10話
――話は戻って現在。
紅音と水鳥はKALDIを出た足でしばらく商業施設を歩き回り、満足すると外に出た。
それからカラオケに入って、三時間ほど歌って喉を嗄らした。
外に出る頃には、初夏の空はすっかり暗くなって、そこには星々が輝いていた。煌々としたカラオケ店の照明を逆光に、二人で道路を行き交う車のテールランプを見送って、それから時間を確かめるように街灯に色褪せた月と星を仰ぐ。
間もなく、示し合わせたように二人の腹の虫が鳴った。思わず顔を見合わせる。
迷子の少女を助けた際には少し暗いように感じられた水鳥の表情も、全く変わらない真顔のままではあるものの、幾らか明るく元通りになっているような気がした。
「また行こうね、次は負けないから」
二人でカラオケの採点機能を用いて勝負をしていたのだが、水鳥は手持ちの楽曲が驚くほど少なく、カラオケの経験も乏しいため惨敗の結果で終わったのだ。悔しさから滲む闘志を感じさせる声色で宣戦布告をする水鳥に、紅音は内心の安堵を食えない笑顔で隠す。
「んっふっふ、私に勝てるまで歌配信はできないねぇ」
ニチャ、と粘ついた嫌らしい笑みを浮かべると、きっと悔しいのだろう。水鳥は黙る。
タレント次第ではあるものの、Vtuberの中には歌をする配信を設ける人も居る。中には、既存の楽曲をカバーしてネット上にアップロードする『歌ってみた』まで手掛ける者も。その手合いは大抵、大なり小なり自分の歌声に自信を持っているものだが――
「軽口を叩けないくらい悔しいんだけど。次は本当に負けないからね」
水鳥はやや淡々としつつも、聞き比べれば分かるくらいにはハッキリと突き放すような言い方で悔しさを滲ませるので、本当に分かりやすいよなぁ、と紅音はクスクスと笑う。
「楽しみにしてまーす」
軽口合戦も終わったので、紅音はグーグルマップを開いて近場の飲食店を探す。
「――さて、そろそろ良い時間だしご飯を食べて帰りたいのですが……ご希望は!」
マップに表示された飲食店の数々を水鳥に見せると、水鳥は顔を近付けて画面を見詰める。
少し目に悪いかと思った紅音は若干光量を落とす。
恐らく気を遣ってのことだろうが、水鳥は紅音のスマホに触れずに飲食店を探そうとするので、やれやれ、と紅音は水鳥の手を持って、そこにスマホを手渡す。
そして、目の前の大通りを何十台か車が通過した後、一生懸命に店を探していた水鳥は、少しぎこちない動きで顔を上げる。「決まった?」と微笑んで首を傾げる紅音に、水鳥は微かに頷いて「た」と呟いた。「た?」と首を更に反対に傾げた紅音へ、水鳥は声を絞り出した。
「食べ放題っていうのに、行ってみたい」
うってつけの場所が徒歩数分の場所にあったので、紅音は迷わずそこへ水鳥を連行した。
木目調の看板に達筆の店名が描かれた、焼肉チェーン店だ。
広々とした店内は家族連れを筆頭とした客で賑わっているものの、二人が恐る恐るガラス扉を開けた頃には、運よく席が一つだけ空いていて、そこに案内された。四人掛けのテーブルだ。中央には炭を抱えた網が置いてあり、それを挟むように二人は向かい合って座る。
少し高めのお店だからか、席は個室のように仕切られ、入り口側も引き戸で開け閉めできるようになっている。案内直後、炭に火を灯した店員が「ご注文が決まりましたらボタンでお呼びください」と紅音の手元のボタンを指すので、「あ」と紅音は手を挙げて呼び止める。
「水鳥、これでいいよね?」
紅音は開いたメニュー表の食べ放題の中から最も品数の多い五千円のものを指す。
微かに頭を震わせた水鳥が返答に詰まるも、店員を待たせているというプレッシャーから正常な思考力を奪われた彼女は、真顔のまま二回頷いて了承の意を。
「こちらをお願いします」
「畏まりました」
