11話
紅音と水鳥がデートをした、その翌日の日曜日。時刻は九時半。
昨日の炎上騒動が原因で、水鳥のマネージャーである氷室七緒が家に来ることになった。
その旨は昨晩の内に連絡されたものの、その日は疲れてすぐに就寝してしまったため、二人は朝から忙しい。少し散らかり気味だったリビングをいそいそと掃除して、掃除機をかけなおして、少し肌寒い日だったので、念のためエアコンをつけて室温を調整。
最後に、昨日購入したクッキーと紅茶をテーブルに準備。
「これでよし! 四人掛けのテーブルを買っておいてよかったね」
「先見の明だね。紅茶もあるし、クッキーもある。こっちも昨日買ってよかった」
うんうんと頷く水鳥を横目に見た紅音は、ふと、微かに眉尻を下げて言葉を探す。
水鳥は昨晩の炎上の発覚から、何事も無かったように振る舞い続けている。だが、胸中がどうであるかは分からない。そんな、紅音の暫時の沈黙をどう受け取ったか、水鳥が口を噤んで気持ちを探るように視線を向けてくる。視線が交わり、紅音は弱々しく笑う。
「大丈夫?」
――水鳥は視線を逸らして考えた後、再び紅音を見詰める。そして、薬指を繋いだ。
「大丈夫」
その一言はまるで、紅音が居るから大丈夫だとでも言いたげで。
紅音は感情に任せて抱擁したくなる気持ちをグッと堪え、「ならいいの」と安堵に微笑んだ。
さて、九時二十七分。呼び鈴が鳴った。紅音は途端に手に汗を握る。
面識のある水鳥は然して緊張する素振りもなく、「私が行くね」と迎えに行った。
水鳥がリビングと玄関を繋ぐ廊下に出るので、紅音は様子を窺いながらテーブルの傍に立つ。気分はホテルマン。ご休憩いただくお客様に粗相のないように――と、心持ちを改めていると、玄関から何往復かの話し声。バクバクと心臓が早鐘を打ち、「ふぅ」と紅音は溜息。
氷室七緒。軽く話は聞いているが、水鳥を見つけ出してくれたマネージャーでありながら、この新居に住むよう諸々の手配を進めてくれた恩人でもある女性。きっと、黒縁眼鏡なんかを着け、横文字を沢山使うんだろうなぁ――などと、馬鹿みたいなことを考えていると。
「お邪魔します」
リビングの扉が開くと、そこから、水鳥に連れられて美しい女性が顔を出した。
――線の細い美人。というのが、紅音の第一印象だった。
背丈は紅音と水鳥より一回りほど大きいが、筋肉量は大差ないだろう。髪は冬の夜空を思わせるような鮮やかで艶やかな黒で、背中まで伸びている。
色白でメイクも薄いが、それが余計に整った容貌を際立たせていた。
「初めまして、甘党あずき――もとい、若菜水鳥さんのマネージャーを務めております、株式会社ステラ・テクノロジー、エスポワールグループ所属の氷室と申します。この度は突然の訪問でありながらご快諾を頂きまして、誠にありがとうございます」
大人の女性が淡々と、誠実に大人の挨拶をしてくるものだから、紅音は慌てて「うぉ」「お」と呻き声を上げた後、手汗を膝に擦り付けながら勢いよく腰を折り曲げた。
「こっ、これはご丁寧にありがとうございます! えっと、配信者をやってます『みづほ』です。あ、本名は穂積紅音で――水鳥さんのルームメイトをさせていただいております」
返ってきた挨拶に、七緒が僅かに身体を起こして紅音を見詰める。
「よろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いします!」
紅音は遅れて顔を上げ、視線を交えるが――その直後、一瞬だけ視線が交錯する。
そして七緒の視線が紅音を見定めるような色を含んでいた。それでいて、その目には紅音を一人の大人として扱うような敬意もあったので、自然と背筋が伸びた。
「申し訳ございません、お言葉に甘えてカジュアルな格好でご訪問してしまって」
七緒はそう言いながら胸元に手を置いて己の服を示す。
服装はデニムのパンツにロングティーシャツ、それから紺色のジャケット。
何ともスタイリッシュで感嘆に唸らされる着こなしだが、何を謝っているというのか。
「いえいえ、そんな」と紅音はそれらしい相槌を打つと、
「と、取り敢えずお掛けください。お茶をご用意します」
そんな風に社会人の仮面をかぶった。
さて、紅音が二名分のお茶を用意してキッチンから戻ると、水鳥と七緒はテーブルを挟む形で座って向き合い、何やらお仕事の話をしていた。聞いてもいいものか分からなかったので、紅音はマグカップだけを置いてそそくさと戻る姿勢を見せる。
