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12話

 そうして最後に幾つかの説明と挨拶を済ませた七緒は、用意された紅茶とクッキーを『折角だから』としっかりと食べ終え、そして目頭を揉みながら玄関へと戻った。


「それでは――穂積様」


 去り際に七緒が紅音を見るので、「は、はい!」と背筋を伸ばして応対してしまう。


「若菜さんのこと、よろしくお願いいたします」


 隣の水鳥が分かりやすく首を傾げる傍ら、紅音は七緒のその言葉の意味を全て汲み取った。


 彼女は水鳥のマネージャーでありつつ、保護者でもある。保護者が、心配している子供の近くに信頼できる人間を見付けたらどうするか? 決まっている。


 つまり、七緒にとって自分は信頼に足る人間だと判断されたのだろう。


「はい」


 真っ直ぐな瞳で頷き返すと、望んだ回答を得られた七緒は満足して去っていった。


 カチャ、と静かに閉まる扉。十秒ほどの間を置いてから、紅音は鍵を掛ける。


 物言いたげな真顔が紅音の横顔にチクチクと刺さるが、何だか素直に答えるのも気恥ずかしいので、「だってさ」と、何の話か自分でも分からないことを呟くと、「ふぅん」と、同じようになんの話か分からない相槌を水鳥は打った。


 ――それから、一週間ほどは落ち着いた日々を過ごした。


 ただし、その主語は『紅音と水鳥』だ。二人は、落ち着いた日々を過ごした。


 まず、水鳥は紅音が危惧していたよりずっと気丈に、気にしていない素振りを見せていた。実際にどうであるかは彼女も伝えたがらないので分からないが、少なくとも表向きは普段通りだ。それに、紅音の方から根掘り葉掘り聞き出すこともしなかった。


 ただ、念のため、家に居る時は彼女の傍に居続けた。


 そして、紅音から胡桃沢クルミへの怒りは、徐々に憐憫と同情へと塗り変わっていった。


 まず、七緒が家を訪ねてきたその日の夜には本人から謝罪の申し出があり、話し合いの末にオンラインで顔を突き合わせての謝罪が行われた。


 水鳥は次が無いようにしてほしい旨をしっかりと伝え、胡桃沢と二名の社員を許した。


 それから徐々に鎮火していけば話は早かったのだが、その後に行われた胡桃沢の謝罪配信がまずかった。何がまずかったかというと、彼女は号泣と共に謝罪した。


『この度は誠に、申し訳ございませんでした……! そ、そん、そんなに悪い事だとは思っておらず、軽い気持ちで口にしてしまって――』


 その謝罪が『同情を誘うためのプロ意識に欠けるもの』であると非難の声が一部から上がった。勿論、当事者間での謝罪が済んだことも含めて事務所発表があったため、一部の真っ当な人々は、下げた信頼を元通りにすることはできずとも、抜いた刃を納めることはした。


 しかしながら、未だに怒りが収まらない甘党あずきのファンや、胡桃沢クルミのアンチは執拗に声を上げ続け、その擁護と否定が薪をくべ、炎上は一週間、絶え間なく続いた。


「いやぁ、も、燃えてるねぇ!」


 四日目の晩、紅音は久しぶりに配信枠を取ったのだが、その話題は流石に胡桃沢と甘党に関するものであった。甘党あずきの中の人とのルームシェアが発覚すると問題であるため、今後は配信上で彼女について言及しないようにと考えていたものの、推しを巻き込んだ大炎上がSNSで起きているのなら、触れない方が不自然だったので仕方が無い。


『ガチであずきちゃん可哀想。流石に病気の暴露はヤバいでしょ』


『事務所と話し合って表情を変える工夫してんのに全てバラすの笑う』


『正直燃え過ぎ感はある。やったことは駄目だけど』


『あずきちゃんアレから配信ないしマジで心配』


 そんな風に視聴者が好き勝手に書き込んだコメントの滝を眺めながら、紅音は葛藤した。


 迂闊なことを言おうものならこの件で暴れまわっている連中が恣意的な切り抜きをして都合の良い発信に利用しかねないので、安易なことは言えないのだ。無論、立場的に関係者に誤解をされることは無いはずだが、民衆はそうではない。言葉は丁寧に選んだ方がいいだろう。


「まあ私としても甘党ちゃんは推しだし、推しの苦しみが拡散されちゃったのは悲しいし心配だね。ただ、それはそれとして、SNSを見てると度が過ぎる誹謗中傷もあるから、あの辺は事務所にしっかりと処理してもらいたい気持ちはあるね」


『お、胡桃沢擁護か? 切り抜くか?』


 常連の視聴者が洒落にならない冗談を書き込むので、紅音は冷や汗と共に笑う。


 しかしながら、『その言葉では曲解の余地が残るぞ』という注釈でもあるのだろう。信頼関係で成り立つ指摘を受け入れ、紅音はもう少しだけ言葉を尽くす。


「切り抜きはヤメテね! それはさておき――配信者も完璧じゃないからさ。今回みたいな燃やし方を感情任せに肯定すると、今度推しが燃えた時にダブスタになるじゃぁん?」


 紅音が端的に危惧を語ると、『確かに』『それはそう』と肯定的な意見が流れる一方で、『完璧じゃなければ病気を暴露していいのか』『表立って言ったなら表で裁かれるべきでしょ』と反論の声も上がる。