そう言って店員はメニュー表の近くにあったタッチパネルを有効化して食べ放題を好きに注文できるように設定。優雅な仕草で一例をすると、個室の引き戸を音もなく閉めた。
「……五千円」
水鳥がメニュー表をジッと見て、ただその一言だけを呟いた。
こういう時の彼女は『何かを言いたいが何を言うのが適切か分からない』のだ。大方、こんな高額を紅音に注文させて気が引けているのだろう。とはいえ、紅音からすれば公認の切り抜きチャンネルに投稿させている動画一本の分配分だけで容易に賄える金額であり、日々の美味しい食事の恩返しとしては、少し即物的過ぎて気が引けるくらいだ。
そして水鳥も将来的には、今の紅音以上の額を稼げるようになる。今はまだ、急成長したチャンネルに特殊な環境も加わって実入りは少ないだろうが、それも改善されていくはずだ。
紅音はタッチパネルを手に取り、それを水鳥に差し出す。
「チェーン店じゃない高級なお店だと、一万円を超えることもあるみたいだよ」
ニヤニヤと笑って見せると、水鳥は「信じられない世界だ」と呟きながら受け取る。
それは全くその通りで、紅音もお金はあるが行ったことはない。だが、
「――いつか二人ともお金が貯まったら、行ってみたいね」
タッチパネルを操作していた水鳥はピタリと手を止め、徐に顔を上げて紅音を見詰めた。
焦げ茶の髪のカーテン越しに覗く琥珀の双眸は相変わらず無機質で無感情だったが、今はその向こうに様々な感情があることを紅音は知っている。ニコニコと笑ってみると、水鳥は静かに、小さく頷いた。それから、もう一度、今度は大きく頷いて言った。
「うん、絶対に行こう」
さて、それから二人でタッチパネルを好き放題に押し合って好きな肉や飲み物を注文すると、間もなく白い皿に載せられた赤々とした肉達や、氷が軽やかな音を奏でるグラスが届く。トングを分け合った後、二人で結露の浮かぶグラスを掴む。
「乾杯」「かんぱーい」とグラスを打ち鳴らし、一口飲んでから好きに肉を焼き始めた。
「もしかして、焼肉も初めて?」
紅音がカルビを焼きながら尋ねると、水鳥は見様見真似で牛タンを焼いていく。脂が溶けて炭に落ちる際の何とも官能的な音が個室に響きつつ、煙は吸気口に舞い上がっていった。
「うん。でも動画とかで見たことあるからやり方は分かるよ」
「そっか。――焼き肉屋のバイトも大変だよね。網を変える時は素手なんだもん」
「いくら私が世間知らずでも、その嘘は見抜けるよ」
「客が焦がした肉は裏で店長が責任もって食べてるらしい」
「可哀想という言葉でも足りないくらい憐れだね」
「ニンニクはニンニクと書いて『葛藤』と読むんだよ」
紅音は言いながらニンニクを一匙だけタレの入った小皿に落とす。
少し毛色の違う嘘に何らかの思惑を嗅ぎ取った水鳥が「葛藤?」と懐疑の声を上げるので、紅音は「そう」とニンニクの小瓶を彼女の方へと滑らせた。
「ニンニクなんて入れれば入れるだけ美味しいんだから。でもね、やっぱり乙女としては食べ終えた後の匂いというものが気になる訳です。どこまで入れていいのか⁉ どこまで入れたいのか⁉ 自分の欲求と体裁の間で揺れ動く――故に、『ニンニク』」
「一匙でいいや」
水鳥は飄々と紅音の軽口を聞き流すと、紅音と同様に辛口のタレに一匙だけニンニクを入れた。やれやれと紅音が肩を竦めている内に、肉が両面色付く。
紅音と水鳥はお互いに育てた肉を拾い上げ、そしてタレを付けて白米に被せる。「それじゃ」「いただきます」と改めて手を合わせて、夕飯を開始した。
紅音が白米を巻いた肉を口に放り込むと、甘辛いタレが絡まった柔らかいカルビが、溶けるような歯応えと共に肉の味を主張する。それを絡め取るように白米が唾液と肉汁の調停役を担い、自然に頬を綻ばせながらモグモグと紅音は箸を進めていく。
そんな紅音の目の前で、水鳥は変わらぬ真顔で静かに箸を進めていた。