「お待たせいたしました。粗茶です。それでは、私は私室に戻っていますので――」
「――あ、待って、紅音。紅音も一緒に座って」
部屋に戻ろうとする紅音の手を、水鳥が握って止めた。
紅音が思わず足を止めて驚きと共に振り返ると、水鳥は一瞬、手を離して、人差し指を繋ぎ直す。相変わらずの無表情だが、紅音はそれで理由に察しが付いた。『不安』の意だろう。
紅音は悩ましそうに半笑いで虚空を読んで、どこかに都合の良い言葉が無いか探す。
紅音としても、傍で水鳥を励ましたい気持ちはあるが、とはいえ、守秘義務もある。
そう思って七緒を見るも、意外にも彼女は笑みを見せた。
「いえ、穂積様もご同席いただいて構いません。寧ろ、是非」
意外だ。唖然とした後、恐る恐る質問を返す。
「あの――釈迦に説法だとは思うのですが、色々、大丈夫ですか?」
「もちろん、会社の経営状況をお話する訳ではございませんので。本日の題目は、昨日の炎上騒動に伴う若菜さんとの打ち合わせと状況のご報告です。必須ということではございませんが、これから周りが騒がしくなってしまう場合もございますので、穂積様にもご一緒に説明をできればと思います。それから、若菜さんの傍に居ていただけると私としても安心できます」
そこまで丁寧に大丈夫だと言われては、もう断る理由もない。
紅音としても詳細は気になるところだったので、「それではお言葉に甘えて」と椅子を引いた。
水鳥が「飲んでいいよ」と彼女のマグカップを差し出してくれるので、紅音はそれに甘えて一口だけ紅茶を飲む。同席するなら自分の分も淹れたかったが、流石にもう遅いか。
「それでは、若菜さん、穂積様。改めてお話をさせて頂きます――」
唾を呑み込む紅音と水鳥に対し、背筋を伸ばした七緒は神妙な顔でこう切り出した。
「――先ずは既にご存じかとは思われますが、具体的に、何が起きたかの事実をご報告いたします。単刀直入に申しますと、」
そこで一拍を置いた七緒は、心の底からの謝意を表情に、言葉を絞り出した。
「弊社タレント『胡桃沢クルミ』が昨日、配信上にて若菜さんのプライバシー……ご病気に関わる情報漏洩を行いました」
胡桃沢クルミ。水鳥と同じくVtuber事務所『エスポワール』に所属する女性タレントだ。
チャンネル登録者は百万人を超えたばかりで、事務所を牽引するナンバーワン。事務所の顔とも呼ぶべき人気タレントなのだが、そんな彼女が昨日、水鳥の病気を暴露した。
細かい経緯についてはまだ紅音も水鳥も把握していない。昨日は、敢えて見ないようにした。さておき、結果として、胡桃沢クルミは大炎上。そして甘党あずきは被害者として名前が上がり――当然、燃え広がった炎に乗って病気の情報も世に拡散されることとなった。
一日経った今、甘党あずきが離人症を患っている事実は周知のものとなった。
水鳥がどれほど傷付いているのかは計り知れない。だが、水鳥はそれを表情に出さない。
けれども、紅音も、そしてきっと七緒も、顔に出ないから傷付いていないなどということは絶対に無いと知っているから、それを主張しない水鳥に代わって、傷付き、怒る。
「改めまして、この度は同事務所のタレントが、決して許されないことを行い、貴女様を深く傷つけたことをお詫び申し上げます。誠に、申し上げございませんでした」
そう言って七緒は椅子を引いて土下座の構えを始めたので――
「わあ、ストップストップ! 氷室さん、土下座は待ってください!」
「氷室さん。それは駄目です。氷室さんは悪くないから。それは、違います」
血相を変えて紅音が制止し、一秒遅れて水鳥もその身体を掴んで止めた。
顔を上げた氷室の表情は、凄いものだった。自己嫌悪と、怒りと、不甲斐なさと、失望と、使命感と――もう、見る人によって如何様にでも解釈できる名画のような綯い交ぜになった顔で。ただ、罪悪感だけは見間違う余地も無く、最も色濃く滲み出ていた。
「貴女には、本当に許されないことを――」
そう呟く七緒の声が酷い悲痛に駆られていたから、紅音は動揺した。
だが、それと同時に――それを認識した瞬間、紅音は彼女を信頼した。
社会人として、ここまで職務に感情的になるのは不適切なのかもしれない。けれども彼女は、事務所のマネージャーでありながら、聞く限りでは水鳥の保護者も同然なのだ。
