13話
さて、まずは有言実行ということで、届いていたチラシからピザの宅配を注文。
待ち時間に二人で軽い身支度を済ませ、近所のスーパーへ直行。カゴに何本かのジュースとお茶を買い込み、その上からお菓子や駄菓子、ポップコーンを重ねていく。ついでにおつまみに食えそうな珍味も隙間に詰め込んで、お会計が四千円。今回は二人で折半した。
帰宅して五分後、指定通りピザが届いたので、少し遅めではあるものの朝食にした。
ピザは初めてだと語る彼女は、当初、フォークで手を汚さない食べ方を模索していたが、構わず手で食べる紅音を見てそれに倣い、大量のチーズに舌鼓を打つ。珍しく口数が多かった。
それから、紅音が持っていた家庭用ゲーム機をリビングのテレビに接続して、対戦ゲームを始める。ぎゃーぎゃーと騒ぐ紅音と、無言で身体ごとコントローラーを操作する水鳥。格闘ゲームやレースゲームはやり込んでいる紅音の方が遥かに上手で、圧勝だった。しかしながら、負けず嫌いなのか水鳥が何度も何度も挑み直してくるので、終いには紅音が手を抜いて負けておいた。――ものの、手を抜いたことはバレていたので、後日再戦の運びとなった。
何度も食い下がり続けた水鳥のせいで、昼ご飯のお寿司は十四時となった。
お寿司は流石に食べたことがある様子だったが、好きなネタを好きなだけ入れようという紅音の悪魔の提案によって、水鳥は全貫炙りサーモン尽くしにしていた。彼女にしては珍しく、紅音の雑談の相槌にも首だけで応じる程度には、ずっと食べ物が口の中に入っていた。
リスみたいで可愛らしかった。ちなみに紅音は大トロ尽くしだ。お互い馬鹿である。
昼食後は二人で映画を観た。夕飯までに二、三本は観ようと言い合って、紅音が父親に頼んで契約してもらっているサブスクをテレビに接続したのだ。二人で並んでソファに座って、一枚のブランケットを膝掛けとして共有して。足下にはお菓子の袋。選んだ映画はドラえもんと、名探偵コナンと、それから超有名な洋画が一本だ。
そうして最後の洋画の上映会を始めようとした時、紅音の肩に可愛い重みが乗る。
水鳥が、甘えるように紅音の肩に頭を預けていた。
トクトク、と脈打つ紅音の鼓動。心臓の音が聞こえないように、静かな深呼吸を繰り返していると――舟を漕ぐように水鳥の頭が前後しているのが伝わった。
「水鳥、眠いの?」
紅音の声は自然と柔らかくなっていた。その声が微睡を僅かだけ拭う。
「うん……寝不足で。でも大丈夫、起きてるよ。折角、紅音が色々してくれてるんだもん」
水鳥の指が、紅音の膝上の手から小指を探し出して握る。
約束を守りたい、ということだろう。
だが、紅音はその指を解くと、薬指を繋ぎ返して――もう片手で、自然と頭を撫でてしまった。家だから髪をセットしている訳でもなし、気にするほどでもないだろうと思う反面、嫌がる人は嫌がるだろうとも分かっていたはずなのに、気付けば手が動いていた。
「それだけリラックスしてくれたってことでしょ。大丈夫だよ、おやすみ。寝すぎない程度で起こしてあげるから、夜になったらまたゲームして、美味しいものを食べよう」
水鳥は紅音の手を嫌がることもなく、寧ろ眠気を深めるように瞼を落としていく。
「膝、使う?」と尋ねると、「うん」と消え入るような声で水鳥は座り直す。限界まで指を離そうとしなかったのは理性か、或いは本能か。さておき、水鳥が紅音の膝を枕として使うようにソファの上で寝転がったので、紅音はその上にブランケットをかけた。
そして、紅音は止め時を見失ったように、何度か優しく頭を撫で続ける。
ふと、水鳥は目を瞑ったまま、小さくこう呟いた。
「何だかお姫様になった気分」
――ふふ、と紅音が笑っていると、段々と水鳥の呼吸が規則的になっていく。
全身の筋肉の緊張が徐々に抜けていき、紅音の膝とソファに身体を沈める。本当ならベッドまで運んであげたいところだが、こういう時の眠気を邪魔されるほど不快なものがないことを紅音は知っているので、短時間ならここで寝かせてあげよう、と思った。
お姫様、か。紅音は水鳥が寝静まったのを確かめてから映画を止め、思考に耽る。
自分でも水鳥を大袈裟に心配している自覚はある。同年代なのだから、一方的な庇護は失礼であり、彼女の判断を尊重するのも大事だろう、という内省だって抱いている。しかしながら、最も近い位置で彼女の苦しみを汲み取れるのは自分だろうという責任感もある。
