18話
それからは、告白やその返事のことなど忘れたかのように慌ただしく過ごした。
まず、通話を終えてからしばらく、何一つ表情を変えぬまま、しかし口を噤んで思考に耽る水鳥の傍で、紅音は彼女が落ち着くのを待った。叔母ということは、恐らく母方の血縁者だろうか。手酷い虐待を受け、引き取りも拒んだ親族が今更近付いてきたと聞いて、そう易々と事実を呑み込める道理が無い。それでも、五分もする頃には、水鳥は表面上は普段通りに戻って、取り乱して申し訳ないという旨と、それから今日は早めに帰りたいという旨を申し出た。
当然、紅音もそれを拒む気など毛頭なく、彼女が余計なことを考えなくて済むように、下らない雑談と質問を延々と振り続け、余計な思考を取り除きながら無事に帰宅を済ませる。
さて、七緒の説明はこうだ。
まず、若菜の叔母が児童養護施設に現れて引き取りを申し出た。
次に、施設が児童相談所経由で後見人である雨宮雪子に連絡を入れた。
諸々を検討した雪子が本人に話を通すべきだと判断し、立場上はマネージャーであっても、大人の中で最も距離が近い七緒に相談所の許可を得て連絡を入れた。そこに友人関係があったとは驚きだったが、そんなことを言い出せる状況ではなかったので言葉を呑んだ。
最後に、七緒が総合的な判断の末、紅音にメンタルケアを任せて事実を伝えた。
七緒は端的に叔母が現れて引き取りを申し出たいと言っていた旨を伝えた後、まずは受け入れるか以前に、本人から話を聞くかどうかの選択を委ね、返答が決まり次第、折り返しの連絡をしてほしいと言った。当然、最優先は水鳥の判断であり、七緒への折り返しの連絡すら気が進まないのであれば、こちらで断ることも何ら問題はないとまで。
「紅音は、どう思う?」
帰宅してリビングに入って早々、水鳥は紅音にそう尋ねた。
視線はフローリングを見詰め、指先は落ち着かずに拳を握っては解いてを繰り返している。
率直に言えば、どうせロクでもない人間なのだから断ってしまえばいいと思っている。一度は水鳥の引き取りを拒んでおきながら、何を今更。大方、配信業で稼げるとどこかで耳にしたから現れたのではないか、など、水鳥には言えないような呪詛も胸の内にはある。
けれども、そうでない可能性も当然、否定はできない。
そして、水鳥自身も先ほどの霊園での会話を振り返ると、少しずつ家族の呪縛から逃れ始めている。引き取ってもらうかはさておきとして、話を聞く意義は大きいように思える。
紅音は少し悩んだ後、リビングの椅子を引いて座るように促しながら笑った。
「私個人の意見を伝えるなら、話くらいは聞くべきだと思う。ただ、君の人生を左右することだから、最終的には君自身が決めるべきだとも思う」
水鳥は紅音が引いた椅子に座りながら、「そうだよね」と弱々しい声で呟いた。表情は無いが、ここまで弱々しいのも珍しいとハッキリ思えるくらいには、感情が露骨に言葉に表れている。
紅音はテーブルの脇に立ったままどうしたものかと腕組みして思案し、しかし、自分一人で考えても仕方が無いかと思考を切り替えた。大丈夫、彼女の味方は一人ではない。
「取り敢えず、相談をしてみよう」
「……相談?」
「氷室さんと管理人に。大丈夫、二人とも君の味方だから」
そう言って紅音が二人へ連絡を入れると、夕食を食べ終える頃には二人が家に到着した。
どうやら雪子が七緒の職場まで車を飛ばしたらしく、七緒はフォーマルな服装のまま、雪子も珍しくアクセサリー類を外して、見慣れない真面目な格好をしていた。
「すみません、こんな遅くに急に呼び出してしまって」
「あの……全然、オンライン会議でも問題は無かったのですが」
呼び出した紅音が頭を下げ、隣で水鳥が気の引けた声を掛けるも、七緒は「貴女の将来に関わる大事なことですから」と微かに笑い、「そういうこと」と雪子も微笑む。
さて、紅音が四人分の紅茶を用意する中、紅音が「気にせず始めてください」と伝えれば、時間を惜しむように話し合いは始まった。水鳥の対面に七緒、斜向かいに雪子が座る形だ。
「先ずは単刀直入に私から、事の経緯を説明するね。質問があれば適宜手を挙げて」
雪子が手を叩いて話の主導権を握るので、紅音はキッチンにマグカップを並べながら頷く。
そして雪子は慮るように優しい視線を水鳥へと向け、簡潔に事態を説明した。
「――君のお母さんの妹さん、つまり叔母にあたる女性が君を引き取りたいと申し出てきた」