 一つ一つ取り上げて反論をしても構わないが、際限が無かったので「まあ、皆の言い分も一理はあるよ」と、心情的には理解できる旨を主張して、誤魔化すようにゲームを起動した。


 そんな具合に、事態の発覚から一週間が経過した土曜日の朝。


 曇天の早朝は薄暗く、紅音が欠伸をしながらリビングに出ると照明が点いていた。


 どうやら水鳥は既に起きていたらしい。ソファの上で膝を抱えて座っていた彼女は、テレビも点けず、珍しくスマホをジッと見詰めていた。紅音に気付くと顔を上げる。


「おはよ! 天気が悪いと気分が滅入るね」


 紅音がぶんぶんと元気よく手を振ってみると、水鳥は「おはよう」とスマホを置いた。


「梅雨入りだって」

「おお! ――そっかぁ、ルームシェアから、もう……三週間?」


 濃密な時間だったなぁと腕組みして振り返ると、「それくらいだね」と水鳥が肯定。


「初めて会った時は甘党あずきの中の人だって驚いたんだけどね。もう慣れたよ」

「ふぅん、じゃあサインとかは要らないね。コラボグッズに書いてあげようと思ったけど」

「――よし! 今から寝転がって恥も外聞もなく泣き喚くから見ててね!」

「嫌に決まってるでしょ。書くよ、書くからみっともないことしないでね」


 ソファ前のラグに座り込んだ紅音を窘めた後、水鳥はこう呟く。


「そんなに甘党あずきのファンなんだ」


 紅音はラグに座ったままソファの座席部分に背中を預け、身体を伸ばす。


「まあ、Vtuberの中では一番観てると思うよ。詳しい訳じゃないけどね」

「ふぅん、じゃあ私と一緒に暮らせてよかったね。――なんて、言ってみる」


 水鳥が真顔で冗談を言うので、紅音は「確かに」とクスクスと笑い返す。


 しかし、思い返してみると、甘党あずきの中の人であると知って嬉しかったのは初対面の瞬間だけだ。その後は彼女の無表情に悩まされる一週間を過ごし、真実を知ってから若菜水鳥の手料理に唸らされる一週間を過ごして、ここ最近は、彼女のことばかりを考えている。


「でも今は、甘党あずきより若菜水鳥のファンかもしれないね!」


 水鳥が期待するほど甘党あずきのファンでないことを申し訳なく思ったが故の言葉。


 それが彼女に対してどのような言葉であるのかは、あまり難しく考えず、思っているまま素直なことを語っただけ。しかし水鳥はピタリと口を横に結び、静かに紅音を見詰めた。


 あんまりにも沈黙が長いので、腹の内を見透かされたかと紅音が後悔と共に尻込みをしようとすると――水鳥はソファから立ち上がる。


 そして、ラグに座り込むと、紅音の身体にピッタリと寄り添った。


 紅音の心臓が止まる。まだ死にたくないと慌てて動き出す。大量の疑問符にDOS攻撃を食らった脳が処理限界を迎えて言語野が一時停止。その癖、一丁前に五感だけは作用する。


 二の腕に感じる水鳥の腕の柔らかさと温かさ。同じ洗剤と柔軟剤、それからシャンプーを使っているはずなのに全く別物のように感じる甘い果物の香り。視界の隅に映る、水鳥の抱えた膝。そしてお互いの衣服が擦れる摩擦の音と、彼女の呼吸の音が、脳を占めていく。


(あった)かい」


 ポツリと水鳥が呟き、それを引き金に、紅音の思考が徐々に現実へ戻っていく。


「あー……今日、冷えるからね」

「今朝は温かいものにしようか。ごめんね、まだ朝ご飯、作ってないの」


 水鳥にしては珍しい話だった。紅音が知る限り、今まで彼女は一度も寝坊をしたことがない。そして、起きている際には規則正しく朝食の支度をしてくれていた。けれども今朝は、スマホを眺める時間はあったのに朝食の支度をしなかった。その因果関係は火を見るよりも明らかだ。


「謝らないでよ。折角だから、私にも手伝わせて」


 当然、紅音の分の食事も作るなどというのは彼女の厚意での口約束だ。契約書など結んでいないし、たった一日、反故にした程度で彼女が咎められる謂れは無い。


 それに、紅音もそんなことを言うつもりも無い。そう思ってフォローしたはずだが、


「手伝わせて?」


 水鳥が真顔でそんなことを言った。当然冗談だろうが、紅音はそれに乗っておく。


「あー、ごめんなさい、ごめんなさい! そうですよね、家事は分担するものですよね!」

「冗談だよ。ありがとね。後で、一緒に作ろう」


 そう言うと水鳥はコテンと、ドミノのように膝を抱えたまま紅音に寄りかかり、その華奢な身体の体重が、何割か肩に訪れる。心地よい重みだった。水鳥が確かに隣に存在するのだという実感を与えてくれる、そんな優しい体重だ。だが、甘い恋愛感情の類は滲出してくれない。