これは自惚れではなく、客観的に見た事実のつもりだ。
寧ろ、自惚れであったらどれだけ良いことか、とすら思う。自分の知らない場所で、水鳥の気持ちを汲み取って水鳥を支え続けてくれる人が他に居るだろうか。マネージャーの七緒と後見人の雨宮という、少し離れた場所から見守ってくれる大人くらいしか思い浮かばない。
自分を白馬の騎士だなどと自惚れる気は毛頭無いが、水鳥は紅音にとってお姫様のようなものだ。下心を抜きにして可愛いと思うし、守りたいと思わせるし、その苦労を知ってしまったから、彼女には幸せになってほしいと心から願っている。
心地よさそうに寝息を立てる膝上の水鳥の横顔を眺めていると、彼女を襲った睡魔が次に紅音を見付けたらしい。眠りの鎌が首に添えられ、紅音は一瞬、船を漕いだ。
水鳥を起こす役割があるのだから、と眠気を覚ますために閉じかかった目でスマホを探す。
取り出したスマホでSNSを開いて、真っ先に目に映ったのはトレンド。
そこには『胡桃沢クルミ』の名前。少しずつ、少しずつ火の勢いは弱まっているものの、完全な鎮火は気が遠くなるほど先の話になりそうだ。
いっそ、もう、胡桃沢クルミは焦土と化していると表現する方が適切か。
気まぐれにそのトレンドを開いてみると、世間は口々に各々の見解を喚き合っている。
まずは非難の声。これは胡桃沢のアンチと甘党の過激なファンが原因なのだろう。とにかく痛烈に胡桃沢を誹謗中傷する人間と、甘党を傷付けられた義憤に怒り狂う人間が散見される。
次いで、その非難の声に対して反論を上げるのが胡桃沢のファンと、一部の真っ当なVtuberファン。内容の是非や正誤はさておいて、擁護の声を上げ、風を以て火を消そうとしている。しかし、その風が余計に炎を広げる側面もあり、一概に肯定できないのが心苦しい。
そして、対立を煽るような第三者。これが厄介だ。Vtuber関係者の対立を冷めた目で眺め、冷笑し、芯を食ったような発言で注目を集める者達が居る。例えば今回の騒動を架空の配信者というコンテンツの歴史そのものにまで発展させて懐疑的な声を上げたり、例えば今回の騒動を界隈全体の民度にまで主語を広げて批判したりする者も。
そして、これらが完全に事実無根の言いがかりでない点も極めて腹立たしい。
そのせいで、これらの俯瞰していた第三者――つまり、外側に向けて、騒動の内側で鎮火活動をしていた者達の反論の声が広がるため、結果的に異なる方向に火が伸びていくのだ。
そして、それらは全て元を辿ると胡桃沢クルミの失言と、彼女を嫌悪する者達の怒りで構成されているので、結果、胡桃沢は燃え続ける。
紅音は頭が痛くなって天井を仰ぎ、額を押さえて対処法を考える。
これだけ大規模な炎上騒動を個人の力でどうこうするのは難しい。事務所に対応は任せて、紅音は水鳥のメンタルケアをし続けるのが合理的だろう。段々と、無意識に落ちていく瞼には気付かぬまま、紅音はぼんやりとした頭で思考を重ねる。
そしてもしも、本当にどうにかしなくてはならない時は――どうしたものか。
結局、個人で動くのだとすれば、炎上騒動の中心、胡桃沢とそのアンチや甘党のファンに働きかけるしかないだろう。そうすれば、芯を失った炎上はいつかどこかで空中分解する。
――中心だ。火の中心を消すしかない。
グレーと黒のタイルカーペットが敷き詰められた事務所で、隈を化粧で隠した氷室七緒は苛立ち混じりに激しくノートパソコンのキーボードを叩いていた。
Vtuber事務所『エスポワール』は渋谷のビルにそのオフィスを構えていた。
オフィスにはマネージャーと事務職の人間が日替わりに出社しており、タレントを召喚して企画をする際は同階の別室を使うなどしている。
胡桃沢クルミの炎上から一週間が経過した土曜日の今日。
炎上は収まらないものの、対応は既に一段落が着いて、マネジメント部の方針としては、『余計なことはせずに自然鎮火を待とう』と小康状態になっていた。