一心不乱に肉の載った皿を見ているので、次は何を焼くか考えてるんだろうなぁ、と笑っていると、水鳥は紅音の視線に気付く。返してきた視線がバッチリと衝突したかと思うと、水鳥は突然、何かを考え込むように視線をテーブルに落としてしまったので、紅音は首を傾げる。
「どうかした?」
水鳥は口の中の油分をウーロン茶で流し込むと、指の結露を紙ナプキンで拭う。そして、テーブルに付着したコップ状の結露の跡も拭うと、じっくりと間を置いて言った。
「折角ご馳走して貰ってるのに、良いリアクションができなくてごめん」
紅音は気にせず口に運ぼうと箸で掴んでいた焼肉を虚空で止め、唖然と口を開ける。
流石に気にした。
「食レポしてる芸人じゃないんだから! そんなの気にしなくていいよ?」
しかし、水鳥は何だか嫌なことでも思い出したように、すっかり視線を伏せてしまう。紅音と目を合わせることもせず、目を瞑りながら指先の感覚でナプキンを折り始めた。
「……昼間の、迷子の子供の時もそう。自分でも良くないとは思ってるの」
「良くないっていうのは……えーっと、その、表情というか?」
要らない配慮だとは思いながらも単語を濁して訊き返すと、重い首肯が返ってきた。
「離人症。表情が薄くて――感情表現が乏しいこと。そのせいで、あの子を怖がらせた」
「迷子の女の子? 仕方ないよ、アレは表情だけの問題じゃないと思う」
「でも紅音にはすぐ気を許してた。――いや、ごめん、それは関係ない。紅音が簡単に解決したことに嫉妬してる訳じゃないし、比較をしてる訳でもないの。ただ、怖がらせちゃったのが申し訳ない。両親と会えなくて怖がってる子を、更に追い詰めた」
表情は変わらずとも、その言葉の節々からは自己嫌悪が窺える。
本当に優しい女の子なのだと感心し、感動しながら紅音は返答を考える。
感情的には水鳥を励ましたいが――それはこの場を綺麗に収めるための処世術に過ぎず、誠実さに欠ける。彼女の吐き出した苦悩を真に受けて考えてみると、実際、水鳥の無表情は少女を不安にさせただろう。それ故に、紅音は「なるほどねぇ」と相槌を打つしかない。
「それに、紅音にも迷惑をかけてる」
『迷惑?』と訊き返しそうになった口を、紅音は辛うじて閉ざす。
迷惑などとは思っていないが、水鳥が罪悪感を抱く原因は幾つか思い浮かぶ。
水鳥が対処できなかった迷子の少女のフォローや、今のように美味しいご飯の感動を分かち合うことができないなど。
紅音からすれば些末なことではあるが――『こんな病気だから、施設の子にも気味悪がられてね』という、初めてその病気を打ち明けられた日の水鳥の言葉から察するに、彼女はずっと、それに囚われているのかもしれない。
気にしないで、と、背中を叩くのは簡単だ。しかし、実際、水鳥はその精神疾患による実害を受けている。そこから救い出すには専門家の知識が必要で、紅音にそんな芸当はできない。
だが、救い出すことはできずとも、寄り添うことならできるはずだ。
「――まあ、水鳥自身が私に迷惑をかけてると思うなら、私が安易に否定するのは的外れかもしれないね。それでも念のため言っておくと、私は気にしてない。人には向き不向きがあるし、昼間の出来事は私に向いていた。今の食事も、変わらず美味しい。それだけ」
「……うん」
幾らか気は楽になってくれただろうか。頷く首が先程よりは軽そうに見えた――などと、すっかり水鳥の考えていることが分かるようになった紅音は、もう少しだけ言葉を重ねた。
「それはさておき、私相手には気持ちが通じないとか、そういう心配はしなくていいよ」
椅子に背を預けて背筋を伸ばし、得意げに笑って指を立てる紅音。単なる励ましとは趣の違うその言葉をどう解釈していいか測りかねるように、水鳥は「どうして」と。
紅音はテーブルに両腕を置くと、不敵な笑みで水鳥を見詰めた。