 珍しく作っていない朝食。朝から眺めていたスマホ。スキンシップ。


 様々な状況証拠から漠然と水鳥の心情を察した紅音が「水鳥」と気持ちを推し測ったように呟けば、彼女も、もう取り繕うことはせずにこう呟いた。


「何だか疲れちゃった」


 相変わらずの無表情と、相変わらず平坦な声。けれども、その無感情の仮面の裏側にある気持ちを知っている。紅音は水鳥の胸中を慮り、軽く唇を噛んで言葉を探す。


 やがて、紅音は徐に手を広げると、そして水鳥の身体を抱き締めた。


 一瞬、強張る水鳥の身体。しかし、力を込めると、少しずつ、少しずつ水鳥の身体が紅音の胸の内に体重を預けていく。


「……胡桃沢さんが、全部言っちゃった件は、思ってたよりも大丈夫なの」


 ポツポツと、水鳥が語り出す。紅音は決して茶化さず「うん」と頷いた。


「ただね、私が一番初めに事務所で話したのもあの人でさ。その時にどう思っていたかは、全部聞いちゃったけど、それでも、その会話のお陰で緊張が解れたの。明るい人だったから」

「根は、優しい人なんだろうね。無神経なだけで」

「うん。だからね、あんな風に傷付けられて欲しくない」


 前提として、水鳥の精神疾患を暴露した件は完全に胡桃沢クルミが悪い。


 しかし、一時の炎上と批判、それから謝罪と赦しを以てその問題は解決した。その後の誹謗中傷については、全く別の話だ。それは報復や批判ではなく、攻撃だ。


 紅音は片腕で水鳥を抱き締めながら、水鳥の手をもう片方の手で握る。


 すると、水鳥の方もそれに応えるように紅音の手を握り返し――人差し指を固く握った。不安、悲しみ。確かに伝わってくる感情を噛み締め、紅音は背中を撫でる。


「――行き過ぎた誹謗中傷は事務所が解決する。私達にできることは無いと思う」

「……分かってるんだけどね。配信が日常だった分だけ、気を抜くと考えちゃう」


 紅音はソファに置かれたままの水鳥のスマホを見詰め、眉尻を下げて目を瞑る。


 紅音は、水鳥がどれだけ苦しんできたかを、多少なり知っているつもりだ。


 幼くして児童養護施設で暮らすことになり、精神疾患によって上手く交流ができず、友人も作りにくかった。そんな風に彼女を苦しめ続けてきた病気を、無神経に配信上で暴露した胡桃沢クルミが許せない。そして、被害者である水鳥が怒りよりも憐憫を優先させなければいけないほど苛烈に彼女を攻撃する外野も許せない。心がじゅくじゅくと熟れ始め、どす黒い、ヘドロを煮詰めたような毒々しい悪感情が、芽生えていく。胡桃沢にも、外野にも。


 ――頼むから、放っておいてくれ。これから幸せになるんだから。


「紅音?」


 水鳥の尋ねに、紅音はハッと、呆然とした顔を上げる。


「どうしたの、怖い顔してた」


 心配そうな声を上げる水鳥に、紅音は自分すら彼女の精神を摩耗させる存在だったと気付いて、自己嫌悪に駆られる。しかし、反省も後悔も後回しだ。


 紅音は水鳥に握られていた人差し指を外すと、安心させるように小指で握り返す。


 その意図を汲みかねたように、パチクリ、と水鳥は何度か瞬きをした。


 紅音は抱擁していた腕を伸ばして、ソファの上にあった水鳥のスマホを取る。


「水鳥は何も悪くない。今回の件は全面的に被害者なんだから、そんな君が苦しんでいるのはおかしいと思う。だからね、」


 何のつもりかと視線で尋ねる水鳥に、紅音は屈託のない笑みを向ける。


「――今日は、家で気分転換をしよう。スマホは私に預けてさ」


 そう言いながら水鳥の手の届かない場所にスマホを置くと、水鳥は首を捻った。


「気分転換?」


 紅音は空いた手で水鳥のもう片方の手も掴むと、両手で小指と薬指を絡める。


 ピク、と肘を震わせた彼女を真正面から見詰め、少し悪戯っぽい笑みでこう言った。


「今からジュースとお菓子を買いに行く。朝昼晩はピザと寿司とピザ! 二人で沢山ゲームをして、色んな映画を観よう! 全部――全部、忘れて」


 彼女は喜んでくれるだろうかと、紅音は、言い切ってから一瞬だけ不安だった。


 だが、そんな不安を払拭するように、水鳥は絡めた指に喜びを示すように親指を加えた。


「うん」



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