彼女の涙は、紅音以外にも水鳥の味方が居ることを証明していた。
そして水鳥も同様、相変わらずの真顔ながら、それでも急いで七緒の謝罪を止めようとしたのは、彼女に対して強い信頼を抱いているからに他ならない。
「氷室さんは悪くありません。でも、氷室さんの自罰を否定しきるつもりもありません。そういう誠実さを尊敬していますし、信頼もしているからです。ただ――もしも、本当に私が傷付いたと思うのなら、謝るよりも、いつも通りに励ましてもらえた方が嬉しいです」
七緒はそんな言葉に、やるせない感情を押し殺すように唇を噛み締める。
けれども、どうにか気持ちを切り替え、緊張の糸を切った。身体と表情を弛緩させ、微かな吐息をこぼす。そして、姉のように、母のように水鳥を見詰める。
「苦しく――ありませんか?」
水鳥は紅音を見ながら即答した。
「明るく、賑やかな同居人が居るので」
紅音はヒラヒラと手を振っておく。
「大人の土下座は、学生的には中々反応に困るので。勘弁してください」
敢えて少し失礼な物言いをしてみると、七緒も「省みます」と砕けた敬語で苦笑した。
それでようやく罪悪感も一区切りが着いたか、仕切り直して三名が定位置に着くと、七緒はやや気恥ずかしそうな表情で、一度、頭を下げる。
「――見苦しいところをお見せいたしました。本題に戻らせていただきます。ええと、どこまでお話をしたか」
両頬を親指と中指で挟むようにして記憶を辿る七緒に、紅音は真面目な顔で言う。
「ステラ・テクノロジーの公表前決算報告についてです」
「そうでしたそうでした。確か上期の中間報告が――ってなんでやねーん」
七緒は虚空をビシッとチョップして、投げやりなツッコミを入れた。
てっきり淡白に大人なあしらい方をされるとばかり思っていた紅音は、水鳥と一緒に思わず「おお」と感嘆の声を上げてしまう。アイスブレイク程度の冗談のつもりだったのに。
七緒は雑なボケに乗ったのに相応のリアクションを取ってくれない紅音を、仄かに頬を染めながら見詰める。そして、吐息混じりに笑って囁いた。
「覚えておいてくださいね」
「すみませんすみません! 次はノるので!」
「冗談です、少し気が楽になりました。――コホン、話を進めます!」
そう言って七緒は今度こそ本題に入り、懐からスマホを取り出した。私物の様子だ。
「発生した事象は先程述べた通り、弊社タレントによる若菜さんの個人情報漏洩です。つきましては、発生した経緯についてご説明をさせていただきます。それに当たってなのですが、まず、お二人は今回、胡桃沢クルミが具体的にどのような発言をしたか、ご存じですか?」
周到な確認に紅音と水鳥は揃って首を左右に振る。七緒は頷いてスマホを翳す。
「なるほど――率直に申し上げて、あまり気分の良い物言いではありませんでした。確認しなくても話を進めることは可能ですが、こちらはお聞きになりますか?」
紅音は聞ける。聞きたいし、それで気分を害そうものなら、怒りの燃料にしてみせる。
一方で、水鳥がそれを聞くことによる心的な負荷は想像に難くなく、やや否定的だ。
水鳥が紅音の意思を問うように視線を向けてくるので、紅音は真っ直ぐに見詰め返して「君の意思を尊重する。どっちでも付き合う」と、選択を肯定すると約束した。
すると、水鳥は思い悩むように瞳を伏せ、それから紅音の人差し指を人差し指で掴んだ。
「聞きます」
「――畏まりました」
七緒は逡巡を束の間だけ視線に浮かべたものの、葛藤の末の決断を何度も確かめるほど水鳥に失礼なことは無いだろうと、手際よくスマホを点けて動画を表示する。
そして画面を紅音と水鳥が見えるように置くと、再生ボタンをタップした。
雑談をする配信だったのだろうか。動画の画面は部屋を模したイラストを背景に、投稿されたコメントが画面内にも表示されている。プラットフォームではなく動画そのものにもコメントの履歴を残し、何かの間違いで動画のプラットフォームを変えることになった際、後からでもコメントを遡れるようにする配慮だ。そして、そんな配慮をしておきながら常識に欠く個人情報漏洩を実施したのが、画面の右下に居る少女の絵。
胡桃沢クルミ――背中に巨大な鎌を担いだ、銀髪に白コートの天使だ。
動画が再生されると同時、胡桃沢は画面上で口を開閉して何かを喋り出す。
『あずきちゃん――あ、そうそう、あずきちゃんと言えば! あの子、めっちゃ伸びてるよね、ビックリした! いや、こんな伸びるとは最初会った時思わなかった!』