「例えば今、落ち込んでるね? 私に迷惑を掛けてるんじゃないか、とか思って」
「そりゃ……そうだよ。それは流石に、分かってくれると嬉しい」
「まあまあ。そして、昼間の迷子の子に警戒されてる時は傷付いていた」
「傷付いてはいないけど、申し訳ないとは――や、まあ、傷付いたことになるかも」
「でしょ? そんでさ、朝は私が服を褒めたから、お返しにわざわざ褒め返してくれた。これは君が優しいからで、同じことを返したいって思ってくれたんだと思う。服を選んでる時は浮かれてたね。真っ先に近付いたロングスカートは自分に似合ってると思う反面、ミニスカは可愛すぎて似合わないかも、って。でも足を止めたってことは気になってる証拠。それから――カルディに寄った時は私を気にも留めず店に入っていた。相当楽しみだったんじゃない? それで、商品を手に取る時の動きはいつもより俊敏だった。ワクワクしてるからかな?」
長々と話した紅音は、ふぅ、と溜息を吸気口に向けて吐き出した。
視線を少し下げると、水鳥の無表情が構えている。しかし、「今は――驚いてくれている、と、思うんだけど。どうかな?」と尋ねると、水鳥は瞳を揺らしてぎこちなく、けれども確かに頷いた。それを以て答え合わせを済ませた紅音は、ニヤリと笑うと水鳥の顔を覗き込む。
「君は自分を分かりにくい人間だと思ってる。実際、初対面の頃はそうだったよ? 君が過去に触れ合ってきた相手も、そういう風に言ったかもしれない。でもね!」
紅音はそこで一拍を置くと、笑みを少しだけ柔らかいものに変えた。
「君は、君が思っているよりもずっと分かりやすい人だよ」
その言葉が水鳥にとってどれだけの意味を持っているのかは、紅音は知らない。考えない。だが、自分はそう思っているという事実を伝えることに意味がある。
少なくとも、水鳥は紅音に対して『気持ちが伝わっていない』心配をする必要はない。
全部とは言えない。それでも確かに、伝わっているし、汲み取れているのだから。
水鳥は暫時、口を噤んで真っ直ぐに紅音を見詰め続けた。表情どころか身体も動かさない。その状態が十秒ほど続いて、流石に心配になった紅音が何かを言おうとした矢先、
「ほんとうに?」
普段の大人びた淡白さの消え失せたあどけない疑問が紡がれた。
その言葉に宿る感情は、確かに分かる。『そうだったら嬉しい』だ。
「本当に」
ハッキリと伝え返すと、水鳥は「そっか」と呟いたきり、再び押し黙った。
肉の載っていない網が陽炎を立ち昇らせ、その奥の隅が煌々と赤く輝く様を二人で眺める。個室の外で他の客が騒ぐ声が、別の世界の出来事のように耳の奥でくぐもる。
どれだけの時間が経ったのかは分からないが、しばらくすると、水鳥は口を開いた。
「折角のご飯の時に、暗い話をしてごめんね」
「ほんとにね! でも、いーよ。寧ろ、もっと吐き出してくれると嬉しいな」
明るく済ませられたら嬉しいとは思う反面、どんな場面でも水鳥の気持ちが救われるなら、それは何よりも嬉しいことだ。そう思う紅音に、水鳥は背筋を伸ばして言った。
「――本当に、本当にありがとう。さっきの言葉、凄く嬉しかった」
表情で伝えられない部分を、水鳥は改めて言葉で伝え直した。
言われなくても分かっていたつもりだが、言ってもらえたらもっと嬉しい。「よかった」と紅音は満面の笑みを返し、心なしか明るくなった気がする顔で、水鳥も頷いた。
「少しずつでも、気持ちを伝えられるようになったら嬉しい」
水鳥は自分の精神疾患について――半ば、諦めるような姿勢を取っていたのではないだろうか。『何度か精神科には行ったんだけど、全然治らないから、最近は行ってない』と彼女は語っていた。治すつもりで病院を訪ね、それが一向に快復する傾向が無いとなれば、徒労は余計に心に来るだろう。諦めるというのは期待を捨てること。
それが彼女の、心を守る最良の手段だったのかもしれない。
