水鳥は、人差し指に力を込める。
その傍ら、雪子が動揺に目を泳がせて尋ねた。
「そんなこと……できるんですか? 大体、治療費が――」
美琴は徐に頷いて応じた。
「――日本支部長の話を蹴ってアメリカ勤務に戻ります。その際、水鳥さんが私と養子縁組をしてくだされば、扶養として向こうの保険を使えます。それで大幅に治療費を抑えられる」
すると、目を剥いた七緒が腰を浮かせた。
「待ってください! そのっ……そ、それは、出世を蹴るという話ではないでしょうか?」
その言葉で美琴の差し出す代価の全貌を理解した紅音達は、驚きに美琴を見詰める。
七緒とて水鳥の為に自分の身を削る覚悟はあるが、しかし、社会人として働いて働いて、役職や信頼を勝ち取ることの苦労を知っているが故に、他人の覚悟には水を差してしまう。
だが、その言葉に美琴は真剣な眼差しで頷き返した。
「身内が付けた傷から、目は背けられません。私が責任を取るべきです」
七緒はぐちゃぐちゃになった情緒を歪んだ顔で示し、言葉を呑むために硬く唇を噛んだ。
激しい葛藤の末に天秤は水鳥へと傾き、美琴の選択に対しての懐疑の言葉を全て呑み込んだ。そんな七緒の英断に、美琴は嬉しそうに微笑んで首肯を返した。
しかしながら、肝心なのは水鳥がそれに納得して頷くか否かである。
水鳥にとっても、美琴の差し出す代価から目を逸らしてメリットだけを見詰めることは難しい。しかし、代価は百も承知で、その上で大人が責任を果たそうとしているのであれば、それを尊重するべきだとも思う。だから、その覚悟には最大級の感謝を抱く。
しかし、話を進めるか否かは別。水鳥にとって大事なのは、この一点。
「アメリカでの治療って――その、どれくらい、期間が要りますか?」
水鳥がたどたどしい質問を繰り出すと、美琴は「そうですね」と目を細めて概算をする。
「疾患の具合によって大きく変動するので一概に結論を出すのは難しいです。しかしながら、一年間。一年間結果が出なければ、また新たに別のアプローチも検討しようと思っています」
「一年間」と水鳥が表情を変えずに繰り返す。紅音も胸の内にその期間を呟いた。
そして、そんな二人の反応を見た雪子が、最初に、「……ああ」と得心の呟きをこぼした。
そして、彼女は膨れ上がった感情を抑えるように目を細める。
「そっか。離れるのは嫌だよね」
雪子は知っている。テーブルの下で、感情を示す指という赤い糸が繋がっていることを。
それは、決して鎖のように固く無機質なものではない。まだ紡ぎ上げられて間もない、大切に本人達が抱え込むことでようやく守れるような、脆く、儚い、糸なのだ。
遅ればせながらそれに気付いた美琴は、ハッと息を吸いながら紅音と水鳥を視界に収める。別離を匂わされて上手に笑えずに瞳を伏せている紅音と、まるで表情を変えないけれども、上手く言葉を紡げないでいる水鳥。二人を黙って見詰めた美琴は、やがて穏やかに相好を崩すと、気分を害することも取り乱すこともせずに告げた。
「――当然、国外に行くということは大きな環境の変化を意味します。心身への負担も極めて大きいことを、他でもない私が証明しましょう。そう簡単に頷けることではありませんし、嫌だ、と、思う気持ちは当然のもので尊重されるべきです。断ることも賢明な選択の一つです。当然、期間を短くするなどの妥協案もご希望いただければ最大限、協力します。認定留学の制度も交渉次第で使えますし、それなら在学期間中に治療できるかもしれません」
「でも……椛島さんは、治療の為に今の役職を断るんですよね?」
水鳥が彼女の支払いコストを指摘すると、美琴は自分が子供騙しをしようとしていた事実に気付いて自己嫌悪の念を顔に滲ませるも、それでも、水鳥を守るべき子供と見詰めた。
「責任を果たすだけです。私の姉が付けた傷ですから」
固い美琴の信念に、水鳥は顔を俯かせる。或いは彼女がここで折れてくれれば、自分が選択をする必要は無かったと、そんな情けないことを考えながら、食い下がる。
「だとしても……やるなら、ちゃんとやるべきだと思います」
美琴は微笑んで、やんわりとその主張を受け止めた。
「別に、この話はあくまでも提案で、そうするべきだという主張ではありません。水鳥さんが嫌だと思うなら、その気持ちに素直になってください。日本国内でよりPTSDに詳しい医者を探すことだって可能です。勿論、その際も私は最大限の協力をします」
そうして水鳥の健全な逃げ道を確保する美琴だったが、水鳥は真顔で俯いたまま押し黙る。
誰もが次の言葉に緊張をする中、彼女は徐に紅音に目を向けると、こう尋ねた。
「紅音は、どう思う?」
正直に言うと、訊いてほしかった。それなのに、訊かないでほしかったとも思う。
矛盾した感情を示すように紅音は顔をくしゃりと歪め、唇を噛んで目を泳がせた。踵が落ち着かない。貧乏ゆすりを一生懸命に堪え、繋がる人差し指からお互いの体温が抜けていく。
『行かなくていいと思う』。その言葉を告げられたら、果たしてどれだけ楽だったか。
たった一年間。されど、一年間も水鳥と離れ離れになってしまう。
治療が難航すれば、それでいて結果が出る予兆があれば、期間は伸びるかもしれない。
彼女が向こうで働き始めたり、美琴がそこで大事なプロジェクトを任されれば、もっと。
これから自分が水鳥を支えるから、治療はしなくていい。そう胸を張って言いたかった。
だが、それは依存だと思う。