声は甘ったるいものの、媚を売るようなものではなく、明瞭。聞き取りやすい部類か。
『いや、前に事務所で、オフで会ったことがあるんだよ! あの、いつだっけ。あの子がデビューしてちょっとの頃かな? なんかマネージャーさんに連れられてさ、会議室で一緒になったの! 打ち合わせがあって。だから話しかけたんだけどね、あの子さ、もう、表情筋が死んでるのか分からないんだけど全然笑ったりしてくれなくて! いや、受け答えは全然問題なかったんだけど、顔! もう、本当――ずっっっっと真顔! 流石にちょっと怖くてマネに聞いたの! そしたら何だっけ、離人症? みたいな精神病――』
震える七緒の指により動画が停止され、途端、紅音は水面から浮上したように弾む呼吸を繰り返す。知らず知らずに身体が強張っていたらしく、不自然なくらいの倦怠感が訪れる。
危惧していたよりも、悪意は無いように思える。
だが、とにかく、無神経で無頓着だと感じた。
『Vtuberは仮想世界に存在する配信者である』というスタンスは黎明期に存在したものの、現在では、『モーションキャプチャーを使ってイラストを動かすアイドル兼配信者』という実態が近い。無論、活動内容にもよるが、とにかく『現実』の話を持ち出すことは何ら珍しいことではなくなりつつあった。
だから、胡桃沢がそれを口にしたこと自体は一概に咎められないかもしれない。
しかしながら、ソフトウェアを使ってまで隠していた病気を暴露するのは、呆れるばかり。
怒りよりも疲弊が強い。どうしてこんなことを、と、回答も得られない疑問を繰り返してしまう。紅音は片手に握った汗を、手を開いて乾かす。そして、もう片方の手の人差し指を辿って視線を水鳥の横顔に向けると、やはり彼女は無表情だった。しかし、繋いだ人差し指が固く強張っていたので、紅音はやるせない気持ちを噛み締め、人差し指を離して手を握り直す。
すると、少しずつ水鳥の硬直が緩んでいく。
やがて、彼女も目を瞑って紅音の手を握り返した。
七緒もどうにか複雑な感情を押し殺して、努めて冷淡に説明を再開した。
「――ただいまお見せしたのが胡桃沢クルミによる個人情報の漏洩です。そして、昨日の内に社内調査を実施し、彼女の担当マネージャー及び若菜さんと契約を結ぶ際に関与した社員一名、併せて二名による不適切な個人情報の取り扱いがあったことを確認しております。両名にはこれから厳正な処罰が下されることとなるでしょう」
口先だけでないことは、その発言をした人間が氷室七緒であるという一点で信頼する。
「胡桃沢クルミにつきましては、専属マネジメント契約――若菜さんにもご同意頂いている書類の七条六項の項目、即ち業務上知り得た秘密の保持契約違反という形で注意及び始末書の提出、または謹慎、契約解除のいずれかの処罰を社内で検討し、下す運びとなります」
「契約解除!」流石に物騒な響きを無視できずに紅音が声を裏返す。
「そこまでするんですか」と水鳥の実感のない疑問がそれに続いた。
七緒は両名の疑問を受け止めると、厳粛な顔でハッキリとスタンスを示した。
「今回のケースは『タレントの不祥事』でありつつも『タレントの秘密を守れなかった事務所の信用失墜』の側面も強いです。若菜さんのようなご事情を抱えた方が再び入社またはタレントとして契約される際、その秘密を事務所は守れないという前例を示してしまったのです。二度と再発を起こさないという意志を対外的に示す為にも、厳罰が必要です」
ピリ、と冬場の乾燥した肌が裂けるような痛みが肌を襲う。緊張感に固唾を飲んだ。
大人が大人の世界で容赦なく誰かを罰するには、途方もない意志が伴う。
「あの――事務所の、チャンネル登録者数一位ですよね? 百万人超えで」
「ええ、穂積様のご懸念はご尤もです。事務所としてはとても痛手。社内でも反発の声は上がるでしょう。しかしながら――もしもデビュー直後のタレントが胡桃沢クルミのプライバシーに関わる秘密を暴露する構図であったら? その時に全く同じ反発ができないのであれば、それは数字を以て処罰を判断しているに相応しい。その差異は契約書に記載されていません」
毅然とした七緒の態度には痺れるくらいの決意と覚悟があり、それは会社の人間からすれば疎ましいものであるかもしれない反面、紅音は格好いい、と感じてしまった。