しかしながら、マネージャー達の中でも歴が長く仕事もできる氷室は、他の面々が気付いていない炎上関連の残務を見付けてしまっていた。そして、それを最も効率的に片付けられるのが自分だということも理解してしまっていた。残務の処理を部長に報告し、同じように目に隈を作った部長の了承の末、後任育成など考えずに全て最高効率で片付けることになった。
結果、ここ数日、打鍵が強いことにすら気付けなくなるほど寝不足になった。
「壊れる、壊れる」と同僚のマネージャーが通りすがりに七緒のパソコンを心配するも、七緒は生返事しかできない。もう少し、もう少しで片付く残務にしか気が向いていなかった。
そして最後、壊れるくらいの勢いでエンターキーを殴りつけた七緒は、倒れ伏す。
ようやく、今度こそ胡桃沢の炎上に伴う関係各所への根回しや残務処理を終えた。
七緒は勤務中であることも厭わずに「仮眠!」と叫んで息も絶え絶えにアイマスクを装着。
椅子に座ったまま少し休養を取ろうとするも、それを邪魔する不届き者が登場。
「おうい、氷室さん氷室さん。生きてるかい?」
知った男性の声にアイマスクを剥がすと、真横でサングラスをかけた胡散臭いスーツの男性がニヤついた笑みを浮かべていた。スーツの前を開けて、ネクタイは無地の黒。
シャツは青のストライプ。髪は社会人として如何なものかと思うような無造作具合。
「財前社長」
プロゲーミング時代からの旧友とはいえ、流石の七緒も社長相手ではアイマスクを置く。
彼こそがエスポワール――以前に、その運営元であるステラ・テクノロジーの代表取締役社長、財前晴彦だ。普段は本社のオフィスで悠々とオンラインゲームをしているはずの彼が、今日は珍しくエスポワール側のオフィスに来ていたらしい。気付けば気の抜けた同僚たちの背筋が伸びているが、七緒は疲弊を隠す努力もせずに向かい合う。
「久しぶりだね、氷室さん。調子はどうだい? 調子といっても例の炎上の、だけど」
財前は軽薄に笑いながら自社の二大稼ぎ頭、その片割れの近況を尋ねてくる。
七緒は隈だらけの目を軽く揉みながら返答を考える。
――まず、当初の想定よりも炎上の期間は長い。迅速な初動対応によってビジネスパートナーが離れることは防げたものの、会社への影響範囲は広い。胡桃沢個人の単純な収益低下以上に、事務所の信用が失墜したことによる打撃で、細かい損失が出ているというのが現状だ。
――という言葉を並べる苦労を考え、七緒は一言に切り捨てた。眠気に負けた。
「全マネージャーの報告をマネジメント部長が把握しています」
「そうなんだけど、なんか彼、忙しそうじゃん? 君も把握してるだろうし、君でいいかって」
「そう認識してその能力に頼っているなら給料を上げていただけると幸いです。社長」
「うんうん、部長には僕から言っておくよ。それで、状況は? マズそう?」
七緒はふぅ、と溜息を吐くと、昔から変わらず腹の読めない男に淡々と答えた。
「――読みを抜いて事実ベースで回答いたします。まず、関係各所全てに本件を連絡済みで、主要な企画が控えている全社から企画を打ち切る意思は無い旨をご回答いただいています。プロジェクト規模での損失は今のところございません。しかし、依然としてSNSで炎上が続いており、トレンドには常に胡桃沢クルミの名前があります。大規模な損失には至らないものの、事務所のリソースを三割ほど割いて悪化を防いでいる、という状況です」
端的な回答を満足そうに聞いた財前は、顎を摘まんでデスクに腰を置く。
「お疲れ様、取り敢えず働き詰めみたいだししばらく休暇を取りなよ、氷室さん」
「そうしたいのは山々ですが、私が主導で動いた部分が多過ぎるのでしばらく無理です」
「やれやれ。まあ、部長次第だけどボーナスは弾むと思うから安心して。それより――これは雑談ベースなんだけど、今回の炎上を納めるとしたらどうするべきだと思う?」
その問いは財前晴彦というよりも、かつて七緒と雪子が所属していたゲーミングチームと、死闘を繰り広げていたゲーマー兼友人としての側面が強いように感じた。
腕組みをする財前の問いに、七緒は目を半分ほど閉じて考える。この一週間、きっと誰よりもその問題に向かってきた人間として、七緒はこう答えた。
「炎上の核は胡桃沢クルミのアンチと、甘党あずきの過激なファンです。そこにどうにかアプローチを仕掛けられれば、多少はマシになるかと」
「あ、起きた」
――完全に寝落ちした!