最初に手を挙げたのは、意外にも七緒だった。彼女は苛立ちを隠さぬ目で雪子を見ている。
「はいどうぞ、七緒。冷静にね」
すると七緒は懸命に怒気を殺して詰問を繰り出す。
「冷静よ。どうして今更なの? 当時は引き取りを断ったくせに!」
「それは――正直、私も思いました。水鳥が稼げることをどこかで聞いたとしか思えない」
七緒に便乗して、紅音もキッチンから抱いていた疑問を突き付ける。すると、想定内だったのだろう、何が嬉しいのか雪子はニコニコと疑問を受け止めて徐に頷いた。
「うん、良い質問だね。これについては裏取りも取れているんだけど――結論から言うと、その叔母さんは大学卒業から間もなくアメリカの企業で働いていたから、事情を何も知らなかった。で、ここ最近、日本に帰ってきてようやく、実の姉の他界とその娘の状況、即ち自分の両親が孫娘を、つまり自分の姪の引き取りを拒んだことを知った」
筋は通る主張であり、雪子が裏取りを済ませているということは事実なのだろう。
そう言われると見ず知らずの女性に随分なことを言ったなと反省をしてしまうが、それでも、大事な妹分を守るために必死な七緒は、反省の前に疑問点を潰すことに終始する。
「実の姉の死を知らされてなかったって、そんなことある?」
「少なくとも、孫娘を養護施設に送り込むことに抵抗が無い夫婦なら、そうするかもね」
「仮にそうであったとしても! なんで、どうやって若菜さんの存在を知ったの⁉」
取り乱して声を荒らげるという七緒の意外な一面に、紅音は密かに目を見張った。
「落ち着いて、七緒。私も考えなしにこの話を持ってきていない。色々と話をして、調査を済ませて、その上で話を持っていく価値があると判断してここに居るんだから」
雪子が穏やかに諭すと、ようやく少し落ち着いた七緒は溜息を吐いて何度か頷いた。
「ごめんなさい。取り乱した。若菜さんも、話を遮ってばかりでごめんなさい」
「私の方は気にしないで」
そう肩を竦める雪子に、自分より取り乱している人間を見て落ち着いた水鳥も続く。
「私にも、そんな風に言わないでください。今……私のことを心配してくれる人が沢山周りに居るんだって実感して、本当に嬉しいんです。安心しています」
僅かに俯いたまま告げた水鳥の言葉に、七緒は泣きそうに顔を歪め、雪子は微笑んで頷く。紅音は何度か力強く瞬きを繰り返して、パチ、と音が鳴った電気ケトルを手に取った。
「さて、話を戻して――どうして叔母さんが水鳥ちゃんの存在を知ったかだけど、これは単純。彼女の実家に残っていた書類、最初に祖父母に宛てて送った書状を見たからだね。そこで姉の他界といつの間にか生まれていた姪の存在を知って、そして、その姪が児童養護施設に行ったと知った。それで『本人が望むのであれば自分の下で不自由なく暮らしてほしい』と思って、今回、私達のところまで話が来た次第だね」
説明を済ませて疲れただろう雪子の前に、紅音は最初にマグカップを。
次は七緒。その次に水鳥。最後に、紅音はマグカップを持って着席した。各々紅茶を一口。
「確認なんですけど、それって別に断ってもいいんですよね?」
殆ど熱湯のままそれを一口飲んだ紅音が確かめると、雪子は大きく頷いた。
「勿論! 念のために前提を説明しておくと、国、行政――児童相談所とか家庭裁判所とか後見人とか、その辺は全員、こういう件に関しては子供の意思を最優先とする。今回に限っては、水鳥ちゃんが今の生活を気に入っていて変化させたくないなら、そう言ってくれればいいよ。こっちは何があっても叔母さんを遠ざけることができる。逆に、話を聞いてから決めたいと思うなら、適切な距離感をこっちで確保しながら、話し合いの場を設ける」
そう説明した雪子は、得心に頷く水鳥に微笑む一方、悩ましそうな二人をニヤリと見る。
「つまり、大事なのは水鳥ちゃんの意志。二人が誘導しちゃ駄目だよ」
ぐ、と言葉を呑んだ紅音と七緒は、俯いて余計な口を開かないように黙った。
選択を委ねられた水鳥は、まだ少し熱い紅茶を両手で覆って液面を見詰める。赤褐色の液体が薄い溜息で水面を靡かせ、水鳥の心象を表しているようだった。
「……私は、正直、実感が湧いてなくて。心の整理もついてないです」
「無理もないよ」と紅音が微笑んでフォローを入れると、雪子も神妙に頷く。
「水鳥ちゃんの境遇を考えればそれが当たり前だもの。大丈夫だよ、自分に納得のいく答えが出るまで悩んでいい。誰も君を急かしたりはしないから」
