第58話 環境改善:悪臭対策
ルナ伯爵の領地。
早朝、農民が農具をかついで歩いていた。
その背後には、民家や公共施設が密集していて、簡素な防壁で囲まれている。集団で外敵から身を守るためだ。
防壁の外には畑が広がっている。
「広がったなぁ……畑」
農民は、はるか遠くを見てつぶやいた。
感慨深く思いながら歩いていくうちに、風景が変わった。
「以前は、ここまでだった」
後ろを振り向く。
不揃いで歪で雑然とした畑が広がっている。
ルナ伯爵がこの地の領主になる前からあった、自分たちで耕した畑だ。
「……ありがたい事だ」
前を向く。
磨き上げたように美しく揃い、同じ形のレンガやタイルを敷き詰めたように整然とした畑が広がっている。
ルナ伯爵がこの地の領主になってから、領地軍や王都の魔術師を動かして作らせた畑だ。
「こんな立派な畑を、あっさり『与える』と言われた時には、ぶったまげたな……」
貸し出すのが普通だ。もちろんタダではない。貸賃として収穫の一部を持っていく。そしてこれはあくまで貸賃なので、税は別で徴収される。結局、小作農の利益は少ない。生きていくのに必要な最低限の量しか得られないのが普通だ。
だがルナ伯爵は、与えた。これは劇的に違う。貸賃が丸ごと浮いて、農民の収入になる。年収が2倍になるようなものだ。
戸惑う農民たちに、ルナ伯爵は言った。工兵部隊の訓練として作らせただけで、運営する余裕がないのだと。いずれその余裕ができたら、さらに農地を増やす。新たに増やした分は貸し出し方式にするから、それまでに人口を増やせと。
「ドラゴンを討伐した英雄というから、どんな恐ろしい人かと思ったが……あれはもう神様みたいな人だ」
◇
――だから反対しなかった。
「革職人を呼び寄せました。
いくつかの村で、革製品の生産を開始します」
新たな産業。
また少し、暮らしが豊かになる。
誰もが、そう思った。
だが――
「「くッせぇぇぇ!」」
知らなかったのだ。
革製品を作るには、「皮」を「革」に加工する必要がある。
動物の皮膚を剥ぎ取っただけの「皮」には、まだ余計な脂肪や肉片がついている。それを丁寧に取り除き、なめす事で「革」になる。
このとき取り除いた脂肪や肉片は、廃棄物だ。食べるには小さすぎるし、そもそも薬品を使う工程もあって食用に適さない。
そしてその作業場では、いくら掃除を徹底しても、汚れがすっかり落ちることはない。わずかずつ堆積する汚れ――生じる腐敗臭に、薬品の匂いも混ざり、とんでもない悪臭が発生する。
「「なんとかしてください!」」
苦情が殺到した。
◇
執務室。
「というわけなんです。ニグレオス師匠、助けてください」
「やっちまったなぁ」
「やっちまいました」
「どこから連れてきたのですか、その革職人は?」
副官のジェームスがお茶を出しながら尋ねた。
「父上の領地からです」
「ゴーファ辺境伯か……なら、ついでに聞けばよかったな。ていうか、教えてくれても良かったのに」
「父上も、私が知らないとは思ってなかったようで」
「つまり?」
「勉強さぼって師匠と剣ばっかり振り回していたツケが来ました」
「失敗から学べ、という辺境伯閣下のお心遣いでしょうね」
ジェームスが視線を遠くする。
その方角にはゴーファ辺境伯の領地がある。
「そうだな、自業自得だ。サラッと俺にも責任があるみたいな言い方してるが、俺はルナに勉強サボらせた覚えはないぞ? 一応言っとくけども」
「チッ」
「何の舌打ちだよ!? 責任転嫁に失敗して残念、みたいな顔してんじゃねーよ!」
「まあまあまあ……それはそうと、助けてください」
「なんでなだめられてんの、俺!?」
「いいじゃないですか。ほら行きますよ」
「よくねーよ!?」
「あっ、師匠。ほら、おっぱい」
「雑! 色仕掛けが雑!」
「ビールあげますから」
「よし行こう」
「……私のおっぱい、ビールに負けた……」
ルナがなんか落ち込んでるが、そんな事よりビールだ。
転移魔法を発動して、さっさと出かけよう。
「…………」
俺とルナが転移魔法で消えたあと、残ったジェームスがやれやれと言わんばかりに首を振ったのを、俺は知らない。
◇
ルナの領地。
転移魔法で飛んだ先は、ルナの屋敷だ。
「くッさ……!」
到着してすぐに悪臭を感じた。
これはひどい。
「革職人の工房はどこだ?」
「こっちです」
ルナの案内で工房へ。
辟易している領民たちの間を通り抜け、進むにつれて悪臭がいっそう強くなっていく。