紅音がガバッと跳ね起きると、真横で水鳥がビクッと身を逸らした。
紅音は息を弾ませながら五感を総動員して現状を把握。まずは味覚を除外。嗅覚は家の中、水鳥の真横であることを示している。聴覚は水鳥の呼吸音を捉え、触角は尻と背中にソファを。そして最後に視覚は閉まっているカーテンと、六の少し後ろを指す時計の短針を見た。
どうやら眠っていたのは一時間と少しくらいの様子だ。
紅音がホッとしながら隣を見ると、そこには一足先に起きていた水鳥。ソファの上に正座をして紅音の方を向いている。マジマジと見詰められ、少しだけ面映ゆい。
「……ごめん、寝落ちした。心地良すぎて」
紅音が目頭を押さえながら詫びると、水鳥は無表情に首を左右に振った。
「大丈夫、それだけリラックスしてくれた証拠だから。私の頭膝掛けは気持ちよかった?」
「膝枕の対義語を初めて聞いた。脳がバグるね。和風あんかけみたい」
冗談を言いながらもう一度時刻を確かめた紅音は、そろそろピザでも注文しようかと身体を伸ばす。ソファに座ったまま寝ていたせいか、首や背中からパキパキと音が鳴る。
「ねえねえ、今の聞いた⁉」「聞こえた、パキパキって」と他愛のない会話をして、深呼吸。
そしてふと、脚に硬い感触を覚えて視線を落とす。
そこには水鳥のスマホがあった。
――今朝、『スマホは私に預けて』と言って水鳥から預かって、それからリビングのテーブルの上に置いたままだったはずだが、どうして。
そう思いながら水鳥の方を見ると、彼女は無表情のまま口を開けてスマホを見ている。『しまった』とでも言いたげだと見詰めていると、そのまま少しだけ顔を上げ、紅音を上目に見る。
「ごめんなさい」
あまりにも素直かつ殊勝に謝られるので、紅音は思わず吹き出してしまった。
どうやら彼女は、誤解をしているらしい。
「謝らないで、怒ってないから。私はスマホを預かるって言っただけで、触っちゃ駄目なんて言ってないし言う権利もない。事務所からの業務連絡だってあるでしょ?」
できればネット――胡桃沢の炎上から離れて楽しい一日を過ごしてほしいと思っていたが、寝落ちして退屈を与えてしまった紅音が文句を言える道理が無い。
そう思って笑顔でスマホを水鳥に手渡すも、水鳥はスマホを受け取った手で、紅音の小指をそのまま握る。今回は『約束』よりも『ごめんなさい』だろうか。どうやら本当に、心から反省しているようで、寧ろ軽い気持ちだった紅音の方が申し訳なくなってくる。
すると、水鳥は表情を変えぬまま、ポツリと呟いた。
「でも……君が心配してくれているのは分かってたのに、触っちゃった」
――何となく、紅音は全身の力が抜けるのを感じる。
落胆ではない。かといって、失望や疲弊でもない。筆舌に尽くしがたい感情に襲われた。もしもそれを紅音の言葉で言語化するのなら、それは『安堵』が近いだろうか。
ずっと、気持ちが張り詰めていたのだと、紅音は今更自覚した。
そして、水鳥への心配がしっかりと本人へ伝わっていて、それを水鳥自身が肯定的に受け止めてくれていると理解できたから、安堵に、自ずと身体から力が抜けていった。
感情を取り繕うために被っていた、紅音の明るい笑顔の仮面が剥離する。
紅音は弱々しい笑みで唇を結ぶと、申し訳なさそうにする水鳥から視線を逸らす。
少し、言葉を探す時間が欲しかった。迂闊に口を開くと彼女を追い詰めてしまいそうだから。
やがて、紅音は柔らかい笑みをこぼすと、膝の上にある水鳥の手を握る。
「君は私のことなんて考えなくていいの。もっと、自分を優先していいんだよ」
今回の事件で最も傷付いたはずの彼女が、それを心配する紅音に気遣いをするべきではない。
紅音は水鳥を心配して色々なことをした。しかし、それを理由に水鳥が頭を下げるのは本末転倒だろう。そう思って伝えた気持ちだったが、思いがけぬ感触が紅音の指を襲う。
――中指が繋がった。それは、水鳥の、怒りの感情表現だ。