だからこそ、今、彼女が改めて、気持ちを伝えられるようになりたいと言ってくれたことには大きな意味があると、紅音は考えた。
「紅音にも、もっと私の気持ちを伝えたい」
水鳥が重ねてそう言ってくれるので、紅音は嬉しくなって、少しでも力になれることは無いだろうかと考える。そしてふと、妙案に思い至った。
「別に今でも充分伝わってるけどね。でも、そういうことならさ――」
そう言って急に立ち上がった紅音を黙って見詰める水鳥。紅音はそちらに近付くと、彼女が椅子に置いていた荷物をいそいそと自分が座っていた場所に移し、そして隣に座った。
「紅音?」
何がしたいのかと尋ねるような水鳥の疑問に、紅音は見得を切るように右手を広げて返す。
「私達の間で通じるサインを作らない?」
「……サイン?」
「そう、サイン。例えば――『お前のせいで!』と怒った時は相手を指す!」
そう言って紅音が不躾に水鳥を指さすと、水鳥はマジマジと人差し指の先端を眺める。
「サインは凄く良いと思う。でも、人に向かって指さすのはあんまり良くないかも」
「あ、はい――じゃあ、そうだね……こうしよっか!」
そう言って紅音は手を伸ばし、膝の上にあった水鳥の手を握って手元に引っ張る。水鳥は抵抗せず、されるがままだ。そしてお互いの手を二人の間まで持ってくると、紅音は掴んでいた手を離す。そして代わりに、自分の人差し指で、水鳥の人差し指を引っ掛けるように握った。
一拍、無言と共にお互いの視線が真っ直ぐに交錯した。紅音は気持ちを伝えるように、そして水鳥はその感触に驚き、それから紅音の気持ちを汲み取るように。この世界が横並びに椅子に座った自分達だけになったのではないかと錯覚するような、そんな集中の中で、視線は相手の気恥ずかしそうな瞳を。耳は遠くの喧騒という雑音を捨て去って、相手の少し乱れた息遣いだけを。神経は、人差し指から感じる、相手の温かい人差し指の感覚だけを感じ取っていた。
「君が落ち込んでたり――それから、悲しんでる時は私と人差し指を繋いで」
そう言って紅音が指を離すと、水鳥は表情を変えず、しかし名残惜しむように指を紅音に伸ばす。そんな水鳥の手の中から、紅音は次に中指を選んで繋ぐ。
「中指は怒りや軽蔑、罵倒にしよう! 中指を突き立てるイメージだね!」
イメージと合わせると覚えやすいだろうと思って紅音が笑いながら言うと、水鳥はようやく我に返ったようで、繋いだ指をジッと見詰めていた瞳を、辛うじて紅音に向けた。
「面白いチョイスだね。覚えやすくていいと思う」
「ふっふっふ、私と君のサインだからね。私達が分かりやすくないと」
そう言って紅音は次に、中指を繋いだまま――親指を繋いでから、中指を離す。一秒でも離れるのが少し寂しくて妙なやり方をしてしまったが、水鳥の指は応えてくれた。
「親指はサムズアップだからね。肯定的な感情を全部詰め込もうか。喜び、感謝、楽しいとか嬉しいとか――『いいね!』って感じの気持ちは大体ここ!」
そう言った直後、ぎゅ、と水鳥の親指が紅音の親指を抱き締めた。
「こういうこと?」
早速有効活用してくれているらしい。
少し面倒なハンドサインを提案しているため、或いは水鳥は面倒に思っていないかとも考えたのだが、色々な感情の込められた力強い親指の抱擁がそれを否定してくれるので、紅音も満面の笑みで親指を強く抱き締め返す。親指以外の手持ち無沙汰な四本を、水鳥の親指を撫でるように握る。すると水鳥は、紅音の手を包み込むように手を握り返してきた。
体温が五指を介して行き来する。接触面積が広ければ広いほど、お互いの体温を余すことなく受け止めることができる。だからだろうか、紅音は少しだけ身体が熱くなった気がした。
「そ、それで――ええと、小指!」
そう言いながら小指で指切りをするように繋ぎ変えると、緩慢な所作で水鳥はそれに従った。