「しかしながら、契約解除が妥当であるかは要検討といった次第です。少なくとも――現状、胡桃沢クルミは社会的な制裁を充分に受けているだろうというのが私の見解です」
その言葉には大いに頷くべき部分があり、紅音と水鳥は不満の声を上げる気は無い。
「こちらを」と七緒が捜査したスマホを再び二人に見せる。
それは昨日、焼き肉屋で水鳥が見せたものと全く同じSNS。そのトレンドの六位に『胡桃沢クルミ』、十五位に『甘党あずき』の名前がある。
その他のトレンドもちらほらと個人情報漏洩についての内容が目立つ。
「昨日から彼女は大炎上を続けており、昨日に比べてやや勢いは収まっているものの、炎上の続き方としては滅多に類を見ない具合です。投稿の内容は概ねプライバシー軽視への批判、否定。一部には行き過ぎた人格否定や誹謗中傷。自称精神科医による発達障害に違いないといった根拠薄弱な決め付けや自称関係者による嘘のエピソードまで出回っています」
胡桃沢クルミは好きになれないが、それでも、度が過ぎている燃え方だ。
「大炎上ですね。同業者でここまでのものは初めて見ました」
他人事のように冷淡な感想を呟く紅音に対して、水鳥は指先を震わせながら続く。
「胡桃沢さんは……ここまで言われるようなことをしましたか?」
その言葉はまるで胡桃沢を擁護するようで、紅音と七緒は思わずその顔を確かめてしまう。
しかし、相変わらずの無表情。何を考えているかは分からない。
だが、紅音は指先の強張りを以て彼女の同情を感じ取った。だから、問いを重ねるように七緒を見る。すると、彼女は顎を摘まんで、仮説を構築しながら語る。
「胡桃沢クルミは、元々――所謂『アンチ』を徹底的に潰す、気丈なスタンスが話題性を集めて伸び始めたタレントです。そしてタレントというものは強固であればあるほど反発を生むもの。日頃の彼女に不満を持っていた人間が良い機会だと薪をくべているのでしょう」
「……正義の大義名分を得てしまったから」
七緒はそんな水鳥の嘆きのような呟きを前に、諦観と達観で頷いた。
「ええ――中には若菜さんを攻撃して矛先を逸らそうとする人も居ますが、その全てが苛烈な批判により瞬く間に抑止されているのが現状です。少なくとも今回の事件、若菜さんは全面的な被害者であり、社会的にもそう認識されています。炎上の矛先が向くことは有り得ないでしょうが、あったとしても、事務所としては何より最優先に貴女を守ることをお約束します」
七緒の口からそう告げられ、紅音は胸を撫で下ろす。
「間もなく事務所からも声明が発表されます。処罰についても言及されますし、追って胡桃沢クルミから若菜さん宛てに謝罪もあるでしょう。その後は、恐らく本人の口から事情を説明する機会も設けられると思われます。――数日もすれば火の勢いは弱まる見込みです」
そこで一息を吐いた七緒は、吐きそうになった溜息を呑み込んで微笑みを取り繕った。
「ご説明は以上です。何かご質問はありますか?」
紅音は緩やかに首を左右に振る。七緒に任せれば問題ないという全幅の信頼があった。
しかし、水鳥は押し黙って視線を俯かせたままだった。そして、「あの」と切り出す。
「胡桃沢さんの処罰に私の意向を反映してもらうことは、可能ですか?」
軽い罰では許せないということだろうか?
流石に意図が読めずに紅音が静観する傍ら、同様に七緒が慎重な返答をする。
「会社と彼女との間に交わされた契約書の内容に違反があったため、契約書に基づいて処罰するというのが今回の流れです。お気持ちを汲んで判断することは不可能ではありませんが、直接的に反映させるというのは難しいです。何か――ご懸念が?」
七緒が担当タレントの気持ちを真っ直ぐに尋ねると、水鳥は目を合わせて語った。
「悪意は無いと思うんです、胡桃沢さんには」
「……なるほど」
「悪い人ではないので、そこまで重い罰にしないでいただけると嬉しいです」
そう言って加害者の為に頭を深く下げる被害者の姿を、紅音と七緒はやるせない顔で見詰めた。今回の騒動で最も傷付いているはずの人間が、張本人の為に、頭を下げているのだ。
見世物ではないが、この姿をこそ本人に見せて反省を促すべきではないかとすら思う。
七緒は警戒を解いて口許に笑みを湛えると、「顔を上げてください」と優しく伝える。
「若菜さんの気持ちは分かりました。その旨は会社に持ち帰って必ず報告いたします」