「そんな風に言わないで。私だって紅音のことを考えたい」
紅音は横殴りに遭ったように目を左右に揺らし、唇を噛んで返答に窮した。
――そして、詰まりに詰まって圧力が高まって、少し熱を帯びた息を静かに押し出す。「ごめんね」と紅音が小指を握り返すと、「いいよ」と水鳥が薬指を甘く握り返してくれた。
それからしばらく、二人で中指から小指にかけて、手を繋いで見詰め合った。
しっとりと汗ばむ指先はどちらのものだろうか。お互いの体温が高い位置で吊り合って熱交換が止まり、僅かな湿り気と共に調和が訪れる。指先から感じ取れる微かな脈がお互いの裏拍を補完するように取り合って、果てに、親指と人差し指も絡めた。指の意味は、この際、関係なく。ただ、紅音は何となく水鳥の肉体との接触面積を増やしたかっただけだ。
だが、今は半ば無意識にも近かったその行動の意味を深くは考えずに、目の前の問題を見ることにした。
「あのね、水鳥」
話しかけると、驚いたように水鳥の指先が紅音の手の甲に食い込む。
「私は、意外と性格が悪いから――君が気に病む度に、胡桃沢さんも、君のリスナーも嫌いになる。最近気づいたけど、私は、君が大事。凄く。君に不都合な人間を嫌いになるくらい」
じわりと、お互いの手の間に汗が滲んだ。
水鳥は無表情にそれを聞き遂げた後、色々な言葉を呑み込んで「うん」と頷く。性格の悪さを否定しようとしてくれたのか、それとも、気持ちを尊重しようとしてくれたのか。何の言葉を呑み込んだのかは分からないが、何故呑み込んだのかは分かる。
紅音の言葉が、もう少しだけ続くと知っているから。
「だけど、君を大事にしたいって気持ちが先行して、君に不自由を強いちゃった。やり方を間違えた。大事にすることと、強引に害から遠ざけることを履き違えた」
紅音は今回の一件で、全面的に水鳥の味方になると決めていた。
しかし、存外に炎上が収まらず、そして水鳥がそれに心を痛めていると知った時点で、紅音に取れる最も合理的な手段は、水鳥がSNSを見ないように促すこと。しかし、他でもない水鳥自身が向き合い苦しむことを選んだのなら、その尊重も選択肢に入れるべきだった。
再び多くの言葉を呑み込んでくれた水鳥に、紅音はこう伝えた。
「――水鳥の意思を尊重する。水鳥は、今回の件。どうしたい?」
それが、紅音の下した結論だ。紅音は、立ち向かうと決めた水鳥を支えよう。
今度は水鳥が語る番だ。水鳥は絡んだ彼我の手を悩むように見詰め、こう切り出す。
「炎上騒動の中心部は、胡桃沢さんと、私のファンと、彼女のアンチだと思うの」
「中には誰かを貶めるために擬態している人も居るけど、まあ、基本はそうかもね」
「物が燃えている時って、炎じゃなくて火元に水をかけるでしょ? だからね、今回も燃え広がった炎上を収めることはできなくても、根源を消火できれば、少しは何かが変わるんじゃないかって、そんな風に思ってて――だから、何かをしたいと思ってる」
全く同じ結論に行き着いていた水鳥に、紅音は微笑んで「同感」と頷いた。
無論、同感なのは前半部分だけ。紅音自身は同情こそすれども、特別に胡桃沢の為に自分が火の粉を被るつもりは無い。関係値がフラット以上ならば検討するが、生憎、胡桃沢への好感度はマイナスに振り切れている。申し訳ないが、紅音自身はその意志には否定的だ。
「そこで一つ、私にアイデアがあるの」
不意に水鳥が一本指を立ててそう言って、紅音は見張った目を何度か瞬きさせる。
アイデア。つまり、胡桃沢クルミの炎上を鎮火させるために、その騒動の中央にある彼女のアンチと自らのファンを律することができるアイデアがあると言うのか。
訊いてほしそうなので、「聞かせてもらえます?」と少し頬を綻ばせながら紅音が口に出してやると、少し得意げにニギニギと二回ほど手を握った水鳥は、こう言った。
「私と、胡桃沢さんと――――それから、紅音。三人で、コラボ配信をしよう」