「指切りげんまんだから、『約束』とか、転じて『もうしません、ごめんなさい』とか『安心してください』とかかな? お互いを信頼し合うための指にしよう!」
水鳥は満足してくれたようで、「覚えた」と大きく頷いてくれた。
「こんなところかな?」
「薬指が残ってるよ」
「うーん……『お薬買ってきたよ』」
「面白いけど、使い道が限定的過ぎるね」
「薬指……薬指かぁ。イメージ、イメージ――」
呟く紅音にふと思い浮かんだのは、結婚指輪。それを反映するのは少しだけ恥ずかしいが、けれども、恥ずかしいと思う間もなく、紅音は反射的に薬指を水鳥と繋いでいた。
「じゃあ、愛情! 大切にしますとか、そういう気持ちにしよう」
これで五本の指を繋ぐことで、より簡単に、正確に気持ちを伝え合えるようになったはずだ。
水鳥は暫時黙って、握り合った薬指を見詰めた。そして握り合う指に優しく力を込めると、もう片方の手を隣の紅音の膝上に置く。剥き出しの膝に熱い手が置かれて、紅音は一瞬、肩を震わす。けれども水鳥は手を離さず、至近距離から真っ直ぐ紅音を見詰めて言った。
「ありがとう。絶対――絶対に、全部覚える。だから、紅音も覚えて」
そう言って水鳥が繋ぐ指を小指に変える。『約束』ということだろう。
当然、その場の空気だけで紡いだ言葉ではない。最初は――同居人であって友人ではないのだから、適度な距離感を保とうと考えていた。けれども、今は明確に、友人だ。友達が困っているのなら、紅音は寄り添いたい。相手の為にできることをしたい。
そして何より紅音も、友達の気持ちを知りたい。
紅音は小指を固く握り返し――けれども、気を遣わせてはいないかと念の為、心配する。
「でも、無理には使わなくてもいいからね?」
そんな風に念を押すと、真顔のまま繋ぐ指が中指に変わった。――怒ってる!
「そんな風に言わないで」
「ああごめんごめん、怒らないで、怒らないで」
紅音はそう言うと、紅音の方から繋ぐ指を薬指に変える。一瞬、水鳥の指先が強張る。けれども、熱で氷が融けるように、徐々にそれを受け入れた。紅音は言う。
「――もしも、どう言語化していいか分からない感情があったら、その時は指じゃなくて手を握って。君が、色んな人に表情で気持ちを伝えられるように成長したいって言うなら、私はそれを応援する。だけど、私にはそんな風に肩肘を張らなくていいから。その時に感じた気持ちを、どうにか私に伝えてくれたら……私は必ず、それに応えるから」
これは『約束』だが、それ以上の『友愛』のつもりだった。
だから、水鳥も小指に繋ぎ直そうとする動きを止め、薬指に力を入れ直した。
「ありがとう、紅音。同居人が君だったのが、私の人生で二番目の幸運だと思う」
嬉しい――辛うじて嬉しい! けれども、一番でない方がどうしても気になった。
「い、一番目は……」
「同居の切っ掛けにもなったVtuberデビュー。マネージャーとの出会いかな」
「ぐ、ぐぅ……何だか悔しい」
奥歯を噛んで悔しがっていると、そんな紅音の薬指を握る指に更に力が入る。何だか誤魔化されているような気がしないでもなかったが、今はそれに騙されておく方が賢明だろうか。
紅音の百面相を黙って見詰めていた水鳥は、瞳を伏せて紅音の膝から手を離す。
「私は……身の周りの人に恵まれてるね」
紅音は思わず、少しだけ見張った瞳を向けた。
――そんなことはないだろう。と、出そうになった言葉を際で飲み込む。
人に第三者がレッテルを貼る行為がどれだけ失礼かは百も承知で、それでも、若菜水鳥は恵まれた側ではないと思う。注釈を加えるなら、彼女に比べれば自分は信じられないほど恵まれた人間だという自覚が紅音にはあったので、相対的に、という話ではあるが。