「ここです」
と案内された先には、市街地のすぐ横に付け足したように作られた革工房があった。
「アホー! すぐ隣に民家があるじゃねーか!」
「あっ、それは革職人さんたちの家で……」
「その隣にも民家がずらっと並んでんだろーが!」
「いやぁ……えへへ……。なんとかしてください」
「丸投げ!?」
とりあえず臭くてたまらないので、風のドームを生成して悪臭を閉じ込める。
「ぎゃあああ!?」
「ぐええええっ!?」
「おえええええっ!?」
すぐに革職人たちが苦しみ始めた。
「「くッせぇぇぇ!」」
閉じ込めたことで悪臭が薄まらず、どんどん濃くなっているようだ。
あまりの悪臭に、革職人たちがバタバタと倒れていく。
「ちょ……! 師匠!? 何したんですか!?」
「心配するな。第1段階は成功だ」
革職人たちが気絶したことで、作業はストップ。つまり、新たに悪臭の源が生産されることは無くなった。
「第2段階に移ろう。
まずは匂いを覆い隠してみようか」
第2段階は実験だ。悪臭を消す方法を試す。
アプローチは3種類だ。第1に、強い匂いで覆い隠す。トイレの消臭剤や香水がこれだ。匂いを消しているわけではなく「他の匂いで上書き」している。
「とりあえずバラの匂いとかどうだ?」
他の匂いで上書きするということは、その「他の匂い」を感じるようになるということ。それ自体が悪臭では話にならない。良い匂いでなければ。
「んぎゃっ!? な、なんですか、この強烈な匂い!?」
「くっさ……! これはダメだな」
いくらバラの匂いとはいえ、革工房の悪臭をかき消すほどの強い匂いを作ると、付けすぎた香水みたいな悪臭になってしまった。
「なら次だ。匂いを分解してみよう」
第2のアプローチ。
匂いの原因物質を化学反応させて、別の無臭の物質に変えてしまおう作戦だ。
革工房の悪臭になる原因物質は色々あって複合的なので、それぞれの物質に対応する「相手」を用意してやる必要がある。
「え……? ちょ……! 師匠これ何ですか!?」
ザラザラと白い粉が現れた。
「塩だな。アンモニアを酸と反応させた結果だ」
「塩!? ど、どうするんですか、これ!? こんな地面に落ちたの食べられないし、洗い流すと塩害が……!」
「あっ、そうか。それはマズイな」
作戦中止だ。
「じゃあ次は、匂いを取り除いてみよう」
物理的な方法だと、活性炭や光触媒という手がある。
しかし、オーバーテクノロジーだ。俺にしか作れない物に頼らせるのはマズイ。俺だって永遠に生きるわけではないのだから。
そうなると、魔法的な方法なら再現可能な人物を育てることが出来るかもしれない。
「……こんな感じかな?」
即席で組み立てた魔法を発動。
原理は簡単で、要するに匂いだけを対象とする収納魔法である。
「あ!? え!? ちょ……師匠なにやってんですか!? 工房どこいったんですか!?」
革工房が一瞬で消えて、更地になった。
「むむっ……うまくいかないもんだな。全部収納してしまった。
まあいいや。ついでにこのまま革工房を移動させてしまおう」
街から離れた場所で革工房を取り出し、防風林で囲んで悪臭が街へ来ないようにした。
古典的な方法だが、これが一番だ。
「じゃあ、ビール待ってるからな」
「あっ、師匠どちらへ?」
「帰るよ。体や服が臭くなっちまった」
「それなら我が家で風呂をご馳走しましょうか?」
「その湯を作るのは俺って事になるんだろう? なにが『ご馳走しましょうか』だよ。ご馳走するの俺の方じゃん」
「えへへ。よろしくお願いします」
「まったく……」
やれやれと思ったが、自宅へ帰ると自宅に悪臭を持ち込んでしまうので、ルナの屋敷の風呂場を借りることにした。
「お……おかえり……なさい……ませ……」
屋敷のメイドが顔をしかめて迎えてくれた。
革工房に接近したせいで、ひときわ強い悪臭がついてしまったからな。
「お前、あとでメイドさんたちをねぎらってやれよ?
特に洗濯係のメイドなんて悲惨だろうし」
「おお……! 師匠が気遣いを……!」
「俺の評価低くない!?」
「ぜひその気遣いを私にも」
「うっせーわ! 畜生め! 期待してキラキラした目で見てくるんじゃねー!」
「あっ、師匠。ほら、おっぱい」
「雑! 色仕掛けが雑!
あと、くっさ! 近寄るな!」
「……ひどい……」
「「うわー……今のはヒドイですよ、宮廷魔術師様……」」
メイドたちから白い目で見られた。
解せぬ。