彼女が離人症――それが転じて感情表現の手段が乏しいことによりどれだけ苦労してきたかを知っている。彼女の過去と苦しみを知っている。治すべきだと思ってしまっている。
紅音は大量の言葉をぐっと呑み込むと、繋ぐ指を人差し指から小指に変えて笑った。
意味はもう、あまり考えていない。ただ、悲しさは無いと嘘を吐きたかった。
「――水鳥の一生を左右する選択だから、自分で決めるべきだと思う」
水鳥の表情は変わらない。けれども、落胆は、するりとほつれた小指が示していた。
だらりと二人の間に垂れる二本の腕。紅音はそれを徐に膝に置き、水鳥は椅子の縁に。
「あの……少し、考える時間を頂いてもいいですか?」
そうして第一回の顔合わせは波乱と共に閉幕した。
雪子の車で帰路を辿る頃には、遠くの空は既に橙色を帯び始めていた。
対照的に、頭上にはどんよりとした雨雲が。天気雨か。赤信号で停まっているとポツポツと大粒の雨がルーフとフロントガラスを叩き始め、運転席の雪子は無言でワイパーを動かし始める。乾く前の水彩画に水を叩きつけたように、赤信号が雨に滲んでは、元に戻って、その繰り返し。行きと違って助手席には七緒が座っており、彼女も重たい沈黙を貫いていた。
理由は分かる。後部座席で横並びに座っている紅音と水鳥のことを想ってだろう。
彼女達の中には、どのような決断を下すべきかの答えがあるのかもしれない。
だが、それは、大人としての合理的な判断だ。子供の紅音と水鳥にとって、一年間は重い。これが単なる友人同士であれば、或いは友の将来の為に背中を押すこともできたかもしれないし、憎たらしい笑顔を見せてやるために意気揚々とアメリカでの治療をしたかもしれない。
だが――好意が、依存が邪魔をする。行かないでほしい。止めてほしい。お互いの気持ちは理解しているにも関わらず、それを口にする意味を理解しているから、お互いに何も言えない。
やがて、晩冬のような冷たい沈黙を見かねた雪子が青信号で口を開く。
「私はどっちの選択も間違っていないと思う。治療に行けば水鳥ちゃんが苦しんでいた病気に改善の兆しが生まれるかもしれないし、治療に行かなくても、今の二人を観る限り、支え合って楽しく元気に過ごせるとも思う。勿論、水鳥ちゃんを精神科に連れていった後見人としては治してあげたい気持ちもある反面で、」
そこで言葉を区切って雪子が一瞥を寄越すので、七緒は錆びた口を動かして話を継ぐ。
「若菜さんの人柄や能力を勘案するに、貴女は高校卒業後、進学するにしても就職するにしても、或いはそのどちらを選ばずとも、配信者として食べていける素質があると思います。万が一に事務所が潰れたとしても、貴女の声でファンはまた付いてきてくれる。つまり――病気を治療しなくても、今のような楽しい生活は送り続けられると思います」
どちらも間違いではない。
しかし、どちらを選んでも切り捨てるものがあるから、選ぶのは苦しくて仕方が無い。
二人が尽くしてくれた言葉に、紅音は「はい」と声を絞り出す。反対に沈黙を貫いていた水鳥は、やがて、俯かせていた顔を上げると、紅音を見た。
「紅音が……『行かないで』って言ってくれれば……私は行かない」
紅音は水鳥に表情が見えないように顔を俯かせて、それをそのまま歪めた。夕暮れ時、夕立の薄闇の中で水鳥は紅音の表情が視認できないことだろう。指も繋いでいない。彼女はこちらの感情を全ては分からないはずだ。それが都合が良かった。嘘を吐きやすい。
「私は……無責任に君の人生を左右して、その責任は負えないよ?」
回答を避け、そして避けるしかない理由を語ると、水鳥は真顔でこう切り返す。
「紅音は私と離れ離れになっても何も思わないの?」
水鳥が紅音を見詰めるから、紅音も俯きながらも顔を水鳥の方向へ向け、上目に見る。
「そうは言ってない。私だって寂しいよ。一緒に居たい」
「じゃあ何で止めてくれないの? 行ったら一年以上、会えないんだよ?」
「長くてもたった一年と少しでしょ。私達はまだ二カ月しか暮らしてない」
表情は暗くて読めない。それなのに、お互いの感情が手に取るように分かる。
だが――ふとした拍子に、差し掛かった歓楽街の眩いネオンライトが互いの顔を照らす。
紅音の顔は今にも泣き出しそうで、水鳥の顔は、何も、変わらず。
紅音はその事実に何も思わない。
けれども、自分の無表情を見られた水鳥は、それを隠すように顔を手で覆う。
他でもない水鳥自身が、その病気に一番苦しんでいる。
しかし、水鳥は感情を虚勢で塗り固めた。
「この病気が治らなくても、私は死なない」
「気持ちが伝わらないことで君が苦しんでたのを、私は知ってる」
「でも今は隣に紅音が居る。紅音は私の気持ちを分かってくれる」
紅音は鉄の味がするくらい強く唇を噛むと、緩め、鉄の意思でこう答えた。
「それは――依存だよ」
水鳥は口を噤んで押し黙り、ただ、真っ直ぐに紅音を見詰め続けるだけとなった。
驚いているのか、ショックを受けているのか。水鳥は恐る恐る紅音の指を繋ごうと手を伸ばして――『依存』という言葉の重みに堪えかねたように、その手を間に落とす。紅音は伏せた視線でそれを捉えつつも、凍てついた指先を動かして迎えることはしなかった。
「これから先、君は大勢の人と関わっていく。私一人を基準にしちゃ、駄目だと思う」
その言葉を最後に、家に到着するまで紅音と水鳥の会話は無かった。