彼女の両親についてはまだ詳しいことは分からないが、児童養護施設では、彼女の病気と誠実に向き合う職員は当たり前のように存在しても、それに非合理であろうと寄り添ってくれた人は居なかった。同年代の子供にも。それは児童養護施設が悪いという話ではなく、水鳥の精神疾患と来歴が集団生活と致命的に噛み合わなかった、という話ではあるが。
それでも、やはり恵まれているとは言えないだろう。
しかし――そう伝えることに意味は無い。
水鳥が自分を周囲に恵まれた人間だと言うのなら、その言葉を真実にするだけだ。誰の目にも明らかに『恵まれている』と言えるくらい、自分が彼女の為になる。それだけだ。
「私がその言葉を事実にするよ」
そう言って紅音が薬指に力を込めると、水鳥はそんな紅音の瞳を見て気持ちを確かめる。それから、「うん」と、少しだけ弾むような声で頷いてくれた。
さて、注文した肉はまだ半分も焼けていない。
「そろそろご飯に戻らないと! 食べ放題の時間が消えちゃう」
そう言って薬指を離して水鳥の対面の席に戻ろうとする紅音だったが、その手を水鳥が掴み直す。目を白黒させて水鳥を見ると、彼女は真っ直ぐに紅音を見詰めた。
「ごめんね、最後に聞きたいんだけど。紅音って――本当に恋人居ないんだっけ?」
心臓が変な跳ね方をした。自分でも、どうしてこんなに動揺しているのかは分からなかった。
端的に事実を言うなら、今も昔も恋人を作ったことは無い。一切興味が無い訳ではないが、そうしたいと思えるほど好意を抱いた相手が居ないのが実態だ。だから疚しいことなど何一つ無いはずなのだが、どうしてか、その質問には慎重に答えるべきだと思った。
「い、居ないけど」
「こんな素敵な人なのに。それとも……そういうことに興味が無い?」
そう言いながら紅音の手を両手で掴む水鳥。その顔は相変わらず無表情だったが――水鳥は自分の気持ちを伝えるように、紅音の手を自分の手で開いて、薬指に薬指を絡めた。
――あ、マズイ。紅音がそう思った瞬間には手遅れで、身体が熱くて変な汗が手に滲む。水鳥と目を合わせるのが恥ずかしくて、思わず目を逸らした。思考が追い付かない。自分はどんな気持ちで何を考えているのか、彼女はどういう意図があってこんな言動をしているのか。
そんな時、助け船を出すように、鈍いバイブレーションの音が二度、個室に響いた。
音の発生源を見ると、テーブルの上に置かれた水鳥のスマホだった。
二人で思わずそちらを見て、自然と手が離れる。紅音は後ろに手を組んで、己の薬指に残る異様な熱さを手で確かめる。そして、一抹の名残惜しさを胸の内に隠し、震える心臓に言葉が乱されないよう細心の注意を払いながら、尋ねた。
「何か来たね?」
「業務用のslack。多分マネージャーだけど――珍しい」
そう言いながらスマホを手に取った水鳥は、ピタリと口を横に結んで押し黙った。
どうかしたのだろうかと見守っていると、水鳥は一分ほど黙ってスマホを操作し続ける。何やら込み入った事情があるのかもしれないと察した紅音は、そっと荷物を戻して対面の席に座り直し、水鳥の分も含めて肉を焼き始める。肉の脂が過熱した炭に滴り、ぼぅと業火を燃え上がらせて火花を散らす。紅音は「あちち」と困りながらトングで肉と格闘。
「炎上した」
水鳥が呟く。紅音は肉を焼く手を止めずに頷いた。
「んー、なんか炭の種類とか脂の量とかでね、たまにこんな感じで燃えるのさ」
「そうじゃなくて」と水鳥が続けるので、紅音は「うん?」と顔を上げる。
すると水鳥はスマホを紅音の方に向けていた。
画面に表示されているのはSNSのトレンド。当該SNSにおいて、どの話題がどれだけ投稿されているか――の、簡単なランキングのようなもの。
その四位にあるのは『甘党あずき』の五文字。紅音が遠赤外線で火照った眼球を潤すように何度か瞬きをして確かめるも、その文字は変わらない。水鳥は、再びこう言った。
「炎上した」