雪子は懊悩を肯定するも、水鳥は夏休みの宿題を早めに片付ける性格らしい。
今ここである程度の方針は策定しておきたいらしく、「はい」とは言いつつも紅茶の液面を見詰めて思考を続ける。三者がそれを見守って沈黙を尊重していると、やがて水鳥は語り出す。
「悩んでいます。私は――両親やその親族の方々については割り切っているつもりで、私を引き取ると言ってくれた人と会って話したい気持ちは、あります。でも、今更、自分の生活を変えてまでその人を家族として見ることができるかと訊かれると、難しいです」
できる限り整理して気持ちを語ってくれる水鳥に、三人は思い思いに悩む素振りを見せる。
そんな中、七緒が腕組みをしながら気遣いのない横目を雪子に向けた。
「ねえ雪子。話を聞くだけっていうのはできるのよね?」
「勿論。当然、その後に断っても問題ないよ。向こうも納得してる。それでも気が引けるなら、『期待はしないでくれ』と改めて念押しをしてから話を聞くこともできる」
即座に七緒の言いたいことを察して、全てまとめて答える雪子。長い付き合いなのだろうか、阿吽の呼吸というやつだ。そんなことを思っていると、七緒は水鳥を見る。
「若菜さん。私は、本人に話を聞いてから判断しても遅くはないと思います」
紅音が同意を示すように頷くと、それを横目に見た水鳥も「そう、ですね」と呟く。
歯切れが悪いのは、懸案事項が残っているからか。
会っておきながら『貴女と暮らすのは嫌です』と伝えるのは気が引けるのだろう。
そこは、見守るべき大人と当事者である子供の感覚の違いだ。それについては、近い目線で物を見られる紅音がフォローを入れるべきだろう、と、テーブルの下で水鳥と小指を繋ぐ。
「それって私が同席することはできますか?」
すると七緒は難しそうに悩む素振りを見せるも、雪子は満面の笑みでサムズアップを返した。
「もちろん!」
「あ、できるんだ」
「できるとも。さっきも言ったけれども――本当に、この一連の話し合いは水鳥ちゃんの意志が最優先。もしも一人で受け止めるのが難しいと思うなら紅音ちゃんを同席させてもいいし、当然、児童相談所の人間より私が楽だと思うなら私が仲介役になる。書類上は殆ど無関係であっても、君が心から信頼をしている人なら、例えば七緒に同席してもらうことも可能だよ」
雪子の語る言葉に、強張っていた水鳥の小指が徐々に弛緩していく。
そして水鳥はチラリと紅音を見て、紅音は微笑みを返す。繋いだ小指に力が入った。
「あの、それじゃあここの三人にも同席してほしいです」
水鳥がそう言って頭を下げると、雪子はメモ帳を取り出してそこにペンを走らせる。
「了解した! 二人もそれでいいかな?」
紅音と七緒が「当然です」「当たり前でしょ」と頷くと、雪子は破顔して水鳥の指先も緩む。
「――念のために確認しておくと、次の話し合いは意思確認の場ではなく、あくまでもお互いを知るための会。最終的な決定をする際には児童相談所の人を呼ばないといけないので、一応、よろしくね。で、向こうのスケジュールはもう押さえてるんだけど、いつにする?」
「できるだけ早い方がいいです。私は、明日一日空いています」
「それじゃあ最短で明日の午後が都合が良さそうだけど、どうかな。三人とも」
「大丈夫です」と水鳥。「私も問題ないでーす」と紅音は微笑む。
「私も問題ないけれど、場所はもう押さえてるの?」
七緒が前のめりに雪子に尋ねるので、雪子は首を傾げながら返す。
「まだだよ、これからのつもりだけど。なに、七緒が動いてくれる?」
「ウチの事務所の会議室を取るわ。日曜日だから空いてる」
「なるほど」と雪子は得心した様子でペンを走らせるものの、紅音と水鳥は流石に及び腰だ。そんな風に私的利用をしてもいいものだろうかと紅音と水鳥が目を合わせていると、
「弊社と契約を結んでいる未成年タレントの将来に関わる重要な話ですから。例えばそう、未成年女優の親が事務所に殴り込んで来たら会議室にお通しするでしょう?」
随分な例え話ではあったが、そう言われると納得せざるを得ずに紅音は苦笑する。水鳥も可笑しいと思ったのか、繋ぐ指にひっそりと親指を加えた。
さて、メモ帳に記録が終わった雪子はパタンとそれを閉じ、こう言った。
「それじゃ――明日の午後、エスポワールの会議室で。詳細は追って連絡するよ」




